むかし、むかし8



121.消えてなくなった男

今回は「半日閑話」からの不思議な話をご紹介。

江戸時代、麻布の井上志摩守の家来に長く仲間(ちゅうげん)奉公をしている男があった。いつもよく働く男なので主人も目をかけていたが、その男が突然「暇を頂きたい」と申し出たので、主人はどこへ行くのかと訊ねると男は「日本橋にいきます」と言ったのみで詳しいことを語らない。怪しんだ主人は、男が奉公を終えた日、そっと他の仲間に後を尾行させた。そして、しばらくすると戻った仲間は、日本橋の橋の上まで尾行したが、男は橋の上で急にいなくなってしまったと言う。そして、それっきり男はどこにも姿を現さなかった。主人は不思議なこともあるものだと思ったが、そのうちに忘れてしまった.......。
それから3年目のある日、橋の上から掻き消えた男から主人宛に手紙が届いた。それによると「つつがなく暮らしているので安心してください。しかし帰ることは出来ません。」と書いてあった。この話を聞いた人々、は男が天狗隠しにでもあったのだろうと噂した。−−−これは文化四、五年頃(1807、8年)にあった話だとある。







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122.冨永金左衛門の化け物退治

      
飯倉交差点・榎坂
飯倉交差点・榎坂
寛文十一年(1671年)頃、榎坂(現在の飯倉交差点付近)に冨永金左衛門と言う名の、兵法の達者な浪人が家を借りて住んでいた。その借家には、毎日夜がふけると何者かが来て、寝ている金左衛門を悩ませたという。不思議な事と考えた金左衛門は「これは人間ではなく、狐狸か猫またなどの化け物の仕業に違いない」と思いある夜、床をのべるとあたかもその中に自分が寝ている様な形に整えて部屋の片隅で何者かが現れるのをじっと待っていた。
しばらくすると、両目が月日の如く輝き、すさまじい形をした化け物が現れて布団の上を富んだり跳ねたりしはじめた。この時を待っていた金左衛門は、その化け物めがけて刀で切りつけると確かな手ごたえがあった。そして、深手を負った化け物が竹すのこの下に逃げ込んだところを二の太刀で仕留め、行灯を近づけて化け物を見て見ると大きな古狸であった。この夜中の大騒ぎを聞きつけた近所の者達が何事かと駆けつけると、金左衛門は事の顛末を語った。すると人々は「これはお手柄、さすが兵法の達人だ。」と褒め称えたので、金左衛門は気を良くして、夜が明けるとその古狸のを玄関先にぶら下げて往来の人に見せた。しかし、集まってきた人々は「こんな人通りの多い市中に狸などいるものか、おおかた麹町あたりから買ってきた物だろう。」と口々に悪く言い合った。そしてその悪い噂は一人歩きして瞬く間に近隣に広がり、金左衛門もその家に住み辛くなってついに何処へか引っ越して行ってしまった。その後永い間その家には借り手がまったくつかず、よくよく考えると金左衛門の狸話は本当であったのだろうと、人々は噂した。本来、金左衛門は「近代稀に見る剛勇の者」という名誉を受けるべきところ、御政道さえ疑う世の中となったために、身上の妨げとなってしまったというおはなし。

この話は「老媼茶話」に書かれているが、やはり榎坂は狸穴辺なので出来た話なのだろうか。また、狸退治の日が寛文十一年亥正月十五日と克明に記されているのが面白い。









123.鳥居坂稲荷  
      
鳥居坂稲荷
鳥居坂稲荷
      
鳥居坂稲荷
鳥居坂稲荷
      
鳥居坂稲荷
鳥居坂稲荷
元の鳥居坂ガ−デンあたりで、今は100円パ−キングとなっている駐車場の一角に金網のフェンスで囲まれた場所がある。その中は草木が伸び放題で、中に何があるのかをすっぽりと隠してしまっている。しかし、よく見るとこの中に朱色の鳥居があり「鳥居坂稲荷」と書かれている。そしてその正面には荒れ果てた小さな祠があるが、出入り口の無いフェンスはその祠を囲んでいて、人の出入りを拒んでいる。 さらに周囲を歩くと何とこの祠の由緒の書かれたプレ−トを見つけた。由緒によると、

この祠は江戸の頃十代将軍家治の時、天明8年(1788年)に甲州武田氏の末裔で信玄八代の子孫である野沢氏が笄橋から当地に移転した際に祀られたものだという。そしてこれは当時全国を襲い、このあたりの農民にも大被害をもたらした「天明の大飢饉」の終結と豊作を祈願して建立されたとも言われる。しかしその後の時代の変遷のなかに埋もれてしまった祠は、昭和49年(1974年)鳥居坂ガ−デンが建設される際、この場所で信玄公との由緒が刻まれた石碑が発見され昭和54年(1978年)2月鳥居坂ガ−デンがオ−プンしたのを期に再建され中庭テラスに祀られた。その際に芝愛宕青松寺の住職により盛大な鎮座祭典法要が営まれ、稲荷の正式名称を「鳥居坂稲荷大権現」とし別称を「飛行機稲荷」とした。祭日は初午の日とし毎年、青松寺の住職により法要が営まれたので「大権現」の称号であった。また航空安全を祈願した御守りをガ−デン内のフラワ−ショップが出していて、当時話題となったという。




























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124.宮村町の宗英屋敷  
      
移転前の宗英屋敷があった北日ヶ窪町
移転前の宗英屋敷があった北日ヶ窪町
      
移転後の宗英屋敷があった宮村町
移転後の宗英屋敷があった宮村町
      
屋敷敷地新旧対比地図
江戸方角安見図−延宝8(1680)年
文化元年(1804年)頃、麻布宮村町、増上寺隠居所わきに宗英屋敷と呼ばれる屋敷があった。これは将棋所 (幕府の官制で、将棋衆を統括する役。厳密には「名人」と違うが、実際はほぼ同義)の拝領屋敷で主人は織田信長、豊臣秀吉の御前でたびたび 将棋を披露し信長から宗桂の名を与えられ、1612年に徳川家康から五十石五人扶持を賜った宗桂から数えて大橋家六代目の当主大橋宗英 (1756〜1809)であった。宗英は、現在も江戸期を通して最強の棋士と言われ当時、「鬼宗英」の異名をとった。宗英は大橋分家の五代宗順 の庶子で幼少のころ里子へ出されていたが、将棋の才能を認められ、家に呼び戻されたという。18歳で宗英を名乗るが、将棋家の者との対戦 は無く、民間棋客との対戦が続き、御城将棋への初勤は23歳で、将棋家の者としては遅い。しかしその後大成し、その将棋は相掛り戦法や 鳥刺し戦法を試みるなど現代の棋士にも通じる将棋感覚で新しい将棋体系の創造に力を尽くしたため、近代将棋の祖といわれる。

1790年(寛政2年)の九代宗桂との対局は御城将棋史上の名局とされる。また、将棋家の秘伝といわれる定跡の出版を奨励し、 民間棋界の発展に大きな影響を与えたという。

しかし一方では、詰将棋は充分発達したので、これからは指将棋を発達させようと考え、みずから詰将棋の献上を止めてしまった。これは看寿・宗看 に及ばぬことを悟ったためであったという。詰将棋を一題も作らなかった彼は、人に理由を聞かれて「詰将棋なら桑原君仲にでもできるではないか」 と答えたと言い現在も伝説として伝わっている。そして彼以後の将棋家元も、彼にならって「詰将棋蔑視」を唱え続けたので、詰将棋は急速に衰退 しその影響は昭和初期まで続く事となる。

そんな宗英も「耳袋」によると、子供の頃子守りや年季奉公に出ても何一つ満足に勤まらなかったが、8代目大橋宗桂 に将棋を教わると長年研鑚してきた有段者達を瞬く間に打ち負かしたという。そして名人になってからも、相手が子供や無段の者であっても他の棋聖と違って 拒まずに相手をしたといい、生まれながらの上手であると書かれている。(巻の6・好む所によってその芸も成就する事)

大橋宗英その最後は、御城将棋の日に病をおして登城したが、その日に死ぬという劇的な幕切れで生涯を終え、「鬼」の名にふさわしい最後であった。





○文政町方書上
地誌御調書上帳

麻布宗英屋鋪

一.お城より坤(ひつじさる−西南)に当たり、およそ一里余り。

右拝領屋敷の儀、相渡り候年代知れ申さず、麻布宮村町のうち西側北角にて御将棋所大橋宗看名前にて、拝領致し候や年代知れ申さず、 古来は宗看屋鋪と相唱え、その後、宗英屋鋪と相唱え、当時は宗与所持に御座候えども、やはり旧名宗英屋鋪と相唱え申し候。もっとも、以前は 寺社御奉行御支配のところ延享二丑年二月町御奉行嶋長門守様・能勢肥後守様御勤役の砌、町方御支配に相成り申し候。かつ、町会所(まちかいしょ) 七分積金相納め候節は右町名相唱え候えども、その余の儀は一躰に宮村町と相唱え来たり申し候。

但し、延宝年中まで北日ヶ窪町にこれあり候。その後、御用地につき当所へ替地拝領の由申し伝えども、年代書留など御座なく、委細の儀相分かり申さず候。

一.間数

南北へ表田舎間四間五尺、裏幅同断
南の方奥行四十四間
東西へ
北の方向四十間
惣坪数三百四十五坪

一.隣町の名

東の方
麻布宮村町
同所宮下町

西の方
麻布宮村町
御書院番 池田甲斐守組
内藤熊太郎様

南の方
麻布貞喜屋鋪

北の方
同所宮下町
小普請組 石川民部組
中野藤之助様

小普請組 長井五右衛門組
岡田力次郎様

一.惣家数二十七軒
但し、家守一軒 地借二軒
店借二十四軒
拝領主地に住居仕り候。

右の通り取り調べ申し上げ候。このほか御箇條の廉々、当地には御座なく候。以上



文政十一子年二月

                            麻布宗英屋鋪

                                       名主 栄太郎 印







○近代沿革図集
宗英屋敷

増上寺隠居所わき、宗看屋敷、宗与屋敷ともいわれる。
麻布宮村町のうち西側の北角。将棋所大橋宗看が町屋敷を拝領したものか、その年代はわからない。昔は宗看屋敷と唱え、後に宗英屋敷と称した。 今は宗与が所有しているが、旧名を用いている。以前は寺社奉行の支配であったが、延享2年(1745年)2月から町奉行の支配となった。町会所 へ七分積金を納めるときは宗英屋敷の名を称するが、その他のときは宮村町という。延宝年中(1673〜1680)までは北日ヶ窪町にあったが、 その後用地となって当初へ替地を拝領したという。年代はわからない。




○東京35区地名辞典
麻布宗英屋敷

宮村町北東部の旧町名。江戸期から明治2年まで。もとは御将棋所名人大橋宗看が拝領したことから宗看屋敷と称したが、後に宗英屋敷と呼ばれるようになった。 明治2年、隣接する麻布貞喜屋敷とともに麻布宮村町に合併。




宮村町にはこの他にも宗英屋敷の隣に、西の丸表坊主早野貞喜の拝領屋敷である貞喜屋敷があり、この2つは宮村町内の拝領屋敷として各書に書かれている。



<付記2011.4.17>
この屋敷を調べた10年前、北日ヶ窪町から移転した宗英屋敷の位置を一本松付近に描かれている「拝領屋敷(後の一本松三井家敷地)」だと思い込んでいたが、再度調べ直した結果上記の位置であることが判明した。 これは上記文中にもあるとおり宗英屋敷・貞喜屋敷ともに七分積金納入時以外には宮村町の町域として扱われているため、ほとんどの地図に宮村町としか表示されていないために場所を特定するのは非常に難しかった。ところが今回の再調査で「麻布広尾辺絵図」を偶然目にすることが出来て、場所の特定が可能となった。

しかし一方で、宗英屋敷とそれに隣接する貞喜屋敷の位置が「麻布広尾辺絵図」では、宗英屋敷が南の増上寺隠居所側、貞喜屋敷が現在の十番商店街通り側に 描かれているが 「文政町方書上」には宗英屋敷の南側に貞喜屋敷が隣接しているとの記述があり、地図と文政町方書上では両屋敷の位置関係が逆となっていることも判明した。 これは「文政町方書上」が発行されたのが文政十(1827)年ころで、 地図「麻布広尾辺絵図」が描かれたのは嘉永二(1849)年と20年ほどの差異がある。その間に 敷地を交換していることも考えられるが依然としてこの部分には謎が残る。

そして明治9(1876)年には、この宗英屋敷と隣接する貞喜屋敷の敷地の南に隣接する土地で南山小学校が創立され、明治27(1894)年に現在の六本木高校の場所に移転するまで 校舎として使用されていた(通称:暗闇坂校舎)。












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125.奇妙な癖のある人


今回も「耳袋」から麻布にまつわるお話を一つ。

赤坂に九百石を領する旗本の岡野何某という人物がいた。その人物はまだ若年であるがその気性が大変に変わっていたという。
文化、文政年間(1804〜1892年)の頃世間ではもっぱら陰徳(隠れて良い行いをする事)を積んでいる人を褒め称える風潮があった。 岡野もまた陰徳家で、江戸市中の寺々をまわって、打ち捨てられた無縁の墓石などがあると従えた家臣に洗い清めさせた後に花などを供えて供養するのを道楽としていた。ある日、麻布の祥雲寺に詣でたところ、苔に覆われて碑銘も見えない大きな墓石があり、供養の様子もまったく見えない。そこで岡野は例によって従者に洗い磨かせると、久留米藩有馬中務大輔の娘の墓であることがわかった。

岡野は、こんな大家の石碑が打ち捨てられているのは訝(いぶか)しい事だと思い、 帰ると早速有馬家の知り合いに事を報告した。知らせを受けた有馬家では担当の役人にその墓を調べさせたが、家中に知っている者はいなかった。そしてさらに国元で調べてみると、何と数代前の主君の娘の墓であることがわかった。そしてその結果を岡野に知らせると、岡野は何故そのような高貴な方の墓所が荒れ果てたままになっているのかと訊た。

すると、この娘は姫でありながら身分にふさわしくない不届きを起こしたので父有馬氏により手討ちとされ、菩提寺にも葬ってもらえなかった。困り果てた家臣が内々に取り計らってこの寺に埋葬したとの事であった。そして、その後も父有馬氏の怒りは解けず、弔い、参詣を禁じた。

事情を聞いた岡野は、「そのような事情であることはわかった。しかし、石碑なども残っているし、事から100年も経っている事でもあり今も捨て置くままにするのは、どう考えても不自然である。」と理をつくして述べた。その言葉が有馬家主君の耳に入ると「立派な人柄である上になお一層の正論である。この上は然るべく弔いを出すように。」と岡野を褒め称え、姫の法要を盛大に行った。そして岡野家にも有馬家から生きの良い鯛や布地などを携えた使者が訪れ、その善行に感謝した。しかし岡野は当然のことをしたまでで、進物をお受けできないと丁重に断り使者を帰した。

すると有馬家主君は、なお一層岡野を気に入って「そういう事であるのならば、是非お目にかかってお礼をしたいので、当家にお越し頂きたい。屋敷の裏門から奥の小座敷へおいで下さい。」と再び使者を遣わし岡野に伝えた。しかし、岡野は「せっかくのお招きですので、参上したいと思いますが、自分も将軍から禄を頂く旗本でありますので、表門から参上し表座敷でお目にかかる事が出来ましたら伺います。さもなければ申し訳ございませんが、お断りいたします。」と言った。これを聞いた有馬家主君は「なるほど変わった御仁である。」と思ったが岡野の言うとおりに正式に表向きで対面することを許可し、岡野を正客として屋敷に招いた。

数日後に有馬屋敷に赴いた岡野は、さまざまなもてなしを受けた。そして藩主から感謝の言葉をかけられさらに、何かお礼をしたいが 何なりと言って下さいと訊ねられた。岡野は当然のことをしたまでと断ったが、重ねて藩主が訊ねるのでついに岡野も折れて、当家お抱えの相撲が拝見したいと言った。藩主は快諾し、後日の再訪問を約束して屋敷を辞去した。翌日岡野の元へ昨日の来訪のお礼にと進物が届けられたが、今度は喜んで受け取った。そして、貰った進物に倍する答礼を有馬家に送り感謝を表した。すると今度は岡野の元に新鮮な魚の詰め合わせが届き、「今後は答礼などなさいませんように」とあったので、岡野は恐れ多いことと答えたと言う。この話を聞いた人々は筋の通った変人であると評判したという。

文中の麻布の祥雲寺とは現在渋谷区広尾(広尾商店街突き当たり)にある祥雲寺だと思われるが、この寺は鼠塚(明治33年〜34年、東京に伝染病が流行し、その感染源として多くのネズミが殺された。その慰霊碑)、曲直瀬流一門医師の墓などがある。 由来は、豊臣秀吉の天下統一に貢献し、後に福岡藩祖となる黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたので、元和9年(1623) に長政が没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立した。寛文6年(1666)年には麻布台に移り、 瑞泉山祥雲寺と号を改め、寛文8年(1668)の江戸大火により現在の地に移った。とあり、この話の文化、文政年間(1804〜1892年)にはすでに 広尾にあった。おそらく「耳袋」の著者「根岸鎮衛」の間違いだと思われる。

後日の調査で、この広尾の祥雲寺近辺は、江戸初期に宮村町に 増上寺隠居所が出来た折、その代地として宮村町が「宮村町代地」として幕府より賜った麻布領であった事がわかりました。











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126.「麻布新堀竹谷町」のがま池


山口正介氏の著書「麻布新堀竹谷町」は、

はげ山
逆さ銀杏
網代公園
がま池
麻布映画劇場
麻布プリンスホテル
麻布十番夏まつり
新橋佐久間町
南麻布

のタイトルで、正介氏自身である東町小学校3年生の周助が、当時の小学生の目で見た日常生活が主体の自伝的小説である。 その文中に登場する風景は、昭和30年代の麻布を克明に描写していて、私自身の幼年期とシンクロする部分が非常に多い。 その中でも「6月7日からポパイのアニメ−ションがはじまった。」と言う書き出しで始まる「がま池」は特に私の好きな話である。

ある日曜日周助は、小学校裏手を仙台坂に抜ける道の手前にある友達「よっくん」の家へやはり友人のシゲルとツトムと共に遊びに行き、 庭でのキャッチボ−ルにあきた4人はがま池を目指す事に。仙台坂を上らずに、手前の崖の隅にあるここから落ちて死んだ猿まわしの猿の墓「猿助の塚」がある急な階段を上る。頂上は広い自動車道路になっていて、左手には昨年の暮れに出来たばかりの東京タワ−が見える。この後もがま池までの非常に詳細な道のりが記されている。壊れた板塀の一角の秘密の入り口から入った周助達の前に、学校のプ−ルの何倍もある池が現れる。ここでのがま池の描写も非常に詳細で、誰かが島に渡ろうとして作られた「沈みかけたイカダ」の事までが記されている。(私もこのイカダを見たような気がする。)また、秘密の入り口も「所有者が発見するたびその都度固く閉ざされ〜」とあり、私達の頃もやはり池の入り口はコロコロと変わった。(当時池の前には管理人が住んでおり、見つかると追いかけられた。偶然だがこの管理人の娘さんと、成人した私は一時期同じ職場で働く事となる。)

池に入った周助たちは、ボ−ル紙に巻きつけたたこ糸と短冊に切ったイカでつくった仕掛けでザリガニを釣るのだが、「これを池の周囲に何箇所かに仕掛ける」と言う描写には思わずうなずいてしまう。(当時池のザリガニ釣りはこの仕掛けをいくつ仕掛けられるかが大きなステ−タスで、他所からの初心者や低学年の子供は、地元の高学年やいじめっ子に遠慮して多く仕掛ける事は非常に困難であった。そして、文中にもあるが、たまに仕掛けたまま忘れ去られた糸もあり、そっと手繰り寄せてみると先に大きなザリガニが付いている事も本当にあった。)しかし、池に周助たちと同じ学校のいじめっ子兄弟が現れ、仕掛けをとられてしまう。やっとの思いで逃げ出した周助の足元に忘れ去られた仕掛けがありそれを引き上げると「赤銅色の大きなアメリカザリガニ」が釣れていた。それはその日みんなの唯一の釣果であり、戦利品だった。そして、そのザリガニを手に家路につく一行。後日、再び池を訪れた周助だが秘密の抜け穴を発見する事が出来ず、山口正介氏は物語をこう結んでいる。

がま池は少年たちの前でふたたび秘密の扉を閉ざし、深い緑のベ−ルのなかにその姿を隠した。

その日を最後にして、周助たちもがま池に行こうとはしなかった。こうして、がま池はまたしても幻となり、

子供たちの間で伝説として語り継がれるだけの存在となった。
著者山口正介氏は、1950年に東町小学校の近所で作家の山口瞳氏の長男として誕生。その後「オンシアタ−自由劇場」演出部を経て、小説、映画評論、エッセイなどで活躍中。

※ DEEP AZABUは池の現状での存続活動を応援します。港区に池を買い上げてもらう署名運動のサイト麻布山の水系を守る会こちらからどうぞ!

また、DEEP AZABUでは、皆様のがま池体験談を募集しています。池に落ちた方、管理人に追いかけられた方、学校で怒られた方、大がまに遭遇した方、ザリガニに指をはさまれた方、また餌のイカはここで買った!など、お気軽にご投稿ください。当ペ−ジGuestBookへはこちらからどうぞ!




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127.「麻布本村町」のがま池


前回に引き続き、麻布に関した書物の中のがま池を紹介。

「麻布本村町」は仙台坂上のクリ−ニング屋の子息として大正14年に生まれた荒潤三氏が、昭和30年にその地を去るまでの、昭和初期から中期までの麻布を回想する自伝である。登場する項目は、

1.麻布本村町 2.庶民の町 3.お寺のある風景 4.水道の水で産湯
5.本村尋常小学校 6.麻布仙台坂 7.仙台山 8.有栖川記念公園
9.がま池 10.南部さん 11.徳川さんのクリスマス 12.麻布山善福寺
13.歳末とお正月 14.氷川様とお祭り 15.提灯屋のおじさん 16.電気屋のおじさん
17.袋小路 18.物売り 19.お湯屋 20.雑式通り
21.麻布十番通り 22.映画館 23.麻布十番倶楽部 24.大相撲の巡業
25.六大学野球 26.ツェッペリン伯号 27.麻布三連隊と兵隊さん 28.ちんちん電車
29.ぽんぽん蒸気 30.両国の川開き 31.銀座 32.農村動員
33.建物の疎開 34.東京大空襲 35.風船爆弾 36.買出し
37.八月十五日

と非常に多彩である。この中でがま池について、
氏が5〜6歳の頃、がま池を擁するお屋敷の前を母と共に歩いていると、自動車に轢かれてペチャンコになったカエルがあちこちで見られたと言う。そして母からがま池の伝説を聞かされる。この当時のがま池を氏は、「昔より縮小整理されひょうたん型の池のまん中に小さな島があり、橋がかけられて、周囲の道路と連絡していた。−中略−この池の工事のとき、おおきながま蛙が出てきたという話を聞いた記憶がある。」と書いている。そして当時池は一般開放されていて、子供たちの絶好の遊び場所であり、春にはたくさんのオタマジャクシがいたという。しかし、池の際が分譲地となると同時に縮小された池のそばでは、蛙が轢かれているのを目にする事もなくなったという。その分譲地は当時あまり売れずに空き地が多く、ツクシやノビルを採ったとある。その後分譲地付近で松竹映画のロケ−ションなども行われ、洋服姿の片岡知恵蔵や上原謙などもみられたという。 最後に氏は、

がま池に近い私の家は、関東大震災、B-29の大空襲にも焼かれることがなかった。

昔いたといわれる、大がまの霊がが守ってくれたのかと思うと、感謝の気持ちで一杯だ。
と、結んでいる。

とんでもない蛇足になるが、このがま池で遊んだと思われる有名人は、前出の山口瞳、正介親子、もしかしたら、エノケン、大仁田厚、麻布中学時代の北杜夫、安部譲二、橋本前総理、福田康夫、平沼赳夫元、橋本大二郎 、中川昭一、ワイルドワンズの鳥塚繁樹、作詞家松本隆、細野晴臣、シブがき隊の薬丸裕英、女優の浅田美代子、菅井きんの各氏も遊んだかもしれません。(すべて勝手な想像です。ゴメンなさい!)

ちょっと脱線してしまったので、最後に荒潤三氏が「麻布本村町」のまえがきで記しているリルケの詩「若き詩人への手紙」をご紹介。

それでもあなたは、まだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか、

あの貴重な、王国にも似た富、あの回想の宝庫が。そこへあなたの注意をお向けなさい........。



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128.鳥居坂の「ゆり女」


 
      
鳥居坂
鳥居坂
      
弁天池
弁天池
天正18年(1590年)8月徳川家康が江戸に入府した頃、芝丸山(現在のプリンスホテル・パークタワー隣)は「岸村」と呼ばれていた。その村に蓮池と呼ばれる池があり、池のまん中の島には幸稲荷と呼ばれた祠があった。この池は当時「さよが池」、「ゆりが淵」と呼ばれその由来は、天正年間に「さよ」という女性が身を投げたために付いたといわれ、また別説には、やはり天正年間に麻布鳥居坂に住んでいた「ゆり」という女性が、夫の死を悲しみその葬儀が終わった後に、後を追って身を投げたといわれる。この池は私の芝の友人達にとって、麻布のがま池のような存在であったと言い、芝公園のザリガニ釣りと言えばこの池を指した。昭和40年代頃までは池が少なからず残っていたが、現在は跡形も無い。






と書いてしまったが、後日池は現存している事がわかった。また池のほとりには現在も港区七福神の弁天様(弁財天)を祀った宝珠院があり、寺の入り口には「開運出世弁辨才天」の縁起が記されている。また寺内には稲荷も現存する。































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129.続、続麻布原の首塚


麻布原の首塚」、「続、麻布原の首塚」で書いてきた首塚の所在が明らかとなる文章を発見した。慶長5年(1600年)8月23日 「関が原の戦い」の前哨戦となる「岐阜城攻め」は東軍による攻撃で1日で終結したが、その際の生存者は数十人であったという。通常城攻めは攻撃側が城を取り囲むが、城方の死に物狂いの戦いを防ぐ為に一方は必ず「退き口」を開けておく。しかしこの岐阜城攻めでは四方を取り囲んで、退路を完全に遮断しての戦闘となったため、討ち取られた者が膨大な数に及んだという。討ち取られた首は江戸に続々と送られ家康に首実験された後に麻布が原に供養された。と、ここまでが前回までにわかったのだが、その首塚の場所を麻布西町6番地辺と麻布区史(986ペ−ジ)は明記している。そして港区史(上)216ペ−ジにも「元スエ−デン大使館東前あたりに慶長五年首を埋めたという首塚があり、戦前まで家が建たなかった。」、218ぺ−ジ「このあたりに慶長五年首を埋めた首塚があるともいうが麻布西町らしい。」とある。麻布西町6番地辺とは現在の元麻布1丁目3番地あたりで、現在高層マンション工事中の場所となる。私の子供の頃、このあたりは小さな建売住宅が並んでいたが、首塚の話を聞いた事は無かった。また現在まで遺骨が出土したという話もないので、事実はわからない。またこの話を調べるうちに江戸宝暦年間の「怪談老の杖」に暗闇坂付近の話として、

「くらやみ坂の上にある武家屋敷にて、あるとき、屋敷の内の土二三間が間くづれて、下のがけへ落ちたり。そのあとより、石の唐櫃出たり。人を葬りし石槨なるべし、中に矢の根のくさりつきたるもの、されたる骨などありしを、また脇へうずめける。そののち、その傍に井戸のありしけるそばにて、下女二人行水をしたりしに、何の事もなく、二人とも気を失ひ倒れ居たるを、皆々参りて介抱して、心つきたり。両人ながら気を失いしは、いかなる事ぞといひければ、私ども両人にて、湯をあみをり候へば、柳の木の陰より、色白くきれいなる男、装束してあゆみ来たり候ふ。恐ろしく存じ候ひて、人を呼び申さんと存じ候ふばかりにて、後は覚え候はず、と、口をそろへて言ひけり。その後、主人の祖母七十有余の老女ありけるが、屋敷の隅にて草を摘まんとて出で行きて見えず。御ばば様の見え候はぬ、と騒ぎて尋ねければ、蔵の後ろに倒れて死し居りける。そのほか怪しき事ありしかば、祈祷などいろいろして、近頃はさる事も無きやらん、沙汰なし。確かなる物語なり。」

とあり古来より怪奇な現象がおきていたと思われるが、首塚との関連は記されていない。





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130.渡辺大隅守


      
大隅坂(狐坂)
大隅坂(狐坂)
宮村町から三軒家町方面に上る狐坂は別名大隅坂とも言い、これは坂上に江戸初期ころに渡辺大隅守綱貞の屋敷があったのでついた坂名である。そしてこの山全体も大隅山と呼ばれた。文政町方書上によると
町内西の方を里俗に新道とも大隅山とも唱え申し候。この儀は、同所にお役名しれず渡辺大隅守様お屋敷これあり候。これにより右よう相唱え候。
とある。渡辺大隅守綱貞は近江の国に1,000石を知行する旗本で、寛文元年(1661年)より寛文13年(1673年)まで第5代の南町奉行を勤めた。大隅守が町奉行在任中、医者が訴訟を起した。

ある医者が5両でライ病の患者を治療した。そしてだいぶ病状も良くなったのでそろそろ治療代を払うように請求した。しかしこれに患者は応じず、まだ直っていないので払う事は出来ないと応じなかったので医者は町奉行所に訴訟に及んだ。双方から言い分を聞いた大隅守は、患者の顔を見るとまだ治っているとは思われないと思ったが、約束なので患者に5両を医者に払うよう命じた。しかし、患者は病気で金を使い果たしてしまい、とても払う事が出来ないと訴え、もっともな事と思った大隅守は働いて返せといった。しかし患者はこの体では雇ってくれるところが無いと言い、大隅守もその言に納得した。しばらく考えた大隅守は医者にその患者を雇って労働で返させてみてはと提案した。しかし、医者はこんな病人を使う事は出来ないと即座に返答したため、大隅守は医者を大声で怒鳴りつけた。自分でも使えないような病人に治ったと言い張るのは詐欺である。よって治療代は支払う必要がないと判決を言い渡し、医者は治療費を諦めることとなったという。

この後、渡辺大隅守は宇和島藩・吉田藩の境界騒動、玉川上水の修復、隠れキリシタンの詮議などの裁決を行い寛文13年(1673年)大目付へと転任した。しかし1680年に将軍家綱が嗣子のないままに死亡し新将軍綱吉が誕生すると将軍継嗣問題で有栖川家から将軍を迎えようとした酒井忠清が失脚し、越後騒動の再審議が行われた後に「重き約儀にありながら陪臣として曲事あり」として延宝9年(1681年)渡辺大隅守も松平光長との癒着を疑われ八丈島に遠島処分となった。さらに長男で書院番相馬広綱は陸奥中村へ、次男中奥小姓渡辺綱高は飛騨高山、三男書院番平岩親綱は下野黒羽へお預けとなった。渡辺大隅守はその後72歳まで配所の八丈島で生を全うした。(一説にはこの判決の後、渡辺大隅守は遠島の処分を不服として自決したともいわれる。)その後屋敷跡は幕府の賄組屋敷となったが、320年を経た今でもこの山を大隅山と呼び、その山に登る坂を大隅坂と呼んでその痕跡を残している。







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131.内田山由来


      
内田山(南山小学校付近)
内田山(南山小学校付近)
前回紹介した大隅山の他に、宮村町にはもう一つ山がある。現在南山小学校、都立六本木高校のある山は、むかしから内田山と呼ばれていた。これは江戸期に小見川(千葉県香取郡小見川町)藩主内田氏の上屋敷が万治元年(1658年)2月11日からあったためついた里俗の地名である。

内田氏は今川氏家臣から永禄11年(1568年)徳川氏に仕えた当初800石ほどの旗本であったが、内田正信の代に相模で1000石の加増、さらに寛永16年11月、正信が将軍家光の御小姓組番頭となると、下野小見川8200石を加増され10000石となって大名に列せられる。その後の慶安2年(1649年)にも正信は下野都賀・阿蘇で5000石を加増され15000石となって内田家歴代でも最も繁栄を極め、将軍家光の寵愛がいかに深かったかが伺われる。そして慶安4年(1651年)4月20日、家光が崩御すると正信は即刻帰宅し、幕府の重臣である堀田正盛、阿部重次と供に殉死した。その際、内田正信、阿部重次の家臣らも主君に続いて殉死したが、堀田正盛の家臣は主君の後を追う者が一人もいなかった。日頃から規律の厳格な堀田家の家臣が殉死せず、逆に家臣の乱暴が度々評判となっていた内田、阿部両家の家臣は殉死したため、外見とは違い堀田家は家来の待遇が良くなかったのだろうと町の者の噂となったという。

その後の内田家は享保9年(1724年)正偏の代に狂気のため心神喪失して妻女に斬りつけ蟄居減禄、また天保8年(1837年)正容の代にも不行跡で減禄となるなどしたが、その後幕末まで小見川藩を授かっている。明治2年(1869年)内田正学は小見川県知事、子爵となり族院議員を勤めた。その後内田山は、それまで山全体が邸宅であったのを麻布十番方面から桜田町方面にぬける坂道が道路となったので、内田坂の名が生まれた。

明治33年12月31日の朝日新聞記事に「渡辺国武蔵相は、28日、伊藤首相の懇書に接し、早急に馬車で内田山の井上馨伯邸に駆けた。数刻にわたった井上伯と会談の後、そのまま首相が滞在している神奈川・大磯に赴いた。」の記事があり一般的にも内田山と呼ばれていたことがわかる。またこの 渡辺国武蔵相は当時のがま池保有者であり、この時渡辺蔵相は同じ宮村町内を馬車で移動した事がわかる。そして文中の井上馨の他に伯爵の芳川顕正も後に住まいを内田山に構える事となる。



<追記>

六本木高校敷地の最西端に四時佳興(しいじのかきょう)碑がある。これは内田豊後守屋敷の庭にあったもので 宋代の哲学者「程顕」の詩の一説とのこと。

説明板

   
四時佳興碑


四時佳興

この碑はここ城南高校の地にあった内田豊後守の屋敷の庭
に置かれていたもので宋代の哲学者 程顕の詩の一説を刻
んだものです。

秋日偶成   程

阯無事不従容  睡覚東窓日已紅
万物静観皆自得  四時佳興興人同
              後畧

ゆったりと静かに眺めてみると万物は皆それぞれに
所を得ている。春の花秋の月と四季折々の移り変り
の面白さは、誰をも同じに楽しませてくれるという、
意味です。






四時佳興碑

江戸時代、この地にあった内田豊後守の屋敷の庭に置かれていたもの
で、この地を受け継いだ、南山小〜麻布高等小〜府立22中〜都立城南
高校が、大切に保管して来ました。意味は碑の下に詳しい説明があり
ます。

また、この庭園の踏み石は、旧校舎南側にあった石垣のもので、府立
22中にちなんで22個配置されています。

城南高校の歴史

昭和17年2月 東京府立22中学校創立
 〃18年7月 東京都立城南中学校と改称
 〃19年4月 現在地に移転
 〃23年3月 東京都立城南新制高等学校と改称
 〃25年1月 東京都立城南高等学校と改称(男女共学)
 〃63年2月 現校舎竣工
平成16年3月 東京都立城南高等学校56回卒業式
       卒業生16,991名(男 9,180・女 7,811)
       東京都立城南高等学校閉校
 〃17年4月  東京都立六本木高校開校

        平成18年 都立城南高校同窓会     

社団法人 関西吟詩文化協会サイト解説

<秋日偶成 全文>

秋日偶成      
                      程 明道

閑來無事不従容  睡覚東窓日已紅
萬物静観皆自得  四時佳興興人同
道通天地有形外  思入風雲變態中
富貴不淫貧賤樂  男兒到此是豪雄





<読み方>

秋日偶成(しゅうじつぐうせい)      
                      (てい) 明道(めいどう)



閑來事(かんらいこと)として 従容(しょうよう)ならざるは()し  ()むり()むれば東窓(とうそう)日已(ひすで)(くれない)なり
萬物靜觀(ばんぶつせいかん)すれば 皆自得(みなじとく)        四時(しじ)佳興(かきょう)は (ひと)(おな)(みち)(つう)天地(てんち) 有形(ゆうけい)(ほか)        (おも)いは()風雲(ふううん) 變態(へんたい)(うち)
富貴(ふうき)にして(いん)せず貧賤(ひんせん)にして(たの)しむ   男児此(だんじここ)(いた)らば 是豪雄(これごうゆう)



<意味>

(役職を離れて)ひまな生活になってからは何事もゆったりとして、
起きるのも朝日が東の窓に赤々とさしてからである。 
あたりの物を静に見れば、皆ところを得てそこにあり、納得して
おり、春夏秋冬の自然におりなすよい趣は人間と一体となり融けあ
っている。 
 我らの信じる人の道は、天地間の無形の物にまで通じており、
(この正しい人の道が行われてほしいという)思いは(有形である)
風や雲や世相の移り変わりの中にまでは入りこんでいる。 
さてお金があって身分が高くてもまどわされず道を外れることなく、
貧乏で身分が低くても人の道を楽しむ、(という言葉があるが)男子
たるものは修養を積み、このような境地にいたるならば、すなわち真
のすぐれた人物である。 



<字解>

閑來 :(役職を離れて)ひまな生活になってから 
従容 : ゆったりとしたさま 
皆自得: それぞれに処を得て納得しているが 
佳興 : よい趣 
有形外: 形の無いもの 
變態 : ここでは世相の移り変わりの定まらないさま 
富貴 : 孟子に「富貴不能淫貧賤不能移」(富貴も淫すること能ず
     貧賤も移すこと能ず)とあるに基づく   
豪雄 : すぐれた人物 




秋日偶成全文・読み方・意味・字解は社団法人 関西吟詩文化協会様ご了解の上、ご好意により転載させて頂きました。



<程(明道)>

程(てい・こう、1032年‐1085年)は、中国北宋時代の儒学者。
     字は伯淳、明道先生と称された。
   朱子学・陽明学の源流の一人。 











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132.徳川将軍家の麻布


むかし,むかし5の「麻布御殿」で五代将軍綱吉と麻布を紹介したが、今回も徳川将軍と麻布のつながりをいくつか御紹介。

初代徳川家康は、麻布山善福寺に天正19年11月付けで朱印を授け、寺領の保護を誓約した。またこの時の住職第14世堯海は家康と近しくしており、ある時家康が急に善福寺に立ち寄り銭十貫を求めたので直ちにこれに応じたので、将軍となった後も善福寺は毎年正月6日に十貫を納め、将軍家からそれに時服を添えて返礼されるのが慣わしとなった。

その後2代秀忠、3代家光も善福寺をたびたび訪問したが、とりわけ家光と麻布の繋がりは深い。

慶長10年(1605年)4月
家光2歳の時、生母で二代秀忠婦人お江与の方は、家光が安産で生まれた答礼に麻布東福寺に本堂を建立し、家光の名で十二神将像を寄進した。東福寺は東叡山の末寺で本村町にあったが、明治初年に廃寺となり、本堂は隣接する明称寺の本堂として売却され、十二神将像は目黒安養寺に移された。東福寺薬師縁起によると十二神将像の後背には「慶長十年乙巳卯月(4月)吉日 源右大将若君御寄進」 とあり、源右大将とはこの像を寄進した同じ月の16日に伏見で将軍宣下を受けた父秀忠である。

寛永3年(1626年)10月18日
秀忠夫人お江与の方(崇源院殿)逝去。六本木にて荼毘に附し増上寺に埋葬。
寛永16年(1639年)5月20日
家光、麻布でオランダ人による石火矢(大砲)の試射を堀田正盛、阿部重次、牧野信成らと観覧。
寛永18年(1641年)8月
家光、麻布で鷹狩。
寛永19年(1642年)11月
家光、麻布薬園にて馬を駆る。
寛永21年(1644年)3月3日
家光、青山宿より麻布薬園にお成り。御膳所で御徒頭能勢市十郎を呼び、狸穴にある「麻布のむじなの穴」を調べさせた。
正保4年(1647年)3月18日
家光、浅草を視察のため城を出たが、浅草観音の縁日である事を聞き、庶民の遊楽を妨げぬよう麻布に行き先を変更する。
正保4年(1647年)4月29日
家光、麻布で鷹狩。この時、麻布山善福寺に立ち寄り、麻布山に登り茶屋で弁当を食す。この茶屋は家康、秀忠も善福寺を訪問した際に使用されており将軍家用の茶屋であった。そして家光はこの茶屋を「栖仙亭」と命名している。また家光は、善福寺訪問時に梅樹を植えたり、乗馬による騎射を楽しんだ。そして麻布山の山の形から亀子山と命名し山号を麻布山善福寺から亀子山善福寺と改名させている。家光没後再び麻布山に戻ったが、その時の片鱗が現在も善福寺内会館正面の額、手水舎に見える。
元禄14年(1701年)9月3日
綱吉の実母本庄氏お玉(桂昌院殿)、宮村町増上寺隠居所を訪問。
元禄15年(1702年)5月2日
綱吉、宮村町増上寺隠居所を訪問。
元禄16年(1703年)9月8日
桂昌院殿、宮村町増上寺隠居所を訪問。
元禄16年(1703年)10月18日
綱吉、宮村町増上寺隠居所を訪問。これ以外にも綱吉は度々増上寺隠居所を訪問している。
麻布山善福寺オフィシャルサイトによると家光は甲良豊後守に命じ当時の建築の粋を集めて本堂を建立し寄進したとあり家光の善福寺に対する愛着が伺える。甲良豊後守は、徳川家康以降将軍家に仕え、伏見城内の普請や吉田神社(左京区)造営の棟梁として活躍し、その功績により、豊後守の称号を賜る。のち江戸に赴き、増上寺三門・台徳院霊廟・江戸城天守閣、日光東照宮などを手掛けた幕府作事方大棟梁との事。また余談だが江戸城の虎ノ門は当時の善福寺の山門であり、杉並の善福寺池は当時の奥の院跡で麻布山善福寺の寺領であったとの事。

文中の麻布の鷹狩は後に麻布御殿となる麻布薬園(南御薬園)にある将軍家鷹場が使用され、この他にも北御薬園(高田)、大炊台、隅田川、品川、小菅、ほうろく島、王子、中野、葛西にも将軍家鷹場御殿があった。家光はこれらの鷹場を頻繁に使用したが、家康、秀忠の数日を費やす大規模で軍事デモンストレ−ションを含んだ鷹狩ではなく、あくまでも自らの健康回復を目的としたスポ−ツ的な鷹狩で、ほとんどの場合1日で終了したという。

この他にも西麻布に現存する長谷寺の開山宗関は、今川義元の嫡子氏直の三男に生まれ、かつて駿府での家康の禅の師範であったため家康入府後、江戸に招かれ家康・秀忠の崇敬を受けて慶長3年(1598年)長谷寺を開くなど麻布と歴代徳川将軍家の因縁は深い。



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133.善福寺池


前回、徳川3代将軍将軍家光と善福寺を調べていると麻布山善福寺オフィシャルサイトの中に「杉並の善福寺池は当時の奥の院跡で当時の寺領の広さがわかります。」との記事があった。早速、善福寺池を調べてみると、池は現在、杉並区善福寺3丁目にある都立善福寺公園となっており、面積7万8千平米公園敷地の中で上の池、下の池と分かれ、両方で37,000uで公園全体の47%を占める池である事がわかった。

善福寺池は井の頭公園の井の頭池、石神井公園の三宝寺池と供に 武蔵野三大湧水地といわれたほど湧水量が豊富で、江戸時代、神田上水の補助水源として利用された。その湧水の一つである遅乃井は1185年、源頼朝が奥州征伐の途上でこの地に宿陣した時に、干ばつのため自らが水を求め、弓筈で土を掘ること七度、「今や遅し」と水の出を待ったことから「遅乃井」と呼ばれるようになったと伝わる。また池からは「善福寺川」が流れ出し、杉並区の中央を通って中野富士見町辺りで神田川と合流し、やがて隅田川へとそそぐ。

善福寺池の名称は、昔、この付近にあった寺の名からとったと伝えられるが、現在善福寺3丁目にある善福寺はそれまで無量山福寿庵と呼ばれた庵を昭和17年に寺に昇格した時に改称した寺名であり、麻布山善福寺との関係は無い。しかし、杉並区史によると「新偏武蔵風土記稿」には、池に面した丘の上に江戸初期まで善福寺という寺があり大地震によって破壊され、寺の宗旨も伝えていないが、時宗であったと土地の古老は伝えたと書かれている。そこで杉並区郷土博物館に電話で話を伺った。しかし残念ながら麻布山と杉並の善福寺を結びつける手がかりは見つける事が出来なかった。そこで麻布山善福寺に電話で確認すると、800年前ほど前のことなのでよく解らないがそのように伝わっているとの事で、今回はその証となる文献等を発見する事は出来なかったが、杉並の善福寺池が麻布山善福寺の寺領であった事は間違いないように思われる。なお、麻布山善福寺はこの杉並のほかにも、江戸期の元禄12年(1699年)にそれまでの麻布の寺領が新堀御用地となったので、荏原郡六郷領女塚村(現在の大田区西蒲田あたり)に替地となった寺領があったと「麻布区史」にある。







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134.アサップル伝説


麻布の由来のコ−ナ−で麻布という地名のル−ツとなる、

@ 麻の産地であり又織物もさかんであったためついた。

A 阿佐布、麻生、浅府、安座部、などと多様に書き表された。

B 稲垣利吉氏は、麻布とは「アサップル」というアイヌ語が転化したと言う説を披露。

 などの諸説をご紹介したが、@は通説となっていて現在、最も一般的な解釈である。麻布区史には「江戸志」からの引用で、

「此所は多摩川へもほど遠からざれば、古へこの地に麻を多くうへおき、布をもおり出せるよりの名ならん〜中略〜あさふは麻布にあらず、此辺昔は山畠にて麻を作りしゆへ麻田をあさふとよめり〜云々」

とあり、どちらかと言うと麻織りで麻の布を織り出していたよりは麻畠の麻田が転化して「あさふ」となったといっている。そしてその証拠として「江戸志」ではさらに、

「日本記にも豆田、栗田をまめふ、あわふと訓するがごとく〜云々」とある。

ここで「江戸志」は「此所は多摩川へもほど遠からざれば」といっているが、私は疑問に思った。麻布から多摩川が近いとは聞いた事も無い。しかし「日本全河川ルーツ大辞典」の古川を引くと「古くは多摩川が曲流してここを流れていたという。流れが変わったため古川町が生まれ古い川であったことを示している。」とあり、古川=多摩川だと驚くべきル−ツが書いてある。しかし、現在古川と多摩川の間にある呑川、立会川、目黒川はどうであったのだろうか、疑問が残る。なお、「江戸砂子」の麻布山善福寺の項には「楊枝杉、それは弘法大師囘国(かいこく)の時やうじをさし給ふに、此杉七株にわかれて大木となる、其梢に白き麻布の旗のごとくなる物一流ふりくだる、よって当所を麻布といふとなり」また、「新編江戸志」には「相傳云、善福寺の山、往古麻ふり下りしゆゑ、麻布留山といへるを略して麻布山と云えるよし云々」とあり「麻」との関連を説いている。また、類似した地名では「莇生(あざぶ)」があり愛知県西加茂郡三好町莇生で薊(アザミ)の生えた場所。または、崖地の辺の意とのこと。そして麻布と同じ麻布山が静岡県水窪町にあり標高は1685mとのこと。

Aの阿佐布、麻生、浅府、安座部などの転化説であるが、現在「阿佐布、浅府、安座部」の地名は他所にも存在しないのでわからない。しかし、麻生はアソウ・アサウなどと読みアサフが転化したもので麻布と同義だという。古代地名語源辞典には「これまでは麻が生える所の意という節がもっぱらであったが「風土記」説話に他出することから逆に本来の意味を粉飾するための仮託である可能性が大きい。」アサは崖地・湿地、フは〜になった所の意。

Bのアイヌ語説であるが、稲垣利吉氏の他にも麻布生まれの鬼集家で宮武外骨に私淑した池田文痴庵がアサップル(アイヌ語で渡るの意)説を説いている。この他、続地名語源辞典によると「東京都港区の麻布は麻の布ではなく当て字で意味は不明だが「日本アイヌ地名考」の山本直文説ではアイヌ語残存地名でasam(奥)の意で東京湾が広尾、恵比寿まで入り込んでいた時代につけられた名」とあり、asamuの類似地名では、



青森市・浅虫温泉−−アサム・ウシ(湾奥にある所)

岩手県岩泉町・浅内−−アサム・ナイ(奥の沢)

浅間山−−アサム・ムイ(奥地の山)

などがみられる。 そして、調べてみると北海道には「麻布」に類似した地名が数箇所あり、

麻布町於尋麻布(おたずねまっぷ)       
知西別川「(ちにしべつがわ)羅臼の南にある。」から3キロ南に精神川があり、地名は麻布である。       昔この川はたるなっていたが、後に略して麻布(まっぷ)と呼ばれたが現在では東京の地名と同じく       「あざぶ」と読み、麻布町となった。精神川は白濁した川であったので他所と同じく魚のいない川の       意味でつけられた。

麻生
アサブ。札幌都心北西部にある地名で、亜麻産業発祥の地。通過している地下鉄も東京と同じ「南北線」。

発寒
札幌市西区の川名。ハツシヤフ、ハツサフ、ハチヤム。桜鳥の多く住む川の意で他に葡萄の傍、潅木の傍の意。

厚沢部
アッサブ。檜山支庁の町名。ハッチャムベツ(桜鳥・川)の意。発寒と同義。


などである。これらは、「縄文人=アイヌ人」であったとすると、麻布でも住居跡が多数発掘されているので信憑性がある。そしてその当時の地形を想像する事が出来る図ジオテック株式会社様よりお借りしたので参照いただきたい。(ただし、図本来の意図は縄文期の地形を表した物ではなく、現在の地形を表していますので地形図上の台地面を陸地、白い部分を海と解釈してご覧ください。)

この他にも定説ではないが、東京の地名でアイヌ語が語源となっているといわれる地名は、

江戸−−イト(岬)

渋谷−−シンプイ・ヤ(泉の岸)

目黒−−「清く深い水の流れに住む衆」と言う意。

阿佐ヶ谷−− atui samkaya 海へ下る岡の意。

山谷−− samkaya 下る岡。

浅草−− stukushi 海を越す。

日比谷−− pipiya 小石だらけの土地。

野毛−−ノッ・ケイ(あご状に突き出た・頭、岬)

広尾 ピルイ(転がる石)、ビロロ(陰)。

などがある。最後にもう一度稲垣利吉氏のアサップル説をご紹介。

「太古の昔、十番あたりまでは海であった。東京湾に突き出ている芝公園の高台より飯倉、狸穴、鳥居坂、日ケ窪、麻布山麓、仙台坂と続く半島と、三田山、ぎょらん坂、三光町、恵比寿、天現寺まで続く半島に囲まれた内海は、海草が繁殖し、小魚の天国であったので、早くから人が住みついたと思われる。そしてそこには、石器時代からの民とアイヌの人たちが仲良く住んでいた。(麻布山にも貝塚があったらしい。)当時内海には、小島が点在し、又半島を横切るために船や筏にようなものが多く使われていたと思われ、それにより狩や、物々交換を行っていた。こうして船で渡る事をアイヌ語で”アサップル” と呼んだらしい。 「向こう岸の三田山は聖坂まで海水が来て一個の独立した孤島であった。この島に美しいピリカ(乙女)が多数いたので多くの若者がアサップルしていく事は、若衆の唯一の楽しみで、物交も楽しいがそれ以上に楽しい事であった。」



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135.渋谷川〜古川


前回「アサップル伝説」の中で、太古の昔に東京湾が恵比寿辺まで入り込んでいたと書いたが、渋谷駅近辺でビル建設時に大量の貝が発見されているという記事を発見して、さらに奥の渋谷までが湾奥であった事が解った。そしてその後の湾奥は、曲流した多摩川から現在の古川へと姿を変えていったのだが、今回は、はたして古川とはどんな川なのかを調べてみた。

古川の源流は新宿御苑にある「下の池」東側から川となって流れ出ている。しかし現在は園を出るとすぐに暗渠となってしまい、ここから渋谷駅付近までは川の姿を確認することが出来ない。園を出た川はすぐに玉川上水と合し流れを増す。昔、このあたりでは渋谷川は「余水川」と呼ばれ園からの水量より玉川上水からの水量の方が多かった。その後川は原宿表参道付近で明治神宮の「清正の井」から湧き出て「南池」に落ちた後に川となった支流と合流し、渋谷駅付近で初台1丁目付近から流れ出る「宇田川」と合流する。そして恵比寿の手前で鉢山町あたりから流れ出た支流と合流し、天現寺交差点で青山小学校付近から流れる「笄川」と合流して麻布を流れ、その後に芝金杉橋の先から海へとそそいでいる。この中で渋谷から天現寺橋までの渋谷区域2.9Km(暗渠以外)を「渋谷川」それ以降の港区域4.3Kmを古川と呼びまた、水系的には二級河川「古川水系」と呼ばれ、そして「目黒川」、「呑川」と供に「城南三河川」と呼ばれる。

古川下流域は昔、新堀川、金杉川、赤羽川とも呼ばれた。これは江戸初期までの古川は三の橋から慶応交差点を抜けて東京港口に注いでいた川路が本流で、三の橋〜一の橋〜金杉橋は支流であったもの(芝区史)を、1667年(寛文7年)に幕府に岡山、鳥取の両藩が命じられて1676年(寛文7年)完成した工事で古川を芝金杉より麻布日ヶ窪まで改修して船の出入りを容易にした。この時、工事を1番より10番までの工区にわけて行ったので10番目の工区はその後「麻布十番」となった。またこの工事は前年2月に起こった大火の影響で凶作貧民となった民の失業救済事業であったともいわれる。そしてその後の1698年(元禄11年)にはさらに一の橋〜四の橋までの川幅拡張工事を行い将軍綱吉が船で直接麻布御殿に入る為の工事を行い、本来支流であった三の橋〜金杉橋が古川の本流となったといわれる。ちなみに現在港区内で古川にかかる橋は、以下の23橋。                
No.橋名No.橋名No.橋名No.橋名No.橋名
1.天現寺橋2.狸橋3.かめや橋4.養老橋5.青山橋
6.五の橋7.白金公園橋8.四の橋9.新古川橋 10.古川橋
11.三の橋 12.南麻布一丁目公園橋 13.二の橋 14.小山橋 15.一の橋
16.新堀橋 17.中の橋 18.赤羽橋 19.芝園橋 20.将監橋
21.金杉橋 22.新浜橋 23.浜崎橋


最近の古川は、私が子供の頃の昭和40年代に比べて明らかにきれいになったようで、 先日、Yahoo! 掲示板 麻布倶楽部にも古川の「ボラ」、「鯉」の話題が出ていたが私も2年程前に四の橋付近で40cmほどの鯉数匹を、つい先日には、新広尾公園近辺で50cm位のボラ数十匹と幼魚の大群をみつけた事からも説明できる。これは天現寺にある「清流の復活」という東京都の看板によると、新宿区の落合下水処理場からのオゾン処理した「高度処理水」を平成7年から旧玉川上水路を使って放水し、水量を維持したためとの事。平成8年度の東京都環境保全局による「中小河川環境実態調査報告書」によると渋谷橋ではタモロコ・モツゴ、鯉、ドジョウ、メダカ、ヨシノボリなど10種類、古川橋では9種類、金杉橋では1種類の魚類が確認されている。その他面白いものでは渋谷橋、古川橋でミシシッピ−・アカミミガメ通称ミドリガメが捕獲されているが、これは縁日などで買ってきたペットを放流したものと思われる。また、この調査報告書によると港区内で古川に注ぎ込んでいる水の湧水地として、

1,芝公園(もみじ台)
2,有栖川公園
3,麻布山善福寺(柳の井戸)
4,宮村児童遊園
5,がま池
6,根津美術館
7,自然教育園

の7箇所をあげている。 そして、一の橋公園内の噴水、放水は東電洞道湧水を利用した湧水であり、この調査時点では前項7つの湧水と供に麻布の湧水が確認されており港区の「港区街づくりマスタ−プラン」の中で古川を3つの軸の内の一つとして位置付け、一の橋公園は水の拠点とされている。また港区は、昭和62年に策定した環境整備基本計画で「古川の清流を復活し、緑と水の豊かな都市景観を備えた個性あるシンボルゾ−ンとして整備を図る」として翌63年に河川環境管理財団に委託して「古川環境整備基本計画調査報告書」を策定し、その中で川を以下の4つのゾ−ンに区分して環境整備の具体的な方向性を示した。

@水と緑のふるさとゾ−ン → 天現時〜新古川橋
A親水プロムナ−ドゾ−ン → 新古川橋〜二の橋、新堀橋〜芝園橋
B親水プラザゾ−ン → 二の橋〜新堀橋、新浜橋〜浜崎橋
C親水文化ゾ−ン → 赤羽橋〜新浜橋












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136.増上寺刃傷事件


幕末まで笄町4番地(現在西麻布3丁目麻布税務署裏手あたり)辺に上屋敷のあった湯長谷(ゆながや)藩は、磐城平藩の藩主内藤政長が隠居にあたって長男の内藤忠興に本藩を相続させ、二男の内藤政亮に新田を分与し支藩としたことから成立した奥羽の小藩(福島県いわき市常磐下湯長谷町)である。そして、内藤政亮が藩主となるに当って浅草寺別当知楽院の進言により遠山氏を名乗り湯長谷藩遠山氏が成立した。成立当時藩の石高は1万石であったが、さる事件をきっかけに幕府より2千石を加増されることとなった。その事件とは........。

延宝8年5月8日(1680年)四代将軍家綱が没し、芝増上寺で大法会が営まれることとなった。大老酒井忠清は、この大法会の奉行を鳥羽(志摩)3万5千石の藩主内藤和泉守忠勝、丹後宮津7万3千石藩主永井信濃守尚長、土浦藩4万5千石藩主土屋相模守らに命じた。(松本清張の「増上寺刃傷」では永井は将軍名代、内藤は奉行となっている)そして事件は延宝8年(1680)6月24日、大法会当日の申の刻(午後3時頃)に突然起こった。内藤和泉守が突然永井信濃守に斬りつけ殺害した。『徳川実紀』には「この日増上寺の法場に於て、内藤和泉守忠勝失心し、佩刀をぬき、永井信濃守尚長をさしころす。」とあり、また御当代記には「永井信濃守・内藤和泉守両人義、於増上寺御法事の節喧嘩仕相果候ニ付、跡を御絶し被成候」とある。この時刀を持ったままの内藤和泉守を後ろより抱きとめ、刀を奪って目付に引渡したのが遠山政亮である。遠山政亮はこの功により丹波氷上・何鹿に2千石を拝領した。事件後、内藤和泉守はの27日には愛宕青竜寺(神谷町付近の港区虎ノ門3−22−7に現存)にて切腹し三田功運寺(当時三田4丁目の済海寺近辺にあった)に埋葬された。

この事件は内藤和泉守の失心による刃傷事件という事になっているが、内藤家と永井家の江戸上屋敷は隣り合っており、普段から犬猿の仲であったといい、忠勝も尚長も三十歳前後と若く、吉原通いの舟の行き違いのときのにらみ合いや永井家の高く建てた茶室による紛糾なども原因としている。そしてまた、松本清張の「増上寺刃傷」では尚長からの計略により面目を失った忠勝が事件を引き起こしたとあり、同書では永井信濃守について冷血的な秀才と位置付け、その冷血の遠因を3代将軍家光逝去時に大老堀田正盛老中阿部重次、側衆内田出羽守正信らは早々に追い腹を切ったが、家光より同じ恩顧を受けた永井信濃守尚政(永井信濃守の祖父)は、殉死せず

「永井して 人の誹りやなおまさる 出羽におくれて 信濃わるさよ」

と世間から酷評された末に隠居した事や、その後を継いだ兄の越中守尚房も吉原で遊郭遊びの最中に横死するという永井家の精神的な「引け目」から鷹揚な振舞いを貫き通したためとも書かれている。

この刃傷事件を調べるうちに、同じ刃傷事件である浅野内匠頭長矩の事件との関連が幾つか見つかったのでご紹介。

  1. 加害者である内藤和泉守忠勝は、後にあの刃傷事件を引き起こす浅野内匠頭長矩の母親の実弟で内匠頭は内藤和泉守の甥にあたり激昂は「血筋」との見方もある。また、浅野内匠頭長矩は寛文7年(1667年)江戸生まれなので、増上寺事件当時は13歳となっており、当然事件を認知していたと思われる。

  2. 赤穂浪士の一人である奥田孫太夫重盛は、内藤和泉守忠勝の姉が浅野采女正長友に嫁ぐのに従い赤穂に来た「鳥羽藩士」であったが忠勝の増上寺刃傷事件により内藤家は改易となったので、孫太夫はそのまま浅野家中になり、後年再び主君が改易となる。つまり、2度も主君の刃傷・改易を経験している。

  3. 浅野家改易後の赤穂藩に、永井信濃守尚長の縁者である永井直敬が下野烏山より3万3千石で入り、1代で信濃飯山へ転封。

  4. 内藤和泉守が埋葬された三田功運寺は大正11年(1922年)に中野区に移転し、昭和23年(1948年)に万昌院と合併し万昌院功運寺となる。この万昌院は赤穂事件後に取り戻した吉良上野介義央の首と胴体を合わせて埋葬した墓がある。

  5. 大法会のもう一人の奉行である土屋相模守政直はその後の貞亨4年(1687年)に老中となり、増上寺刃傷事件から21年後の元禄14年(1701年)の江戸城松の廊下刃傷事件では浅野と吉良両人の事情聴取行う。さらに翌年、四十七士の討ち入った本所吉良邸の隣が土屋邸であった。余談だが土屋相模守の下屋敷は四の橋付近(新坂と薬園坂を挟む一帯)であったため、四の橋は別名「相模殿橋」とも呼ばれた。
事件の後、加害者といわれる内藤家は廃絶となった。しかし、被害者である永井家は継嗣がいなかったため所領は一旦は幕府に収公されたが、のち弟の尚円が大和新庄で1万石を与えられ大名に復帰、永井家は大和櫛羅(くじら)藩主として明治まで存続する。そして仲裁に入った遠山家は政亮の二代あとに旧姓の内藤を唱え、さらに三千石を加増されて1万5千石の大名となって、明治を迎えるまで1度も領地を変わらずに福島県いわき市に存続した。









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137.「御宿かわせみ」の麻布


大川(隅田川)端の宿「かわせみ」が舞台の「御宿かわせみ」は平岩弓枝原作の人情時代小説で、テレビでも4度(TBS、NHK、テレビ朝日、テレビ朝日)放送されている。物語の舞台「かわせみ」は深川の外れだが、主人公である女主人庄司るいの恋人神林東吾が、神道無念流の遣い手で、狸穴の方月館で師範代を勤めていたため、麻布近辺を舞台にした話が意外に多くあるのでご紹介。

単行本No.文庫No.本名題名場所
1-上1御宿かわせみ・上卯の花匂う狸穴
1-下3御宿かわせみ・下水郷から来た女狸穴
25幽霊殺し川のほとり長谷寺・香貝橋(笄橋)
   源三郎の恋広尾・白金
69一両二分の女黄菊・白菊芝・白金
710閻魔まいり露月町・白菊蕎麦芝・露月町〜金杉橋
811二十六夜待の殺人女同士青山・梅窓院
   虫の音御殿山〜六本木・材木町
912夜鴉おきん春の摘み草四ノ橋・古川
1013鬼の面麻布の秋狸穴・本村町
1114神かくしみずすまし狸穴〜目黒
   麻生家の正月狸穴
1316八丁堀の湯屋ひゆたらり長谷寺・笄橋
1417雨月白い影法師仙台坂・本村町天真寺
1518秘曲江戸の馬市麻布十番
1720お吉の茶碗春桃院門前仙台坂・飯倉3丁目
1821犬張子の謎愛宕まいり芝・愛宕
2023源太郎の初恋狸穴坂の医者狸穴坂
2124春の高瀬舟花の雨市兵衛町



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138.旧室風狂の事


むかし・むかしでも度々取り上げてきた「耳袋」から今回は「旧室風狂の事」をご紹介。

宝暦(1751〜64年)の頃まで俳諧の宗匠をしていた旧室(江戸の人。活々坊・天狗坊とも号した。宗因派の中興者。明和元年〔1764年]没72歳。奇行に富み、俳諧天狗話にその逸話を残す。)という人は、並はずれて背の高い異相の持ち主であり、面白い気性であった。欲心は少しもなく、わずかばかりの衣服なども、時には人に与える事もあった。  旧室は、ある日麻布近あたりの武家屋敷の門前を通りかかった時に、剣術の稽古の物音を聞いて、どうしてもやってみたいという気を起こした。そして「稽古を拝見したい」と案内を乞い座敷へ通されたが、旧室の風体は色の黒い大男であるため集まった者たちは互いに「天狗が懲らしめに来たに違いない」とささやきあった。そして、武家屋敷の主人は若年であり、相応の挨拶がなされた後に旧室は「とにかく竹刀で一本打ってみたい」と遠慮なく申し出た。しかし「ここは道場ではなく、内稽古をしてるだけですから」と断られたが旧室がさらに「たってお願いする」と願うので、仕方なしに立ち合う事になった。しかし元来俳諧の宗匠である旧室に武術の心得などあるはずもなく、 ただ一振りの内にしたたか頭を打たれ、やがて座敷に上がった。そして「やれやれ、痛い目にあった。硯と紙を所望したい」といって筆で

五月雨にうたれひらひら百合の花   旧室

 と書き残して帰ったので、「今のがあの酔狂な旧室だったのか!」と大笑いになったという。

 またある時、旧室は他の宗匠たちと一同に諸侯の元に呼ばれ、俳句の会を催して一泊したが、旧室はその寝所の床間に出山の釈迦の掛軸があるのをことさら褒めた。そして旧室がその掛軸に「賛をしたい」と言い出したので他の宗匠たちは、せっかくの掛軸を汚すのはもってのほかだと叱った。  そして他の宗匠たちが再三再四説得したので、旧室もその場は承知して寝た。しかし、夜更けに起きて、黒々と賛を書いてしまった。

蓮の実の飛んだ事いう親仁(おやじ)かな

 このように旧室は愉快な僧であったが、酒は怖いものである。ある日、本所の屋敷で行われた俳席から帰る際、「お送りしましょう」と言われたのを断ってひとりで帰ったところ、どこかで足を踏み外したものか、水に溺れて命を落としたという。

掛軸に賛をする→ 掛軸に俳句や自署を書き加える事。
蓮の実の〜  →元気で無鉄砲な若者の形容。



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139.上杉家あき長屋怪異の事


今回も引き続き「耳袋」からの不思議をご紹介。 作者根岸鎮衛は、 上杉家の上屋敷(霞ヶ関1丁目、現法務省)か下屋敷(麻布台1丁目、現外務省飯倉公館)、(高輪)かは忘れたが最近あった話として、

ある藩士が交代により在所より江戸に来て藩邸の屋敷内に長屋を探したが、生憎長屋はみなふさがっていた。1軒だけ空いてはいるが、その長屋は異変が多く起こり、住んだ者は皆自滅したり、身分が立ち行かなくなってしまい、誰も住まなくなって主君の耳にも達するほど評判の長屋であった。しかしその話を聞いた藩士は、そんな噂を全く気にすることもなくその長屋に住みたいと願い出て許された。するとある夜、一人の老人が出て、書見台で本を読んでいた藩士の前に座った。しかし藩士はその老人をちらっと見ただけで変わらずに読書を続けていると、今度はその老人が飛び掛って来ようとしたので取り押さえて

「何者だ。何故ここにいる!」

と、問いただすと老人は

「私は永くここに住む者だが、ここにいるとあなたの為にならない」

と言ったので、藩士は大声で笑いながら

「私は屋敷の主人よりこの長屋を給わって住むことになったが、あなたは誰の許しを得て住んでいるのか」

と問い掛けると、老人は答えに窮して

「まったく申し訳ない」

と答えた。それを聞いた藩士は

「これからは心得違いをしてはいけない」

と、取り押さえていた膝を弛めると、老人は消えてしまった。その日から2、3日が過ぎて屋敷の目付けと名乗るが供を連れて長屋に来訪し、主人の言いつけだとしてその藩士に面会を望んだ。藩士は主命と聞き、衣服を改めて面会すると

「その方にに不届きがあって、きついお仕置きがあるかもしれない事を聞いている。しかし、私の一存で仕置きが決まるのだが」

と目付は言った。すると藩士は

「承知いたしました。しばらくお待ちください。」

と言ってその場を辞して、勝手にいた召使を呼び、近辺に住む同輩を呼んで陰から目付をのぞかせた。しかし誰もその目付を知っている者がいなかったので、藩士は皆に棒等を持たせて待機させると、座敷に戻った。そして目付に向かい、

「仰っている事はよく解りました。しかし、よく考えてみるとお叱りを受ける心当たりが全くありません。また、在所より出てきたばかりなのであなた様を存じ上げませんが、屋敷内の何処に住んでいて何年お勤めをされているのか伺いたい」

と言うと

「主人の命により詰問に来たので、そんなことには答える必要がない」

と言ったので

「そう仰ると思って、屋敷内の他の者達を呼んであります。しかし誰もあなたを知りません。この侵入者め!」


そう言うと藩士は刀に手をかけた。すると目付は驚いて逃げ出したので抜き打ちに斬りつけると、手傷を負って目付を名乗っていた物は元の姿をあらわし、さらに隠れていた近所の同輩にもしたたか叩かれて逃げ去った。そして、その後にこの長屋で異変が起こることは、なくなったという。



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140.その素自然に玉光ある事


今回も引き続き「耳袋」からご紹介。

明和の頃(1764〜72年)芝口2丁目(日比谷)にあった伊勢屋久兵衛の使用人勘七は日頃から商いに精を出し、主人からも大変に信頼されていた。しかし彼の唯一の欠点は酒が過ぎてしまう事だった。

ある日、勘七は出入りの屋敷で集金を終えて70両ほどを財布にいれ、その日はその屋敷に祝い事があったので、家の者から酒を薦められるうちに、元々酒好きがこうじてをつい過ごしてしまった。すっかり酩酊して屋敷を辞した勘七は、小唄などを唄いながらふらふらと歩いていると、芝切通し(増上寺裏手、東京タワーあたり)で夜鷹(街娼)が袖を引いてきた。真面目な勘七は、普段ならそのまま行過ぎてしまうところだが、酒の力も手伝ってその日はつい夜鷹の求めに応じてしまった。

その後、酩酊したままやっとの事で家に戻った勘七は、そこではじめて財布が無くなっている事に気がつき青くなった。落としたのではと今来た道を再び戻り、懸命に探したが見つからない。ついに芝切通しあたりまで戻ったが、すでに夜も更けていたので先ほどの夜鷹もいなかった。途方にくれた勘七は再び道を探しながら戻ったが、やはり財布は見つからなかった。

勘七はその足で店に戻ると、主人久兵衛に財布を落として売上金を無くしてしまった事を正直に話した。それからの勘七は食事も喉を通らなくなり、日頃の忠勤を知っている主人久兵衛の静止も上の空で死ぬ事ばかりを考えていた。そしてやっと次の夜になったので勘七は再び芝切通しに向かった。すると前日の夜鷹勘七をみつけるとそばによって来て、

「あなたは昨日私を買ってくれた人ですか?」

と聞いたので、すかさず勘七は、

「そうだ。私だ。」

と答えた。すると夜鷹は、

「昨日は、何か落しませんでしたか?」

というので勘七は、昨日からの事をすべて話し、食事も出来ない状態だと告げた。すると夜鷹は、財布の特徴や中身を詳しく聞いて、

「来てくれて、本当に良かった!」

と言って土中に生めて保管してあった財布を喜んで返してくれた。

まさかの思いで、命の恩人だと喜んだ勘七夜鷹の住まいを訊ねると鮫ヶ橋(新宿区若葉辺の超低級岡場所でボッタクリが横行していた場所)の九兵衛という親方の下にいると答えたので、また来ると言い残して主人のもとに急いで帰った。店についた勘七は財布を差し出して事の仔細を主人久兵衛に話した。すると主人は、

「そのような正直者にそんな勤めをさせてはいけない」

と言い、勘七を供なって20両を懐に鮫ヶ橋の九兵衛のもとに行くと昨夜の夜鷹も居合わせたので、早速その夜鷹を20両で身請けしたいと親方の九兵衛に申し出た。すると九兵衛は、

「あの娘は訳があって夜鷹などしているが、本来はこのような勤めをするべき者ではなく、生活のために致し方なくやっているのだ。」

と言い6両もあれば借金は消える。20両では多すぎる。と6両しか受け取らない。そして、何度も押し問答をしたがどうしても九兵衛は6両しか受け取らなかったので終いには根負けした伊勢屋久兵衛も6両で夜鷹を店に連れ帰り、勘七の長年の忠勤にも以前から感じ入っていたので、二人を早速夫婦にして元手を渡し店を持たせた。そしてその後、勘七夫婦の店は永く繁盛したという。この正直な夜鷹は麻布辺の荒井何某という家の娘であったが、親の死後に兄弟の身持ちが悪く、悪人に売られて九兵衛のもとに来たという。

最後に作者の根岸鎮衛は、

「さすがに素性ある女なれば、かかる事もありなん。親方の九兵衛もいかなる者の果てや、正義感ずるにたえたりと語りける」

と〆ている。

※ 根岸鎮衛もこの話の冒頭で「この話初めにもありといえど、大同小異あれば又しるしぬ」と書いている通り、この話には同話異伝があり、「耳袋」2巻に「賤妓発明加護ある事」というタイトルで掲載されている。そちらは場所が浜町河岸(日本橋久松町)で舟で商いする街娼と下町辺の若い商人の話だが、財布を返した理由に、若い商人と夫婦になった娼婦が後に語った事として、大金を持っていると親方に殺されて奪われる恐れがあった。と言っており、鮫ヶ橋の九兵衛のような人情味のある親方は登場しない。











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