むかし、むかし3







39.外務省外交史料館



麻布台の飯倉片町交差点から東京タワ−方面に2〜3分歩くと、麻布郵便局の隣に外務省外交資料館がある。 昭和46年に外務省の一施設として開館し、第二次大戦で焼失、離散した史料の収集復元、また連合国に接収された記録の変換依頼をし、明治以来の史料を編さん、分類、保存する業務を行ってきた。業務内容は、史料の閲覧、レファレンス、展示、「日本外交文書」の編さん、刊行、調査、収集など。また別館の展示室は、吉田茂記念事業財団より寄贈されたとの事で、常設展示品は以下に。


○開国期〜明治初期
・嘉永6年ペリ-艦隊の図(写真)。
・嘉永7年ペリ-全権と幕府全権の間で、神奈川において交わされた日米和親条約(複写)。(原本はアメリカに。)
・アメリカ、ブキャナン大統領が万延元年(1860年)に日米修好通商条約の批准書交換で渡米した日本使節団に寄贈した金時計とメダル。
・文久元年(1861年)11月14日付、リンカ−ン大統領より第14代将軍徳川家茂に送られた、ハリス駐日公使への厚遇に対する感謝の親書(この年アメリカは南北戦争中であった。)。(写真)
・文久3年(1863年)10月27日付、ベルク−ルからロッシュへの公使交替を伝えるため、ナポレオン3世より徳川家茂に送られた親書。(複製)
・慶応元年(1865年)3月2日付、オ−ルコックからパ−クスへの公使交替を伝えるため、ヴィクトリア女王より第15代将軍徳川慶喜に送られた親書。(複製)
・その他。

○明治期
・明治4年から日清戦争まで適用された日清修好条規調印書。(写真)
・不平等条約の改正の可能性を探るため渡米した、岩倉大使一行のサンフランシスコにおける写真。
・明治9年(1876年)江華島事件の処理で調印された日朝修好条規調印書。これは、関税、領事裁判権など朝鮮にとり不平等な条約であった。
・明治17年11月3日、鹿鳴館での天長節(天皇誕生日)晩餐会メニュ−。
・明治26年天長節晩餐会の演奏曲目、参加した女性がダンスの相手を記した舞踏メモ。
・明治28年(1895年)4月17日、日清戦争終結により下関で調印された日清講和条約調印書。
・明治38年(1905年)9月5日、日露戦争でアメリカの斡旋により、ポ−ツマスで講和交渉をしてワシントンで調印された日露講和条約調印書、批准書。
・その他

○大正期
・アメリカが日本の中国における特殊権益を認めるため、ワシントンで石井特派大使とアメリカ国務長官の間で交換された石井・ライシング協定。(ワシントン会議で9カ国条約締結後、破棄。)(複製)
・第一次大戦のパリ講和会議での日本全権団と各国代表の記念サイン。(写真)
・大正8年(1919年)連合国とドイツの間で結ばれたヴェルサイユ講和条約認証謄本。この条約の内容は敗戦国ドイツにとって非常に厳しいもので、後にナチスが台頭する一因にもなった。そしてこの条約により国際連盟が設置された。(写真)
・大正11年(1922年)ワシントン軍縮会議で調印された海軍軍縮条約認証謄本。(複製)
・大正14年(1925年)1月20日に締結された、日ソ基本条約批准書。(写真)
・その他

○昭和期
・昭和3年8月27日、提案国アメリカ、フランスと日本、イギリス、イタリア、ドイツなどの15カ国により調印(のちに63カ国)された不戦条約。(写真)
・昭和5年(1930年)4月22日に日本、イギリス、アメリカの3カ国でワシントン軍縮条約に続き補助艦の軍縮を目的に調印されたロンドン海軍軍縮条約認証謄本。
・昭和6年(1931年)9月、満州事変の調査で犬養首相と会談後現地入りし、満鉄線の現場を視察するイギリス、リットン調査団。この調査の結果国際連盟は満州国を不承認としたため、昭和8年2月、日本は国際連盟脱退を通告した。(写真)
・昭和7年(1932年)9月15日に日本と満州国の間に調印された日満議定書。これは、日本が世界に先駆けて満州国を承認したもの(傀儡政権のため当然だが。)で日本の権益を保証するものになった。
・昭和9年(1934年)ワシントン、ロンドン条約に不満を持つ「艦隊派」が実権を握った海軍は、政府に強く働きかけ、12月29日日本政府はアメリカにワシントン海軍軍縮条約破棄通告(複製)を申し渡した。さらに昭和11年1月15日にはロンドン条約も破棄することに。
・昭和11年(1936年)、11月25日にベルリンで武者小路駐独大使とリンベントロップ全権が調印した日独防共協定。正式名は「共産インタ−ナショナルに対する日独協定」。翌年11月6日にはイタリアも参加して日独伊防共協定が成立した。
○その他、
・日独伊三国同盟条約調印書(複製)
・日ソ中立条約調印書(複製)
・日米交渉日本側最終案「甲案」「乙案」
・降伏文書(複製)
・重光外相の降伏文書署名(写真)
・対日平和条約認証謄本
・対日平和条約調印式(写真)
・吉田茂関係資料
などがある。

開館は平日の10:00〜17:00で土日、祝日、年末年始は休館との事。




















◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆








40.広尾稲荷神社



広尾稲荷神社
広尾稲荷神社






初詣の境内
初詣の境内

◇名称:廣尾稲荷神社

◇通称:千蔵寺稲荷・ハギナメ稲荷

◇鎮座地:港区南麻布四丁目五番六十一号

◇祭神:宇迦魂之命(うかのみたまのみこと)

御神体は木造翁の立像。商売繁盛、五穀豊穣、火伏の神として信仰を聚めている。

◇祭儀:例大祭・九月十五日、中祭・五月五日

◇氏子:
・南麻布五丁目、四丁目の一部(旧麻布広尾町) ・南麻布四丁目、白金三丁目、五丁目の一部(旧新広尾町三丁目)
・南麻布二丁目、白金一丁目、三田五丁目の一部(旧新広尾町二丁目)
・南麻布一丁目、二丁目、麻布十番馬場四丁目の一部(旧新広尾町一丁目)

徳川2代将軍徳川秀忠が、鹿長年間に鷹狩りのさい、勧請した稲荷といわれる。そして当時、麻布宮村町にあった法隆山千蔵寺が別当であったため千蔵寺稲荷とも呼ばれていて、現在も鳥居には「法隆山佑道代」の銘が入っている。

鎮守の稲荷(広尾稲荷)は御花畑御殿(麻布御殿)の御用地として召し上げられた。しかし元禄11年(1698年)3月28日この御殿が落成した日から、毎夜どこからともなく多くの小石が飛んできたり、神楽を奏する音が聞こえたりして番人たちが不思議に思い土地の元の主、 三枝摂津守の家中の者に尋ねたところ「この地に古くからある稲荷を屋敷内に移したら変わった事が多くあったので、元の場所に返したら収まった。」との事だったので早速御殿の鎮守として勧請し信仰されたといわれる。昔は富士見稲荷、千蔵稲荷と呼ばれていたが、 明治初期に広尾稲荷神社と改め、明治42年2月22日広尾神社の社号を許された。旧社殿は青山の大火で焼失してしまったが、弘化4年(1847年)神明造りの拝殿と土蔵造の社殿が再建された。その後大正12年の震災で破損し再築され現在に至り、祭神は倉稲魂之命で五穀豊穣、火伏の神として信仰されている。拝殿の天井には日本洋画界の先駆者の日本画の最後の大作とされる龍の絵がある。
この神社の石塀の一部に小堂が建てられ額に出世庚申と記してあり、内には他に三基の庚申塔が祭られている。庚申信仰は日本固有の日待信仰に中国伝来の道教思想、十二支の猿などが結びつき天台密教の青面金剛が本尊とされ、水盤に刻まれる「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿は、庶民の身を守る戒めでもあったと言われる。


<広尾橋欄干>
広尾橋欄干
広尾橋欄干
10年ほど前まで広尾神社境内に保存されていた笄川にかかっていた広尾橋の欄干。右手の木製と左手の石製のものがあるが、石製の欄干の方が年代が古いとのこと。 関東大震災の復興事業で笄川が暗渠化されたのちに、広尾神社で保存された。また明治期には広尾橋の欄干に几号水準点が掘られていたという記録が残され ているが、広尾神社が所有した欄干に掘られていたのかは不明である。 現在欄干は渋谷区郷土資料館に保存されているとのこと。




<御由緒書き>

◇由緒
慶長年間(1596〜1615年)徳川二代将軍秀忠公鷹狩りのみぎり此の地に稲荷を勧請したと伝えられる。 麻布宮村の千蔵寺が別当であった為千蔵寺稲荷とも呼ばれた。明治四十二(1909)年二月二十二日廣尾稲荷神社の現社号となった。 此の頃の麻布広尾辺は萩の名所として賑わった。当社の俗称「ハギナメ稲荷」は可憐な萩が地をナメる様に咲き乱れていたことによる。 社殿は神明造りで、拝殿は弘化四(1847)年再建当時の建物であり、本殿と幣殿は関東大震災の後大正十四(1925)年に建てられたものである。 時代の変遷と度重なる火災に見舞われながらも氏子百姓等の信仰により再建を重ねて現在に至ったのである。
境内にあった二の鳥居(平成元年三月撤去)の左柱に「奉献明和元歳年九月吉祥日」右柱に「再建弘化四歳丁未九月吉祥日法隆山祐道代」 と刻銘があった。これに依ると明和元(1764)年にかなり大がかりな造営が行われ鳥居も献納されたことを示している。其の後弘化二(1845)年 十一月二十四日昼すぎ青山権田原の武家地あたりから出火して青山から麻布へと焼け拡がった所謂青山火事によって焼失し弘化四(1847)年 再建された。古老の話によるとこの時再建された社殿は土蔵造りの本殿に現在の拝殿が付加されたものであったという。本殿を土蔵造りにしたのは 被災の反省からで防災上の配慮であったが、大正十二(1923)年九月一日の関東大震災によって土蔵造りは著しく破損した。本殿は大正十四(1925)年に 再建され木造に改められた。
この時のご造営で神明造り正面一間側面九尺の本殿と、正面三間側面二間の幣殿に、弘化四年再建の木造正面三間側面二間入母屋造り平入向拝一間付の 拝殿が一体化した現在の廣尾稲荷神社の社殿が建造されたのである。
幸にも戦火をまぬがれたので昔日のままである。
昭和十五(1940)年紀元二千六百年を記念事業として境内整備が行われ、氏子崇敬者の寄進により、大鳥居、社名碑、常夜燈、手水舎等建立され 参道も整備された。此の時三基の庚申塔を社殿裏側道路に面した現在の場所に移した。
戦後神社界は未曾有の変革を余儀なくされ、宗教法人として神社の存続を容認された。当神社の宗教法人法による設立は昭和二十八年八月二十六日である。 昭和五十七年社務所改築の第一期工事が行われた。昭和六十一年九月、各町氏子崇敬者の銅板寄進により社殿の屋根葺替工事が完成した。
平成二年十一月十二日、今上陛下御即位の礼当日、過激派のゲリラ活動による時限発火装置放火火災で、幣殿及び拝殿の床下約五坪を焼失したが全焼を免れた (旧富士見町加藤氏が初期発見通報消火に尽力された)
此の時の全国神社による「被災神社復興支援募金」が行われ、金七百万円を復興支援として神社本庁より交付された。平成三年十二月七日当時の東京都神社庁 長猿渡盛文氏により伝達があった。
平成四年九月第二期工事として神楽殿及び参集所を含む建物が完成した。

港歳時記や港区史の記事に麻布御花畠の富士見御殿鎮守富士見稲荷が廣尾稲荷神社であるようにいわれているが之は別のものである。
富士見稲荷については麻布区史第三編有史以後の麻布第三章徳川時代の麻布、富士見稲荷の行に「....斯くて効験顕著なる富士見稲荷は正徳三年 薬園廃止後も尚存続して此の地を分賜せる旗本の崇敬を聚めたが維新後全く廃絶に帰した」と記されている。因に経緯は不明であるが富士見稲荷の 御神像は当神社に安置されている。現在ドイツ連邦大使館敷地内に富士見稲荷の旧跡があり祠が残っている。
昭和五十年頃当時電気通信共済調査役窪田孝司氏が「ドイツ大使館敷地とその付近」の調査をドイツ大使から依頼され、江戸地理研究の泰斗磯部鎮雄氏、 当時港区資料室主査俵之昭氏等と共同作業により行われた。ドイツ大使館敷地内に富士見稲荷の旧跡があり第一次世界大戦後まで此の土地を所有していた 政友会の実力者小泉策太郎氏が祭祀も行っていたことが明らかになった。広尾稲荷と富士見稲荷に関する一世紀に及ぶ誤説が外国大使の望んだ調査によって 明らかにされたのである。



◇御神木
境内に銀杏の古木があり約四百年を経た御神木である。これは青山火事により樹木の中身を焼かれ外皮のみでなお緑の枝葉を繁らせている。 昭和五十一年六月十八日港区保護樹に指定された。




◇拝殿天井の墨竜画(平成12年10月20日港区指定文化財に決定)
高橋由一の墨龍画
高橋由一の墨龍画
拝殿の七枚つなぎの天井板に竜が画かれ「藍川藤原考経拝画」の銘がある。日本洋画家の先駆者高橋由一画伯の日本画最後の大作として 貴重なものである。

高橋由一は鮭とおいらんの画で有名である。下野国佐野藩主堀田摂津守正衛の家臣高橋源五郎の嫡孫として生まれ幼名を猪之助、後に由一と改めた。九才の時 堀田公の近習として仕え画を狩野洞庭、狩野操玉斉に学んだ後「洋製石版画」と出逢い西洋画の表現に魅せられ洋画家に転身した。由一の仕えていた堀田摂津守 の下屋敷が当稲荷社と隣接していた為、弘化四(1847)年社殿の再建に際して二十才前後の青年画家由一が社殿の天井板に闊達な筆致で竜の墨画を描いたものである。
由一は明治二十七(1894)年七月六日台東区金杉の寓居に示寂六十六才 法名実際院真翁由一居士 渋谷区祥雲寺内香林院に葬られた。墓石は小型矩形の自然石で「喝」 の一字が彫り刻まれている。祖父母と母、妻の墓もある。



◇広尾の庚申塔
広尾の庚申塔
広尾の庚申塔
社殿裏側道路に面して三基の庚申塔がまつられている。全面に手水鉢が付されてある。昭和五十五年十一月十五日港区有形文化財 に指定された。
「戍子書上」の境内図では社殿と並び西向に境内に建てられている。庚申塔は三基とも正面に青面金剛、日月、三猿が刻まれ左側面に 庚申供養 一結衆志 現当二世 為安楽也 右側面に汝等所行 是菩薩道 漸漸修学 悉富成佛 と刻まれ、中央の塔は元禄三(1690)年 庚午天十月三日 下の部分に 同行十七人 とあり氏名が刻まれている。左の塔は元禄九(1696)年丙子十一月七日とあり、右は損傷が著しく 年号不明であるが現当二世とはっきり刻まれているので、他二基と同じく法隆山 千蔵寺二世の代のものである。手水鉢は全面に三猿、左右側面に 卍、右側に庚申供養、一結衆志、現当二世 左側に元禄八乙亥十一月二日と刻まれている。庚申は中国の道教から起り仏教の青面金剛、帝釈天などの信仰 と混合したもの神道では猿田彦神を祭る。平安時代に伝わり江戸時代に盛んになった。









関連項目

宮村町の千蔵寺
麻布御殿














◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆








41.乃木希典(その1)
ニッカ池畔にあった
乃木将軍産湯の井戸
ニッカ池畔の乃木将軍と辻占売り少年像
(現乃木神社蔵)
乃木将軍と辻占売り少年像
乃木神社に移設された像
乃木神社に移設された像
乃木大将生誕の地碑
乃木大将生誕の地碑


嘉永2年(1849年)11月11日の正午頃、麻布日ケ窪の長府藩毛利邸の長屋で一人の赤ん坊が産声をあげた。父は馬廻役の乃木十郎希次、母は寿子、赤ん坊は二人にとって3人目の子供であった。しかし前の二人は早世していたため事実上の長男となった。無人(なきひと)と名づけられたその子は、虚弱な体質で次に生まれた妹のキネにさえよく泣かされた。しかし六才下の弟真人(まひと、後に正誼)は、兄と違い 生まれつき体も大きく腕白で気性も激しかったので、父の希次は長男無人のひ弱さに頭をいため、真人の将来に期待した。
乃木親子が住んでいた長屋は、かつて赤穂浪士が討ち入りの後預けられ切腹までの約50日を過ごした場所でもあったので、ひ弱な無人に 父は、その切腹の様子などを語り武士としての度胸付けに力を注いだと言われる。また月に3度は藩の菩提寺でもある高輪の泉岳寺に参拝し、赤穂浪士の武士道精神を教え込んだ。
乃木の家は、元は藩医であったが希次が幼少の頃から剛直で武勇を好み武術、武家礼法に長じていたため藩主元義公に認められ武士として 取り立てられた。そして藩邸で礼法師範に取り立てられ毛利元運公の息女、銀姫の守り役にも抜擢された。しかし真人の下に次女のイネが誕生してまもなくの安政5年(1858年)11月、希次が華奢文弱な藩政を諌める建白書を家老に提出したため藩主の怒りを買い減封の上、長府へ国詰として左遷されてしまった。
江戸から長府(現下関市)までの長旅は、筆舌につくせない苛酷なものであった。一家に奉公人の長助を加えた一行は、夫妻と無人、長助らは徒歩で一日30キロを歩き、幼い真人、イネは駕籠をつかった。(この時、7歳の長女キネはすでに他家の養女になっていた。)この時希次は死を覚悟していたといわれるが、約1ヶ月かかってついに大阪に着き、そこから船で長府に近い外浦海岸にむかい、到着したのは12月中旬であった。


写真は、日ケ窪旧萩藩邸内、通称「ニッカ池」の傍に残されていた「乃木将軍産湯の井戸」。

そして、やはり池畔にあった「乃木将軍と辻占売り少年の像」。傍らの建設由来記を要約すると、明治24年の初春、乃木将軍が少将で名古屋の歩兵第5旅団長時代、軍の用務で金沢に出張の折、当時8歳の今越清三郎少年と偶然出会い、8歳にして辻占を売って悲運の一家を支えていた今越少年をやさしく慰め、金弐円をあたえ激励した。この事を今越少年は長じても忘れることなく、苦難を切り開き金箔師として滋賀県の無形文化財に指定されるまでになった。この像が出来た昭和43年当時、今越清三郎氏は84歳で存命中であった。

最後は北日ヶ窪児童遊園に建立され、現在さくら坂公園に移設された乃木将軍碑。残念ながらこの碑を除いて前の2碑は六本木ヒルズ建設時に撤去されている。

殉死当日の大正元年(1912年)9月13日午前8:50分に自宅前で撮られた、乃木将軍陸軍大将正装の写真が残されている。この後、婦人と共に参内し明治帝の霊柩に永訣した後、病気を理由に帰宅し、午後8時、静子婦人と共に古来の作法に則り切腹、殉死した。











関連記事
・ニッカ池 (赤穂浪士その一)
・ニッカ池 (赤穂浪士その二)
・乃木希典(その2)美人コンテスト
・赤穂浪士の麻布通過














◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆








42.錦絵新聞

錦絵新聞
錦絵新聞
明治初期に「錦絵新聞」というものが、流行った。これは、絵草紙屋が新聞記事の中から、殺人、痴情、美談、怪異などの庶民受けけする 題材を選んで、記事を付けて錦絵に仕立てて販売したもので、現代の写真週刊誌に似た性格のものといえる。「東京日々新聞」、「郵便報知新聞」は代表的な2大紙であり、さしづめフライデ−とフォ−カスといったところか。

写真右は郵便報知新聞9号の麻布区箪笥町で起こった、働きに出た妻の浮気に気づいた亭主が逆上して妻を斬殺して、自らも自害した事件を報じたもの。記事のほうも冷ややかで皮肉な調子。

写真中は郵便報知新聞463号(明治7年9月24日)からで赤坂溜池で起こった話。器量、資質ともに優れた学生中島某が酒色に迷い日々をすごしていたところ、馴染の芸者梅若に意見され、それまでをおおいに反省して以降勉学にいそしむようになったという美談。「泥中の蓮」とこの心根やさしい芸者を称えている。

写真左は「東京日々新聞」967号(明治8年3月24日発行)芝西応寺の米屋仙蔵方へ押し入った強盗2人を、夫唱婦随で退けた、あっぱれな怪力女房おせんの図。しかし別紙新聞によると事実 はかなり異なっていて、このいかにも重そうに担ぎ上げた米俵も実は、空であった。

これらの話を面白くするための誇張も現代の2紙にそっくり!








◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆








43.麻布の私塾、寺子屋、小学校

明治8年6月市兵衛町に設立された、第二中学区第一五番小学麻布学校は麻布区で最古の公立小学校だが、それ以前の教育は、私立の寺子屋、私塾に依存していた。以下は、私塾、寺子屋。




○私塾、寺子屋
名称学科所在地開業廃業教員生徒隆盛期、備考調査年代身分校主、塾主
私塾端 塾漢学谷町嘉永5年明治11年男6名男300名安政明治4年武士林 鶴梁
明霞書院漢学材木町天保4年明治10年男1名男32名慶応明治4年武士宮崎 誠
乾々塾漢学飯倉片町嘉永3年継続男1名男60名、女4名元治明治4年武士岡 壽考
時中堂漢筆本村町明治4年継続男1名男5名、女10名明治4年明治4年平民稲村虎三郎
芙藻館漢学芝森元町明治初年男1名男35名、女7名天保13年明治元年武士服部 元彰
繕生塾西洋医学芝森元町2丁目嘉永5年明治5年男1名男70名明治4年明治5年武士山元 照明
雪丘樓漢学永坂町安政4年慶応3年男1名男20名文久元年慶応3年平民菊地誠一郎
尚白舎漢学永坂町明治3年継続男1名男20名明治4年平民菊地貴一郎
漢学青山裏百人町弘化3年文久2年男1名男20名文久2年武士山井璞輔
六本木男1名男30名、女5名慶応元年武士山村 葆
寺子屋三峡堂読算永坂町弘化三年継続男1名男150名、女135名明治4年平民百瀬為芳
龍昇堂読算芝森元町文化8年継続男?名、女1名男19名、女22名明治4年平民寺田コト
龍嘯堂読算新網町二丁目弘化元年継続男1名、女1名男20名、女25名明治4年平民辻 兵作
三栄堂読算飯倉六丁目文政12年継続男1名、女1名男32名、女20名明治4年平民小暮寅三郎
望雪洞桜田町明治4年明治10年男1名、女1名男75名、女25名明治4年神官佐々木義隆
柳花深慮今井町明治4年明治七年男1名男35名、女15名明治4年早川義道
読算材木町天保3年継続男1名、女1名男38名、女25名明治4年平民早川信成
龍松堂読書新龍土町慶応元年明治7年男1名男30名、女25名明治4年平民小菅重次郎
幼童学所読算飯倉三丁目明治3年明治16年男4名、女3名男127名、女152名明治4年平民吉田東功
三光堂算術網代町明治2年明治6年男1名男31名、女20名明治4年武士神田鐘太郎
読算宮下町弘化2年継続男?名、女1名男80名、女120名慶応3年武士磯 セイ
龍暁堂算術本村町慶応2年明治13年男1名男30名、女23名明治4年中川頂玄
大隈堂宮村町文久2年継続男1名男5名、女5名明治4年武士山本西淳


明治8年6月には、麻布区で最初の小学校である、第二中学区第一五番小学麻布学校が麻布市兵衛町に創立された。続いて明治9年12月には 麻布宮村町に第二中学区第27番南山学校が、明治11年10月には芝森元町に第二中学区第**番飯倉学校が設立された。またその他、学校の統廃合も行われた。明治13年12月にそれまでは、学校の維持、資金調達を各校が独自で行っていたものを麻布区議会が号外議案として麻布区公立学校維持仮条例を議決し、以降各小学校は区の管轄、所有になった。以下は当時の小学校



○小学校
名称所在地創立備考
麻布小学校麻布市兵衛町明治8年6月1日麻布区初の小学校。昭和8年11月麻中小学校と合併し飯倉町に移転。
南山小学校麻布宮村町明治9年12月17日南山小学校の項へ。
飯倉小学校麻布飯倉町明治11年12月28日飯倉小学校のホ−ムペ−ジへ。
三河台小学校麻布三河台町明治35年4月1日大正5年に生徒数が激増し1、2年は2部授業に。昭和10年新校舎に移転。
本村小学校麻布本村町明治35年4月15日創立当時は民家もまばらで児童数も128名であったが、明治38年には600名あまりに達した。このため同年3月に校舎を増築し、翌年高等小学校も併設。大正14年に補助学級、昭和5年に養護学級を設置。
笄小学校麻布笄町明治40年1月12日創立当時、周りは田んぼであったと言われる。大正2年より2年生が2部授業に。さらに大正5年には1、2、3学年が2部授業に。大正11年10月に特別児童促進学級(のち補助学級)を設置。
東町小学校麻布東町大正2年11月14日設立当時の児童数は607名、学級数11。大正12年9月の関東大震災で被害を受け、10月9日まで休校。
麻布高等小学校麻布宮村町明治41年4月1日明治40年の小学校令により新設された。設立当時校舎は無く、三河台小学校に間借りし、明治42年麻中小学校の一部を借りた。その後三河台小学校跡地をへて南山小学校跡に移転。昭和6年に鉄筋コンクリ−ト3階建て新校舎が完成し各小学校に分散していた児童を収容。
麻布新堀小学校麻布本村町明治42年6月21日東京市が細民子弟教育のため市立として創立した小学校。当初、台南小学校と称したが後に絶江小学校と改めた。これは、代用小学校の慈育小学校幹事の絶江宗育氏から起こした名と思われ、この代用小学校の事業を継承したことが伺える。大正15年東京市から麻布区に移管され一般小学校となり麻布新堀尋常小学校と改称した。しかし 本村、東町小学校と接近していたため児童数が減少し昭和7年3月31日に廃校となった。私見ではあるが、元細民子弟の学校であったので、親もあまりこの学校に通わせたがらなかったと思われ、それも廃校になる要因の一つであったと思われる。


明治14年6月文部省は従来の「学区」を廃し、あらたに郡区による学区と改めたので麻布区は1学区となった。明治15年文部省は小学校教則綱領を定め、小学校を初等(3年)、中等(3年)、高等(2年)とした。これを受けて麻布区は臨時区議会で麻布小学校を高等小学校として区内共通とし、併せて初等学科を置いた。中等は、南山と飯倉小学校として、やはり初等学科を付属した。しかしこれにより初等から高等までの間、最低2校、多い児童は3校に通学せねばならなくなり、煩雑さから不就学児童を生み出す要因ともなった。

明治19年4月に小学校令が発布され、中等が廃止されて尋常、高等の2科になった。そしてこの法令により、区町村はすべての学齢児童を 就学させるに足りる尋常小学校の設置を義務づけられたが、麻布区においても尋常小学校の数が絶対的に不足していたので、条例で許された私立の小学校を代用することに決定した。以下はその代用私立小学校(明治27年調査)。




○代用私立小学校
名称所在地教室坪数校庭坪数学科、学級数児童定員(現児童数)教員創立設立者寺子屋当時の名称
宮下小学校麻布宮下町5050尋常(3)、高等(1)198(191)、44(34)3明治7年4月飯塚 せい
小暮小学校麻布飯倉町46.563尋常(2)、高等(1)168(110)、32(30)3明治6年1月小暮寅三郎三栄堂
庭訓小学校芝森元町229尋常(1)110(411明治6年3月寺田 琴龍昇堂
辻 小学校芝北新門前町28.215尋常(1)123(44)1明治6年1月辻 兵作龍嘯堂
山本小学校麻布宮村町2450尋常(2)102(88)2明治6年4月山本西淳大隈堂
三台小学校麻布三河台町2329尋常(1)115(87)2明治10年11月内山真心
谷 小学校麻布箪笥町39.5尋常(2)112(84)2明治18年9月黒崎 信
培根小学校麻布飯倉町4117.1尋常(1)192(74)1明治18年12月吉田東功幼童学所
慈育小学校麻布本村町5412尋常(4)273(273)4明治20年9月絶江宗育(幹事)








◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆








44.赤羽接遇所(外国人旅宿)

現在の飯倉公園付近で、それまで幕府の武芸練習であった神田の講武所所属の空き地約9500uを幕府は安政6年(1859年)3月、外国人の旅宿所に指定し、8月に普請が出来あがった。これは、前年6月にアメリカとの修好通商条約調印を皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を締結したため、各国使節の宿舎が必要となったためである。周囲は黒板塀で囲まれ、黒塗りの表門を入ると、右手に大きな玄関があった。間口10間、奥行き20間の平屋建てでその中央のは長い廊下が設けられていた。万延元年7月23日(1860年)、修好通商条約締結のためプロシア全権公使オイレンブルグの一行はここに滞在し、その交渉の過程では、幕府側全権委員の堀 利煕が閣老との意見の相違から引責自殺し、また幕府の要請から条約協議に通訳として参加したアメリカ公使館書記官のヒュ−スケンが、接遇所からの帰途 中の橋付近で暗殺された。幕府の延引にあい3ヶ月の交渉が終わった12月18日、外国人に対する暴行、暗殺が頻繁に横行していた不安な情勢から使節一行はあわただしく江戸を離れ帰国の途についた。
その後接遇所は、文久元年5月11日(1861年)から10月16日まで再来日したシ−ボルト父子の宿所となり、幕府の外交顧問として東禅寺襲撃事件の事後処理を閣老に進言した。










◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆








45.麻布市兵衛町の静寛院宮(皇女和宮)

明治10年9月2日、箱根塔の沢の旅館環翠楼で、脚気の湯治療養のために滞在していた一人の麻布市兵衛町に邸宅をかまえる女性が、心臓の発作でこの世を去った。女性の名は静寛院宮。元の名を和宮といった。享年32歳。和宮は弘化3年(1846年)潤5月10日に仁考天皇の皇女として母方の実家で権大納言の橋本実久の邸内で生まれた。が父仁考天皇は和宮か生まれる年の正月に崩御し、その後に兄の孝明天皇が即位した。誕生から七夜の潤5月16日に命名の儀が行われ孝明天皇より「和宮」という名を賜った。先例では、命名の後産後の忌開けを待って宮中に帰還されるのだが、宮中の都合からその後も外祖父の実久に養育され桂宮邸に移居するまでの14年間を過ごす事になる。嘉永4年(1851年)6歳を迎えた和宮に兄、孝明天皇の言いつけによりその時17歳の有栖川熾親王と結婚の内約を結んだ。そして安政6年(1859年)和宮が14歳になると来年、有栖川家に入輿することが決められ、その準備のため桂宮邸に移居し平穏な日々を送った。しかし万延元年(1860年)突如として幕府より将軍家茂の夫人に皇女を迎えようという動きが論議されるようになり当初、和宮の姉の敏宮、今上天皇の皇女、富貴宮そして和宮の名が噂されたがその年齢の近さ(家茂と和宮は同年同月生まれ。)などから次第に和宮の名が囁かれるようになった。そして幕府は4月1日、老中連署による奉書を所司代酒井忠義に送り、和宮降嫁の内請を関白九条尚忠に申し入れることを命じた。最初内奏をためらった九条尚忠も幕府からの度重なる催促により5月1日、孝明天皇に奏上した。天皇は不快に思いながらも、公武一和を目的としたこの縁組を拒絶した場合の影響を考え、苦慮した。しかし結局幕府の内願を謝絶することに決し、5月4日九条尚忠を通じて幕府に伝達した。この時謝絶の理由としてあげたのが、

・和宮は、すでに有栖川宮との婚約が成立しているので、破談にしては名義にもとる。
・和宮は、先帝の皇女でしかも妹宮なので、天皇の思召のままになしえない。
・和宮は、関東に異人が来集するので恐怖している。

の3点であった。そして幕府の朝廷への弾圧(前年の安政の大獄のような)を憂慮し、謝絶は幕府に対する隔心によるものでは無いとの思召を附言した。
しかしその後も執拗に奉書を奏上し、反対派朝臣への弾圧も行ったため、天皇は岩倉具視などの建言により、攘夷、鎖国の復旧などを条件に降嫁問題の交渉を開始した。そして和宮の固辞、寿万宮の代替、公家らの暗躍などの紆余曲折を繰り返したのち、10月18日降嫁の勅許が出され、文久元年(1861年)10月20日1856人の大行列で中仙道を関東下向が始まった。
11月15日に江戸入りし九段の清水家に到着、12月11日に江戸城本丸の大奥にはいり、翌文久2年将軍家茂と婚儀をあげた。
当初、宮中と大奥の作法の違い、侍女の待遇などから天璋院との確執が噂されたが和宮側の配慮によりしだいに沈静化され、 そして家茂ともしだいに睦まじくなった。しかし平穏は長くは続かず4年後の慶応2年7月20日、第2次長州征伐で大阪城に滞陣していた家茂が21歳で死去した。7月初め江戸に家茂重態の知らせが届くと、和宮は自ら塩断ちの上、お百度参りを行い、また諸社寺に祈祷せしめ、病気の快癒を祈ったが崩御の知らせが届いた7月25日、髪を落し仏門に入る決心をして、その髪の一端を自筆の阿弥陀仏の名号と共に、大阪 に送り、家茂の棺におさめて冥福を祈った。遺骸が大阪から戻り、増上寺に葬られるた後、12月9日には薙髪(ちはつ)の儀式を行い天皇 より賜った「静寛院」を名乗る事になり無き夫の菩提を弔った。
その後、鳥羽伏見の戦いに端を発した幕府の瓦解時には、一命を賭して徳川家の存続を天皇に嘆願し、棔家の家名を守った。この時江戸攻めの総大将は、昔の許婚である有栖川熾親王が東征大総督として参戦していた。和宮の心中は、どのようなものであったのだろう。
そして江戸が東京と改まった明治2年(1869年)正月11日、結婚以来始めての里帰りのため京都へ向かい明治7年までを京都で過ごす。この時は京都を永住の地と定め安住したが、明治5年4月には皇后も東京に移り、その後の天皇の勧めもあり 明治7年7月8日再び東京に戻りかねてから用意されていた麻布市兵衛町に居を定める。麻布での生活は歌道、雅楽などの芸道を楽しみ、天皇の近親(明治天皇の伯母にあたる)として厚遇され天皇、皇后、皇太后の和宮邸訪問も再三行われた。また家茂の未亡人として徳川一門 の親睦にも配慮し家達、天璋院などをしばしば招待したと言う。やっと平穏な暮らしを手に入れた和宮も明治10年8月に脚気をわずらい、侍医の勧めによって箱根塔の沢に湯治に向かい、麻布邸に戻る事は二度と無かった。和宮の死後遺骸は遺言により夫家茂の墓と並んで葬られ法号は「好誉和順貞恭大姉」。
蛇足になるが、麻布市兵衛町の和宮邸と麻布盛岡町の有栖川邸は、地理的にはそう遠くはないが、時代的には合致せず二人とも同時期に麻布に住んだという事実は無い。しかし有栖川熾親王は明治7年霞ヶ関近辺に邸宅を構えていたのでやはり距離的には相当近く、昔話などをしていれば良いと思うのは、私だけだろうか。










◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆








46.麻布の軍関係施設

麻布近辺には、軍関係の施設が比較的多くあった。これは海岸線が近かったためと、薩長閥の影響から(薩摩、長州ともに麻布近辺に屋敷があった。)?と思われる。飯倉片町に水交社、飯倉に海軍観象台(後の東京天文台)、赤羽橋の有馬藩邸跡に海軍造兵廠、竜土町の歩兵第三連隊、桧町の歩兵第一連隊、赤坂、青山辺の近衛歩兵第三連隊、歩兵第一旅団司令部、第二旅団司令部、近衛歩兵第四連隊、近衛歩兵第二旅団司令部、青山練兵場、海軍大学など枚挙に暇が無い。そして森元町近辺には、日清戦争時の連合艦隊司令長官「伊藤祐亨」、海軍卿の「川村純義」、陸軍出身の総理「小磯国昭」、真珠湾攻撃・ミッドウエ−海戦の指揮官「南雲忠一」などの将軍達が居住していた。





◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆




47.麻布近辺の古代遺跡

古代の麻布近辺では標高5メ-トル以下の土地は、東京湾の入り江であったと思われ、縄文時代には水辺の豊富な海産物が採集しやすい麻布の高台近辺に多くの遺跡、出土物が集中している。しかし弥生期や古墳時代の遺跡は少なく、これは麻布近辺が水田耕作に適さなかったためと思われる。以下はその主な遺跡。

時代名称、所在地備考
縄文時代西新橋1丁目(旧桜田本郷町)古くからの伝承によるが、標高が5メ-トル以下であるため古代は海面下であったと思われ、真偽は定かではない。
  虎ノ門5丁目10番縄文時代の貝塚で、前期関山式土器、後期の土器が出土。
 丸山貝塚(芝公園内)古墳の東南斜面に散在。後期安行T式土器も出土。
 芝公園4丁目2番東京タワ−の西端、旧紅葉館敷地跡あたりとされるが、現在は場所の特定が出来ず、謎。土器、手斧などが採集されたと言われる。
 伊皿子貝塚(三田3丁目、旧三井邸内)永く謎とされてきた貝塚だが、工事(NTT社屋の建設)によりかまど跡、土器が多く出土。
 高輪1丁目24番打製石斧が出土した記録があるが、現在は詳細不明。
 白金台1丁目(明治学院内)加曽利E式土器が出土したが、現在は消滅。
 白金台5丁目(自然教育園内)縄文土器、石斧が出土したといわれるが、詳細不明。
 白金6丁目(神応小学校内)石器が出土したと伝えられるが、詳細不明。
 麻布台2丁目3番(熊野神社境内)加曽利B式、安行T式土器が出土。
 旧三河台町、福岡氏邸内縄文土器が出土したと言われるが、詳細不明。
 旧麻布桜田町、鈴木氏邸内貝塚、石斧が出土したが、詳細不明。
 西麻布交差点打製石斧が出土、詳細不明。
 西麻布1丁目付近打製石斧が出土と言われるが、詳細不明。
 西麻布3丁目21番(鳥居氏邸内)考古学者である氏の邸内から中期縄文土器の”厚手土器”が出土。
 西麻布1丁目、3丁目縄文土器が出土したと言われるが、詳細不明。
 元麻布2丁目3番(麻布学園裏)縄文後期の貝塚。堀の内、加曽利B式が出土。
 西麻布2丁目(笄坂上)縄文土器が出土。詳細不明。
 元麻布2丁目10番(がま池付近)厚手土器が出土。詳細不明。
 南麻布3丁目1番縄文中期の厚手土器が出土。詳細不明。
 本村町貝塚(南麻布3丁目8番、11番)港区で最大級の縄文貝塚。諸磯式土器、黒浜式土器が出土。
 南麻布5丁目5番(旧盛岡町南部坂)打製石斧が発見されたと言われるが、詳細不明。
 元麻布1丁目6番(麻布山善福寺)イチョウ付近、台地の住宅地から磨製石斧が出土。
 元麻布1丁目3番(旧一本松町24番地)未完成の石器などが出土。近辺の石器の製作所跡との説も。
弥生時代芝公園4丁目大正時代に朱塗りの土器が出土。詳細不明。
 三田4丁目(亀塚公園)公園付近から弥生式土器が多く出土。
 青山墓地内長頸壺形土器が出土。詳細不明。
古墳時代亀塚古墳現在は著しく本来の形を損なっているとされ、帆立式古墳、前方後円墳の可能性も?
 丸山古墳群丸山と呼ばれる前方後円墳の西に約10基の小円墳が点在したが、芝ゴルフ場になり小円墳は現存しない。
 西麻布(笄町)詳細不明。
 六本木5丁目(北日ケ窪)詳細不明。
 南麻布5丁目(有栖川公園)詳細不明。
 赤坂6丁目(赤坂氷川神社内)詳細不明。







◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆








48.幕末、麻布近辺の外国施設。

幕末麻布近辺(芝、三田も含めて)は外国施設が多かった。これは後に「港区」と呼ばれるように、海が近かったため品川などに停泊している自国の船(軍艦など)に有事の際に移動するために便利であり、なおかつ江戸城にも程近かったためと思われる。現在も大使館などが数多く存在するが、震災、火事などの災害を考え、建物の密集した都心よりやや郊外のおもむきの残る麻布近辺が安全と考えたためとも思われる。以下は幕末における麻布近辺の外国施設。


名称所在地開館備考
アメリカ公使館麻布、麻布山善福寺安政6年6月8日(1859年)公使ハリスが本堂を住居とし公使館を設置。通訳ヒュ−スケンが、暗殺される。
イギリス公使館高輪、仏日山東禅寺安政6年公使オ−ルコックが滞在。襲撃事件2回。通訳伝吉の殺害。
フランス公使館三田台、済海寺安政6年8月26日公使ベルク−ル、全権公使ロッシュが滞在。
オランダ、ロシア、フランス使節の宿館芝愛宕、真福寺安政5年〜プチャ−チン(ロシア)、グロ−(フランス)、クルチウス(オランダ)などが滞在。
オランダ公使館芝、西応寺安政5年7月公使クルチウスが滞在。イギリス人エルジン伯も一時滞在。余談だが記憶が正しければ、このお寺の娘さんは中学の同級生である。
プロシア公使館麻布本村、春桃院慶応元年(1865年)4月神奈川領事フォン・ブラントが江戸滞在に使用。
ロシア使節宿舎三田小山町、天暁院安政6年7月21日通商条約批准の際、函館領事ゴシケビッチ、ムラビヨフが滞在。イタリア使節も使用。現存せず。
オランダ公館芝伊皿子、長応寺明治35年寺が北海道に移転し現存せず。
イギリス公使館高輪、泉岳寺慶応元年(1865年)公使パ−クスが滞在。隣接して外国人接遇所もあった。
フランス公館三田台、正泉寺安政6年11月22日フランス総領事館通弁ジュ−ルが居住。スイス総領事リンドウ、イギリスのア−ネスト・サトウも使用。明治43年目黒区碑文谷に移転。
フランス付属宿舎三田台、大増寺安政〜幕府外国奉行と代理公使ベルク−ルが会談。
フランス副領事宿舎三田台、実相寺安政6年12月15日副領事メルロが居館として使用。
アメリカ代理公使宿舎三田北寺町、大松寺慶応2年6月11日代理公使ポ−トマンの専用宿舎。







◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆








49.麻布近辺の縁日

寺社の多い麻布近辺は開帳、縁日がありその中で一番有名なのは、有馬の水天宮であったと思われる。明治になり水天宮が移転した後も各所で縁日は開かれた。私が子供の頃麻布十番では、5の日、9の日に開かれていて、9の日の縁日は細々と現在も行われている様だ。
以下は、港区史に掲載されていた昭和初期ころと思われる縁日の日取り。

名称、(町名)
一日金刀毘羅宮(芝琴平町)、烏森神社(芝新橋3丁目)、正伝寺(芝金杉)、大久保寺(白金三光町)、七面天(麻布十番)、浄土地蔵(赤坂一ツ木)
二日汐見地蔵尊(伊皿子大円寺)、日比谷神社(芝口)、新堀不動尊(新堀町)、秋葉神社(麻布飯倉)、種徳寺薬師堂(赤坂台町)
三日久国稲荷(麻布谷町)、梅窓院観音(赤坂青山南町)
四日鬼門除地蔵(芝三田)
五日烏森神社(芝新橋3丁目)、祥雲寺不動(麻布広尾)
六日新堀不動尊(新堀町)、六地蔵(豊岡町)、浄土寺地蔵(赤坂一ツ木)
七日大神宮(神明町)、六本木観音(六本木)、弘法大師(飯倉)、鷲の森地蔵(麻布四ノ橋)
八日愛宕薬師(愛宕)、福昌寺(伊皿子)、鬼子母神(麻布霞町)、善光寺(青山北町)
九日雷神山(白金三光町)、春日神社(三田)、宇田川不動(芝宇田川町)、久国稲荷(麻布谷町)、七面天(麻布十番)、豊川稲荷(赤坂表町)
十日金刀毘羅神社(虎ノ門)
十一日烏森神社(新橋)、浄土寺地蔵(赤坂一ツ木)
十二日大円寺(伊皿子)、愛宕薬師(愛宕)
十三日久国稲荷(谷町)
十四日鬼門除地蔵(三田)、善光寺(青山北町)
十五日烏森神社(新橋)、高野山別院(高輪二本榎)、祥雲寺不動(広尾)
十六日新堀不動(新堀町)、豊岡地蔵(豊岡町)、浄土寺地蔵(赤坂一ツ木)
十七日大神宮(神明町)、六本木観音(六本木)、梅窓院(青山南町)、荒川不動(西久保巴町)
十八日鬼子母神(霞町)
十九日宇田川不動(芝宇田川町)、雷神山(三光町)、久国稲荷(谷町)、七面天(麻布十番)
二十日円山稲荷(二本榎)、金刀毘羅神社(琴平町)
二一日浄土寺地蔵(赤坂一ツ木)、鷲の森神社(四の橋)
二二日大円寺地蔵(伊皿子)、桜田神社(麻布桜田町)、種徳寺薬師堂(赤坂台町)
二三日大久保寺(三光町)、久国稲荷(谷町)、梅窓院観音(青山南町)
二四日鬼門除地蔵(三田)、覚林寺(芝)、愛宕神社(愛宕)
二五日烏森神社(新橋)、広尾稲荷(広尾)、祥雲寺不動(広尾)
二六日新堀不動(新堀)、六地蔵(豊岡町)、浄土寺地蔵(赤坂一ツ木)
二七日大神宮(神明)、六本木観音(六本木)、善光寺(青山北町)
二八日鬼子母神(霞町)、荒川不動(西久保巴町)
二九日久国稲荷(谷町)、梅窓院(青山南町)、雷神山(三光町)
三十日七面天(麻布十番)
子の日宇田川不動(芝宇田川)、清正公(白金)
寅の日大法寺(一本松)
申の日正伝寺(金杉)、天現寺(広尾)
庚申の日常照寺(高輪)








◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆








50.東麻布商店街の「かかしまつり」

10/3の朝刊に「ユ−モラスかかしまつり」という見出しで東麻布のおまつりが紹介されていた。私もまったく知らなかった おまつりで記事によると、1974年からの恒例行事で今年24回目との事。当時東北地方からの住み込み従業員が多く、盆、正月 しか帰省できない彼らを励ますために企画されたのが始まりといわれる。「麻布い−すと通り」のほぼ中央に設けられた「かかし 展示場には商店会や飯倉保育園の園児が造ったユ−モラスな「かかし」が30点ほど設置されていて、”今”を反映してポケモン のかかしなどもあり目を楽しませてくれた。かかしの他にカラオケ大会や交流のある山形県舟形町の物産展なども行われ10/2には 数千人の区民でにぎわったと新聞にはあるが私が訪れた時、見物人は私一人であった。(^^;

















← むかし、むかし2へむかし、むかし3むかし、むかし4へ →


◆◆−むかし、むかし3 Topに戻る−◆◆−むかし、むかし 目次に戻る−◆◆−DEEP AZABU Top に戻る−◆◆

◆◆−Topページ以外から来られた方はこちらからどうぞ!−◆◆



Contents of
    むかし、むかし
むかし、むかし. 3

Contents of
    むかし、むかし3