有栖川宮記念公園
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新聞少年像
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カルガモの親子2010年5月
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カルガモの親子 2010年5月
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正式な名称を「有栖川宮記念公園」と言い、昭和9年1月5日高松宮宣仁親王より東京市に下賜され2月に工事が始まり、同年11月17日に開園式が行われた。その広さは10,988坪2合、総工費86,500円あまりで開園当初、敷地内に東京郷土資料仮陳列館も併設されていた。
今は南麻布5丁目だが私の小さい頃、このあたりは盛岡町と言う町名であった。これは公園を含めたこのあたりが南部盛岡藩20万石の
下屋敷があったため。盛岡藩はこの他、上屋敷を外桜田に中屋敷を鉄砲州、築地、愛宕下、三田寺町、木挽町、大崎等に、抱屋敷を大崎、上目黒に、蔵屋敷を芝田町、深川佐賀町に持っていた。上屋敷は江戸初期には幸橋にあり慶長17年(1612年)将軍秀忠も臨邸した。が正保5年(1648年)に上地し、従来中屋敷であった外桜田に移った。当初下屋敷も赤坂氷川神社付近にあり、屋敷に隣接した坂を”南部坂”と呼んだ。正保2年(1645年)、芸州浅野家の分家で笠間藩(のち播州赤穂に転封)浅野内匠頭守麻布下屋敷と相対替(等価交換)することになり、浅野は赤坂へ、南部は麻布へと。約50年後の元禄15年(1702年)大石内蔵助は赤坂の南部坂で「南部坂雪の別れ」をするが、相対替がなければ麻布が舞台になっていた。この時南部家は麻布に移っているが、坂名だけは残っていた。
盛岡藩(維新時は白石藩と改称)最後の藩主甲斐守利恭は廃藩置県によりこの敷地を手放し、2,3の手を経て明治29年有栖川熾仁親王の邸宅になる。この間、明治4年(廃藩置県)から29年の事はわからないが明治初期麻布は、大名屋敷跡地でお茶、桑の栽培や酪農、放牧が奨励されていたらしい(桑茶令)ので、ここで行われていてもおかしくはない。(後年、これらの事業は失敗し、撤退しているが維新後膨大な数の
大名屋敷が主を失い荒れ地となったので、行政側も苦慮したらしい。)
自ら志願して東征大総督となった(許婚皇女和宮が公武合体政策により将軍家茂正室となった事による?)有栖川熾仁親王は明治元年4月21日、江戸城に入った。その後麻布に来るまで神田小川町(明治2年4月)、
数寄屋橋(明治3年1月17日)、日比谷(同年12月3日)、芝(明治4年3月22日)、霞ヶ関(同年8月22日)、麹町を経て明治29年麻布盛岡町の屋敷に落ち着いた。しかし、この時すでに熾仁親王は逝去し弟の威仁親王の代となっていた。そして跡取りの栽仁王は早世し、その後威仁親王も病により大正12年7月5日逝去したので有栖川宮家は廃絶となった。が大正天皇はそれを惜しみ、第三皇子光宮宣仁親王に有栖川宮の旧称高松宮を名乗らせて祭祁を継がせた。(高松宮妃殿下は徳川慶喜の孫でその母は、有栖川宮家であった。)
公園の南部坂上広場にある「熾仁親王騎馬銅像」は、千代田区三宅坂の旧陸軍参謀本部(現在の国会前庭洋式庭園)にあったもので、1962(昭和37)年・東京オリンピックに伴う道路拡張
のため有栖川公園広場に台座ごと移された。この銅像は1903(明治36)年10月10日に、大山巌、山県有朋らが発起人になり陸軍砲兵工廠で建設され陸軍参謀本部の庭に設置された。
この像を製作したのは、ラグ−サお玉の夫ベンチェンッツオ・ラグ−サに師事し、ロ−マ美術学校を1888年に卒業し、
日本で初めての本格的な銅像、靖国神社「大村益次郎像」などを作成した彫刻家の大熊氏広である。また大熊氏広は工部美術学校を卒業したのち
現在有栖川公園となっている場所に計画された有栖川親王邸の新築工事の設計に加わる。この邸宅はイギリスの建築家コンドルの設計によるフランス・ルネサンス様式を用いた純洋風のもので、氏広は舞踏室の柱の和楽器類の彫刻と車寄せの前飾りの彫刻などを受け持った。
東京都の管轄だった有栖川公園も、昭和50年4月1日港区に移管された。そして区立麻布テニスコ−ト、同麻布野球場を公園区域に編入し
都立中央図書館施設を含めると総面積67,560uとなり港区立の公園としては、最大の物となった。
周辺には、愛育病院、麻布高校、ドイツ大使館、自治大学などがあり自治大学近辺は終戦まで海軍の監獄があった。また公園に隣接するロ−ン・テニス・クラブは現天皇陛下が結婚前に美智子妃殿下とデ−トされたと言う。
1975(昭和50)年それまで東京都が管理していた公園は港区へ移管された。私が小学生の頃、写生や、屋外授業でたびたび訪れ、また友達と釣りや虫捕りにもよく通ったが当時は都立公園で池での釣りは禁止されていたので
頻繁に公園の管理員が巡回して釣りをしている子供などは追い払われた。しかし管理員の姿が見えなくなると懲りずに、釣りをしていた私にとって思いで深い公園である。
<関連項目>
・ラグ−サ・お玉
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