むかし、むかし6
むかし、むかし1「14.浅布原の首塚」で”関ケ原の戦いで討ち取られた首は〜慶長5年8月28日〜浅布(麻布)原に首塚を築き”と書いたが、関ケ原の戦いは慶長5年(1600年)9月15日に行われた大会戦であり8月28日に首があるはずが無い。そして9月15日には家康は関ケ原に布陣していたので、江戸で法要を営む事など出来る筈も無く、疑問が生じ、この期間の家康の所在を調べてみた。(青字は家康江戸在府)
- 慶長5年(1600年)7月21日
- 家康会津征伐のため江戸を立つ。
- 7月24日
- 家康小山着陣。翌日、諸将を集めて上方の異変を告げ、軍議する。
- 7月28日
- 諸将小山を陣払いし、西征の途につく。
- 7月29日
- 石田三成、近江佐和山より伏見に到着。
- 8月1日
- 西軍伏見城を陥落。城将鳥居元忠、松平家忠ら戦死。
- 8月4日
- 家康小山より江戸に戻る。
- 8月10日
- 石田三成、美濃大垣城に入る。
- 8月20日
- 石田三成、島津惟新の兵をして美濃墨股城を守らせる。
- 8月22日
- 福島正則、池田輝政ら木曽川を渡り竹ヶ鼻城を落とし、岐阜城に向う。
- 8月23日
- 福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、
一柳直盛、井伊直政、本多忠勝ら東軍諸将、織田秀信の岐阜城を陥落。- 8月24日
- 徳川秀忠の中仙道軍宇都宮を発し信濃に向う。
- 東軍東海道先発隊、赤坂の高台を占領。大垣城に対峙する。
- 8月25日
- 西軍毛利秀元、伊勢安濃津城を攻落する。
- 8月26日
- 石田三成美濃大垣より近江佐和山に帰る。
- 9月1日
- 家康兵3万を率いて江戸を進発。
- 9月2日
- 西軍大谷吉継、越前より美濃に入る。
- 9月3日
- 家康、小田原着。秀忠、小諸到着。
- 9月4日
- 家康、三島着。
- 9月5日
- 家康、駿河清見関着。
- 9月6日
- 家康、駿河島田着。
- 9月7日
- 家康、遠江中泉着。
- 西軍毛利秀元、吉川広家美濃入り。
- 9月8日
- 家康、遠江白須賀着。小早川秀秋の使者が家康の宿陣を訪問。
- 9月9日
- 家康、三河岡崎着。
- 9月10日
- 家康、尾張熱田に着。秀忠、上田城攻めを中止する。
- 9月11日
- 家康清洲城着。秀忠美濃に向う。
- 9月13日
- 家康、岐阜着。先鋒の諸将、来謁する。
- 9月14日
- 家康、岐阜を発し正午ころ赤坂に到着。
- 9月15日
- 美濃関ケ原において大会戦、東軍が勝利をおさめる。
このように家康が江戸に居たのは8月4日〜9月1日までであり、9月15日以降家康は大阪に向い江戸に帰ったのは翌年の11月である。関ケ原の首実験は確かに行われていたが、場所は当の関ケ原で、麻布ではない。それでは、麻布の首塚とは?
もう一度「武徳安民記」を見なおすと、
「慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八−−中略−−を大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院忠義に命じ供養せしむ」とある。
う−ん!「八月二十八日岐阜より使節参着して.....」の部分を見落としていました。このあたりで1,000以上の首か落ちるような戦いは、一つしかありません。それは、8月23日に行われた岐阜城攻めである。
この戦いは関ケ原大会戦の前哨戦とも言える物で、織田信長の嫡男秀信の守る岐阜城を福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、一柳直盛、井伊直政、本多忠勝ら東軍諸将が攻撃し陥落させた戦いであった。
8月23日正面の追手口を福島正則が、搦め手から池田輝政が攻撃を開始し本丸めざした。しかし先鋒の福島隊は七曲口の激戦で進撃を阻まれ、その間に搦め手の池田隊が本丸に突入し城は陥落し、城主織田秀信は剃髪して高野山に向った。この時、織田側で最後まで生き残ったのは、側近の者数十名を数えるのみであったという。
前日から先陣争いで仲たがいしていた福島正則、池田輝政であったが事を憂慮した軍監の井伊、本多によって岐阜城攻めの先陣は両将同時入城という判定を下し、事無きを得た。
そしてこの戦いは、小山から江戸に戻った家康が東軍の秀吉子飼の諸将への「踏み絵」的な要素も持っていた。家康は、この戦いで先を争って手柄をたて、首をわざわざ江戸まで送って来た秀吉子飼の東軍諸将にやっと安心して9月1日に江戸を発することが出来た。(家康は西軍諸将に裏切りの催促の手紙をこの時期乱発したが、自らも東軍の裏切りを最も恐れた。)
この後も首は続々と送られてきた様で、9月1日江戸城を発しようと桜田門まで来ると、美濃の軍監からの使者に行き会い首を見参にいれたいとの事で、芝増上寺門前に首桶のまま並べて行軍を休止して実験したという。
麻布原の首塚はそのほとんどが織田秀信家臣のものであると思われ、またこの戦いは前記のように関ケ原の戦いの前哨戦の意味も持つが やはり、9月15日の大会戦とは、はっきりと区別して「岐阜城攻め」としたほうが良いと思われる。そして、合戦から399年を経た現在も、麻布原の首塚は発見されておらず、元の麻布氷川神社近辺とも、西町近辺とも言われる塚の所在の謎は、闇の中へ.......。
<関連項目>
・一本松
・浅布原の首塚
・続、続麻布原の首塚
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大正5年(1916年)7月8日、55日間の船旅を経て3年ぶりにパリから帰った島崎藤村は、芝区二本榎西町3の留守宅に入った。しかし帰国してみると次兄夫妻に預けてあった2児とその留守宅の窮状は目も当てられぬほどだったという。藤村はまず次兄夫妻を下谷の根津宮永町に移し、小諸で揮毫領布会を催して金策に走り、早稲田、慶応の講師となって近代フランス文学を講じ、また「故国にかえりて」、「海へ」、童話77編からなる「幼きものに」を刊行、外遊の負債と次兄の儀侠的行動から起きた経済的破綻の改善に努めた。
大正6年6月1日、藤村は芝区西久保桜川町2番地の高等下宿「風流館」に移った。ここで藤村は奥の離れ二間を借りてパリのマンション生活を偲びつつ「海へ」の続編と「桜の実の熟する時」を執筆した。そして大正7年10月27日藤村は、麻布区飯倉片町33に再び転居した。
ここは、天文台近くに住んでいたパリでの生活を偲んで、東京天文台の傍の住居を「風流館」若林又市などに依頼して、探し当ててもらった住まいであった。鼬坂を下りかけたあたりにあった貸家で、藤村いわく「どこへ用達に出掛けるにも坂を上がつたり下がつたりしなければならばい」谷間のような所であった。さらに「郵便局へ2町。湯屋へ2町。行きつけの床屋へも56町ある」とも書き残している。また後に大作の「夜明け前」、地名を冠した「飯倉だより」、童話集「ふるさと おさなものがたり」、「大東京繁盛記」の中で「飯倉付近」を書いてこの地への愛着を披露した。そしてこの地で藤村は47歳から65歳の18年間を過ごし、生涯の中で最も長く住むことになる家であった。
表題の鼬坂とは「近代沿革図集」によると植木坂、鼠(ねずみ)坂の別名との事。これは江戸時代から呼ばれていた名で、池波正太郎の小説鬼平犯科帳の「麻布ねずみ坂(三)」にも、ねずみ坂として登場する。
<関連項目>
・スペイン村(和朗フラット)
・狸穴の古洞
・楠本イネの住んだ麻布
・鬼平犯科帳の麻布近辺
・外務省外交資料館
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85.円生の見た麻布
終戦で満州から引き上げてきた六代目三遊亭円生はすぐさま落語界に復帰し、神田「立花」で独宴会を催した。が、客の入りはあまりぱっとせず、その後しばらく独宴会を中止していた。しかし昭和28年(1953年)12月、麻布十番の「十番倶楽部」で催した独宴会が復帰後初めて大盛況となり、その後の独宴会の布石となった。そして、この記念すべき独宴会の出し物は「三十石」「文七元結」「百川」の3題であった。
戦前から円生は麻布の寄席に出演していた様で、現在の「マヂメヤ洋品店」あたりにあった「福槌亭」は、もと学校?だった建物を使ったひどく頑丈な2階席で、古くて掃除のゆき届いていない薄汚れた席であったと言い、現十番稲荷神社の正面あたりにあった「十番倶楽部」は円生が三語桜協会の頃よく出演し繁盛していた席で、1階が酒屋2階が寄席で、席主の酒屋(十番わがふるさとによると屋号は「鶴屋酒店」)が当時発売していた「新進」と言う名の合成酒の宣伝を噺のまくらの中に取り入れることを頼まれたという。
一の橋の「一ノ亭」はもと講釈師の神田山陽が席主で元は講釈の席であったが、落語色物席になった時に、円生は席主の神田山陽と共に山元町の花柳界に挨拶回りをしたと言う。
六本木の「第二金沢」は京橋金沢亭の席主が経営した支店で、だだっぴろい席であった。普段は客もまばらな端席(はせき)であったが、関東大震災で残ったため、震災直後は満員になったという。
その他にも、笄町の「麻布演芸館」、森元町「高砂」、新広尾町「広尾亭」などに出演していた。
また麻布近辺では、白金志田町の「白金演芸館」、愛宕下「恵知十」「琴平亭」、芝宇田川町「川桝亭(三光亭)」、浜松町「小金井亭」、金杉橋「七福亭」、三田「七大黒(春日亭)」、伊皿子「伊皿子亭」などにも出演していた。しかし大部分の寄席はあまり客の入りが良くない端席(はせき)であったと言い、円生の著書「江戸散歩」の中で、麻布は屋敷ばかりで寂しい道が多く、暗くなると行くのが嫌だったと書いている。また同書で噺のまくらに使ったと思われる言い回しをいくつか披露しているので、御紹介。
また、「麻布で黄が知れぬ」(むかし、むかし4の55を参照)の亜流では、
- 「弔いを山谷と聞いて親父ゆき」「弔いを麻布と聞いて人だのみ」
- ・下町の住人にとっては、麻布は大変に遠い所であった様に思えたので面倒くさいため人頼みにした。
と言う表向きの解釈の他に、山谷は吉原に近いため親父は喜んで出かけて行った。という説もある。
- 「繁盛さ狸の穴に人が住み」
- ・??
- 「麻布の祭りを本所で見る」
- ・”手も足も出ない”の意味。
「一本は松だが6本きが知れず」
「から木だか知れず麻布の六本木」
「火事は麻布で木が知れぬ」
「ねっから麻布で気が知れぬ」
「火事は麻布で火が知れぬ」なんてのもあります。
そろそろ、おあとが、よろしいようで..........。
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86.皇族の住んだ麻布付近
1868年(明治元年)天皇が江戸に入り江戸が東京と改まると、明治政府は維新後還俗などにより急に増えた「宮家」を東京に移住させた。幕末までは有栖川宮、桂宮、閑院宮、伏見宮のいわゆる四親王家だけであったが明治期には、華頂宮、山階宮(明治元年)、北白川宮、東伏見宮、梨本宮(明治3年)、久邇宮(明治9年)、賀陽宮(明治25年)、朝香宮、竹田宮、東久邇宮(明治39年)などが新設されていった。
東京での邸宅を構えることになった宮家は、皇族賜邸により3千坪を基準とした邸地を与えられたがその中で、麻布近辺に邸宅を構えたのは(明治〜昭和初期にかけて)、有栖川宮(盛岡町)、静寛院宮[皇女和宮](市兵衛町)、久邇宮(鳥居坂町)、東久邇宮(市兵衛町)、華頂宮(三田台町)、北白川宮(高輪南町)、朝香宮(高輪)、竹田宮(高輪南町)などがある。
これらの中で最も麻布近辺に縁が深いのは、鳥居坂町12番地の久邇宮家であろう。久邇宮家の屋敷は鳥居坂の通りをへだてて両側にあり西側が洋館、東側が和風の屋敷で、もとは井上馨の邸宅であった。そして井上邸であった明治20年4月26日、27日には明治天皇の訪問をうけている。ちょっと話が横道にそれるが、明治天皇はその在位中に幾度も麻布を訪れている。
- ○1875(明治8)年1月31日−−−市兵衛町の静寛院宮邸に皇后陛下と行幸
- 午前11時頃、皇后陛下着。午後1時頃天皇陛下着。夕方6時頃まで滞在。
- ○1876(明治9)年5月5日−−−市兵衛町の静寛院宮邸に皇后陛下と再び行幸
- 正午18分頃より午後12時頃まで滞在。能楽天覧、饗宴。御供奉は岩倉右大臣など。
- ○1881(明治14)年5月9日−−−本村町の公爵、島津忠義邸に行幸
- 午前7時御出門。別邸にて古式の犬追い物、相撲を天覧。本邸にてつつじ観覧後、射術を天覧。御供奉は岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿。
- ○1887(明治20)年4月26日−−−鳥居坂町の外務大臣、井上馨邸に行幸
- 午後1時御出門。演劇を天覧。その後に親王、大臣らに陪食を申し付ける。
- ○1887(明治20)年4月27日−−−鳥居坂町の外務大臣、井上馨邸に皇后陛下と再び行幸
- 皇后陛下と再び演劇を天覧。御供奉は諸大臣。
- ○1889(明治22)年5月25日−−−麻布三連隊を閲兵
- 午前9時半に御出門。将校集合所にて御休息の後に兵士の体操、綱引きなど天覧の上、正午に還幸。
- ○1891(明治24)年2月28日−−−市兵衛町の内大臣、三条実美を見舞うために行幸
- 午前11時10分頃、インフルエンザがら肺炎になり危篤となった三条実美を慰問。還幸後、特旨で正一位を授けるが、同日7時15分に三条実美は永眠。
- ○1891(明治24)年4月5日−−−狸穴町の伯爵、川村純義邸に行幸
- 午後1時半御出門。水雷技術、能楽を天覧。
- ○1901(明治34)年7/7〜1904(明治37)年11/9まで、後に昭和天皇となる迪宮殿下が麻布狸穴町に屋敷を構える川村純義の沼津別邸で養育される。
- 1901(明治34)年4/29に明治天皇の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と節子妃(後の貞明皇后)の第一男子として誕生し同年5/5に称号を迪宮(みちのみや) 名を裕仁(ひろひと)とされる。生後3ヶ月で御養育掛となった枢密顧問官で麻布狸穴町に屋敷を構える川村純義(海軍中将伯爵)沼津別邸に預けられ、川村が逝去する1904(明治37)年 まで養育された。この 川村純義の本邸である麻布狸穴町邸は1882(明治15)年に新築されたジョサイア・コンドル設計によるもので戦後取り壊されて東京アメリカンクラブとなった。
など麻布においての訪暦・養育歴がある。また、
1903年(明治36年)3月6日鳥居坂の久邇宮邸で一人の王女が誕生した。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后となることに。当時、久邇宮邸では男児を東側の和風の屋敷に当主と共に住まわせ、女児は洋館というしきたりがあったが、明治30年頃の地震により損傷を受け、民有地として売却された。その後岩崎小弥太郎邸から現在の国際文化会館と続く。つまり良子姫は東側の和風の屋敷で育った。
久邇宮邸は、明治42年に麹町一番町に移転しさらに、大正8年には再び麻布近辺?の市外渋谷町宮代(現渋谷区広尾)に新邸を構え良子姫は大正13年の御成婚までを過ごした。現在、久邇宮邸の跡地は聖心女子大となっており当時の屋敷は本館の一部と常御殿が現存するという。
ずっと時代は下って、昭和34年に現天皇陛下と御成婚された現皇后陛下はこの大学の旧久邇宮邸で学んだといわれ、「良きことおきる土地」の存在を鈴木博之氏は東京の「地霊(ゲニウス・ロキ)」の中でほのめかしている。
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87.浅田次郎の「霞町物語」
本屋さんで何度も手に取りながら、何故か買うのをためらっていた浅田次郎の「霞町物語」を読んでみた。
内容は、 夕暮れ隧道、青い火花、グッバイ・Dr.ハリー、雛の花、遺影、すいばれ、卒業写真からなる短編で、主人公は全編を通して麻布十番に戦前からある写真館の息子、「伊納くん」である著者自身との事。写真館がフィクションでないとして、昭和初期〜15年頃の十番商店街を「十番わがふるさと」で探したところ、現在たいやきの浪速屋あたりに「清水写真館」、雑色通りに「石井写真館」、セイフ−の前あたりに「ミムラ写真館」、また越ノ湯の隣にも写真館がありこのどれかが浅田次郎氏の生家ということになる。
物語は小学生から高校生までの「伊納くん」のまわりで起こるさまざまな日常を、浅田次郎特有の、ほろっとさせてくれるハートウオーミングな世界で表していて、その中に青山、六本木、赤坂界隈のなつかしい遊び場が数多く登場する。(と言っても、私は世代の相違からかムゲンくらいしか知らなかった。)だが、残念なことに麻布十番についての描写はあまり出てこない。しかし当DEEP AZABU、GuestBook6月16日川口ゆう氏の投稿にある「一昔前の、あの、麻布の山の手の感じ」が存分に楽しめることは間違い無い。 また同年代の麻布近辺を描いた山口瞳氏のご子息、山口正介氏の「麻布新堀竹谷町」と読み比べてみるのもお勧め。
浅田次郎氏の経歴は以下に。
1951年12月13日、東京生まれのA型。駒場東邦中学、中央大学杉並高等学校 を経て、1971年自衛隊第32普通科連隊に入隊。1973年に満期除隊後、さま ざまな職業を転々とするが、1992年に「きんぴか」で小説家としてデビュー。1 995年「地下鉄(メトロ)に乗って」で第16回吉川英治文学新人賞受賞。199 6年「蒼穹の昂」で直木賞候補になり、翌97年「鉄道員(ぽっぽや)」で、第1 17回直木賞受賞。
最後に私が一番面白かった 「卒業写真」の中の言葉を紹介。
「ふるさとは誰かに奪われたのか、それとも僕らが自ら捨てたのか、
いずれにせよあとかたもなく喪われてしまった。
ダムの底に沈んでしまった故郷と、どこも変わりはあるまい。
谷あいの道を、粒子のひとつぶひとつぶがきらめきながら流れて行く霧に目を凝らせば、
まるでおびただしいスチール写真を撒き散らしたように、モノクロームの日々が甦る。
死んでしまったオーティス・レディングのすさんだ歌声とはうらはらに、
僕らは輝かしい青春を、この町で生きた。」
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88.麻布銀行の絵画
昭和初期の十番商店街
(十番わがふるさとより)
昭和初期の麻布銀行 現在の「豆源」脇あたりで昭和の初期頃にあった「麻布銀行」の応接間には、洋画家長野華邦のが描いたアルプス山景の絵画が飾られていた。信州で祖父が城主であった長野華邦はアメリカに渡り絵画学校を皿洗い、窓拭きなどもしながら苦学して卒業し、メキシコに10年住んだ後に帰国した。しかし本場ヨ−ロッパでなくアメリカの画風であったために当時は人気が無く絵もまったく売れないために、その生活は極貧を極めたという。妻も大審院判事の娘であったが夫婦そろって「大酒飲み」で、たまに絵が売れても酒代と消えてしまった。家は家賃が払えないために大家に大半の畳を持って行かれ、残ったのは、大家がお情けで置いていった3畳だけ。たまに友人が遊びにくると新聞紙をひいて座らせたという。しかし性格は温和で、酒を飲まないと人と口も聞けないほど純粋な人物であった。
しかしその純粋さが災いして酒の席で良からぬ連中に騙され、手形詐欺の一味として手形偽造行使の罪名で裁判所に告訴されてしまった。しかし裁判となって法廷に立たされた華邦は気の弱さから一言もしゃべれず、そのあまりに気の弱い様子から裁判長の渡辺照之助は、華邦が一味ではないと見抜いた。そして華邦の弁護人から「被告は気が弱く申し開きが出来ないので、被告の心中を絵画にして披見したい。」という裁判史上前代未聞の申し出がなされると即座に許可した。
次回の公判で華邦が提出した絵は何と!「達磨が切な糞を垂れている」油絵であった。これは華邦が逃げ場もないほどに反省していると言う心持を表したもので、これには裁判長も笑ってしまったという。その後の判決には刑に執行猶予が付き華邦は受牢を免れた。そしてこの一件は「油絵裁判」として永く裁判所でも評判になったという。そしてその後も華邦夫妻は懲りずに大酒のみで在りつづけ、また貧乏とも縁が切れなかったと言われる。
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89.芳川顕正の結婚
栄久山大法寺 事件の「5.芳川伯家婦人心中」で書いた芳川伯とは現在 南山小学校ある内田山に屋敷を構えていた伯爵の芳川顕正である。
芳川顕正は、天保12年(1841年)12月10日に阿波の国(徳島県)麻植郡川田村で原田民部の4男として生まれた。18歳で史・漢・三国史を学び、その後医学を学び文久元年(1861年)医師高橋文昨の長女と結婚、養子となり長崎に遊学、長崎で医学の塾頭をしながら英学を学んだ後に徳島に帰って士籍に取りたてられた。その後藩主、蜂須賀斉裕の命で再び長崎に官費生として戻る。明治元年(1868年)、藩からの召還を拒んで鹿児島に行き、医者をやめ海軍で翻訳に携わり姓も芳川と改めて「越山」と号した。
明治3年(1870年)伊藤博文に従い渡米。帰国後、外務少輔、東京府知事、外務大輔を歴任。その後も内務次官、文部大臣、司法大臣、逓信大臣、内務大臣などを務め、その功績により子爵、後には伯爵を授かる。しかし大正6年3月7日娘「鎌子」の事件により内大臣を辞去。その後も枢密顧問官、皇典講究所長、国学院大学長などを務め、大正9年(1920年)1月10日没した。
この芳川顕正が明治のはじめに大蔵省書記官であった頃、芳川は大蔵省の部下であり最も目をかけていた長尾氏に「美人であれば実家は貧乏でも構わないから省の仕事よりも、早急に妻となる女性を探せ。」と妻の候補探しを命じている。この時、高橋文昨の長女と何故、離別していたのか不明だが、とにかく部下に妻の候補を探させた。
妻の候補探しを命じられた長尾氏は、これを出世の糸口と喜んで引きうけ、まわりの官員達も羨望のまなざしで長尾氏を見つめた。しかし親戚知己、出入り商人などあらゆる所に声をかけたが、なかなか適当な女性が見当たらなかった。日々芳川からの催促が厳しくなり、当初の「出世の糸口」が「首をかけた仕事」に変貌して、やつれ果てた長尾氏が「土地の神様に願をかけてみては?」というの申し出から麻布十番の 大黒様(栄久山大法寺)に日参をした。
満願の日、長尾氏がいつものように大黒様に行ってみると、境内の休み茶屋でお茶を飲んでいる母親と供に座っている美しい娘が目にとまった。これは!と思い近づくと茶屋の婆と親子は懇意な様子で、どうやらしんみりと別れの挨拶をしているところ。元武家の親子は東京での生活が成り立たなくなって「知行地」に都落ちする事を涙ながらに語っていた。この娘なら芳川のめがねに叶うと「つかぬことをお伺い致しますが.....。」と親子に話しかけ、その流れでそれとなく芳川の妻探しを打ち明けると母親は「そう言う方に娘が貰われたら、この上もない出世です。こんな嬉しいお話はありません。」との喜びよう。早速帰って、芳川に話すと「そういう境遇の女なら、かえって良い。妻に申し受けよう。」と話がまとまり、吉日結婚式がとり行われた。その後、長尾氏は肩の荷が下りて「もうこりごり」と言ったというが、その後本当に出世したのかは不明。またこの女性が芳川鎌子の母親にあたるかどうかはわからないと 「幕末明治女百話(下)」は付け加えている。
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90.芳川鎌子のその後
前項芳川顕正の娘、鎌子の情死事件は「事件」の「5.芳川伯家婦人心中」で書いたが事件後の鎌子はどうしたのであろう?
当時、この情死事件は新聞などにより世間の注目の的となり流行歌まで作られた。
当時の風潮は、事件を起こした鎌子が使用人をたぶらかした「悪女」という立場をとったものがほとんどで、中には当時上流階級婦人の間で流行っていたと言う、帝国ホテルで外人男性の取り巻きを連れての「遊び」にふけったなどという記事もあり、一人生き残った鎌子に対する周囲の視線は非常に冷たかった。これとは逆に、この事件により謹慎の意を表し枢密院福議長を辞任する意向の父、芳川伯には同情的で、夫の曽祢寛治も被害者という立場に見られた。しかし、当初は同情的であった世間も、赤坂、新橋の花柳界に入り浸り特に新橋芸者の「栄三郎」へ入れあげて、鎌子を顧みなかったという夫の素行が明るみに出、またあくまでも優等生的な発言を繰り返した寛治の、事件直後の「あれは、人間ではない」と言う失言が発覚、また妻である鎌子の実姉「新子」との醜い噂も露見してからは、有識層のコメントも変化し、小説家の近松秋江などは、
- 「千葉心中」--- 淡路美月
- ああ春遅き宵なりき
恋に悩める貴人(あでびと)の
真白き指に輝ける
ダイアの指輪憂いあり
都に浮き名うたわれし
二人の胸に秘めらるる
恋の絆のからみ糸
線路の錆と血を流す
……。
「.......今日の華族社会の紳士達がしゃあしゃあとして柳暗花明の巷に売色と戯れて、恬(てん)として恥ぢることなきに比ぶれば、彼女の如きは尚ほ廉恥の念が消磨してゐなかったのである」と言っている。
退院後、彼女は世間を逃れて下渋谷に隠棲したがやはり世間は冷たく、「姦婦鎌子ここにあり」、「渋谷町民の汚れなり」などと板塀に書かれ、また彼女が芳川鎌子だと判ると御用聞きまでが寄り付かなくなったという。家族から、貴族らしい家名存続の手段のため宗教に帰依し恭順の意を世間に示す事を進められたが、それすらも世間からの攻撃の的となった。
しかし伯爵家の圧力によって新聞、雑誌も沈静し、「千葉心中」の歌も警視庁から差し止められた。そして事件後、実娘である鎌子を勘当した芳川伯だが世間体からか夫寛治の籍を抜くことをせず、芳川伯の死後に寛治は無事に爵位を襲封し貴族社会の一員であり続け、寛治の後に三室戸子爵家から三光氏を養子に迎え現在へと続く。
正式に寛治と離婚し芳川家からも除籍された鎌子は、青山の次姉宅などをへて鎌倉の別邸に住みしばらくは平穏が続いた。しかし倉持陸助の一周忌を済ませた7ヶ月後の大正7年10月に出沢佐太郎という元倉持陸助の同僚運転手と再び「駆け落ち」してしまう。出沢は倉持陸助が心中する晩に涙しながら酒を飲んだ最後の同僚であった。仲が良く、最後の晩の様子を知る元同僚運転手から話を聞くうちに恋が芽生えたのであろうか?また出沢を倉持の身代わりとして愛したのでろうか、鎌倉の別邸を抜け出した二人は本所向島の出沢の生家に駆け込む。失踪を知った芳川家は仰天し八方手を尽くして探した。そうこうするうちに、出沢の母から芳川家に連絡が入り、芳川家は急遽向島の鎌子をむりやり連れ戻した。
その後、無理に連れ戻された鎌子は、厭世的なうつ状態となり「自殺」の危険性も出てきたので、芳川家はやむなく出沢との結婚が許した。しかし事件後の勘当は多分に表面上の事であったのに対し、ほとほと手を焼いた今回、芳川家は鎌子に完全な「勘当義絶」をして一切仕送りも中止した。たちまち生活に窮した夫妻は、出沢の伯父をたよって茨城の取手に住み出沢も出稼ぎなどまでして懸命に働いた。しかし生活は苦しくなるばかりであった。そして横浜へ.......。
大正10年4月、鎌子は前年1月に亡くなった父「芳川伯」の後を追うように横浜の南吉田町で亡くなる。享年29歳。婦人病から腹膜炎を併発し、医者からの「手術をすれば治る」という申し出を断って死を選んだ。その腹膜炎も芸者遊びに明け暮れた前夫寛治からうつされていたという説もあり、憐れを誘う。いずれにせよ鎌子の死は事実上の「自殺」であった。
数奇な運命をたどった芳川鎌子は、誰を愛していたのだろうか?
情死しそこねた倉持陸助?
自分の死を見取ってくれた出沢佐太郎?
それとも、それら両人を愛せた自分?
今となっては、分かりようも無い。
- (余話)として
- @心中相手の倉持陸助の名は、資料によって「陸助(りくすけ)」、「睦助(むつすけ)」とあり現在もどちらか判断出来ないようです。また彼は三田台町の叔父、指物師の儀助に6歳から養育され、三田小学校〜芝中学と進んだようです。しかし中学1年の時に叔父が死去したため荒物屋で奉公し、16歳で三井物産に給仕として入社しました。その後機械が好きで自動車部に転じました。この自動車部に居た時に三井物産に関係のあった芳川顕正にスカウトされ三井物産に籍を残したまま、芳川家のお抱え運転手となったといわれます。死後、彼は叔父の儀助が眠る魚藍坂の魚藍寺に眠っています。
- A前項芳川顕正を掲載した直後に、「うさぎ横丁」氏から芳川顕正についての情報を頂いたので、氏に感謝をこめてご紹介。
「芳川伯爵の件ですが、芳川家の墓所が青山墓地にあります。
場所は墓地下から中央の坂を登っていくと右側にあります。
大きなお墓なので直ぐに見つけられます。
(中略)
青山墓地ですが、数年前思い付いて、華族(公爵・侯爵・伯爵・子爵・
男爵)の墓を確認してみたところ150以上チェックできました。
功績では軍人・政治家、出身ではやはり薩摩が多いです。
ここも時代の波か、麻布にたくさんあったお邸が消えていったほどでは
ありませんが、昔たしかにあった華族の立派な墓碑がだんだん
少なくなっているようです。」
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91.品川で見つけた麻布−その1(了海上人産湯の井)
大井山光福寺
光福寺の井戸「大井」
「大井」解説板
光福寺の大イチョウ
大イチョウ解説板 麻布山善福寺の中興の祖了海上人は、品川区大井で生まれたと以前に書いたが、その場所は私の住まいの比較的近くにある事を最近になって知った。
品川歴史館(品川区大井)の裏手に「光福寺」という寺がある。その寺は延暦元年(782年)顕教房栄順律師の開創といわれ当時は天台宗の寺で「薬王神宮寺」と称していた。しかし元久兵乱で失脚して土地の豪族紀実経の庇護を受けた頭中将光政(東国に流されていた鳥羽院の皇胤左大臣信光の嫡男)と紀実経の娘(一説には滋野井宰相の女とも?)の間に生まれた「松丸」は8歳で剃髪し長じて比叡山に上り浄栄僧都の門に入って修行し、帰国後親鸞上人の弟子となって「了海」と改め、祖父である実経から寄進を受けた土地にある薬王神宮寺を真宗に改め「大井山光福寺」と改称した。この「光福」とは父、頭中将光政も親鸞の門に入って「空範」と号したので元の名をとって寺号とした。
大井山と書かれた山門をくぐると大きな銀杏の木がある。この木は麻布山善福寺の 逆さ銀杏の枝を了海上人が植えたと言われ、幹周りが6.25メ−トルもある大樹で品川区の保護樹と指定されている。(面白いことに樹皮を煎じて飲むと乳の出が良くなる。という言伝えが麻布山善福寺と全く同一である。)また墓地には「開基了海上人産湯井」と書かれた石碑が建っている。了海上人の父、頭中将光政は子が無いために日常蔵王権現に子授けを祈願したところ、妻が身ごもって了海上人を生んだ。この了海出生の際、住持覚律師は夢でこの井戸を知らされ、行ってみると水が自然に湧き出していたという。
健保元年(1213年)6月15日[史実では延応元年(1239年)とも?]、この井戸水で産湯を使った「松丸」こと了海上人が生まれた。この井戸から近隣の地域を「大井」と呼ぶようになり、山号も「大井山」と称する様になったと伝えられている。そして文永2年(1265年)了海上人はこの寺を浄土真宗に改め、その後同寺を父の空範に託し麻布山善福寺に入った。後に関東六老僧と言われるまでになったなった了海上人は、再び京都に赴き仏光寺四世となり、元応2年(1320年)正月28日、82歳で没する。
光福寺門前の狭い道は古東海道と言われ高輪−居木橋から新井宿、矢口に通じていて寺の近辺は、大井の行政の中心であったと言われる。また江戸時代には付近に札場(お触れ、規則を書いた高札場)があった。この光福寺の井戸からついた「大井」という地名は了海上人が生まれなければ存在しない名称であったとも言える。また大井氏(紀実直の次男実春が大井氏を名乗る。)、品川氏(紀実直の三男清実が品川氏を名乗る。)も共に当然「紀氏」であり、当然了海上人との関わりもあったと思われる。
江戸名所図絵には、
「この地は麻布山善福寺の中興の了海上人の旧跡なり。当寺に桜の老樹ありて春時奇観たり。了海上人産湯の井、寺の後楽にあり。」とある。また、
新編武蔵風土記稿には、
「大井跡。客殿の北の方山腹に在り。横に深き穴なり。或書に云。この井は大いなる穴にて臨むもの目くるめくとあり。今はうづもれて穴の径六七尺もあるべし。」とある。
関連項目・麻布山善福寺
・品川で見つけた麻布−その3(光福寺の大いちょう)
・品川で見つけた麻布−その4(了海上人と紀氏)
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92.品川で見つけた麻布−その2(坂、寺、店?)
調子に乗って前回の続き「品川で見つけた麻布」番外編を表で御紹介。(類似した名称であるだけの物も含みます。)
名称 麻布 品川 その他 本光寺 宮村町日蓮宗 南品川顕本法華宗 宗派も違い2社の共通点は寺号のみと思われる。大田区池上近辺にも同じ寺号の寺がある。 善福寺 山元町 北品川 宗派も違い2社の共通点は寺号のみと思われる 増上寺下屋敷 宮村町 上大崎 上大崎は、増上寺の別墅であった麻布我善坊町の土地が甲府宰相綱重邸となるに当たって替地として供され、子院として8カ寺を建立した。また隠居所でもあったようで、その点も麻布と類似している。この子院の一つ常光寺は、現在麻布山在善福寺で眠る福沢諭吉が死後に埋葬されていた寺。 正福寺 狸穴町 上大崎 元和五年(1619年)麻布狸穴町に開山したが寛文元年(1661年)御用地となった為、現地に移転。前記増上寺子院8カ寺の一つ。 西光寺 * 大井 現在は京都西本願寺末寺だが、もとは麻布山善福寺の末寺で慶長期の当寺の住職である「栄空」は織田信長の家臣であった武将の芳賀出雲守定仲が出家した名との事。 暗闇坂 宮村町 南品川 品川は最近仙台坂トンネルが開通して交通量が増え、明るい雰囲気になった。この坂が昔、仙台坂と呼ばれたが現仙台坂が道路の拡張によって出来、坂名を譲った。またゆうれい坂ともいう。 仙台坂 本村町 南品川 どちらも仙台伊達藩の下屋敷があったためについた。品川は坂上に古くからある仙台味噌屋も健在。 鷹石 東町 鈴ヶ森 「むかしむかし1-20.鷹石」を参照。東町にあった石が鈴ヶ森に移転。 焼肉「麻布」 * 東大井 最近、京急立会川駅前にOpenした焼肉屋。詳細不明。 麻布シネマ 麻布十番 東大井 チェ−ン店のレンタル・ビデオショップ 城南中学 六本木 南大井 麻布の城南中学は三河台中学と合併、「六本木中学」に名称変更。
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93.品川で見つけた麻布−その3(光福寺の大いちょう)
光福寺の大イチョウ
光福寺の大イチョウ
光福寺の大イチョウ
大イチョウ解説板 91.了海上人産湯の井の項で書いた品川区大井の古刹「光福寺」にある麻布山善福寺の「逆さイチョウ」と兄弟だといわれる「大いちょう」は、高さ40メ−トル、幹廻り7メ−トルもあり、明治の頃までは出漁した漁師たちの航行の目印として使われていた。つまり、現代の灯台の代わりであったという。そして、光福寺にはその「大いちょう」にまつわる昔話が残されていた。
むかし、むかし、この寺の庭の手入れをしていた植木職人の親方が、あまりにも伸びすぎたイチョウの枝をおろそうと思い、弟子に声をかけました。
「おい、お前、その仕事が済んだら、あのイチョウの枝をおろせ!」
「親方、それはいけませんや!」
「どうしてだ!」
「私の爺さんが、光福寺の大イチョウは、祟りがあるからさわるな!と良く言ってました。」
「わしも聞いてはいるが、いちいち怖がってたら、植木屋なんかつとまるか。そんなバカな事があるものか!」とどなりました。
「そう言われれば、そうですね。」と言って、
弟子は、その日の夕方、はしごをかけて大イチョウに上りました。南の方に伸びている大きい枝を切ろうとして、
のこぎりを枝の中程に当て差し込んだ時です。
どうしたはずみか、足をすべらせて、ずしんと地面に落ちてしまいました。
親方をはじめ、寺男や小僧たちがかけつけて介抱すると、気を失っていた弟子は、やっと気がついて目を開けました。
「あっ、よかった。気がついて。」
「おい、しっかりしろ!」
「大丈夫か?」
と、口々に声をかけましたが、気がついた弟子は、あたりをきょろきょろと見回しているだけで、一言も言葉を発しません。
「どうした、わかっているのか?」
「しっかりするんだ!」
そのうちに弟子は、「あ−、あ−。」と言い出しました。
「どうしたんだ、何とか言えよ!」
「あ−、あ−。」
弟子は、ただ「あ−、あ−。」と言うだけで、言葉は一言も話せなくなってしまったのです。
その翌日、うらめしそうにイチョウの木を見つめている植木屋の親方に、「親方、仕事が済みましたら、お茶でもいれましょう。」と、寺男の爺さんが声をかけました。
「ありがとう......」
「どうしました、イチョウの木を眺めて。」
「だって、いまいましいじゃないか、昨日は若い者が落ちて、口がきけなくなってしまった。」
「昔から、この大イチョウには、はさみを入れない事になっていますんで........」
「祟りがある。そんなバカな事があるものか、木が切れない植木屋じゃ仕方ない。よし、わしが枝をおろしてやる!」
「親方、危ないからおよしなさい。」
「何が危ないんだ!四十何年、木と言う木を切り、高い所へ登りつけているわしだ。木の上は、地上と同じだ!」
「人の止める事は、やめるもんですぜ。ねっ、親方。」
「言い出したら後へは引かない俺だ。若い者は、修行が足りないんだ。わしの腕前を見せてやる。」
いくら寺男の爺さんが止めても、言う事を聞かず、親方は、はしごを登り始めました。
昨日弟子が登った枝より、もう2つ上の高い枝に登って、長く伸びた枝にのこぎりを立てた時です。
いきなりもんどり打って、マッサカさまに落ちて、庭石に頭を打ち付けたからたまりません。
親方は、そのまま息が絶えてしまいました。
それからは、この大イチョウには、誰一人として刃物を加える者がいないので、思う存分に枝を伸ばし、樹齢をかさねています。
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94.品川で見つけた麻布−その4(了海上人と紀氏)
91.品川で見つけた麻布−その1で了海上人が紀氏であると書いたが、港区の歴史書には、藤原氏となっている。これは、藤原=紀なのであろうか、それとも父方の頭中将光政が藤原氏なのであろうか?(以後の調査で光政の父は「鳥羽帝」の皇胤左大臣信実だと判明した。)疑問が残る。また「大井」の語源となった産湯の井の水を使って了海上人が生まれたのは健保元年(1213年)6月15日(別説では1239年)と言われるが、大井、品川の名前は、ほぼ同時代の「吾妻鏡」に見える。宇治川の合戦で品河(品川)3兄弟の討ち死に、大井実春元は暦元年(1184年)に伊勢の国で平氏と戦い、品川清実は源範頼に従って九州豊後で戦っている事が記されている。これらからどう考えても品川、大井両氏ともに了海上人が誕生する以前から存在していたと見るほうが妥当である。
また了海上人の母方の祖父、「紀実経」の名が紀氏系図に現れていない。しかし、主だった者以外が系図から省かれてしまうのは良くある事の様で、また変名、改名も考えられるので全くウソとも断定できず真偽は定かではないが、関東における紀氏姓は珍しい。しかし、紀実経が俗名に名乗ったであろう大井氏も、同属品川氏も了海上人が京都に赴き仏光寺四世となり、元応2年(1320年)正月28日、82歳で没する頃には、すでに歴史の表舞台から姿を消してしまっているので詳細が不明である。
源頼朝関東挙兵から従ってきた弱小豪族の、関東紀氏である品川、大井両氏も北条氏の執権政治の中で、淘汰されてしまったのだろうか。またその中で了海上人が果たした役割は何であったのだろうか。全くの憶測でしかないが、真宗関東六老僧まで上った成功者の「後ろ盾」に血縁で土地の有力でもあった大井、品川氏が無縁ではなかったと考える方が妥当だと思う。しかし、残念ながら今回はその片鱗さえ見つける事が出来なかった。
歴史の表舞台から姿を消してしまった「品川氏」が突然姿を表すのは、約400年後の慶長19年(1614年)。織田信長によって没せられた源氏の名家「今川義元」の子氏真が12月28日に没した時、その邸が品川にあった事から、以降の子孫は代々「品川姓」を名乗るよになったという。しかしこれは鎌倉期の北条と小田原の後北条のようなもので、直接の因果は見当たらない。
付記
大井、品川氏略系図
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95.ハリスと唐人お吉
万延元年(1861年)12月5日、中ノ橋近辺で暗殺されたアメリカ公使館通訳ヒュ−スケンは、ハリスに来日以来ずっと従ってきた書記兼通訳であった。アメリカ領事館員は来日時ハリス、ヒュ−スケンに中国人下僕5人の計7人しかおらず、日本語を全く理解しないハリスに代わってヒュ−スケンは、一時「代理」も勤めていた。これは、当時の日本人が全く英語を理解できず、唯一日本側通訳に通用するのはヒュ−スケンの母国語であるオランダ語だけであったため。
一行が日本に上陸して約10ヶ月後の安政4年(1857年)5月19日、ヒュ−スケンはハリスの命を受けて下田奉行所を訪れ、前日に交わしたばかりの「3か条の覚書」をつき返した。これは、当時病を患っていたハリスが下田奉行に対して病気看護の女性の斡旋を依頼していたが、聞き入れられなかったので、その日本政府(幕府)の不誠実さを怒り、「3か条の覚書」も破談にするとヒュ−スケンに伝えさせた。事実ハリスは当時の日記に
安政3年12月13日−−体がひどく悪い。
同20日−−丹毒が回復しかし体重が18キロ落ちた。
安政4年2月20日−−体がだるく、大量の血を吐いた。
同3月24日−−入港したアメリカフリゲ−ト艦での診察を希望。
とあり、実際に病気であった事がわかる。
当初、他国の外交官からも同様の申し出をされては困ると考えて答えを引き伸ばしていた幕府側も「3か条の覚書」の破談に驚き、再審議の上、ハリスの要求を受け入れる決定をし、また同時にヒュ−スケンにも「看護の名目」で女性を派遣する事を決めた。これはおそらくヒュ−スケンがハリスの要求は本当の意味での「看護人」を指していたのに対して、彼は「看護人の名目」での船形相手の酌婦を要求したための措置であったと考えられる。またこれは、ヒュ−スケンがハリスの代理として幕府側通訳の森山多吉郎を訪れた際の、職権乱用の結果であるとも推測できる。
5月22日、ハリス、ヒュ−スケンのもとに看護人の下田芸者の女性らがが顔見せに現れた。それらの女性の名は「きち」「ふく」と言い、17歳のお吉と、15歳のお福であった。お吉は早速その日からハリスの看病を始めたが、わずか3日でハリスのもとに通うのを辞めている。そして2度とハリスの元に戻る事はなかった。これは、お吉自身も腫れ物が出来て自宅療養を余儀なくされたためであり、その後お吉はたった3日の異人への奉公(一説によると60日とも)から「唐人お吉」と呼ばれた。唐人お吉は、芸者に戻ってからも異国人相手の侍妾であった事から以前の様には売れなかったと言い、これについて下田市役所に現存しているお吉の母親から下田奉行に宛てた願文には、「異人と交わったためにそれまでの家業が出来なくなり、暮らし向きにも困っているので、以前に決められた唐人接待の給金を支払ってもらいたい。」という内容のものであった。その後お吉は、アメリカ領事館の麻布移転と共に下田の町から姿を消し、明治元年(1868年)から横浜で大工と同棲生活を送り明治4年、下田に戻って髪結いを営む。しかし酒癖がこうじて三島に移り、再び下田に戻ったのは明治15年であった。そして小料理屋を開いたが、その自暴自棄の酒癖から破産へと追い込まれてしまう。その頃お吉は、昔同じ侍妾だった「お福」を訪れ度々施しを受けていたと言う。お福はお吉とは対照的に、ラシャメンの勤めを辞した後、「おみや」と改名して進められた縁談から船宿の女房となり、持ち前の器量と客あしらいで店は繁盛し、幸せな生活を送ったという。
明治20年(1890年)零落したお吉は病にかかり、明治23年3月23日夕方友人の「おりん」を訪れた帰り道、河内門栗の淵(お吉ヶ淵)に身を投げて50歳の生涯を閉じた。同時期に異国人の侍妾となった「きち」「ふく」のその後の人生を分けてしまったものは、一体何だったんだろう?
その他にも看護の名目で仕えた女性達は、彼女達を含めて以下に(契約期間)
ハリス
お吉−−−安政4年5月22日〜8月18日
おさよ−−安政5年7月16日〜安政12年12月15日
ヒュ−スケン
お福−−−安政4年5月27日〜安政12年12月15日
おきよ−−安政5年2月頃(すぐに暇を出される)
おまつ−−安政5年2月29日〜安政6年1月31日
おつる−−月雇いの囲妾安政6年8月6日〜?
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96.ヒュ−スケンとお鶴、お里
安政6年6月27日、総領事から公使に昇格したハリスはこれを幕府に通告、公使館を麻布山善福寺に置いた。そしてヒュ−スケンのみが幕府に対して「下女の雇い入れ」を要求した。この時の要求と、その結果を外国奉行兼下田奉行村垣淡路守範正の日記に見る事が出来る。
「一、善福寺詰栗原啓太郎、夜来る。魯コンシュル外一人、同寺へ来る由申し聞き候。ヒ−ス(ヒュ−スケン)女一条云々、申し聞き候。(7月18日の条)」
「一、ヒ−スケン下女抱入れの儀、伺の通りあい済み、清五郎を以って御渡し。(10月27日の条)」
これにより雇われたのが麻布坂下町にある清蔵店久次郎の娘で横浜の遊女屋に年季奉公中の「つる」という18歳の娘であった。給金は下田の時とほぼ同額の一月7両2分といわれ、彼女が勤めていた遊女屋の6倍半以上の給金であった。ヒュ−スケンはよほどつるを気に入ったと見えて、彼が切られて運び込まれた時も善福寺の宿坊である善行寺で彼の「死に水」をとったといわれる。また宮永孝著「幕末異人殺傷録」流浪の果てに−アメリカ公使館通訳ヒュ−スケンの暗殺の100ペ−ジに、アムステルダム海事博物館に所蔵されているポルスブルック伯のアルバムの写真が掲載されていて、そこには子供を膝に乗せた日本人女性が写されている。その写真の下には「Madame Heusken」と書かれている事から著者はこの写真が「つる」と彼らの子供だと推定している。
ヒュ−スケンは、このつるの他にも気になる女性がいたようで、芝浦に停泊した外国の軍艦の見物人を相手にした「掛け茶屋」の一つで、最も繁盛していた「万清」で働く「お里」という娘に、恋をしていたと思われる。お里は芝浦の船頭の娘で、父は松蔵と言った。ヒュ−スケンは沖の船に用事がある時は度々松蔵の小船を使って行ったので、その内に松蔵とヒュ−スケンは懇意になり、松蔵は娘の働く万清でヒュ−スケンをもてなした。そんな中でヒュ−スケンはお里に心を動かされ、やがて松蔵ぬきで一人で現れるようになった。最初は彼を恐れていたお里もやがて酌や話し相手もするようになる。しかし、ヒュ−スケンが三日と明けずに通うようになると、地元の若い衆らが嫉妬と怒りからお里を「ラシャめん」と呼び罵声を浴びせた。そのために父親の松蔵は地元の若い衆らと大立ち回りを演じたと言う。がその後ヒュ−スケンは暗殺されてしまい、二人はプラトニックなままだったと言われる。中里機庵「幕末開港綿羊娘情史」には、ヒュ−スケンの死後、墓を訪ね密かに香華をたむけて涙するお里の姿が見うけられたとある。
以前に書いたヒュ−スケン事件では知らなかった事を少し補足させて頂くと、
ヒュ−スケン暗殺に憤慨した各国出先機関は江戸からの退去を決め実行に移した。しかしアメリカ領事ハリスだけは、事件を私情から起こったとして江戸に残留し、幕府に対して損害賠償を請求した。これにより幕府はヒュ−スケンの母親に対する慰謝料として4,000ドル、扶助料6,000ドルの10,000ドルを洋銀(メキシコドル)で支払い和解した。これは当時でも大金であったと言われ、その総てが母親に支払われた。ヒュ−スケンの母親は当時アムステルダムに住んでいて、不思議な事に彼が殺された三日後に、在日オランダ副領事のポルスブルック伯がヒュ−スケンの母親から受け取った手紙には、彼が殺されたらこの老母に知らせてほしいと言う内容が記されていたという。また息子の死を知らされ、賠償金を受け取った後にはハリス宛の手紙を書き、息子を失い悲嘆に暮れている様子と、賠償金、息子への供養に対する懇ろな礼を述べている。
この項の主題である異国人とその侍妾について、本人の日記を含めて外国側の資料は全く無いと言われるが、皮肉にも日本側の公式文章には頻繁に女性たちの名前が登場する。
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97.高野長英の隠れた麻布
幕末の蘭学者高野長英は、「蛮社の獄」で渡辺崋山と共に罪にと問われ、脱獄、自刃という数奇な運命をたどった。
文化元年(1804年)、奥州水沢で水沢伊達氏の家臣後藤家に生まれた長英は、9歳の時に父を無くし、翌年、母方の伯父である高野玄斎の養子となる。17歳で兄の後藤堪斎に同行して江戸に遊学し、杉田玄白の養嗣子、杉田伯元の門下となる。その後蘭学を修めるため長崎に赴きシ−ボルトの鳴滝塾に入る。ここでシ−ボルトに論文が認められ「ドクトル」の称号を授けられ翻訳に従事。しかしシ−ボルト事件が起こると長崎から逃亡し、しばらく身を隠した。その後広島、大阪を経て江戸に戻り麹町で開業、生理学の研究に従事する。
天保10年(1839年)長英36歳の時、渡辺崋山が「無人島渡航計画」により北町奉行に召還された事により同罪で追われた長英も、いったん潜伏したがその後、北町奉行所に自首し無実であることを弁明した。容疑の取り調べが進む内に告発された内容はほとんど事実無根であることが判明したが、自宅から押収された著書での幕政批判の罪により両名とも有罪となり武士であった崋山は「在所蟄居」、士籍を離れた長英は百姓牢への永牢判決をうける。
入牢した長英は、その医術などから1年後には牢名主添役に、その翌年には牢名主となった。そして幕府に対してしきりに減刑運動を展開したが政治犯である長英には効果がなかった。また牢名主となった天保12年(1841年)同じ罪で「在所蟄居」を命じられていた渡辺崋山は蟄居中の売画が幕府に露見し、藩公へ取り調べが及ぶ事を懸念して自刃した。その後も長英は赦免願いを出し続けたが、幕府に聞き入れられる事は無かった。
度重なる赦免願いを出し続けた長英も、幕府に聞き入れらる事が無いと悟ると、やがて牢名主の立場を利用して脱獄する事を計画する。弘化元年(1844年)6月29日深夜、以前から仲間に引き入れていた非人の栄蔵が、百姓牢に近い御ためし物置所に放火。この火災によって牢への類焼を恐れた牢屋奉行石出帯刀は、百姓牢囚人50人と揚座敷の囚人を「切放し」としたことから長英の脱獄計画は成功した。「切放し」とは牢が火災などにより危険となった場合、緊急的な措置として囚人を一旦放免し、三日以内に本所回向院か奉行所、の風向きによる集合場所に戻ると罪一等の減刑がある事をいう。この時の火災は町火消しが到着する前に非人などによって鎮火され、「切放し」が行われたのは百姓牢と揚座敷の囚人だけであった。またこの時集合場所に指定された本所回向院に戻ってこなかった囚人は、座敷者一人、雑人6人とありその内の一人が長英であった。
脱獄した長英は上州を経て郷里の水沢に向かい、米沢に潜伏しその後弘化3年再び江戸に再潜入した。そして江戸では門人の数学者内田弥太郎をたより翻訳で生計をたてて妻子と共に麻布宮村町藪下の借家に暮らした。そしてちょうどこの年に、長英の脱獄のため頼まれて放火した非人の栄蔵が逮捕されその一切を白状したことから長英の脱獄計画が明らかになりただの火災による逃亡犯から、放火脱獄の政治犯という重罪になり再び探索が厳しくなった。そして同じ頃、長英の噂を聞きつけた宇和島藩主伊達宗城の密命をうけた宗城の側近の松根図書が宮村町に長英を捜し歩き、宇和島潜行の内命を伝えた。
長英は嘉永元年(1848年)3月20日江戸を後に宇和島へとむかう。ここでは藩から兵書の翻訳で召抱えられ2年あまりを過ごした。しかし宇和島潜伏が幕府に探知され、広島、名古屋を経由して再び江戸に潜入し、麻布本村町の土蔵付き差掛け小屋に妻ゆき、娘とも、息子かなめ、理三郎と共に落ち着いた。しかしやがて翻訳の継続で密かにつながっていた宇和島藩とも翻訳終了後は縁が切れ、生活に窮したために危険を承知で、青山百人町に移転し沢三伯の変名で医業を営む。
青山に越して三ヶ月目の嘉永3年(1850年)10月30日激しい風雨の夜、いきなり南町奉行所の同心が長英の家を襲った。長英はこのような場合に備えて庭に貝殻や枯葉を敷き詰め、足音がすぐに聞こえるような細工をしてあったと言われるが、この日の激しい風雨で役に立たなかった。刀を抜いて防戦しようとした長英も同心により囲まれ自害して果てたという。その後、12月21日、南町奉行遠山左衛門尉景元の詮議により彼の逃亡を助けた者9名の判決がおりた。長安の死骸はこの判決まで塩漬けで放置され、判決がおりた当日千住小塚原に「取捨て」られ、その後回向院に埋葬されたといわれる。
長英の妻は押し込めを申し渡され、その後放免。長女は御家人であった叔父によって吉原に売られ、のちの安政大地震によって死亡したという。その他の男児達のその後についてはわかっていない。
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98.貧女の純真
江戸の頃、麻布久保町に貧しい大工が住んでいた。しかし下請け仕事すらありつけず、このところ収入が途絶えてしまった。そしてついに米を買うお金もなくなり、亭主は仕方なく女房に大工の棟梁の所へ金策に行かせた。
棟梁も同様に最近仕事が廻ってこなかったので懐具合が悪い。しかし、手下の大工の女房を素手で返すのも気が引けて、箪笥から縞ちりめんの着物を出して、「これを質屋に持って行って金を借りろ」と持たせた。女房は感謝しながら帰宅し、亭主に相談してから質屋に持ち込んだ。すると質屋は金3分(1両の3/4)を貸してくれたので、夫婦はその金で当座の生活をしのぐ事が出来た。しかし、その頃から心労のためか女房が体調を崩して寝込んでしまい、薬代まで工面しなければならなくなり、貧しさが以前にも増してひどくなってしまった。病床の女房は何度も、棟梁から借りた着物を気にかけて亭主に言っていた。「お前さん、いつになったらあの着物が質屋から請け出せるかねえ」しかし、あても無い亭主は「心配するな。そのうちどうにかなるさ。それよりお前は養生しなけりゃいけないよ」と言って女房を慰めるしかなかった。しかし、そんな風にお互い労わり合って数日すると、女房は息を引き取ってしまった。その後、亭主は形ばかりの葬式をすませると、悲しみに暮れていた。
ある夜更け、「着物を請け出しに来ました」と質屋の戸をたたく者があった。しかし奉公人も寝てしまい応対できないので、「今夜はもう遅いから、明日に願います」と返事すると、そのまま帰ってしまった。しかし次の晩もやってきてまた同じ事が繰り返された。そしてまた次の晩も.......。
その声から大工の女房だと気が着いた質屋の番頭は、たまりかねて裏長屋の大工を訪ね「あんたのおかみさんには悪いことをしたが、何であんな夜更けに来てくれるんですかね?」と亭主の大工に言った。すると亭主は「毎晩って、いつのことですか?」とたずね、番頭が昨日で3日続きだと答えると、亭主はからかわれてると思って「じょうだんじゃネエ!女房はこういう姿になっちまったんだ」と女房の位牌を番頭に見せた。すると番頭はあわてて帰り、店の主人に始終を報告した。すると主人は顔を曇らせて考え込み思案の結果、今度女房が着物を取りに着たら、返すよう番頭に命じた。
その晩、夜も更けて番頭が耳をそばだてていると、やがてあの女房の声で「もしもし、戸をお開け下さい。着物を請けだしに参りました。」今までは知らなかったから平気で応対していた番頭だが、この世の者でないことがわかった今は、恐ろしくて仕方なかった。しかし、主人の言い付けなので恐る恐る戸を少し開け、着物を差し出すと嬉しそうな声で「ありがとうございます。これはお代です」と小さな包みを置いて立ち去った。番頭は恐ろしさのあまり、寝所に戻ってそのまま布団をかぶって寝てしまった。
翌朝主人と共にその包みを改めてみると中身は金ではなく、今坂餅という卵型の餅が五切れ入っていた。早速この事を大工に知らせると大工も今朝寺から使いのものが来て、女房の墓に着物がかけてあると言うので行ってみるとあの「縞ちりめん」だったと話した。その後質屋はこの着物を諦める事にし、大工の棟梁は着物を掛番に仕立て直して寺に寄進して女房の霊を慰めたという。
この話は九州平戸の大名、松浦静山が当時見聞した事を書いた「甲子夜話」の3編にある。しかしこの話、一歩間違えば「夫婦詐欺」みたいな気がするんですが............。
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99.鈴ヶ森の殺人
江戸時代の正徳(1710年代)の頃、麻布桜田町に伊勢屋という裕福な両替商があった。この伊勢屋は店も繁盛し、家族も円満だったが一つだけ悩みがあった。それは一人娘の「顔」である。元々美形ではなかったが、幼い頃疱瘡を病んで醜いあばたが顔中に残り、気の毒な面体となってしまった。本人もその事を気にして家から一歩も出ようとせず、毎日家の中でくすぶっていた。
娘は20歳を迎えても、一向に縁談も来ない。仕方が無いので伊勢屋は相当の持参金を付ける事を条件に、再度縁談を頼んだ。しかし、それでもに嫁入り話は全く来なかった。
ちょうどそんな頃、娘ははじめての恋をした。相手は店の手代で名を「権八」という。二人はやがて店の者や家族に隠れて逢瀬を楽しむ様になった。しかし当時、奉公人が主人の娘に手を出すのはご法度であり、もし見つかれば権八は店を追い出されたしまう。二人で幾日も思い悩んだ末、とうとう権八は娘に「駆け落ち」をしようと持ちかけた。しかし二人にとって、落ち延びる先があるわけでもなく、心細い行く先のことを考えた。不安になった二人は悪い事とは知りながら、親である伊勢屋の金蔵から500両という大金を盗み出し、そのまま駆け落ちをしてしまった...........。
二人は、まだ明け切らない夜道を急ぎ、品川を越えて鈴ヶ森のあたりまでたどり着いたところで、大金を背負った権八は娘にちょっと休憩しようと持ちかけた。疲れていた娘も、これからの二人だけの楽しい暮らしを夢見ながら浜辺に腰を下ろした。その時、娘の後ろに廻った権八は、物思いにふける娘の首を締め上げた................。
権八にとっては最初から計算していた行動で、娘の事などどうでも良かった。ただ、世慣れない娘を騙して金が手に入ればよかったのだ。権八ぐったりした娘をその場に置き捨てて、何処かへと去って行った。
朝になると伊勢屋は大騒ぎになった。娘と手代が姿を消し、大金がなくなっている。店の者が総出で八方手分けして探すうちに、娘の無残な姿が見つかり、伊勢屋は悲嘆に暮れた。事はすぐに奉行所にも聞こえ、人相書きを諸所に貼り出して「権八」の大探索がすぐさま始められた。当時、主殺しは重罪で、権八の請人(身元保証人)も厳しい取り調べの後に事件とは無関係と判明したが、本人の身代わりとして牢屋に入れられ永牢(無期懲役)とされてしまった。
その後も権八の行方は全くつかめなかったが、実は権八はすぐさま江戸に戻って「堺屋五郎兵衛」と名前を変え、元飯田町に500両の元手を使って米屋を始めていた。そしてしばらくすると店は繁盛し、手代や丁稚を何人も抱えるほどになり、願っていた裕福な暮らしを満喫した。
しかし悪運の強かった権八も、一つの些細な事件から身を滅ぼす事になる。
ある日、権八の店で働いていた10歳の丁稚が出奔してしまい、店の金五貫文(5,000文)が無くなっていた。父親を問い詰めると、せがれは、はやりの「抜け参り」に行ったのかの知れないが金など盗むはずがない。と言い張り、譲らなかった。そんな押し問答をしている所へ、ひょっこりと丁稚が戻ってきた。早速問いただすと、やはり抜け参りをして来たと行って勝手を詫びたが、金のことは知りませんと言いきった。しかしどうしても金への疑惑を捨てきれない権八は、奉行所に訴えた。双方の意見がまるで正反対なので奉行も手を焼き、困り果てたが、ある日両人に出頭を命じた奉行は、そこで10歳の丁稚に実際に五貫文の金を持たせてみた。しかし丁稚が力を振り絞って引っ張っても金はびくとも動かなかった。一文銭が5,000枚という重さは大人でも気軽には動かせなかった。この事から奉行は権八の非を責め丁稚への容疑が出鱈目であったことを責めた。そして調査の過程で、権八が強欲非道の上、高利をむさぼり、またご禁制の賭博も行っている事まで調べ出して、丁稚は無罪、権八には入牢を申し渡した。
すっかり悪運の尽きた権八を待っていたものはこれだけではなかった。牢の扉が開かれ中に押し込められ、最初に目に飛び込んできたものを見て権八は驚愕の声をあげた。それは権八の身代わりに牢につながれていた請人(身元保証人)の3年に及ぶ牢生活で変わり果てた顔であった。相手もすぐさま権八に気づき大きな声で牢役人を呼んだ。「ここにいるのは、主殺しの権八でございます!」........。
その後すぐさま、権八は主殺しの罪名で極刑に処されたという。
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100.麻布っ子、上杉鷹山
上杉景勝から数えて9代目の米沢藩主となった上杉鷹山(治憲)は、麻布の生まれである。宝暦元年(1751年)高鍋藩三万石の6代目藩主、秋月種美と正室である秋月藩黒田長貞の娘春姫の次男として麻布一本松邸に生まれ幼名を「松三郎」その後「直松」と称し、10歳で上杉家の養子となるまでを一本松邸で過ごしたといわれる。しかし文久2年(1862年)に書かれた地図「御府内沿革図書」を見ると秋月邸は今の麻布高校のあたりであり、現代の感覚からすると「一本松」とはかなり離れている。また麻布区史に「秋月の羽衣松」という項があり、一本松の別名とある。しかし、私には、羽衣松が一本松と同じとは考えにくく、以前の秋月邸が一本松にあったか、別の銘木があったのではないかと考えている。先日、港区郷土資料館に行ったおりに、この事を職員に伺ったところ「昔の地名は目標物をかなり広範囲で使っている事もある」との事で事実は不明であった。
秋月家は後漢の霊帝の末裔で応神天皇の時代に帰化して大蔵〜原田を名乗り、鎌倉時代に将軍家から秋月の庄(福岡県甘木市)を授かってこれを姓とした。その後、秀吉により日向の財部(たからべ)に移封される。この時に財部を高鍋と改めた。この地名変更は秀吉から秋月種実への移封を申し付ける朱印状の中で「財部」を「高鍋」と誤記してあったので、これにより「高鍋」と改めたと言われる。その後、関が原の合戦では西軍として参戦するが、途中から東軍に寝返り、家康に所領を安堵される。しかし、この時秋月の家督を継いでいた種実の子「種長」は西軍であった不安感から、慶長10年(1605年)に江戸で家康に拝謁したおり、人質を差し出す事を申し出て、これを許可された。おそらく秋月家麻布邸が出来たのはこの時であろうと言われる。
上杉家の養子となる事が決定したのは、鷹山の母方の祖母にあたる黒田長貞の正室「豊姫」が実家の当主上杉重定から後嗣が無い事を嘆かれ、相談を受けた事により、豊姫が直松(鷹山)を推挙した事に始る。
宝暦10年(1760年)6月27日、幕府より正式に養子縁組の許可がおりた上杉家は早速、直松を養子とし、名も「直丸」と改めて上杉家桜田屋敷に入った。この上杉家も屋敷を桜田(日比谷)、麻布台(現外務省飯倉公館)、白金に構えていたので麻布との縁は切れなかったと思われる。
しかし当時の上杉家は財政的に逼迫していて、当主の上杉重定は以前に幕府へ藩籍の奉還まで考えていた。これは、上杉景勝の時合会津120万石が関が原の戦いで30万石に減らされ、さらに三代藩主綱勝が急逝したおりに、幕府への世嗣の届け出が無かった事により、お家が断絶するところを15万石に減封されるに留まった。この時、急きょ世嗣に仕立て上げたのが、藩主綱勝の末娘で「参姫」の夫である吉良上野介の長男(後の綱憲)であった。以降、上杉家は吉良家の財政援助なども行い、また15万石に減らされても、家臣数も格式も30万石時代と同等であったので、上杉家の財政は見る間に逼迫した。
上杉家当主の重定は明和元年(1764年)、藩籍の奉還を願い出たが、親戚であった尾張藩主徳川宗睦に諭されて、これを撤回した。明和3年(1766年)7月18日、重定は直丸を伴って江戸城に登城。将軍家治の御前で元服し、直丸は将軍の一字を賜って「治憲」と称し従四位下弾正大弼となった。そして重定は翌明和4年、病弱を理由に隠居を宣言して家督を「治憲」に譲り、ここで17歳の上杉治憲(鷹山)は名実共に上杉家の当主となった。しかし藩の財政的な状況はさらに悪化しており、江戸の庶民も、新品のなべ釜の「金っけ」を取るのに「上杉弾正大弼」と書いた紙を貼ったと言われるほどであった。
また、上杉家当主となっても治憲は、実家が三万石と小さな大名家の出身であるため必ずしも家臣達に快く思われていなかった。しかし、江戸藩邸にいた藩内の政治的反主流派である改革派の「折衷派」との接近から江戸藩邸を改革し、明和6年(1769年)初めて米沢城に入って領地内の改革に着手した。しかし、当時の主流派であった重臣達から疎まれ妨害される。そこで藩士全員の登城を命じ、@自助A互助B公助を柱に新規地場産業の導入などの改革案を総て語った。
その後、長い道のりを経て旧主流派の排除、地場産業の定着、家臣の意識改革を行い米沢藩の改革は成功してゆく。後に上杉家中興の祖と言われた上杉鷹山の改革を成功させたものは、おそらくトップ自らが率先して苦労する「率先垂範、先憂後楽」という思想を貫いたためであったと思われる。その後天明5年(1785年)35歳で隠居、家督を「治広」に譲るさいに「人民は藩主の為に存在するのではなく、藩主が人民のために存在する」などと説いた「伝国の辞三ヶ条」を贈り、改革の継続を命じた。
昭和に入って、時のアメリカ大統領ケネディに日本人記者団が質問すると「私が最も尊敬する日本の政治家は上杉鷹山である」と答え、鷹山を知らなかった日本人記者がいたこともあり、記者団を慌てさせたと言う。なぜケネディ大統領が鷹山を知っていたのかは、おそらく明治41年に内村鑑三が著した英文著書「代表的日本人」のなかで西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮と共に5人の日本人として取り上げられていたからであると推測する。
<追記>上杉鷹山(治憲)の実家である高鍋藩秋月家は現在の麻布高校の地に敷地を持っておりがま池と隣接していた。藩邸の庭がま池の近くには滝沢馬琴の 「兎園小説」でも取り上げられた五つの異石のうちの二つが存在したという。一つは「寒山拾得の石像」そしていまひとつは「夜叉神像」であり、 特に寒山拾得の石像は秋月氏の領知であった宮崎県児湯郡高鍋町に現存する。また幕末のアメリカ公使通訳官ヒュースケン、イギリス公使館通訳官伝吉が眠る慈眼山光林寺 には秋月家歴代当主の墓がある。
江戸期の高鍋藩主秋月氏墓所 歴代 藩 主 年 代 関係 備 考 墓 所 初 代 秋月種長 天正15(1587)年
〜慶長19(1614)年種実
長男関ヶ原の役では西軍だが
寝返り所領安堵崇巌寺(現六本木墓苑) 二 代 秋月種春 慶長15(1610)年
〜万治2(1659)年種貞
長男母は種長の娘 崇巌寺(現六本木墓苑) 三 代 秋月種信 寛永8(1631)年
〜元禄12(1699)年種春
長男財部を高鍋と改名 宮崎県児湯郡高鍋町・竜雲寺 四 代 秋月種政 明暦4(1658)年
〜正徳6(1716)年種信
次男統治体制の整備 宮崎県児湯郡高鍋町・大竜寺 五 代 秋月種弘 貞享6(1684)年
〜宝暦3(1753)年種政
長男稽古堂を創設 練馬区桜台・広徳寺 六 代 秋月種美 享保 3(1718)年
〜天明7(1787)年種弘
二男上杉鷹山の父 麻布光林寺 七 代 秋月種茂 寛保 3(1744)年
〜文政2(1819)年種美
長男上杉鷹山の兄 麻布光林寺 八 代 秋月種徳 宝暦13(1763)年
〜文化4(1808)年種茂
長男生来から病弱 麻布光林寺 九 代 秋月種任 寛政 3(1791)年
〜安政3(1856)年種徳
二男藩政改革 麻布光林寺 十 代 秋月種殷 文化14(1817)年
〜明治 7(1874)年種任
長男明治維新後は明治天皇の侍読、
貴族院議員等宮崎県児湯郡高鍋町・大竜寺
※ 六本木墓苑(港区六本木3-14-20)は、戦後の道路拡張で正信寺・深広寺・教善寺・光専寺・崇巌寺の浄土宗五ヶ寺 の墓地を常巌寺の跡地に集約した共同墓地。
光林寺歴代秋月家藩主墓所
歴代藩主は所領の宮崎県児湯郡高鍋町にも墓所があり、★ 龍雲寺 →1・3・6・7代藩主墓所
★ 大龍寺 →2・4・5・8・9・10代藩主墓所
となっている。
<関連記事>・麻布の異石
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・ニッカ池 (赤穂浪士その二)
・水野十郎左衛門
・麻布の吉良上野介
・乃木希典(その1)
・寺坂吉右衛門
・土佐藩麻布支藩の幕末
・ 麻布っ子、上杉鷹山
・上杉家あき長屋怪異の事
・増上寺刃傷事件
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