むかし、むかし4




51.飯倉の小川平八

江戸後期には北半球が小氷河期だった影響から天災、飢饉が日本全国を襲った。大都市江戸も例外ではなく1773年(安永二年)には隅田川 までが氷結し、消費物資を水運に頼っていた江戸では物価が高騰して正月の松飾も商いが行われないような状況になった。そして翌年も再び隅田川が氷結し、江戸城の堀も凍り付いたが、しかしこれは天災の始まりでしかなかった。
1783年(天明3年)には浅間山が大噴火してその火山灰や砂礫は江戸にまで到達した。噴火以降1787年(天明7年)まで東北地方は凶作になり奥羽地方だけでも死者数十万人に及ぶ「天明の大飢饉」となった。大噴火の前年1786年(天明6年)の夏に関東も大洪水に見舞われ、江戸でも神田川、隅田川が増水して新大橋、永代橋に被害を及ぼし堤防の決壊も呼んだ。この被害から消費物資が流入しなくなり江戸の諸物価が高騰し、翌年には米価が前年の5倍に跳ね上がり、たまりかねた町人達が5月20日赤坂の米屋襲撃を手始めに25日までの間、江戸市中の 米屋1000軒あまりで次々と略奪が行われた。いわゆる「天明の打ち壊し」である。
打ち壊しの鎮圧後、幕府は打ち壊しに遭った商人達に救済金の給付と穀物の安価売却を進め、商業の復旧をはかった。そしてその政策の中には、比較的裕福だった商人達も含まれた。そんな裕福な商人の一人に麻布飯倉の小川平八がいた。
小川平八は、柳橋のめくら平八、今戸の瓦師平八と共に三平八として世に知られた分限者で、物価が高騰した折、貧民救済のため飯倉、芝田町、高輪にまで救いの手を差し伸べた。平八は財産家であるばかりでなく、その蔵書も膨大な数に及んだ。将軍吉宗が古書を収集した際、専門家に見せても解らないほどの古い記録類を差し出したとある。















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52.大東京繁昌記、東都新繁盛記の麻布

大正時代に刊行された「東都新繁昌記」を復刻した本を見つけた。その中の「虫聲(ちゅうせい)の麻布」という項に七不思議が掲載されているが、大正の七不思議は今と違っていたらしい。狸穴の婚礼、大黒坂の猫股、我善坊の大鼠、谷町の遊女屋敷、二本松の赤子、白金御殿の一本足などでどれも初耳であるが、残念ながら内容が記載されていない。また「木賃宿」には当時三ノ橋、四ノ橋あたりの古川瑞に「夜鷹」が出没しその女性たちの表の仕事場として宮村町のてんぷら屋、谷町の一膳飯屋、三連隊下のすし屋、竜土町の蕎麦屋などが記載されている。商談が成立すると四ノ橋辺の木賃宿に上がったらしい。
その他にも天文台、南部坂、新道路、麻布気分などの項目がありどれも現在進行形で書かれているので、大正の麻布を満喫できる。また同様の書に昭和3年発行の「大東京繁昌記」がありこちらは(飯倉付近)の項を島崎当村が執筆し、(芝、麻布)を小山内薫か書いている。














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53.宮村町な店       
昭和40年頃の宮村町店舗
昭和40年頃の宮村町店舗
用事のついでに久しぶりに三田小山町に足を運び、変わらない町並みを見てホッとして帰ってきた。前にも「三田小山町」で書いたが この町は、町の中だけでちょっとした用事(買い物)なら済んでしまう。昔はどこも皆そうだったなんて思いながら宮村町のお店を書いてみた。こんなにお店があったんだ!と驚くと共に現存するのは、渡辺たばこ店とクリ−ニング店、山口電気店だけである。森山酒屋は代替わりしているし、その他は店そのものが無い。子供の頃これらの店に良くお使いに行かされた。私の家は本光寺横にあったのでどの店へも 100メ-トルも無い。魚屋へは大きな皿を持っていき大体の値段を言って刺盛りを造ってもらう。正月の準備で酒屋に行き、「赤玉ポ−トワイン」を量り売りしてもらった(我が家は正月だけ子供が赤玉を飲むことを許可された。)。玉子は必要な分だけうどん屋に買いに行き、風邪をひくと、そこのうどん玉でうどんを作ってもらった。太田パン屋には惣菜パンが所狭しと並んでいた。(今でも時々パンを全部買う夢を見る)。本光寺横の駄菓子屋は夏になると「かき氷」をやっていてオカモチで出前もしてくれた。アイス屋は正確には炭屋で夏には一本5円で割り箸のアイスキャンデ−を売っていた。宮村公園方面路地横のかみや駄菓子店は私が小3位の時に廃業した。大森てんぷら店は娘さんが私と同級生。本光寺の前にはおでん屋の屋台が良く来ていた。十円くらいで「チビ太」が持っているようなおでんを買って良く食べた。ある日お金を払ってさあ食べようとしたところを、大きな犬にのしかかられておでんを横取りされた。それ以来私は犬が嫌いだ。 哀愁のあるラッパを吹きながら豆腐屋の自転車が売りに来た。先日宮村に行った折、豆腐屋のラッパが聞こえたので急いで行って見ると、 何とその当時と同じ豆腐屋で私のことも覚えていてくれた。
最後に、これらのお店の屋号、店名を知ってる方、GuestBookへ投稿おねがいします。





<関連項目>
麻布宮村町
しみず ”ボタン”屋
麻布のショ−ン・コネリ−
狐坂
狸坂
宮村町の宗英屋敷
渡辺大隅守
内田山由来
岡本綺堂の麻布
宮村町の千蔵寺
麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その1
麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その2
続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その4−確定された宮村側入口−
宮村Valley−宮村新道
宮村町の正念寺
幻の山水舎ラムネ瓶
宮村町の川端康成
芳川伯家婦人心中
















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54.麻布な涌き水

 
      
一の橋公園噴水
一の橋公園噴水
   
宮村町細流
宮村町細流
Rinksでお世話になっている「東京の水」の本田さんから宮村町の小川(本当は下水と呼んだ方が近いが、あえて”おがわ”と言わせて頂く)に付いてのご質問があった。氏は古川の事を詳細に研究されている方で、その流域の涌き水と言う事でのご質問であった。以下は私が返事したメ−ルからの抜粋。
”小川”ですが、私は本光寺の横に生まれ住んでい ましたが、地元でもあの小川を名称で呼ぶのを聞いたことがなく 詳細はまったく不明です。
私が小学生の頃(昭和40年代前半)には、 すでに下水化しており、今と同じ状態でした。しかし「十番わがふるさと」 に、この小川の記載があるので抜粋します。

○(11)法久山安全寺とその周辺
  
「.....家の前の40センチ幅の溝は小川の流れのように清水が四六時中   流れていた。この水はがま池の水や周囲の高台から懇々と涌き出る   水が流れ込むもので、田舎の小川のように美しい風情があった。   今は暗渠になっているが、現在でも一カ所だけ昔をしのぶ所が残っている。   (奥の三叉路石屋の前の下水)......。」
○(12)明見山本光寺とその周辺
「.....大雨でも降ると大変だ。宮村通りの溝は溢れ、道全体が小川のようになる。 子供達は俄か漁師となって古スダレを持ち出し、溝に仕掛けてどじょうや小魚をとる。 ........。」
また、文政年間(1818年〜30年)に書かれた「江戸町方書上」(三)麻布編には、
○一、板橋一ヵ所。渡り長さ三尺、巾三尺。町内中ほどにて内田伊勢守様お屋敷境より横切り下水の上にこれあり候。
○一、石橋一ヵ所。渡り長さ四尺、巾三尺。町内西の方新道境にこれあり、右二ヶ所とも掛けはじめ年代相分かり申さず候。

この小川の他にも、テレビ朝日通りから十番方面に抜ける玄碩坂の途中「妙経寺」 のあたりのマンホ−ルの上に立ち、耳をそばだてるとゴ−ゴ−とすごい勢いで 水が流れているのが聞こえます。これは、つい最近までこのあたりにあった”池” (私が子供の頃は、ハラキンと言う釣堀でした。)の涌き水がそのまま下水に流れ 込んでいる音の様です。

また一橋公園の噴水も古くからの涌き水との事。前出「十番わがふるさと」(二)一ノ橋の井戸と言う項に 関東大震災直後位の話として以下が掲載されている。
「小林馬肉店を横へ薪河岸の方へ曲がると高さ1間程の吹き上げ井戸が四六時中清水を吹き上げていた。
表の湯屋が使用しているらしいが、太い竹の樋から滝のように流れているので、隣り近所の人々もこの水を利用していた。
とても旨い水で冬暖かくお湯のようだし、夏は氷水に負けない冷たさだ。水道を引いている家でもこの井戸で用を足していた。特に茶の湯の通人は、わざわざ遠くから汲みに来た。天現寺、金杉橋辺のファンは電車に乗って汲みに来たものだ。」

その他にも「がま池」「麻布山善福寺、柳の井戸」「ニッカ池」「本村小学校横の釣堀、衆楽園(港区南麻布3-9-6)の池」「有栖川公園」など水源には事欠かない。 また麻布十番にも戦前まで大きな溝があり川が流れていた。(おそらく前出の水源の小川が集合した川だったと思われる。)川には網代橋が架かっていて、そして各商店も客のために自前で木製の橋を架けていて、大雨が降るとよく流されたとある(網代橋の柱石は、十番稲荷入り口に現在も保存されています)。がまた溝によくお金や財布などの物を落とす人がいたので、専門のさらい屋がいた。
この溝も昭和3年ころに約半年間の工事で暗渠となった。この工期の間商店は開店休業状態に追い込まれたが、保証を要求する者など皆無であったと言われる。





<関連項目>
麻布の水系
柳の井戸
はらきんの釣り堀
麻布七不思議−不思議話の生まれる背景
麻布七不思議−がま池
麻布の水道(江戸時代)
麻布の水道(明治の麻布水道)
「麻布新堀竹谷町」のがま池
六本木随筆のがま池
がま池アップアップ
善福寺池
渋谷川〜古川
小山橋の八郎右衛門水車
福沢諭吉の狸蕎麦水車
古川唯一の分流「入間川」
三田用(上)水と分水
延宝年間図の古川
渋谷川開口部〜古川区域の水車総集編
古川唯一の分流「入間川」















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55.麻布で黄が知れぬ

江戸の頃、「お前、麻布で気(木)が知れぬ」という言いまわしがあった。これは、麻布には木が多かったため深川あたりの 下町の「江戸っ子」にすれば、麻布はひどい田舎に思え江戸と呼ぶにはふさわしくない。と言うような意味から、酔狂な人に多少の軽蔑を込めた言葉として「気の知れぬ人」「訳のわからぬ人」「ポ−っとしている人」などに使われたものだと言われる。

しかし調べてみると語源は二世「市川団十郎」の句に「白菊か夜は麻布の黄が知れぬ」とありこれは馬場文耕の「愚痴拾遣物語」で、堺町の花屋、六兵衛と言う者が得意先から「黄菊」を仰せつかり、夜中に遠く麻布の菊畑まで行って菊を刈って帰り、翌朝見てみたら皆「白菊」だった。再び麻布に行く時間も無く、これでは得意先の注文に答えられないと途方に暮れ知り合いの市川団十郎に打ち明けると(当時堺町辺は、劇場街だった。)、団十郎は筆をとって紙に、

先師の句に、
真白に夜は黄菊の老いにけり
かくあれば、黄菊を白とも、白を黄菊ともまちがいたるは、
この人の罪にあらず。
白菊か夜は麻布の黄が知れぬ

としたためて、花屋に与えた。この句が吉原で流行り、やがて江戸中で言われるようになった。

また麻布村はかなり広大な地域にまたがっていたため、目(黒)、(白)金、(赤)坂、(青)山はあるが(黄)が無いので「黄が知れぬ」とも言われた。何故目黒やその他が麻布なんだ!と仰る方もいるであろうが、昔の麻布領は広く、また「飛び地」もあった。柳生但馬守の麻布下屋敷などは下目黒にあった。しかしこれは麻布領である。

これは、江戸の頃に五色不動参りが流行っていたころの話だといわれる。
また同様に,麻布に関係した言いまわしで
「どうでありまの、水天宮」などというものもある。



<関連項目>
麻布の俳句・川柳・狂歌









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56.麻布の民話

麻布には昔話や不思議話が多くあるが、その中で今回は「奉行所欺してホウビ」と言う民話をご紹介。

江戸の頃、麻布の裏長屋に、親孝行な浪人兄弟が住んでいた。
兄弟は力を合わせて手内職に精を出すのだが、暮しは貧しく、ときには自分達の食事を割いて、母親だけ食べさせる事もあった。そして お金さえあったら、もっと母親に楽をさせてあげらるのにと兄弟は、ただお金の無い事を嘆いていた。
ある日、外から帰った兄は思い余って突然弟に、自分をキリシタンの信者だと訴えれば褒美のお金がもらえ、母親に楽をさせられると持ちかけた。
すると弟も、目上の兄を訴えては天罰が下る。自分を訴えてと兄に頼み、両者とも譲らなかった。
しかし、一度言い出すと主張を曲げない性格の兄に「おいさき短い母親のためにこの命を捧げるのも、惜しくは無い。」と言われると、とうとう弟も根負けしてしまい、弟が兄を訴えることに決まった。
当時キリシタンの信仰は禁制で、幕府は信者を取り締まりる為に、密告者には褒美を出す制度を設けていた。
数日後、弟は奉行所に「恐れながら、私の兄はキリシタンの信者です。」と兄を訴え、兄はすぐに捕まり牢獄に入れられた。
投獄されると、仲間の信者を言うようにと拷問をかけられ火責め、水責が毎日続いた。しかし兄はただ自分はキリシタン信者だと繰り返す ばかりで、いっそう激しい拷問にかけられた。

弟の方も、兄が信者ならば弟も怪しいと疑いをかけられたが、訴人ということで詮議を免れ、奉行より銀100枚を褒美にもらった。 そのお金で念願だった母親に毎日御馳走を振るまい、母に心配をかけないように、兄は大きな仕事で他国に出稼ぎに行ったと偽った。 しかし母親は、弟の態度からどうもおかしいと不審を抱きはじめた。そんなある夜、褒美の大金を母親に見つかり、とうとう弟は一切を打ち明けた。すると母親は兄弟の孝行心に涙を流して感謝した。しかし嘘をついてまでの孝行は、真の孝行では無いと弟を諭し、今からでも 奉行所に本当の事を打ち明け、素直に罪を償えと涙ながらに訴えた。

次の朝、弟は奉行所に行き、親孝行するためのお金欲しさに兄を信者に仕立て上げてしまったと、自首をした。
役人はすぐに兄を牢から出して、弟に対面させた。弟が母親に打ち明けた事を知らない兄は、まだ自分は信者だと言い張り弟は頭がおかしいとまで言って、自分を犠牲にしようとしたが、昨夜の母の言葉を弟から聞かされると、自分の孝行心の間違えを悟り、ついに弟の言い分を認めた。奉行所でもキリシタンのお唱えも知らない兄に疑問を持っていたところだったので、弟の言い分に納得してすぐに上役に報告し、この度の罪を改めて吟味する事になった。

その結果、兄がキリシタンである確証は無いが、公儀を偽った罪は重く、死罪にも値する。しかし親孝行のため、はりつけの刑を覚悟の上で嘘をついたのは、まれに見る孝行心の厚さからだと罪を許され、かえって褒められた。牢を出された兄は、町役人の樽屋藤左衛門に預けられ、後に無罪放免となった。このあと、改めて兄弟の孝行心に対し、宗門改奉行、井上筑前守からは、金子10両、町奉行、加賀仙民部少輔から金子1枚、籠奉行、石出帯刀から金3両、樽屋藤左衛門から3両の褒美を授かった。そしてこの話はたちまち江戸中に広まり、会津若松藩主、保科肥後守正之は兄弟の孝行心に感激して家臣として召抱えたという。

麻布区史、新修港区史などで「町役人の樽屋藤左衛門」(おそらく町名主?)を探したが見つけることはできなかった。しかし「麻布区史」の第4節「孝義の表彰」には、享保五年(1720年)から孝義を褒賞する制度が将軍吉宗により定められ、麻布でも以下の者たちが褒賞されている事がわかった。

○市兵衛町平七
寛政3年3月17日に家主の平七は、借地人伊勢屋惣右衛門への多年の親切に対して、御褒美として白銀五枚を下賜された。
○今井寺町藤助
寛政4年2月25日、家持孫八の召使藤助は主人に対しての忠義の厚さから、褒美として白銀五枚を賜った。
○飯倉新町ゑつ
文政6年5月21日、夫への貞節をもって、町奉行榊原主計より鳥目七貫文を褒賜された。
○桜田町寅吉
文化8年4月26日、九歳の少年寅吉は、両親への孝養により根岸肥前守より鳥目十貫文を下賜された。
○飯倉四丁目金之助
文政8年12月22日、喜八店印判職人馬之助の倅金之助15歳は、幼年の身を以って父並びに祖父母への孝養から筒井伊賀守から鳥目5貫文を賞賜された。
○服部眞蔵
天保15年12月26日、麻布狸穴町儒業者、服部南郭の倅で浪人の眞蔵は家業精励をもって、銀20枚を下賜された。









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57.1965年11月17日

今年は、流星群の当り年だそうだ。10月にジャコビニ彗星の大接近があり、26年前の1972年10月9日、中学生だった私は、近所の人に混じって宮村町本光寺の境内で曇った空を見上げていたのを思い出した。この日の様子は、松任谷由実がジャコビニ彗星の日(1979年12月1日発売 東芝EMI CA32-1134)という曲に歌っており、やっぱりみんな見えなかったんだ。などと思った。あいにく今回も見逃してしまったが、今度はしし座の流星群が33年ぶりに大出現するとの事。
「しし座流星群」は、テンペル・タットルと言う彗星を母彗星とする流星群で、毎年11月17、18日頃をピークに数日間流星を出現させる。また約33年を周期として流星出現数が大きく増減する特徴がある。特に母彗星が回帰する前後の数年間は流星数の増加が顕著で、過去の1799年、1833年などには、天空を埋め尽くすほどの流星の大出現があったと記録されている。このときに見えた流星数は、1時間あたり数万個とも数10万個ともいわれる。しかし、母彗星が回帰した年でもそのような大出現がないこともある。たとえば、1932年などは極大時でも1時間あたりせいぜい数10個程度の出現にとどまったということである。今回は月明り も無く、しし座が程よい高度に上る18日午前4時ころがには1時間で5000個もの流れ星が見えると言う予測もあり、天気さえ良ければ、かなりの数が期待できそうだ。前回の1965年私は小学校2年生で、星には全く興味がない子供だった。おそらく、がま池でザリガニを釣ったり、原っぱでバッタを追いかけ回していたと思う。ちなみに1965年の世相を以下に。

・佐藤首相が訪米しジョンソン大統領と会談。
・ビ−トルズ映画「ヤア!ヤア!ヤア!」「HELP」が公開。
・「サウンド・オブ・ミュ−ジック」、007シリ−ズ「ゴ−ルドフィンガ−」が公開。
・エレキブ−ムでベンチャ−ズが大人気。
・日本テレビ「11PM」がスタ−ト。
・北爆開始、ベトナム戦争が激化。
・不振の邦画界で東映が「網走番外地」をシリ−ズ化
・プロ野球がドラフト制を実施。
・べ平連、原水禁が結成
・巨人8時半の男宮田投手の活躍でリ−グ優勝。川上、牧野体制が確立しV9へスタ−ト。
・南海の野村克也捕手がホ−ムラン王、首位打者、打点王で2リ−グ制発足以来、初の三冠王に
・TVアニメ「オバケのQ太郎」「ス−パ−ジェッタ−」「ジャングル大帝」がスタ−ト。
・アメリカ製ドラマ「0011ナポレオンソロ」「FBI」が人気になる。
・ニュ−ス・ワイド「スタジオ102」「木島則夫モ−ニング・ショ−」「アフタヌ−ン・ショ−」がスタ−ト
・ドラマ「ザ・ガ−ドマン」「青春とは何だ」「太閤記」がスタ−ト。
・商品−−−アサヒ・ペンタックス、コニカ・オ−トフレックス、セイコ−・スポ−ツダイバ−、トヨタスポ−ツ800、ホンダS800、ジャルパック、平凡パンチデラックス、宝石
・ボ−リング場、釣堀が大盛況。銀座のビル2階に冷房付きの釣堀が出来て話題になる。
・CM
「ファイトで行こう」王選手、リポビタンD
「飲んでますか」三船敏郎、アリナミンA
「ワタシニモ、ウツセマス」フジカ・シングル8











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58.麻布の民話(その2)

前回の「奉行所欺してホウビ」に続き今回も麻布近辺の民話を御紹介。

無縁をかこつ夫婦(麻布)

文化の頃(1804〜17年)、麻布のある寺で、幽霊が夜な夜な物語りをしている声が聞こえるという。 胆のすわった一人の商人がそれを聞き、月のほの暗い晩に宵の内がら出かけて行って、大きな墓所のかげに忍んだ。 夜もふけて九つ(午前12時頃)を過ぎると、虫の声も大きくなって、月も時々顔を覗かせてはまた雲間い隠れる。 夜風も身にしみてきて、いくらか湿ってきたような気がする。
すると、芝垣の方から人が立ち上がる気配がすると、 また一人が続いて現れて、大そう睦まじそうに語りあっている。
商人が耳をすまして聞くと、どうやらしばらく逢えなかった のを慰め逢っているように聞こえる。
月が明るくなって来たのを幸いに、商人はのび上がって見ると、一人は24〜25歳の痩せた男で、もう一人は60がらみの老女で、歳 の違いから考えると親子であるが、話の内容から察するとどうしても夫婦のようであった。不思議に思っている内に、風が強くなって きた為か、二人の姿は消えてしまった。
あくる日、寺へ行き、昨夜の様子を住職に話して、昨夜二人がいたあたりに行ってみると、そこには二人の名を記した墓があった。 住職に尋ねると、墓は無縁になっているようであった。
墓の主は、男が28歳でこの世を去り、女は女房で、こちらは生き延びて2〜3年前に60歳で亡くなっていた。不釣合いに感じた歳の差 は、二人が現世にあった最後の歳のためであると判った。そして夫婦は無縁では浮かぶことが出来ないので、それを訴えに幽霊となって 出てきたのであろうと、住職が語ったと言われる。









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59.天井桟敷館

      
元麻布の天井桟敷館
元麻布の天井桟敷館
20年以上前に私が友達と酒などを飲み、十番から宮村町に向かう薄暗い道を歩いていると、よく異様な集団がジョギングしているのに出会った。黒い上下のスエットを着て、裸足。そして頭もピカピカに剃り込んでいる。夜道で見ると、目だけが異様にひかり、とても怖かったのを覚えている。
最初は何だかわからなかったが、じきにその人達が天井桟敷の研究生であることが判った。 昭和51年(1976年)、それまで7年間あった渋谷から元麻布3丁目の山水舎工場跡に移転してきた。
天井桟敷は寺山修司が、昭和42年に横尾忠則、東由多加、九条映子らと設立。「青森県のせむし男」「大山デブコの犯罪」「毛皮のマリー」など次々に公演し話題になったアンダ−グランド劇団である。麻布に移った天井桟敷は、アングラ(何て懐かしい響きでしょう!)劇団のチケットなどを扱う「アンダ−グランド・プレイガイド」、世界中の演劇雑誌や、国内の映画、演劇書だけを扱った「ブック・コ−ナ−」、小公演、朗読会もできる喫茶室などがあり、空いている時は稽古場としても使用されていたそうだ。当時、私は演劇などに全く興味が無かったので、この異様な人達に興味を引かれる事は無く、建物に入った事も無かった。ただその前を通る時、異様なほど真っ黒に塗られた建物と、異様な風体の人達に只ならぬものを感じるだけだった。
寺山修司の死後、天井桟敷も麻布から姿を消した。あの前を通ると建物の前で「うんこ座り」でタバコをふかしていた寺山修司の記憶が、時々脳裏をかすめることがある。

それから数年が過ぎ、三田に飲み友達が多く出来て毎晩飲み歩いている頃、田町のとある飲み屋に入ると生憎店内は混み合っていてカウンタ−席しか空いていなかった。待ち合わせた友人はまだ来ていなく、仕方無しにカウンタ―に座りあたりを見回すと、どうも見覚えのある顔が目に付いた。
しかし、そんなに親しい間柄ではなかったようで、いくら考えても思い出せない。やっと思い出したのは、最初のビ−ル瓶が空になる頃で、彼は天井桟敷の人だった。

待ち合わせの友人も未だに姿を見せず、また酔いも手伝って恐る恐る声をかけてみると、やはりそうであった。話してみると以外に普通で、年は私と一つ違い、天井桟敷館の後は、音楽関係の仕事をしているとの事だった。その後、彼は私達と毎日のように飲むようになり、親しくなっていった。
在る夜、三田でしこたまに飲んだ夜の1時頃、突然彼が「海へいこう!」と言い出し、車を調達してそのまま直行。気が付くと4時には伊豆の田牛(とうじ)海岸に立っていた。海水パンツもないのに、トランクスになりそのままうみへドボン! 一気に酔いが覚め、水中から顔を出して空を見上げると、東の空の朝焼けと反対側には、まだ輝度を失っていない月が同時に見えた。今だにこの日の事を強く覚えているのは、この空をみたからである。
今はこの彼との付き合いも途絶えたが、たまたま私は、ブラウン管で目にした事がある。その番組は、「オ−・レンジャ−」であった。



<関連項目>
幻の山水舎ラムネ瓶
麻布宮村町
しみず ”ボタン”屋
麻布のショ−ン・コネリ−
狐坂
狸坂
宮村町の宗英屋敷
渡辺大隅守
内田山由来
岡本綺堂の麻布
宮村町の千蔵寺
162. 麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その1
162. 麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その2
. 続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その4−確定された宮村側入口−
宮村Valley−宮村新道
宮村町の正念寺
宮村町の川端康成
芳川伯家婦人心中


















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60.沖田総司(その1)

 
      
一向山専称寺
一向山専称寺
      
沖田総司墓
沖田総司墓
      
参拝の注意書き
参拝の注意書き
 
新撰組の沖田総司は幼名を惣次郎といい、麻布桜田町の陸奥白河藩10万石阿部能登守下屋敷で生まれたといわれる。父の勝次郎は、 二十二俵二人扶持の「武家奉公人」と言われる最下級の武士だった。総司が数えで2歳のときに、父勝次郎が死亡すると、藩は惣次郎が家督を継ぐことを許さず財政難を理由に沖田家を解雇した。母親と二人の姉、幼い惣次郎だけになった沖田家は、翌年惣次郎と11歳違う長姉のミツに日野の井上林太郎と言う婿を迎えて沖田家を継がせた。その後藩下屋敷を追い出された一家の足跡を残したものは一切なく、不明である。しかし林太郎の実家のある日野に住み、農耕などで生計をたてたものかもしれないと記述された本もある。その後9歳になった惣次郎は沖田家の「口減らし」のため、市ヶ谷の高良屋敷で試衛館という剣術道場を開く近藤周助の内弟子となる。試衛館は天然理心流という流派を伝えていたが、実質本位のそれは江戸市中では「いも剣法」と呼ばれ、試衛館も「いも道場」と呼ばれた。

しかしこの「いも剣法」には隠れた需要があった。それは江戸草創期、大久保長安により結成され、中仙道からの江戸攻撃を守るため半士半農の生活をかたくなに守り続けてきた「八王子千人同心」に感化された多摩地域の農民達である。彼らにとっては、形式美の剣術よりも「いも剣法」と呼ばれ実戦的な天然理心流の方が向いていた。しかし農民であるために、田畑を投げ打って江戸市ヶ谷まで通うことは出来ない。そこで自然と近藤周助の方が多摩に出向き稽古をつけることが始まった。このため多摩地域の豪農には物置や離れなどに道場を持つものが多かった。

試衛館の内弟子となった惣次郎だが、実質は下男並の扱いだった。あまり好かれなかった近藤周助の妻から朝から晩までびっしりと家事、道場の掃除を言いつけられ、剣術の稽古もままならない。あまりの激務に9歳の惣次郎は幾度と無く涙をこぼし、姉家族の暖かさを思い出した。そんな惣次郎の心の支えになったのは、内弟子になって初めての剣術の稽古中に「この子供には、剣才があります。」と近藤周助に助言した男の言葉であった。男は、老いた道場主近藤周助の変わりに普段稽古をつけていた島崎勇である。彼もまた多摩調布上石原村の豪農の三男であった。口が大きく武骨な顔立ちの島崎は、その印象とは反対に酒も飲まず、大福餅の好きな温厚な性格の男であった。そして彼が後に新撰組隊長になる近藤勇である。











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61.だまって居よ屋敷

江戸天明期、10代将軍家治が世を治めていた頃の話で麻布に「だまって居よ屋敷」というものがあって評判になったと言われる。

四谷通りの小鳥屋で手広く商いをしていた喜右衛門という者が通りががりの武家に「うずら」の注文を受けた。その武家は今生憎 持ち合わせが少ないから屋敷で払いたいと言うので、喜右衛門はうずらを届に麻布にあるという武家の屋敷まで付いて行く事になった。
屋敷に着いてみるとひどく朽ち果てた屋敷で、中に通され八畳間で煙草を吸いながら待って部屋の様子を見まわしてみると敷居鴨居などは所々曲がり、畳は茶色く変色していてジメジメし、ふすま、唐紙なども穴だらけだった。屋敷の様子から相当に困窮している武家だなどと思いながら待っていると、やがて日も傾き部屋が薄暗くなってきた。「カサカサ、カサカサ」と音がするのでふと気が着くと何時の間に入ってきたのか十ばかりの身なりも卑しげな男の子がいた。この子供が床の間にかけてあった掛軸を巻き上げては、途中でパラリと下に落とし、また巻き上げるということを繰り返していた。最初、喜右衛門もどうせ安物の掛軸だろうと放っておいたが、あまりしつこく繰り返すので「ぼうや、そんなことをしてはいけません!」と叱りつけた。ところがその男の子は怯むどころか、「黙って居よ!」と大人のような声を出し、おもむろに顔をこちらに向けた。喜右衛門はその顔を見ると驚愕してしまった。何と、青白い顔で目も鼻も口もない「のっぺらぼう」なのであった。その瞬間に喜右衛門は「わあっ!」と声を出したきり気絶してしまった。

どのくらい時間が経ったものか、屋敷の者が気絶している喜右衛門を見つけ大騒ぎになり看病してその後駕籠で店まで送り届ける など親切を尽くしたそうだが、屋敷の者が言うには、この屋敷には一年に4〜5回のっぺらぼうが現れるという。またある時は、この屋敷で殿様の奥方が一人で居ると、いつのまにか十ばかりの子供が部屋に置いてあった菓子を食べていた。奥方が「何者です!」と声をあげると例によって「黙って居よ!」と言いながら振り向き、何もついていないのっぺりした顔を見せ、そのまま姿を消したと言う。 そしてある時は、目が一つだけついている「一つ目小僧」であったという。

この屋敷は麻布とあるだけではっきりしないが、80歳で死んだ元豊後藩士の太田逍遥翁が語った「実話」であると言う。









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62.乃木希典(その2)美人コンテスト

   
末広ヒロ子
末広ヒロ子
前回(その1)で幼年期の乃木将軍を書いたが、今回はその続編ではなく、余話としての話を御紹介。

日露戦争で旅順要塞を陥落させ、1906年(明治39年)に凱旋帰国し、軍事参議官に任ぜられた乃木は、翌1907年(明治40年)1月、学習院院長となった。おりしもこの年には、日本で最初の美人コンテストが開かれた。これは、アメリカの新聞「シカゴ・トリビュ−ン」が世界の素人美人コンテストを企画し、日本代表を「時事新報」社に依頼したのがきっかけとなった。審査員は芸術家、歌舞伎役者、医者など13名で、岡田三郎助、高村光雲、中村芝翫、三島通良などが名を連ねた。選考結果は翌年3月に発表され1位に輝いたのは、学習院女学部中等科3年の末広ヒロ子という女性だった。応募は本人が知らないうちに義兄がしたものであったといわれ、現代ならばさしずめシンデレラ・スト−リ−として、その後のスタ−への道を約束されたようなものであるが、当時で、しかも学習院であったことが災いした。

コンテストの結果は世間で大評判となり、ほどなく学習院院長の乃木の耳に達し、乃木は激怒した。無骨の権化のような乃木は、学生に対して平素から「男は片仮名を使え、めめしい平仮名は使うな!」「男は弁当の風呂敷に、赤や綺麗な模様のものは使うな!」「学生の分際で腕時計は持つな!」「野球、テニスなど西洋のスポ−ツはするな!」などと言っていたので、美人コンテストなど認めるはずも無く、末広ヒロ子は即刻、退学処分となってしまった。

こうして歴史に残るべき初代ミス日本は、失意のどん底に落とされてしまった。一方、2位に入選した金田ケン子(19歳)は末広ヒロ子と正反対に、発表から数日後に200通もの結婚の申し込みを受け、その父は手放しで喜んだという。

その後、「時事新報」は不幸なミス日本の入選を取り消そうとせず、末広ヒロ子の写真を「シカゴ・トリビュ−ン」に送った。結果は、6位になったという説もあるが、実際は写真が届いたのが6番目ということらしく、順位は不明である。

ここまでだと、頑固じいさんに葬り去られた悲劇の初代ミス日本という結末になってしまうが、実はこの話には、後日談がある。
乃木将軍の日露戦争当時の戦友に、野津道貫という元帥がいた。この元帥は侯爵でもあり、子供に鎮之助という大尉がいた。乃木はこの 鎮之助大尉に末広ヒロ子を娶らせ、自らが媒酌人となって仲介の労をとった。乃木の真意がどこにあったかを示す文献は現存しないが、この一件から乃木が、退学処分にした末広ヒロ子を気にかけていた事は間違いなく、また末広ヒロ子自身も結果的には「侯爵婦人」と呼ばれる身分になり得たために、「ハッピ−・エンド」といっても良いと思われる。



<関連項目>
六本木ヒルズ
乃木希典(その1)
ニッカ池 (赤穂浪士その一)
ニッカ池 (赤穂浪士その二)













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63.扇箱の秘密

江戸の頃、越前鯖江藩の江戸屋敷に青木一庵という医師がいた。彼には芝に住む北島柳元という医師の友人がいて、二人は共に長崎の出身の上、同じ頃に江戸に出て来た事もあり、大変に仲が良かった。

寛政元年(1789年)の夏、一庵は腫れ物を患い、激痛で寝込んでしまった。そしてたまらずに、柳元に治療を頼むと、腫れ物が化膿して寝込んでいた一庵の病状も、柳元の徹夜の献身的な治療などで回復に向かった。柳元が一安心して芝に戻っていった後、一庵は藩邸で一人やすんでいた。

激痛が去ったとはいえ、まだ痛みが残り、丑三つ頃(午前2時頃)までなかなか熟睡できないでまどろんでいると、「お願いしたい事がございます。」という女性の声が聞こえた。藩中の女性にしては、尋常でないこんな時刻である。怪しいと思いつつ一庵は「どなたですか?」とたずねると、女性は「私は奥州三春(現福井県)の者でございます。」と答えた。元来、一庵は豪胆な気性だったので、「外にいられては、どなたかわかりません。用があるなら中へどうぞ。」と言った。すると女性は障子をあけて部屋に入ってきた。みると20歳位の青ざめた顔をした女性で、着物の柄もぼんやりとして定かでない。一庵は女性に向かって「ここは、出入りの厳しい大名屋敷である。それにこのような時刻に女が一人であらわれるとは合点がいかぬ。お前は狐狸で、私をたぶらかしに来たのであろう。」と言い、脇差を取ると、女性は涙を流し、

「お疑いはごもっともでございますが、私は決してそのような者ではございません。私は申し上げましたように奥州三春でうまれた女でございますが、お察しの通り、実はこの世の者ではございません。お願いと申しますのは、北島柳元様のところに起居している者が所持する、封じた扇箱(扇を入れておく箱)を貰い受けていただきたいのでございます。」と言いさめざめと泣いた。

「そのようなことなら、私ではなく北島柳元殿のところへ行って頼むのが筋であろう。」と一庵がたしなめると

「柳元様のお宅の玄関には 御札が貼ってありますので、私のような者は入る事が出来ません。それゆえ柳元様とご懇意のあなた様にお願い申し上げるのです。」と答えた。

「それでは、その扇箱を貰い受けて、その方に渡せばよいのか」とたずねると、

「いえ、お渡しくださらなくても結構です。いづれの地でも、墓所のある所に埋めて、ささやかな仏事をしていただければ、それで望みは果たされます。どうか、この願いをお聞き届けください。」と言ったので一庵は、

「それならば易いこと、柳元殿に申し上げてみよう。しかし、その箱には何が入っているのか」とただすと、

「それは、持ち主にお聞きくださいまし」と言ったまま、姿を消してしまった。

一庵は、どうも不思議な話だと思いをめぐらしていると、とうとう夜があけてしまった。早速、柳元のもとに大至急来るように使いをだして待っていると、ほどなくかけつけた。一庵が昨夜の不思議な訪問者の話をすべて打ち明けると、柳元もおおいに怪しみ、早速自宅に戻って調べることにした。

家に戻った柳元は、三春から来ている弟子を呼んだが、あいにく銭湯に出かけていたのでほかの弟子に、その弟子の持ち物を調べさせた。すると、はたして文箱の中から、封印をした扇箱が見つかった。元どうりにして弟子の帰りを待っていると、程なく弟子が帰ってきたので早速呼び寄せ、柳元は何か因縁のある品を所持していないかと、問いただした。「そのような物は、持っておりません。」と否定する弟子に柳元は、あの扇箱は何かと尋ねた。扇箱と言われて、弟子はうつむいたまましばらく黙っていたが、やがて意を決したのか、頭をあげて 何故、扇箱のことを知ったのか、柳元に問うた。柳元は一庵から聞いた話をすべて弟子に聞かせると、弟子は、はらはらと涙を流し事の次第を語り始めた。それによると.......

その弟子の家は、三春で細々と農家を営んでいたが、ふとした事から父親が病につくと、わずかな土地も人手に渡ってしまい一家は離散した。弟子は口減らしのために菩提寺の奉公に出された。三年ほど奉公してその後、家族は小さな家を借りて住む事が出来、弟子は近所のいろいろな家の仕事を手伝う雇い人となって暮した。やがて寺で修行した弟子は読み書きが出来たので重宝がられ、太郎兵衛という豪農の専属の雇い人となった。弟子は読み書きの能力を生かした、祐筆の手伝いとして奉公したが、日々太郎兵衛の家族と会っているうちに、その一人娘と恋仲になってしまい、やがて娘は懐妊してしまった。

その頃、娘には婿を取ることが決まり思い悩んでいると、娘は私と駆け落ちをして欲しいと言い張った。ある夜とうとう、言われるままに弟子は娘と手を取って出奔してしまった。娘は家を出る時に二百両 という大金を持ち出し、これで商売をして暮そうと持ちかけた。
あてもなしに、しばらく二人は歩きつづけたが、弟子は太郎兵衛からの大恩と一人娘を失った悲しみを思いまた、不本意ながら二百両を持ち出させた結果に天罰を考え、おくればせながら考えを正しくした。近所に娘も知らない太郎兵衛の縁故の家があることを思い出した弟子は、そこに向った。縁者の家に着くと弟子は娘に旅篭と偽り、家の外で娘を待たせ、家の主人に今までの一部始終を語って、頭をついて深く詫びた。すると主人は弟子の正直に心を打たれ、二百両は自分が預かり太郎兵衛に返すことにして、このまま娘を置いていく事が両方の幸せだと説き、返したお金とは別に7両という大金を弟子に与え商売でも始めるように言った。座敷で眠っている娘を残し、主人にその後をまかせた弟子は、娘への恋慕を振りきって江戸へと一人旅立った。

その後江戸で、松平右近の足軽として奉公した弟子は、主人の用事で他出したおり偶然に故郷の知人と行き会い、いろいろと話をしたなかに、太郎兵衛の娘はその後家に帰り、しばらくして出産したが子供は死産で娘も産後の肥立ちが悪く、ほどなく死んでしまったと聞いた。 弟子はその話を聞くと、娘が不憫でしかたなくなり出家して娘と子供の菩提を弔い暮そうと心に決め、父親に出家を願い出た。しかし父親は出家を許さなかったため、せめて髪をおろそう(当時の医者は剃髪した者が多かった)と北島柳元の弟子となった。

ここまで語った弟子が、扇箱をあけると中には髻(もとどり)と菩提を弔うため自分の血で書いた念仏があった。
柳元は話を聞き終わるとおおいに感じ入り、自分の菩提寺である麻布永坂の光賢寺の墓地に髪と念仏を納め、髪塚という碑を建てて盛大に仏事を執り行った。

その晩、かの女性が一庵の枕元に再び立ち、供養の礼とこれで思い残すことは何もない。と告げて消えた。その後、柳元の弟子長吉は、かねてからの望みどおりに、光賢寺の弟子となって出家し、その後修行を重ねて武州桶川の西念寺の住職になった。この話は 柳元の友人、清家玄洞という医師が語ったと言う。









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64.寺坂吉右衛門

      
日東山曹渓寺
日東山曹渓寺
   
寺坂吉右衛門墓−麻布区史
寺坂吉右衛門墓−麻布区史
   
泉岳寺の供養墓
泉岳寺の供養墓
赤穂浪士は通常四十七士とされるが、泉岳寺に眠るのは、45人しかいない。これは、毛利家に預けられていた間 新六が切腹後、親族の中堂又助に遺骸を引き取られ築地の本願寺別院に埋葬されたのと、討ち入り後、四大名家(細川、久松、毛利、水野)にお預けとなった浪士たちにも含まれない、寺坂吉右衛門が抜けているためである。吉良邸の襲撃は確かに四十七人で行われたが、幕府に自首をしたのは46人。寺坂吉右衛門は何故、お預けとならなかったのであろうか.....。

寺坂吉右衛門が討ち入りをせずに「逃亡」した。と言う説が浮上したのは、討ち入りから130年経った天保年間に儒者の大蔵謙斎が唱えた事による。 これは、討ち入り後10日経った12月24日に大石、原、小野寺の連名で寺井玄渓に宛てた手紙と「堀内伝右衛門覚書」のなかで、はっきりと寺坂が討 ち入りをしていないと記述されているのを発見したことによる。また時代は下って近世になり徳富蘇峰が「近世日本国民史・義士編」で逃亡説を 採用したために、寺坂吉右衛門が討ち入りには加わらず逃亡した「不義の士」だという説が一般化した。

しかし、昭和11年に吉田忠左衛門縁戚、伊藤十郎太夫の末裔である伊藤家から多数の資料が発見されたのをもとに、伊藤武雄著「赤穂義士寺坂雪冤録」 が世に出された。特に伊藤十郎太夫の書き置きには、討ち入り後、泉岳寺の門前で大石、原、片岡、間瀬、小野寺、堀部の各氏から播州赤穂に赴く 事を説得された。とあり大石らは後に寺坂が卑怯未練と言われるのを恐れ、一通の書状を持たせたとある。その後寺坂は12月15日朝四つ (午前十時頃)に一同と別れ、一同が仙石邸から4家にお預けとなったのを密かに確認してから江戸を発ち、12月29日に播州亀山に着いたとの 記述がある。また翌2月3日、切腹と決まった吉田忠左衛門が伊藤十郎太夫に送った最後の手紙には、幕府からの咎めもないはずなので、寺坂の ことをくれぐれも宜しく頼むという記述もある。そして最後に、この願いは了解するにとどめて、うかつな事は、言わないで欲しいとはっきり 記されている。これは恐らく、討ち入り前から大石ら首脳陣が自分達の死後、事件の伝承者として一番幕府から詮議を受けにくい最下層の武士 (足軽三両二分二人扶持)である寺坂にその任を決めていたのではなかろうか。この決定には、最下層の足軽にすぎない寺坂が、本懐を遂げる までに耐えたという事実を大石が愛したと言う感情もあったような気がする。また討ち入り後、お預けとなった各浪士も口裏合わせのためにわざわざ、「不届き者」、「逐電」、「欠落」などと謗った形跡もうかがえる。
その後の寺坂が播州で何をしたかは一切不明であるが、浪士切腹の一年後の元禄十七年二月に江戸に出て、仙石伯耆守に自身の処分を願い出た。 しかし「お構いなし」と言われ、立ち退いた。その後、吉田忠左衛門とその縁戚である伊藤十郎太夫に仕えた。もしも逐電した武士であれば、 のこのこと元の上司(寺坂は八歳で吉田忠左衛門の世話になり、足軽となって忠勤した)に伺候できるはずもなく、これからも逃亡説は否定される。 12年間伊藤家に仕えた後、51歳で麻布の曹渓寺の世話になりさらに山内家に仕え、83歳まで長命し、延享4年10月6日(1747年)世を去った。 彼は死ぬまで討ち入り事件について口を閉ざしたままであった。死後、寺坂吉右衛門は関わりのあった曹渓寺に埋葬され法名は「節厳了貞信士」 と言い、生前の寺坂が大石らから与えられた「生き残る」使命を果たし、天寿をまっとうした四十七人目の浪士の厳しかった人生にふさわしいもの である。

冒頭で泉岳寺に赤穂浪士は45人しか眠っていないと書いたが、墓自体は48基ある。これは本願寺別院に埋葬された間 新六の墓碑、 生きていれば浪士の一人となったであろう萱野三平の墓碑、そして「逐道退身信士」と書かれた寺坂吉右衛門の墓碑である。 この泉岳寺墓碑の寺坂の戒名には他の義士の戒名に必ず付けられた「刃」、「劔」の文字もなく、哀れを誘う。
余談だが、「堀内覚書」によると、浪士たちの切腹後、泉岳寺に納められた遺物(刀、脇差、諸道具)などは、泉岳寺により「売り」 に出されてしまったと言う。今残っていれば大変な宝物となったことは間違いない。





<追記>
 
      
土佐新田藩山内家墓所
土佐新田藩山内家墓所
   
山内家墓所の
寺坂吉右衛門墓碑
土佐新田藩山内家墓所
赤穂浪士事件でただ一人の生き残りとなった寺坂吉右衛門は曹渓寺住職の斡旋により土佐麻布支藩に召し抱えられたが、2008年12/4産経新聞によると、 大石内蔵助の一族の子孫が大石神社に寄贈した「弘前大石家文書」は、寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた 高知新田藩の麻布山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせたものといわれ、これに対して、山内家の家臣が答えた書状の中で 吉右衛門の三代子孫の吉右衛門(吉右衛門の名は代々名乗られたと 思われる)は、養子のため血縁はないが主君の側頭を務めていることが書かれているという。 側頭とは主君の側近であるので足軽から数代で側近にまで出世したことがわかり、寺坂家は麻布山内家に代々重用されていたとおもわれる。 しかし、赤穂市議会では 平成四年十二月の市議会本会議において”赤穂義士は四十六士か四十七士か”という質問があり論議を呼んだ。これは 平成元(1989)年に赤穂市が別冊赤穂市史として「忠臣蔵」を公刊した祭に、寺坂吉右衛門を事前逃亡と判断したことにより 義士は四十六人であるとされてしまった。さらに、平成4(1992)年には赤穂市長が本会議において「義士は寺坂吉右衛門を含めた四十七士」 と発言したが市史の訂正は行われず、追記のみとされたことから現在もこの論争はくすぶり続けているという。

「節厳了貞信士」という名誉ある戒名と共に寺坂吉右衛門の本墓がある曹渓寺には麻布山内家歴代藩主の墓がある。そしてその山内家の墓の傍らに は寺坂吉右衛門の孫「信成」が建てた「寺坂信行逸事碑」が建立されている。 前述、曹渓寺・寺坂吉右衛門の戒名は「節厳了貞信士」とお伝えしたが、慶応4(1868)年に泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられた 際の戒名は、「遂道退身信士」と不名誉きわまりない戒名となっている。 しかしながら、寺坂家が仕官先から末代まで重用されることとなった事、大石内蔵助から託された職務を生涯をかけて全うした事、各地の赤穂義士 遺族を訪ねたことから全国7箇所に残された「寺坂吉右衛門の墓」があることなどからも、 寺坂吉右衛門には「遂道退身」の文字は似合わないと私は考える。







<関連記事>
・ニッカ池 (赤穂浪士その一)
・ニッカ池 (赤穂浪士その二)
・水野十郎左衛門
・麻布の吉良上野介
・乃木希典(その1)
・土佐藩麻布支藩の幕末
・ 麻布っ子、上杉鷹山
・上杉家あき長屋怪異の事
・増上寺刃傷事件
・赤穂浪士の麻布通過















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65.徳川さんのクリスマス〜麻布本村町(荒 潤三著)より 

 
   
荒 潤三著 麻布本村町
荒 潤三著 麻布本村町
      
現在の青木坂フランス大使館付近
現在の青木坂フランス大使館付近
      
富士見町徳川邸(昭和8年)
富士見町徳川邸(昭和8年)
麻布本村町の出身で、本村小学校の卒業生でもある荒 潤三氏の著書「麻布本村町」に「徳川さんのクリスマス」という項がある。調度「麻布のクリスマス」を探していたところだったので、是非この話を掲載したいと思い電話帳で荒氏を探し当てた。当ホ−ムペ−ジの趣旨を説明した所、御快諾を頂くことが出来たので感謝しつつ、クリスマスにちなんでご紹介。

南麻布4丁目(旧富士見町)の今はフランス大使館になっている敷地は、江戸の頃は青木美濃守、戸沢上総介の下屋敷であり、荒氏が5〜6歳の頃(昭和5〜6年)は松平春嶽の4男で尾張徳川家の養子となった元尾張藩主17代目の徳川義親候の屋敷であった。義親候は学習院在学中に「ジンマシン」で苦しみ、転地療養でシンガポ−ルに滞在した折、虎狩りをしたので、虎狩りの殿様と言われたが、一面学究肌で気さくな人だったという。

荒氏が小学校に入学する前の年、徳川さん出入りの商人、職人たちに声がかかり、その子供たちがクリスマスの夜、屋敷に招待された。 荒氏の親戚もお抱えの植木職人だったので声がかかったが、子供がなかったので、荒氏とその兄が出かけることになった。よそ行きの洋服 に羊の毛皮のマントを羽織って、店員に連れられて屋敷についた。門を入るととんがり屋根の西洋館があって玄関から中に入ると、今まで暗い夜道を歩いてきたので、別世界のようであったと記されている。明るい照明の下、スト−ブやペチカが燃え、にぎやかな子供たちの声がする部屋に案内されると舞台が設置されていて、そこには口紅をつけ、腰みのをまいた南洋の原住民に扮装した男が腰を振りながら、面白おかしく踊っていた。しばらくしてショ−が終わると、広い部屋に案内された。そこには、大きなシャンデリアが下がり、輝くような明るさであった。真っ白なテ−ブルクロスのかかったテ−ブルには大きなデコレ−ション・ケ−キが置いてあり、おのおのが自由に切り取って食べられる様になっていた。はじめは気後れしていた荒兄弟も、兄が見様見真似でケ−キを切り取って潤三氏にサ−ビスしてくれた。普段まんじゅうや大福を食べていた氏は、初体験のケ−キの味に”上の空”になってしまったとある。(もっとも当時、ケ−キを食べたことがある子供など、そうはいなかったであろうと思われる。)そして、その晩の事は、見るもの聞くものも、ただただ驚くばかりで、こう言う所もあるものかと口も聞けなかった。と記されている。

この夜の様子を氏は、かなり興奮気味に記しており、65年以上たった現在もありありとその夜の事が浮かび上がってくる様がうかがえる。
帰りに玄関の所で、サンタクロ−ス姿の人が、おみやげを渡していた。それを受け取りマントを羽織って外に出ると、冷気の中、し−んと静まりかえったお屋敷町を迎えの店員と三人で歩いて帰った。とある。






<関連項目>
麻布本村町
麻布富士見町
麻布氷川神社
がま池
釜無し横町
古川端薩摩屋敷の犬追い物
高野長英の隠れた麻布
麻布っ子、上杉鷹山
「麻布本村町」のがま池
圓朝のくたびれない黄金餅
麻布の歌舞伎公演−南座と明治座
二つの東福寺の謎
本村町の山車人形と獅子頭
本村町獅子頭の彫工後藤三四郎橘恒俊
麻布氷川神社祭礼の謎
麻布御殿(白金御殿)
寺坂吉右衛門
























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