むかし、むかし5




66.港七福神

 
      
港七福神巡り御朱印
港七福神巡り御朱印
      
十番稲荷神社宝船
十番稲荷神社宝船
      
麻布稲荷七福神巡拝券
麻布稲荷七福神巡拝券
麻布地区には、かつて昭和8年から15年まで行われた「麻布稲荷七福神詣」 と言われる七福神めぐりがあった。戦後これを基本として昭和41年に復活したのが、「港七福神」である。


●麻布稲荷七福神(昭和8年〜15年)
1.熊野神社−恵比寿
2.朝日神社−大黒天
3.氷川神社−毘沙門天
4.末広神社−弁財天
5.久国神社−布袋尊
6.櫻田神社−寿老人
7.天祖神社−福禄寿
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8.竹長神社−宝船
◎港七福神(昭和41年〜現在)
1.熊野神社−恵比寿
2.大法寺−大黒天
3.氷川神社−毘沙門天
4.宝珠院−弁財天
5.久国神社−布袋尊
6.櫻田神社−寿老人
7.天祖神社−福禄寿
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8.十番稲荷−宝船




















麻布稲荷七福神(昭和8年〜15年) → 港 七 福 神(昭和41年〜現在)
No.七福神麻布稲荷七福神住所No.港 七 福 神住所
1.恵比寿飯倉熊野神社港区麻布台2-2*← 〃← 〃
2.大黒天六本木朝日神社港区六本木6-7-149.栄久山大法寺港区元麻布1-1-10
3.毘沙門天麻布氷川神社港区元麻布1-4-2*← 〃← 〃
4.弁財天末広神社昭和20年焼失10.宝珠院港区芝公園4-8-55
5.布袋尊久国神社港区六本木2-1-16*← 〃← 〃
6.寿老人櫻田神社港区西麻布3-2-16*← 〃← 〃
7.福禄寿天祖神社港区六本木7-7-7*← 〃← 〃
8.宝船竹長神社昭和20年焼失11.十番稲荷港区麻布十番1-4-6







 
      
飯倉熊野神社
飯倉熊野神社
      
恵比寿天御朱印
恵比寿天御朱印
1.恵比寿.....飯倉熊野神社

・麻布稲荷七福神・港 七 福 神の恵比寿

・祭神:素戔嗚尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊

・創建:養老年間(717〜724)

芝の海辺に創建されのちに現地に遷座した。文明年間太田道灌により再建され宝物が寄進されたという。 15世紀半ばにはこの神社下の平坦な土地を「勝手が原」 と呼び、太田道灌が江戸城より出陣する際に兵馬を整えた所であると言う。御神紋が八咫烏のためJリーグ関係者の参拝もあるという。




      
六本木朝日神社
六本木朝日神社
2.大黒天.....六本木朝日神社(日ヶ窪稲荷)

・旧麻布稲荷七福神の大黒天

・祭神:倉稲魂大神・市杵島姫大神・大國主大神・大山祇大神・北野天神

・創建:天慶年間(940年)

付近の鎮守として創建され織田信長の息女・朝日姫が草庵に祀った稲荷神像を合祀し、日ヶ窪稲荷と称した。 明和年間(1764〜72)に朝日稲荷と改め、明治期に朝日神社と改称。






 
      
麻布氷川神社
麻布氷川神社
      
毘沙門天御朱印
毘沙門天御朱印
3.毘沙門天.....麻布氷川神社

・麻布稲荷七福神・港 七 福 神の毘沙門天

神社の詳細はこちら。















      
末広稲荷神社
末広稲荷神社
4.弁財天.....末広稲荷神社

・旧麻布稲荷七福神の弁財天
・昭和20年の空襲により焼失し、戦後に竹長稲荷と合祀され十番稲荷神社として再建された。

神社の詳細はこちら。







      
久国神社
久国神社
5.布袋尊.....久国神社

・麻布稲荷七福神・港 七 福 神の布袋尊

祭神:倉稲魂命

創建:不明

千代田村紅葉(現在の皇居)に鎮座していたが長禄3(1457)年、太田道灌の江戸城築城に伴い溜池に遷座。 道灌が久国太刀を寄進したためにこれを社号とした。 寛保1(1741)年現在の地に遷座。




      
櫻田神社
櫻田神社
6.寿老人.....櫻田神社

・麻布稲荷七福神・港 七 福 神の寿老人

神社の詳細はこちら。









      
六本木天祖神社
六本木天祖神社
7.福禄寿.....六本木天祖神社(龍土神明宮)
・麻布稲荷七福神・港 七 福 神の福禄寿

祭神:天照大御神・伊邪那伎命・伊邪那美命

創建:至徳1(1384)年

芝西久保、城山で創建し太田道潅が社殿を再建。元和年間(1615〜24年)江戸城拡張に伴い 当地に遷座。




      
竹長稲荷神社元地
竹長稲荷神社元地
8.宝船.....竹長稲荷神社

・旧麻布稲荷七福神の宝船
・昭和20年の空襲により焼失し、戦後に末広稲荷と合祀され十番稲荷神社として再建された。

神社の詳細はこちら。







      
栄久山大法寺
栄久山大法寺
9.大黒天.....栄久山大法寺

・港 七 福 神の大黒天

寺の詳細はこちら。










      
宝珠院
宝珠院
10.弁財天.....宝珠院

・港 七 福 神の弁財天

芝公園にめり込むような敷地を持ち、増上寺の真裏にあたる。むかし、このあたりに小さな 池があって、その中ほどに弁才天が祭られていたが、池の埋め立てに伴って弁才天は宝珠院に移された。






      
十番稲荷神社
十番稲荷神社
11.宝船.....十番稲荷神社

・港 七 福 神の宝船

宝船の巡拝所で、宝船版画の紙絵馬を授与している。

神社の詳細はこちら。













 
港七福神

より大きな地図で 初詣・港七福神・麻布稲荷七福神マップ を表示


























67.小豆ばかり屋敷

延享の末、九代将軍家重の頃、麻布に「小豆ばかり屋敷」と言われた屋敷があったという。屋敷の主人は大番に勤める武士で二百俵であり、文武両道に優れ胆力の据わった人物だった。静かな夜更けなどに天井でさらさらと小豆を撒くような音がして、それから色々と不思議な事があるので、何時とは無しに巷で評判になった。

この評判を聞きつけた友人が主人に事実をただすと、物音一つしないような静かな晩には、異変が起こるので一度試しに来ては?と言うので、好奇心の旺盛な友人は、早速麻布の屋敷にきて化け物の出る部屋に主人と枕を並べて寝た。
夏の事で、蚊帳を釣り縁側の雨戸も開け放ち、布団の中で息を殺していると真夜中を過ぎた頃天井がみしりみしりと鳴り出した。友人はこの事かと起きあがろうとしたが、音がすると止めてしまうから布団に入っていろと主人に言われ、再び息を殺していた。すると今度はたくさんの小豆(あずき)をばら撒くような大きな音がして、そのまま、また静寂が戻った。しばらくすると今度は庭の方からことん、ことんと下駄履きで、飛び石伝いに音が近づいて来る。やがて、すぐそばまで音が来たが何も見えない。すると今度はジャ−ジャ−と手水鉢を使う音がして、夜目を凝らしてみて見ると誰もいないのに、ひとりでに水がこぼれている。そしてしばらくすると、それも止んで、またもとの静寂が戻った。
主人はこれで終わりだといって笑っていたが、友人はあまりの不思議さに布団の中で身震いが止まらなかったと言う。

この主人は妻を持たず、妾を外に囲って3人の子供があったが、決して屋敷には住ませなかったと言う。また 小豆ばかり屋敷の主人が通り合わせると、麻布界隈の人々は後ろ指を指して、化け物の正体は狐狸の類であるとか、あの家の先祖の亡霊だとか噂をし合った。しかし本当の事は、誰にもわからなかったという。




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68.麻布の吉良上野介

盛岡町の町名の元になる南部盛岡藩が有栖川公園の敷地に屋敷を持っていて、 これは相対替え(等価交換)をする前は、赤穂浅野家 の屋敷であったことは以前に書いたが、実は吉良上野介も麻布に屋敷を持っていた。刃傷事件当時、 上野介は鍛治橋に上屋敷を、麻布一本松に下屋敷を拝領していた。事件後、家督を左兵衛に譲り隠居となり、 元禄14年8月19日に本所松坂町の元近藤登之助野屋敷に移転することとなった。しかしこの屋敷が荒れ果てていて手入れが必要だったために、 その改装中に上野介は白金にあった上杉家の下屋敷に滞在していたと言われるが、これを上杉家の白金屋敷ではなく、 吉良家麻布一本松屋敷であったのではと「麻布区史」で披露している。もしほんの少し歴史か違っていたら、 討ち入りが麻布一本松なんてことも.......?

<追記>
「麻布区史」では麻布屋敷の場所を、
〜吉良氏の麻布下邸に就いては多くの義士伝中に全く之を伝えて居ないのであるが、其の元禄七年より同一六年(1694〜1703年)に亘り 、善福寺の北方本善寺徳正寺及大法寺に囲まれたる東西に長さ一廓の地に之を存したことは「府内往還沿革図書」の明示する處で 尚此の邸は寛永元年(1624年)七月、其の内八百坪を有馬隼人に給し、残りの八百四十五坪を内藤主膳に預けられている。〜
とし記しているが、さらに、吉良上野介の妻は上杉氏であり、これにより上野介の子息「綱憲」は上杉家を継ぎ、 綱憲の子息が上野介の養子となって (実際は孫に当たる)嫡子として世襲することなる。この関係により上野介は本所ではなく上杉家麻布屋敷(飯倉)に永住するとの噂が流れ、 これが本当ならば、上杉家邸に討ち入ることとなるかもしれないので、上野介の情報を収集していた赤穂義士を慌てさせたと「義士伝」は 伝えているが、これは上杉家麻布屋敷ではなく吉良家麻布屋敷の間違いではないかと「麻布区史」は記載している。そして、 その理由を四位の少将で高家筆頭の吉良家隠居が、実子とはいえ大大名たる上杉家に仮寓するのは、当時の制度からもあり得ない事としている。

港区内の三大名邸(細川越中守・松平隠岐守・毛利甲斐守・水野監物)で赤穂浪士が切腹をした元禄16(1703)年2月3日、幕府評定所の 仙石伯耆守久尚は、吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下した。




関連記事
・ニッカ池 (赤穂浪士その一)
・ニッカ池 (赤穂浪士その二)
・水野十郎左衛門
・乃木希典(その1)
・寺坂吉右衛門
・土佐藩麻布支藩の幕末
・ 麻布っ子、上杉鷹山
・上杉家あき長屋怪異の事
・増上寺刃傷事件














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69.麻布御殿(白金御殿)

五代将軍綱吉が世を治めていた元禄十年(1716年)12月1日に白金御殿が竣工され、翌年11年4月14日に完成した。わずか五ヶ月半の突貫工事で完成したこの御殿は麻布御殿とも呼ばれ、四の橋近辺の広大な敷地を有した。白金御殿と麻布御殿を別々にとらえているものもあるが、それは誤りで、二つの御殿は同一のものであるとのこと。
また御殿の造営に伴って古川の川幅拡張、掘り下げの改修工事も芝新堀から四の橋区間で行われ、大工事となった。そしてこれにより江戸湾から白金御殿に船が直接入り込めるようになった。そしてこの工事には貧民対策事業としての側面ももっていたと言われる。

御殿の建った一帯は以前幕府の「御花畑」があった。御花畑は江戸城二ノ丸、北ノ丸を経てこの地に移転したが、その後寛永年間ころに麻布薬園となり幕府が薬草の栽培に乗り出した。当時ウコン、マニ、ダイオウなど73種類の薬草が栽培されていたが麻布御殿建設と共に小石川に移転した。しかし、御殿は将軍の保養施設として広大な土地を有し、御殿の前には「御鷹狩り場」もあった。御殿に将軍綱吉が訪れたのは元禄11年3月、元禄14年3月30日だが、この2度目の訪問の半月前の3月14日に浅野、吉良による殿中刃傷事件が起きており、事件で疲労困ぱいした綱吉が保養のため訪れたと考えられる。
しかし、その綱吉訪問の翌年元禄十五年2月11日、四谷より発した火災によりこの大工事により造営された御殿もあっけなく焼失してしまった。火事の後一部燃え残ったものは、芝増上寺御霊屋別当真乗院の伽藍となり現在も保存されている。



















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70.麻布の異石

滝沢馬琴「兎園小説」の中で、城南読書桜教授であり、林一門の五蔵の一人の大郷信斎は「麻布学究」という名で麻布の異石を述べている。

1.秋月家の庭にあった3尺ほどの寒山拾得の石像
詳細はむかし、むかし11−186.寒山拾得の石像でどうぞ
2.長谷寺にある5〜6尺の夜叉神像
こちらも以前は秋月家にあったが長谷寺住職が霊夢により寺に移したと言われる。岡本綺堂が半七捕物帖で夜叉神堂として取り上げている。 昭和20年空襲により消失。現在は復元された夜叉神像が安置されている。
3.山崎家の陰陽石
がま池のほとりにあり「結びの神」といわれた。
4.五島家門前の要石
現在の麻布総合支所辺の路上にあった石。麻布七不思議のひとつのかなめ石で「永坂の脚気石」ともいわれた。
5.日月(じつげつ)の石
森川家別邸(広尾橋辺)にあった烏帽子形の石で二尺ほどで日月の像が出ていた。園丁茂左衛門というものが霊夢により郷里、越後の畑中より掘り出した。 道聴塗説十編には、
祥雲寺前の橋爪に森川家の別荘あり。ここに住める下部茂左衛門といふ者、今年正月霊夢により、其の郷里越後国頸城郡荒井東吉城村にて、三月二日長さ二尺余、 広さ一尺計り、その形少しく烏帽子の如く、左右に日月のかたち突起せるを堀出し、これを負うて江戸に来り、件の別荘に安置しければ、近隣聞き伝えてあつまり 観る者多し。目出度き石と申すべきか。
とある。

そして上記5つの異石とは別に、
予が家の傍に、字を鷹石といふ町あり。昔鷹形ある石を堀出して霊異あり。今はなし。
と、鷹石についての記述があるが、兎園小説が書かれた江戸末期の文政年間(1800年代初頭)にはすでに元地には鷹石が存在しなかった 事がわかる。

兎園小説とは文政8(1825)年から文政12(1829)年まで滝沢馬琴の呼びかけで当時の文人が毎月一回集って、見聞きした珍談・奇談を披露し合った会「兎園会」における オカルト・ホラーや都市伝説、奇人変人から忠義、孝行話などまとめた書である。













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71.狸坂

 
   
狸坂
狸坂
   
狸坂
狸坂
昭和10年発行の「大東京猟奇」という本の中で麻布にまつわる話も幾つか紹介されている。その中で、今回は宮村町の「狸坂の狸」をご紹介。

大正時代位まで狸坂のあたりに石塔や石地蔵を弄ぶ、変わった趣味を持った道楽者の古狸が住んでいた。このあたりは昔から樹木が鬱蒼と茂り、昼間でも婦女子は通るのをためらったほどだったと言う。そして夜のすさびは格別で、よく付近には捨て子があったもので、夜更けに道端で赤ん坊が泣いているのは、珍しくなかったと言う。これを知ってか知らずか、ある日たまたま通りかかった人が、可愛そうにと思って抱き上げて家に連れ帰ろうと歩き始めると、不思議な事に何度も坂に戻ってきてしまう。
これはおかしいと思ったら急に抱いていた赤ん坊が重たくなり、良く見ると赤ん坊と思って抱いていたのは石地蔵だった。「これは、噂の狸にしてやられた。」と思って身なりを検めると、泥だらけの石地蔵をしっかりと抱いていたので、祝いの席に呼ばれたために着ていた羽織はかまが泥まみれになっていた。家に帰るとおかみさんに叱られ、次の朝は近所の評判になって笑い者にされてしまったと言う。そしてこのような話は、この界隈では一度や二度ではなく、誰となくこの坂を 「狸坂」と呼ぶようになったと言い、この坂の辺りには石塔や石地蔵が、そこここにゴロゴロところがっていたと言う。 また別の話では、麻布十番の料理屋が仕出しを頼まれ、狸坂の民家に届けて、翌朝お勘定を取りに行くと、原っぱの真中に料理屋の皿が 置いてあり、その上には「木の葉」のお代が乗せられていたと言う。




















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72.狐坂

 
   
狐坂(大隅坂)
狐坂(大隅坂)
   
狐坂(大隅坂)
狐坂(大隅坂)
今回も「大東京猟奇」から宮村町にある「狐坂」の由来をご紹介。

明治の初年頃までこの辺りに一匹の化け狐が住んでいて、そばにある狸坂の狸と化け比べを競っていたそうだ。
狐というと何故か女性に化けるものと相場が決まっているが、ここの狐もやはり美しい娘に化けたと言う。
夜更けになると、この辺りに何処からともなく美しい娘が人待ち顔で現れ、ほろ酔い気分でこの坂を通りかかった若者など が下心を持って声をかけると、むやみやたらとこの辺りを引っ張りまわされ、ヘトヘトに疲れ切ったところで、坂下の溝の中に放り込まれた。そして「アバヨ!」と言うと、突然娘は姿を消してしまったと言い、こうした手痛い目にあった者が随分少なくなかったので、この坂を「狐坂」と呼んで用心したものであったと言う。

もし、この時代に私が生きていたら、間違いなく溝にはまっていたと思われる。(^^;
私が中学生の頃、この辺りで夜、身長180センチくらいの和服の「オカマさん」に呼びとめられた事があったが、今思うとあれは、趣味の違う狐だったのかもしれない...............。


























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73.麻布の水道(江戸時代)

江戸時代、市中には神田、玉川、青山、亀有、三田、千川の6派の上水があった。いずれも変遷興廃はあったが青山、亀有、三田、千川の4派は江戸中期ころ廃れ、神田、玉川のみが明治になっても引き続き用いられた。これら6派のうち、麻布に給水していたのは主に青山と三田である。

青山浄水
万治三年(1660年)に雑賀仁左衛門、木瓜屋庄兵衛によって開設され、玉川上水を四谷大木戸より分水し、信濃町を通り青山御所西門前 で2派に分れ一方は東へ、もう一方は青山南町、赤坂檜町を経て六本木で麻布に入り、鳥居坂上あたりで再び2派に分れ、一方は市兵衛 町から現アメリカ方面へ、もう一方は狸穴坂上でまた2派に分れ、一方は坂を下り、北新門前町に至り、もう一方は榎坂を下って、芝区 栄町に至った。

三田上水
寛文四年(1664年)に中村八郎右衛門、磯野助六によって開設された。これは玉川上水を荏原郡下北沢より分水し、代々木、渋谷、目黒、白金、大崎まで至り、また白金猿町から二本榎、伊皿子、西応寺辺まで給水された。この上水には2つの主な支流があり、一つは三田台町の細川越中守邸(大石内蔵助以下が討ち入り後に預けられた邸)に引き込んだ「細川上水」、もう一つは「白金御殿(麻布御殿)」に引き込まれた白金上水である。


これら玉川上水を元にした2つの上水は、麻布にも恵みを与え続けたが享保7年(1722年)突如として幕府より千川、青山、三田、亀有の4上水の廃止の命が出された。これは、市中に井戸が普及し飲料水が得られやすくなった事、上水の維持管理が困難であった事などが考えられるが、それだけで、4つの上水を同時に廃止する根拠としたのであろうか。
調べてみると、上水の廃止が決定的になったのは、幕府の儒教学者である室鳩巣が将軍吉宗に提出した建議書によると言われる。そしてその建議書の内容は驚くべきものであった。

建議の内容は、相次ぐ江戸の大火の原因は、上水を作るために地下っを掘った事で「地気」を分断し、大気の息である風を拘束する力を失い、束縛を逸した風は軽率になって、火災を大きくさせる。つまり上水が火災の被害を大きくしているというまったく非科学的?なものであった。当時江戸では大火が相次いだため、「防火」対策の一環として見当違いの政策が決定されてしまった。
この決定により上水は廃止された。その後三田上水は、近隣の村々からの嘆願で享保9年にかんがい用として水を引く事を再び許され、細川、白金の両支流の掘からも用水を引く事を許された。これを三田用水という。そして青山上水は、明治14年に「麻布水道」が作られるまで細々とかんがい用水として用いられるのみであった。




















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74.麻布の水道(明治の麻布水道)

明治12年9月、明治天皇は市民の衛生施設の改良、発達を望まれ、その資金として市民に七万円の下賜があり、15区に分配され, これによって麻布区にも2,000円あまりが下賜された。この時、麻布区では区長の前田利充、多羅尾慶、竹中萬寿藏、笠井庄兵衛、平原嘉兵衛らの提案により、区議の決議を経て、この下賜金を主にして水道を開設することを企画し、華族10名の願書を添えて、府知事の許可を請願した。

この計画は麻布、赤坂、芝の3区に給水するものだが、発案した麻布区が工事を施行し、2万円の予算で、内訳は1500円の下賜金と区内有志よりの寄付金が16700円、不足分は区の共有金から支出するというものであった。またこの水道の使用料は井戸一つが年税4円とし、寄付をした有志については500円につき井戸一つを免税とし、それ以上は500円毎に1井戸ずつ免税されることに決まった。

明治13年4月府知事の許可を得た麻布水道は、工事を府に委託し再三の折衝を繰り返して明治14年11月に着工し、翌15年に完成した。水道は玉川上水を四谷大木戸で分水し、ほぼ旧青山上水の道筋を引用した形で、裏大番町、表大番町を経て麻布区に入り、5線に分れた。1つは三河台町、市兵衛町から赤坂霊南坂に至り、1つは仲町、飯倉6丁目、榎坂から芝区栄町に至る。この2線は旧青山上水と同じである。
また1つは龍土町、材木町、桜田町、三軒家町、本村町を経て仙台坂に至る。1つは、ソビエト大使館から東京天文台に至る。最後の1つは榎坂下、飯倉3・4丁目から赤羽橋に至る。そして明治17年には井戸数189、使用者は920戸を数えた。

しかし明治16年夏頃から水量が減るようになり市兵衛町線と飯倉町線を隔日の配水とし、漏水個所を修理したが水量は復活しなかった。このため麻布水道は維持困難に陥ってしまい、17年12月に工費未納金の免除、その他の経費の返還を条件に、麻布水道を府下の一般水道に編入するための請願をした。これにより翌18年1月に麻布水道は東京府の玉川上水線に編入され府の管轄となった。このように短命に終わった麻布水道だったが、明治の初期に区民の自主的な努力によって建設されたもので、水道史上に誇るべき事柄であると「港区史」は力説している。そして麻布水道が区の管轄を離れる際に、麻布区会議場敷地内に碑を建設しその功績を称えたという。

その他、明治の水道で麻布近辺に関連した当時の新聞記事を以下に。
麻布水道(明治13年9月11日、東京日日新聞)

麻布区の水道は本月中より着手するよし、先づ最初は四ッ谷大木戸より大番町まで引き、跡は来春を待て布設すると云う。此の工事はすべて土木用達会社にて受負ふよし。

東京水道(明治23年8月8日、東京日日新聞)

水道設計は先頃、告示ありし如く南豊島郡千駄ケ谷村旧戸田邸に沈澄池及び濾水池を設け蒸気喞筒にて十八尺の高地給水管(口径36吋)のものへ注入して四谷、麹町、神田、小石川、本郷の各区へ送水し、其吐水口は神田三崎町、常盤橋、雉子橋の各地へ設け、他の一は四谷伝馬町辺より赤坂、麻布、白金台に至りて高輪より品海へ疏通し、低地給水管も同沈澄池より口径42吋の水管を通じて麻布宮村町の浄水貯池へ送水し、同所より芝、日本橋、下谷、浅草、本所、深川に至り洲崎遊郭を経て海に入り、他の一は沈澄池より小石川伝通院下の貯池へ送水し、同所より牛込、小石川、本郷、神田等の各地へ送水する筈なれば市街道路には地中に水管のあらざる所なし、恰も人体に脉路の通ずる如くならんと云ふ。

井戸端の水喧嘩(明治26年8月15日、時事)

東京下町通りの掘井は最合に使用する水量の涸れて人民の迷惑を感ずる事は、毎度、紙上に記載せしが、其後も、日々、照り続き、稀に昨日の如き驟雨あるも、是は東京の一部に止まり、小石川の雨はにて日脚を望み、深川の潤ひは四谷にて水を撒く位なれば、中々、井水に影響を及ぼす程の喜びにあらず、芝三田四国町の如きは豆腐店の傍に最合井戸ありて水の出方多きも汲みの劇しき為め、日中は全く淤泥と為り、未明に群集して汲取り居りしが、これすら後れては選択もの々用に立ち難く、最早、十日前より午前2時に起きて汲み取る騒ぎに、毎度、紛争絶へず、果ては先を争ふて夜間、安眠すること出来ざる程なりと。

なお、この項を書いている1999年2月8日付けの読売新聞朝刊(首都圏版)都民版の東京伝説に近代水道誕生の記念碑として淀橋浄水場の記事が掲載されていて、明治期の水道の様子が詳細に語られている。興味のある方は、ご一読を。


75.麻布映画劇場

 
      
麻布映画劇場
麻布映画劇場
      
麻布日活館
麻布日活館
山口瞳氏のご子息、山口正介氏の著書に「麻布新堀竹谷町」がある。これは、昭和30年代の麻布を舞台に主人公、小学生の「周助」が 過ごした麻布界隈の様子が克明に描写されている。周助が正介氏である事は間違い無く、ほぼ私と同じ時代を麻布で過ごした事になる。 その「麻布新堀竹谷町」のなかで麻布映画劇場という項があり、これは大黒坂の下(現麻布ピ−コック)にあった映画館の名である。 ここには映画館が麻布映画劇場と麻布中央劇場の2館があり麻布映画劇場は東映の封切館で一方の麻布中央劇場は洋画館であった。 私はこの麻布映画劇場(当時はただ単に東映とい呼んでいた)に行ったのは近所の年が離れたおねえちゃんに連れて行ってもらった「わんわん忠臣蔵」(1963年作品) が最初であると 記憶している。調べてみるとこの映画は日本アニメ映画にとって画期的な作品であったといわれ東映動画がディズニーを意識し、企画・制作した娯楽作品であるという。そして何とあの宮崎駿が同社に入社し、この映画の動画を初担当していた。物語は

  「主人公ロックの母、メスイヌのシロがトラのキラーに殺された。  幼いロックはただ一匹で、キラーに立ち向かおうとするが、とても無理、危うく命を落とすところを、森の仲間たちに救われ、大人になるまで町で暮らすことになる。勇敢なロックは、じきに町の野良犬たちに一目置かれるようになった。恋人のカルー、それと力強い仲間を得たのだ。  これを知ったキラーの手下、キツネのアカミミは策略を使って、ロックを倉庫に閉じ込め、倉庫荒らしの犯人に仕立てた。倉庫番に捕まったロックは樽に入れられて海に投げ込まれてしまう。   その頃、森の動物たちは人間の山狩りにあって、みんな動物園に入れられてしまった。獲物のなくなったキラーはアカミミの勧めにしたがって自ら動物園に入った。そうすれば飢えないですむというわけだ。動物園のなかでも、動物たちはキラーとアカミミに苦しめられることになる。  一方、海になげ込まれたロックは幸い島の小さな女の子に救われ、養われていたが、、動物たちの運命をつばめから聞いて、いてもたってもいられなくなって島を抜け出した。  みんなとの再開を果たしたロックは、いよいよ母の仇のトラ退治に向かう。  キラーは配下の猛獣たちを動員して、雪の降りしきる動物園から遊園地を舞台に、激しい戦いが続く。  そしてついに、ロックたちに凱歌があがった。ロックとカルーを先頭に堂々と大通りを行進する野良犬たちが勇ましい。」

との事だが 残念ながらわたしはほとんど記憶がない。しかしエンディグ・ソングの「はし−れ、はし−れ、しっぽをあげて♪」というくだりは何故か いまだに覚えている。 この他にも現セイフ−が麻布日活館(末広座)、現桂亭が麻布松竹であった。近隣には金杉橋に芝園館、魚籃坂の下にも2番館の京映があった。またもっと以前には、一の橋に一の橋館、六本木に新興キネマ、広尾に広尾キネマ(銀映)、薬園坂の下に麻布松竹館などがあったといわれ、 まさに麻布近辺は、シネマパラダイスであった。(なお魚籃の京映、広尾の銀映は大桑氏の情報提供により館名を加筆させて頂いた。)


















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76.二之橋開通

 
      
昭和30年代の二の橋
昭和30年代の二の橋
      
日向坂から二の橋
日向坂から二の橋
ちょっと古い話になてしまったが、掲示板にも書きこまれた、ご存知の二之橋が98年12月1日に開通した。以前の橋は、全長20メ−トルで大正15年に作られたため老朽化が目立ち、しかも道路幅が狭く安全確保が課題となっていた。古くは江戸時代に毛利日向守の屋敷があり日向橋とも言われたと「御府内備考」にある由緒ある橋である。平成の新橋工事は、都市計画道路・補助7号線の整備の一環として行われ、昭和63年に道路拡幅のための用地買収が始められ、オ−ストラリア大使館前の日向坂から橋までの道路整備と共に進められた。工事は橋の上に首都高速が走っているために工事の制約が多く、また河川工事のため梅雨時から秋にかけて工事が出来なかったなどの理由により3年半という工期を必要とした。

新しい橋は幅が8メ−トルから15メ−トルとほぼ倍増し、2.75メ−トルの歩道が両側につけられた。橋のデザインはアンケ−トにより

A案−−クラシックな洋風デザイン
B案−−水の波紋をモチ−フにした高欄を取り入れた物
C案−−歴史を取り入れた和風デザイン

となり、その中から地域の人々の選考でA案をベ−スにしたデザインが決められた。

改装前、平成7年2月のこの橋における交通量は自動車が10790台、歩行者が2407人との事。改修後は、交通量が増加することが考えられ 便利になる一方、麻布全体の交通量が増加し、路地を抜け道とする交通問題に拍車がかかることを懸念するのは、私だけだろうか?


















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77.東京天文台

 
      
明治期の東京天文台
明治期の東京天文台
      
明治期の東京天文台
明治期の東京天文台
東京天文台は1874年(明治7年)に開設された海軍水路部の観象台に、1878(明治11)年から本郷にあった東京帝大理学部の観象台観象台と旧内務省の天文関係業務を統合して、1888(明治21)年麻布飯倉町三丁目17、18番地に設立され、以前はそれぞれに分割されていた天象観測、編歴業務、時報業務を統合した業務が行われた。敷地面積は2501.6坪でりその中に建物が点在していた。しかし明治後半にはそのほとんどの施設はとても古くて汚かったと言われ、また望遠鏡も口径も小さく、西洋のそれには遠く及ばなかった。
大正時代になると周辺の都会化による明るさのために観測が次第に困難になり、移転計画が持ち上がった。当初台湾の高尾、赤城山などの移転案もあったが、関東大震災で飯倉の天文台が大破したのをきっかけに、1924(大正13)年に現在の場所である三鷹に移転、拡充された。その後の飯倉の天文台跡は東大理学部の天文教室として使用されたが、戦災で焼失。その後もバラックが建てられ教室として利用された。しかしそれも昭和35年に本郷に移転した。

旧天文台跡には「日本経緯度原点」の銘石があり、これは日本の経緯度の原点として地理上の基本地点となる位置であり、その数値は東経139度44分40秒5052、北緯35度39分17秒5148であるとのこと。

現在の跡地は建設省中央官庁合同会議所の横、アメリカン・クラブの隣接地にこじんまりとあり、私が訪れた昨年10月頃には、 アメリカン・クラブのプ−ルで遊ぶ人々の嬌声がこだまして、騒がしかった。しかし銘石から20メ−トルほどの所に、 雑草が生い茂った斜面があった。少し降りてみると嬌声も聞こえず、静まりかえった空間は、ふと子供の頃遊んだ空き地の様で、 全く違う空間に迷い込んだような錯覚をしていた。















−−−−−<追記>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−















※記載内容に上記文章と矛盾点もありますが、どちらが正しいのか判断に迷うのでそのまま掲載します。

★ 東京天文台

874(明治7)年に海軍水路寮がこの地に観象台を設置した後、1888(明治21)年6月1日、帝国大学の学生用 観象台と海軍省観象台と内務省地理局が統合され、帝国大学付属「東京天文台」として東京麻布飯倉に設立 される。
その際海軍省が持っていた、日本最大の天文観測施設「観象台」も引き継がれ、 「天文台」に改称された。この時から、天体観測施設の名称として「天文台」が使われることになる。 初代台長は東大星学科教授の寺尾寿。創立当時の職員は6名であった。

国策としての当時の職務は、恒星の測定、太陽・彗星の観測、暦の作成などとともに時刻を報せる「報時」 があった。 陸軍が正午を報せるために鳴らしていた大砲(この音から「ドン」と呼ばれ、”半ドン”の語源となった) の時刻合わせから、明治23年以降は有線による「報時」を行ったといわれる。

その後、1923(大正12)年の関東大震災で経緯度原点となっていた子午環も大破。観測機器に大きな被害を受けた天文台は、都内の空が 明るくなってきたこともあり、郊外の三鷹へと移転した。

時は下り、1988(昭和63)年、東京天文台は水沢の緯度観測所などと統合され、国立天文台となる。さらに国立天文台は 文部省、文部科学省の管轄を経て2004(平成16)年4月1日より法人化し、大学共同利用機関法人「自然科学研究機構国立天文台」 となり現在に続く。



 
      
日本経緯度原点
日本経緯度原点
      
日本経緯度原点碑(旧)
日本経緯度原点碑(旧)
      
日本経緯度原点解説
日本経緯度原点解説
      
日本経緯度原点碑(新)
日本経緯度原点碑(新)
★ 日本経緯度原点碑(旧)

これまで使われてきた経緯度原点の数値は1918年に告示された「日本測地系」によるものであった。しかし、2002年4月1日に施行された 現行の測量法では「地理学的経緯度は、世界測地系に従つて測定しなければならない」と定めているので、 原点の位置もこれに基づいて再設定された。
●経緯度原点(日本測地系基準)
 東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148

●新しい経緯度(世界測地系基準)
 東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572



測量法施行令(昭和二十四年政令第三百二十二号)(抄)

(日本経緯度原点及び日本水準原点)

第二条 法第十一条第一項第四号に規定する日本経緯度原点の地点及び原点数値は、次のとおりとする。
  • 一 地点 東京都港区麻布台二丁目十八番一地内日本経緯度原点金属標の十字の交点
  • 二 原点数値 次に掲げる値
  • イ 経度 東経百三十九度四十四分二十八秒八七五九
  • ロ 緯度 北緯三十五度三十九分二十九秒一五七二
  • ハ 原点方位角 三十二度二十分四十四秒七五六(前号の地点において真北を基準として右回りに測定した   茨城県つくば市北郷一番地内つくば超長基線電波干渉計観測点金属標の十字の交点の方位角)  (平成13年12月28日公布・平成14年4月1日施行)
毎年11月24日は「東京天文台設置記念日」とされる。 さらに1996(平成8)年10月22日には、天文台元地で「日本経緯度原点」のある麻布台の地が港区指定文化財(史跡) に指定された。








★東日本大震災による経緯度原点の移動
東日本大震災の地殻変動により経緯度原点が27cm東へ移動したため、2011(平成23)年10月国土地理院により 日本経緯度原点碑が再設置された。






東日本大震災による経緯度原点の変化
項 目経 度 (東経)緯 度 (北緯)方 位 角
震 災 前139°44′28.857935°39′29.157232°20′44.756
震 災 後139°44′28.886935°39′29.157232°20′46.209










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78.瓢箪床

昭和8年頃まで赤羽橋際に瓢箪床と呼ばれる理髪店があり、その側に榎の老木があって麻布名所の一つになっていた。 むかし天正十八年8月1日に徳川家康が始めて江戸に入城した時、この木に駒の手綱をつなぎ側にあった瓢箪床と呼ぶ休息所で休んだが、 その時、瓢箪床の主人に家康が髪結い元締め許可のお墨付きを与えた。そしてこの瓢箪床が江戸髪結いの元祖で、その子孫は同所で代々理髪業を営んだという。








79.麻布のエノケン

 
      
エノケン・市川要吉が寄進した改築前の十番稲荷神社鳥居
エノケン・市川要吉が寄進した改築前の十番稲荷神社鳥居
   
現在の十番稲荷神社鳥居に埋め込まれた銅板
現在の十番稲荷神社鳥居に埋め込まれた銅板
      
長谷寺榎本健一の墓
長谷寺榎本健一の墓
喜劇王と呼ばれたエノケンこと榎本健一は明治37年(1904年)青山に榎本平作の長男として生まれた。父の平作は、青山南町で、 「入間屋」という鞄店を営んでいた。 その父が笄町で新しくせんべい屋「武蔵野せんべい」を開業し、やがて麻布十番の雑色通り(現在の十番会館あたり)に移転した。笄小学校の時から「20日ネズミ の健ちゃん」と言われ、すばしっこいガキ大将だったというエノケンも、店の移転と共に十番に住んだが、南山、東町、埼玉県川越 の小学校、麻布尋常小学校と転々とした。(一説によるとあまりの”腕白”だったので東町小学校を放校になったとも言われる。)
その腕白はエノケンが先妻の子で、後妻には6人の娘がいたため、寂しさを紛らわすためであったとも言われる。エノケンはこの 後妻にはなつかず、父親病気の時、後妻の作った焼き魚を美味しそうに食べているのを見て、自分はもっと父を喜ばせることが出来ると、 父が大切にしていた鑑賞魚のランチュウを焼き魚にして、父に大目玉をくらった。そんなエノケンには父親も相当手を焼いたと見え、 死を目前にした父はエノケンを枕元に呼んで「おれの寿命を半分縮めたのは、お前のせいだ。」と言った。そして当のエノケンも、その時の 仕返しと思ってか、死を目前にしたとき、父の後妻の顔を見たとたんにむっくり起き上がって「このバカヤロ−!」と怒鳴ったそうだ。

あの「♪おれは村中で一番 モボだと言われた男♪という曲「洒落男」は、白金の叔母ところに手伝いに行った時、夜になると良く物干し台で練習 していた。その時、時計の振り子でリズムをとっていたと言う。また関東大震災の時は、避難してくる浅草芸人たちを、十番で自ら炊き出しをして 救援したと言われる。

その後、古川緑波・徳川夢声らと「笑いの王国」、そして「エノケン一座」を結成し喜劇界を席巻してゆくエノケンだったが、 以外にも本人はこの「エノケン」と呼ばれるのを嫌がったという。客やファンがエノケンと呼んでも、何事も無かったが、同業者や関係者からそう 呼ばれると返事をしなかったと言う。昭和35年に紫綬褒章を受章し、翌年天皇陛下から園遊会に招待されたエノケンも、昭和45年1月7日肝硬変 で帰らぬ人となった。享年65歳。墓は榎本家の
菩提寺西麻布2丁目の長谷寺にあり戒名は「殿喜王如春大居士」そして、墓碑には 「従五位勲四等喜劇王エノケンここに眠る」と記されている。


<追記>

腕白から近隣小学校を転々としていたとされるエノケンだが南山小学校 第37期生・大正5(1916)年卒業者に榎本健一の名前が記されている。






















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80.永井荷風の偏奇館と松田照子

      
偏奇館
偏奇館
大正8年(1919年)11月8日、永井荷風は麻布市兵衛町1丁目6番地に貸地があるのを知って下見に行った。市兵衛町は慶長年間に黒沢市兵衛という名主にちなんで名づけられた町名で比較的静かな土地であった。荷風は4日後の12日にもう一度様子を見て翌13日には、その土地を借りる事を決めた。大久保余丁町の家を売却し、数え歳40歳にして市兵衛町を「隠棲の地」と定め麻布区民となることになった。
荷風はこの地に25坪ほどで長方形2階建てペンキ塗りの家を建て「偏奇館」と呼んだ。荷風自身の書いた偏奇館路漫録によると、

「庚申の年孟夏居を麻布に移す。ペンキ塗りの2階家なり因て偏奇館と名づく。内に障子襖なく代る扉を以てし窓に雨戸を用ひず硝子を張り床に疊を敷かず榻を置く。旦に簾を捲くに及ばず夜に戸を閉すの煩なし。冬来るも経師やを呼ばず大掃除となるも亦用なからん。偏奇館甚独居に便なり。」とある。近くには明治期に皇女和宮(静寛院宮)が住んでいて大正の当時には東久邇宮邸となった屋敷や住友邸などがあり、隠棲の地ふさわしい静けさの中に、「偏奇館」も存在したものと思われる。

また偏奇館の近所で麻布麻中小学校の先、丹波谷坂付近の市兵衛町2丁目25にこの大正8年、7歳の誕生日を迎えた女の子が住んでいた。女の子の名は松田照子。彼女の父は陸軍中佐であり、恐らく相当に厳格な教育を受け育ったと思われる。しかし成長した彼女はソビエート大使館商務官下僚ビリーイッチ氏と結婚、1930年(昭和5年)18歳でソビエトに渡りモスコー東洋語学校教師を勤めた。が当時粛清の嵐が吹き荒れたソビエトで1937年夫ビリーイッチはブハーリン派として粛清され妻の照子も消息不明に......。その後、彼女も1937年12月25日に逮捕され翌1938年3月14日にソ連最高裁軍事法廷 によりスパイ活動の容疑で銃殺宣告を受け同日、刑は執行されていたことが判明した。
荷風と照子のつながりは何もないが、同時代を麻布市兵衛町で過ごした事は確かで、もしかしたら道ですれ違った事くらいはあったかも知れない。(松田照子さんの詳細はこちらをクリックしてください。)

昭和10年代に入ると偏奇館の主人は日記を部分的に切り取り、特高警察に踏み込まれた場合の防備をし始めた。昭和11年の2.26事件では、「麻布連隊反乱」と言う記述があり近所の東久邇宮邸も憲兵が物々しく警備し、27日に荷風は谷町から車に乗り虎ノ門あたりで野次馬の話により岡田総理邸襲撃の光景を知る。この「麻布連隊反乱」という記述の中には、地元の連隊が麻布の住人を脅かした事による痛烈な怒りが込められていた。

さらに時は進み昭和20年3月10日未明、のちに東京大空襲と呼ばれる空襲で偏奇館も灰燼に帰す。
当時空襲が恒常化していた東京は、9日の夜発令された警戒警報のままで明けて行くかに見えた。しかし10日午前0時8分からB29の編隊 296機が超低空で東京上空に現われ、主として下町方面を対象に焼夷弾による絨毯爆撃を開始した。空襲警報が発令されたのはその8分後でその時にはすでに都内各所で火の手が上がっていた。編隊の一部は下町での目標物を失いやがて山の手方面に向った。そして麻布方面にも焼夷弾を投下しはじめた。火災は当初市兵衛町2丁目の長垂坂の中腹からおこり、西南の風で偏奇館のある1丁目方向に向かってきた。隣人の叫ぶ声に驚き、鞄を持って庭に出た荷風は谷町辺にも火の手が上がるのを目撃し、気がつくと庭に火の粉が降り注いでいたという。 表通りに走り出た荷風は「時に7、8歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通りに出て溜池の方へと逃がしやり....」とありおよそ世間嫌いの習性にふさわしくない行いを何故かしている。そしてその後 何を思ったか、再び偏奇館方面に戻り始めた。しかし途中の東久邇宮邸で巡査により道が遮断されていたため荷風は木立、電柱などに身を隠し、偏奇館のあたりを望んだ。その時荷風に見えたのは蔵書に火がまわり一段と強く上がった炎のみであった。 そして偏奇館の焼失後荷風に残されたのは、鞄に入れて持ち出した扉に西暦年号を記した日記と原稿だけであった。

後年、再びこの荷風の「鞄」がクロ−ズアップされるのは、昭和34年である。3月1日日曜日正午浅草のレストラン「アリゾナ」で病魔のため歩行困難に陥った荷風は店の主人が付けてくれた見送りのボ−イを振り切って、病躯を引きずりながら自力でタクシ−を拾い帰宅。いかにも荷風らしい最後の浅草行であった。その後体力を急速に失った荷風は食事も近所の大黒屋で済ませ、家の出入りも老女中のトヨのみとなった。4月30日朝、トヨが訪れると奥の6畳間に倒れて死亡している荷風の元に残されたボストンバックには貯金通帳があり残高は23,344,974円であった。

この項を書きながら、空襲の際の逃げ惑う少女と老人の姿が荷風と照子にダブってしまう不思議な錯覚にとらわれてしまった。



















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81.古川端島津屋敷の犬追物(いぬおうもの)

      
犬追物(Wikipediaより引用)
犬追物(Wikipediaより引用)
古川橋から天現寺方面の古川端辺の白金側は、明治初期にはまだ見渡す限りの田圃であったといい、川端から大久保彦左衛門の墓がある立行寺 までは、あぜ道を通って行ったといいます。

その頃、薬園坂の辺りに元薩摩藩の島津忠義本村町別邸があり、その屋敷で伝統的な「犬追い物」という催しが行われたそうです。

これは野良犬を入り口で販売し、買われた犬は一旦溜まりに繋がれる。そして一匹づつ引き出されて、円陣の真ん中に引き出され「犬を放ち申し候!」と叫び犬を放つと、犬が逃げ出そうと駆け回るところを矢先に補具を付け犬が死なない様にして何度も、射すくめるという遊びとのことです。(今から考えると非常に残酷な遊びですが、野犬対策、弓道の訓練ともしかしたら遠い昔の「生類哀れみの令」が解禁された時の恨みもあるのであろうか?いづれにせよ犬にとっては、いい迷惑ですね。)しかし射られた矢はめったに当たったのを見た事がないと この話の主は結んでいます。

また、古川端のあぜ道の近くに養豚をしていた農家がありましたが、辺りが市街地化すると共に、渋谷〜目黒とだんだんと郊外に移転して行ったそうです。そして明治になると古川橋の辺には「木賃宿」が出来、夜鷹(街娼)なども現われます。そして、田中商会の犬小屋が出来、南座が開場になって田圃のなかに一軒また一軒と家が建ち始め、一気に都市化が進んで行ったそうで、やがて田圃は無くなり青田が黒田になったと近所の人々は軽口をたたいたといわれています。

1881(明治14)年5月9日岩倉具視、西郷隆盛、河村海軍卿を供奉として明治天皇がこの島津忠義本村町別邸(元パピリオ化粧品敷地)に臨幸し、犬追い物と相撲を天覧したとの記録が残されています。そして、これが最後の犬追い物の開催となったとwikipediaに記載があります。


1881年(明治14年)5月9日天皇陛下本村町の公爵、島津忠義邸に行幸。午前7時御出門。別邸にて古式の犬追物、相撲を天覧。本邸にてつつじ観覧後、射術を天覧。御供奉は岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿。




wikipedia-犬追物















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82.麻布名所花暦

江戸名所花暦(文政十年1827年刊)、江戸鹿子(貞享四年1687年刊)、続江戸砂子(享保十七年1732年刊)などに掲載されている麻布近辺の名所、銘木、銘花をご紹介。(現住所とは、銘品が当時あった所在地を現住所に置換したもので、現存の意ではない。)

場所、木銘出典種類現住所備考
宇米茶屋江戸名所花暦白梅白金2丁目1-3麻布三子坂にあり。一重の白梅なり。正月下旬盛りなり。外よりは遅し。古木なり。遊行陀阿一海上人、この梅に題して歌あり。この花の白かね名に高く 千歳をこめてみのるとこうめ
また江戸名所図会に「梅か茶屋」と紹介されている。
麻布竜土組屋敷江戸名所花暦梅樹六本木7-9麻布竜土組屋敷とは御先手組屋敷の事。立春より6、70日目。梅樹、家ごとの入り口にあるもあり。または後園にあるもあり。
木下候庭中江戸名所花暦彼岸桜南麻布5−8木下候とは木下肥後守の事。麻布広尾にあり。幹の太さふた抱え半、南北へ廿一間壱尺余、東西へ十九間余、たゝ小山に行きをおひたるかことし。花の頃は見物をゆるされしか、近頃止られたり。
慈眼山光林寺江戸名所花暦彼岸桜南麻布4-11麻布新堀はた。当時はもと市兵衛町の辺にありしとなり。此境内に大樹あり。したれたる枝は、地につきて滝の落つるかことし。此花の色、成子乗円寺の花によく似たり。この光林寺の前、新堀のむかふをすえて広尾の原と唱え、桜の咲いつる頃よりして、貴となく、おもひおもひのわりこ、酒肴をもたらし来り、毛氈、花むしろをしき、ここまとゐし、かしこにたむろして打興するありさま、天和の頃の光景を思ひいつるはかりなり。
三縁山増上寺江戸名所花暦彼岸桜三縁山増上寺。(芝公園4−7)芝切通しより赤羽根への通ひ路、近きころ開けし道筋、左右に桜樹夥しく植えたり。(芝切通しとは今の正則学院と青竜寺の間の道。)
糸桜続江戸砂子増上寺(芝公園4−7)三縁山広度院増上寺。芝林壇、寺領一万五百四十石。廿四日御仏殿の前。(廿四日御仏殿は二代将軍火秀忠の霊廟。現芝ゴルフ敷地内)
拾ひ桜続江戸砂子南青山2−26長普山宝樹寺梅窓院、知恩院末、青山。第二世峰誉上人、門前にて苗木を拾ひ、てつから植えられしと也。今は大木となる。類ひなきしたれさくら也。
留主に居る人へひろはん花さくら(岸村涼宇)
泰山府君桜続江戸砂子三田2−15三田松平主殿頭殿御館にあり。八重桜の速き花也。桜町中納言成範卿、花のさかりの短きをなげき、桜のため泰山府君の祀りを行はれしより此名ありと也。
八入(やしおの)楓続江戸砂子三田2−15三田松平主殿頭殿御館にあり。前に云桜と此二樹、羅山子東明集に詳也。八入と云は、物を一度染るを一入(ひとしお)といふ。二たひ染るを二入と云り。紅楓の色、八度の染色に比す故八入と称す。
幸稲荷の辺江戸名所花暦不如帰芝公園3−5芝切通しのうへなり。増上寺の梢青葉さすころは、一声も二声もきこゆるといへり。
愛宕山愛宕神社江戸名所花暦芝愛宕町1−5芝にあり。この山上より雪中に見おろせは、各藩につもれるゆき、綿をもって家居をつくれるに似たり。遥に望は、安房、上総の山々、片々たるうちに見ゆ。本尊は行基の作にして、勝軍地蔵なり。毎月弐四日は四万六千日と号して、参詣殊に群集す。此日境内にて、青きほうずきを食む。小児に呑するときは、虫の病の根を切ると云ならはせり。
高輪江戸名所花暦高輪二丁目近辺この海岸の酒楼より海上を望む時は、雪の粉々たるありさま、他に比する処なし。
壱本松江戸鹿子元麻布1−3あさぶに有。そのかみ天正のころをひ、嫉妬ふかき女房此松を植て人を呪詛しけるとなり。又説には此木、塚の印の木なりと云。伝未た明ならす。
一本松続江戸砂子元麻布1−3一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。又小野篁のうへられし松と云説も有。一本松に経基王の来歴、わかりかねたる文段也。説も亦とりかたし。病をいのるとて、竹筒に酒を入れてかくるといふ。此松、近年火災にかゝりて焼けぬ。今は古木のしるしのみありて、若木を植そへたり。
銭懸松続江戸砂子所不詳麻布にありと古書に見えたり。尋ぬるにしれす。所の人の云、天真寺に古木あり。それなるへしといふにより、寺に入て尋ぬるにしらすと云。当寺本堂の前に控なる大松の朽木の三抱もあらん、根より一丈はかりありて梢はなし。疑らしくは是ならんか。(天真寺は南麻布3−1)
円座松続江戸砂子増上寺(芝公園4−9)増上寺山下谷。山下谷とは今の芝公園4−9、10あたり一帯。松は現存せず。
朝日松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)田中山相福院西応寺、増上末、寺領十石、本芝。朝日の松、けさかけ松、火除の松、いつれも境内にあり。宝暦の末、当寺回禄にかゝりて此松も焼たりとそ。
袈裟懸松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)
火除の松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)
綱駒繋松続江戸砂子イタリア大使館(三田2−4)綱が駒繋松、松平隠岐守殿中屋敷の内にありと云。
三鈷の松続江戸砂子高野山東京別院(高輪3−15)高野寺、正輪番、紀州高野山宿寺、二本榎。三鈷の松境内にあり。糸桜、大木の枝たれ也。現存せず。
鐘鋳の松続江戸砂子品川区北品川4−7品川御殿山。御殿山の北手にあり。増上寺の撞鐘を鋳たる所のしるしにうへたる松也。
二本榎江戸鹿子高輪1−27白銀原高野寺正覚院のかたわらに有。(正覚院の傍にあったとは、誤りという説もある)
印榎江戸鹿子赤坂1−11赤坂溜池の上に有。むかし此池の奉行人、此榎木をうへて、その時の委細を此木にしるすとかや。よって印の榎とよぶとかや。
印の榎続江戸砂子赤坂1−11溜池の堤にあり。むかし浅野幸長、欽名ありて、此所の水をつきとめたり。幸長の臣、矢島長雲奉行し、さまざまのおもんはかりを以、水をつきとめぬ。主人幸長の公用の印、又長雲か子孫まてのためとて、榎を多く植えたり。大かたは枯れて、今2、3株あり。
杖いてう江戸鹿子銀杏麻布山善福寺(元麻布1−6)あさぶに有。親鸞上人関東下向の時、誓ていわく、もし我宗旨広らば此杖枝葉あれと言て、杖をたてゝ皈りたまふ。其杖枝葉しけりて今に此地に有。婦人の乳の出ざる者、此木にて療すれは奇端ありと云。
杖銀杏続江戸砂子銀杏麻布山善福寺(元麻布1−6)麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。杖銀杏本堂の左の方にあり。親鸞上人の杖也。祖師当所に来り給ふ時、此法さかんになるへくは此杖に枝葉をむすふへしと、庭上さしおかれし所の木なり。今大木となりて、枝葉しけりたり。乳なき婦人、此木以治療すれば奇端ありとて、樹を裂事おひたゝしくして、枝葉いたむにより、垣をしてその事をいましむ。今は祖師の御供をいたゝくに、乳なきもの、そのしるしありとそ。右の方、開山堂の前にあり。親鸞上人杖を逆にさし置かれし所の木也。よって逆銀杏ともいふ。
楊枝杉江戸鹿子麻布山善福寺(元麻布1−6)これも親鸞上人のさし給ふのよし。山中に有て、岩の中より生したる木也。
楊枝杉続江戸砂子麻布山善福寺(元麻布1−6)是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。
颯灑(うなり)柳続江戸砂子麻布山善福寺(元麻布1−6)麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。










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港七福神
67.
小豆ばかり屋敷
68.
麻布の吉良上野介
69.
麻布御殿(白金御殿)
70.
麻布の異石
71.
狸坂
72.
狐坂
73.
麻布の水道(江戸時代)
74.
麻布の水道(明治の麻布水道)
75.
麻布映画劇場
76.
二之橋開通
77.
東京天文台
78.
瓢箪床
79.
麻布のエノケン
80.
永井荷風の偏奇館と松田照子
81.
古川端島津屋敷の
犬追物(いぬおうもの)