むかし、むかし近隣



1.竹芝伝説<三田>












東京でも最古の伝説に入る物の1つが竹芝寺の物語である。これは「更科日記」に記されていて、菅原孝標の娘が父の任地、板東で過した40年間を回顧して記された。10世紀の初めころ竹芝の庄の主(以降竹芝)は、皇居の火焚衛士にあてられ京へ上った。1年の任期を勤め上げたが、人手不足からか帰国を許されない。望郷の念で独り言を言いながら仕事をしていると、御簾の内にいた天皇の姫(皇女)がこれを聞きつけ、竹芝を縁近くに召して郷里の様子を尋ねた。竹芝は「白い花をつけた荻や芦が風にそよぐ野原、波静かな浜」など竹芝の里の様子を語った。すると姫は激しく心を動かされ、ぜひそこへ自分を連れて行けと強く望んだ。事の大事に恐れた竹芝も元々の望郷の念から姫を背負ってひそかに東国に下った。やがて京から追手の使者が来たが姫は帝に竹芝の罪の許しを請い、帝は2人の仲むつましい様子からあきらめ、竹芝を郡の司に任じた。屋敷も御殿のようにして仲良く暮らした2人に子供が授かると、帝はその子に武蔵の姓を賜った。その後も末永く仲良く暮らしたあげく、姫が亡くなると竹芝は悲しみ屋敷を寺に作り替えて「竹芝寺」とした。彼らの子供は成長して足立郡司になり、武蔵武芝を名乗ったという説もあり「将門記」に登場する。武蔵武芝が中央から赴任してきた興世王、源経基らから無理難題を押し付けられ戦になろうとした時、平 将門 が間に入り調停した。これを興世王は納得したが、源経基は京に戻り将門の謀反を訴えた。これにより天慶の乱(939年)が始まり、その結果、武芝は滅びた。
竹芝寺があったのは三田4丁目の済海寺と隣の亀塚公園あたりとされ、亀塚公園には姫の墓所と伝わる円形古墳の亀塚がある。
また済海寺は安政6年(1859年)8月26日にフランス総領事館となり2年後には公使館となって明治7年まで続いた。







2.月の岬<三田>


竹芝伝説でもふれた三田4丁目の済海寺近辺を含めて、聖坂を上がったあたりから伊皿子のあたりは高台で、昔は海が見下ろせた。 夜になると海から上る月がまことにきれいだったので、慶長にころ徳川家康がこのあたりを「月の岬」と呼び愛したと言う。その後庶民も観月を楽しむようになり月の名所として有名になった。また月之見崎と唱え潮見崎と共に、七崎の一つに数えられたが、やがて人家が増え面影はなくなったと言う。前項の竹芝夫妻もこの名所で月を眺め、年を重ねていったのであろうが、現在は海も見えず昔の面影を求めるのは難しい。
以下は江戸の頃の歌

秋ならば月のみさきやいかならん名は夏山のしげみのみして









3.槍持ち勘助<愛宕>


日比谷線神谷町駅の近所に江戸三大寺の一つにも数えられた「青松寺」と言う寺があり、その寺の墓所に、勘助地蔵(奴地蔵とも)と呼ばれる地蔵がある。 美作津山藩主、松平越後守の家来に足軽の勘助と言う者がいた。勘助は殿様の行列で、松平家自慢の大槍を持つのが役目であった。 これは天下に聞こえた大槍だけあって、力自慢の者でも長くお供をするのは容易ではなかった。大名の威厳の象徴である大槍を供先で倒すような事があればただちに死罪となってしまうので、足軽たちはこの槍に近づくことすら極度に恐れた。若い頃は「自分しかこの大槍を持てる者はいない」と誇りに思って忠勤に励んだ勘助も、年を取るにしたがって役目が辛くなり自信が持てなくなってきた。そして元禄14年の年の参勤交代でやっとのこと江戸に着くと、「こんな苦労は、自分だけでたくさんだ」と思い槍の柄を三尺切つめると、みごとな切腹をして果て、その死顔は安らかであったと言う。このような話を庶民が放っておくはずが無く、墓には香華が絶えなかった。また勘助は痔の病があったようで、その病を持つ参詣者も多く生前、酒が大好きだった勘助の墓前にはいまも徳利が供えてある。








4.高縄原の激戦<高輪台>

大永4年(1524年)、江戸城を守る扇谷上杉朝興(太田道灌を暗殺した扇谷上杉定正の2代あと)と、関東攻略のため小田原から遠征してきた北条早雲の子、氏綱が高縄原(今の高輪台辺)で激突した。北条軍は1万とも2万とも言われ、両軍が激闘を展開したが、なかなか勝敗が決しない。 そこで北条軍は第2陣を麻布方面から投入して、挟撃し退路を遮断した。これが功をなして、上杉軍は守勢にまわり、血路をひらいて江戸城へ退却しこもったが、太田道灌の孫、太田資高、資貞兄弟の内応で江戸城は陥落した。そして夜になると闇にまぎれて川越へ落ちる朝興を板橋近辺まで追撃した。勝った北条軍はその後一ッ木原(赤坂)に集結して旗をうちたて、定法の三度の勝鬨をあげた。





5.調所 笑左衛門<三田>

関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)についた島津家は、戦が東軍(徳川方)の勝利に終わると、それまで九州各地に持っていた領土を77万石に削られた。そして徳川幕府が成立すると、江戸城修築、 などで莫大な経費を使わされ、さらに参勤交代の費用も九州から江戸までだと相当な物入りだったと言われ、裕福であった財政もひっ迫してしまった。そして宝暦5年(1755年)に島津重豪が藩主の座に就くと、破天荒な経営を行ったため、とうとう「日本一の貧乏藩」と言われるまでになってしまった。これは重豪が時の権力者、老中筆頭の田沼意次の政策に賛同して藩校、医学館、天文学館など教育施設や町の活性化に莫大な資金を投入して鹿児島の近代化を進めた。そして自らも豪奢な生活を好み、その結果借金が500万両に達し、利息だけで年間60万両に及んだ。当時、藩の収入は12〜18万両と言われ利息の返済すら出来ない状態に追い込まれた。さすがの重豪も窮してしまい、財政再建を任せられる家来を模索した。そして白羽の矢がたったのが、調所 笑左衛門 広郷である。

笑左衛門は安永5年(1776年)御小姓組 川崎家に生まれ天明8年(1788年)、13歳で調所清悦の養子となる。御小姓組は士分の末位の家格であるためやがて、茶坊主となり”笑悦”と称した。藩では簿給藩士の家計を援助するために、藩士の子弟を書役や藩校の助教授に任用する制度をとっており、茶道方もその中の一つに含まれた。笑悦もたまたま茶道方になっただけで、養家が茶道方だった為ではないと言われる。ちなみに西郷隆盛の弟、従道や有村俊斎、大山綱良も一時、茶道方を勤めており、これは藩で正式なポストに就くための臨時的なものであったと思われる。(つまり茶道方とは藩のエリ−トコ−スであった。)

笑悦はしだいに茶道への造詣を深め、23歳で重豪専属の茶道方となり、やがて茶道頭に昇進する。文化10年(1813年)に重豪は、笑悦に茶坊主をやめて武士に戻る事を命じ、名を「調所 笑左衛門 広郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと)」と改名させ、お小納戸役として自分の身辺の世話をさせた。文化12年(1815年)にはお小納戸役と御用取り次ぎ見習いの兼務を命ぜられた。お小納戸役は御側役の下役だが、時には隠居した重豪の意を孫の藩主斉興に伝える役目もあり、重豪の笑左衛門 に対する信頼の度がうかがえる。続いて笑左衛門は47歳で町奉行に抜擢され異例のスピ−ドで昇進を重ねた。文政7年(1824年)笑左衛門49歳のとき、側用人兼隠居の続料掛を命ぜられた。隠居の続料掛とは2人の隠居(重豪と子の 斉宣)の諸費用を預かる役目で、財源を琉球、中国との貿易に頼った。しかし今までの、幕府の制限どうりに行われていた貿易では隠居料を賄う事が出来ず、笑左衛門は巧みな密貿易を始めて、大きな収益を上げた。

この成功を重豪は見逃さず、笑左衛門の経理能力を高く評価して藩政改革の責任者として勝手方重役に昇進させ、財政再建を命じた。 しかし笑左衛門は仰天の上、固辞し続けた。これは今まで財政再建を完遂した家老は一人もおらず、その方面で素人の自分が出来るはずがないと思った為であったが、重豪の矢のような催促からついに屈し、承諾した。
ここまで藩の財政が悪くなる過程で薩摩藩は、何度か藩政の改革を試みたが、実効を上げたものはほとんど無かった。その要因の一つとなったと思われる事件が「秩父くずれ」と呼ばれている。
天明7年(1787年)島津重豪は家督を息子の斉宣に譲り隠退したが、まだ血気盛んな重豪は藩政への介入を宣言して、事実上の権力者であり続けた。この年、京都で大火があり幕府は薩摩藩に20万両の献金を命じ、これが財政をいっそうひっ迫させた。新藩主になった斉宣は 父重豪と違い、緊縮財政をひき、誠実な人柄で学究肌であったため、質実剛健の気風を好んだ。彼は、研究者タイプのブレインを多く登用し、その中の中心的な人物が秩父太郎であった。斉宣は秩父太郎らに抜本的な藩政改革を命じた。秩父太郎は樺山主税と手を組み質素倹約、質実剛健の手引書とも言える「亀鶴問答」という書を著し、藩士たちに配った。そして藩を上げての倹約方針も、遂に重豪に及び重豪に対して豪奢な生活を捨て質素に倹約するよう諫言した。しかしこれに激怒した重豪により秩父太郎、樺山主税には切腹を、斉宣には隠居 を命じ、藩主には孫の斉興を据えて自らが後見した。これ以降質素倹約を唱えるものがいなくなり、重豪の豪奢三昧な生活を改めさせる手段も無くなった。

「秩父くずれ」の事を知っていた笑左衛門に、重豪への倹約を求める事は出来ず、他の方法を模索するしかなかった。思い悩んだ末、まず資金の借入れ先を探した。が藩内の商人は相手にしてくれず、藩と取り引きがあった上方商人にもけんもほろろに扱われた。思いつめた笑左衛門は何度も自害を思ったが、そんな様子に動かされた上方商人の浜村屋孫兵衛が、他4名の商人を説得して「新藩債」を引き受ける事になり、借入れの件は何とかめどが付いた。(浜村屋孫兵衛には後に、黒糖貿易の利権を一部与えている。)
次に藩の財政を再建するために、当時有名な経済学者であった佐藤信淵を顧問に招き、改革案を作らせた。その内容は、

<支出>
1.500万両の借金は、貸し手を説得の上、元金だけを年2万両づつ250年賦で返し利子は一切切り捨てる。

2.藩内の諸費用を予算制度を導入して収支を厳格にする。

<収入>
1.特産品の包装、梱包に問題があり他国へ輸出のさい傷や無駄が多いので直ちに改める。

2.特産品を品質改良し、すべてを藩の専売とする。

3.隠居(重豪)のこずかいを捻出すると言う名目で琉球、中国との貿易の許可を幕府から得る。そして許可が下りたら、決められた制限量を無視し密貿易を行い、それを円滑に行うため幕府の要人に賄賂を贈る。

これらの案を重豪、斉興に披露して了解を得た。そして今までは酒好きで宴会も頻繁に行い任侠に富み、いかにも薩摩隼人らしかった笑左衛門も質素な生活にあらため、自ら範を示した。
改革案に重豪、斉興からの許可がおりた笑左衛門は次々と改革を進めていった。まず米、その他の特産品の包装を厳重にし、品種の改良と量産の奨励を行い、幕府の許可を得、琉球を通じて中国貿易を始めた。ここで笑左衛門は家老に列せられるが、彼を見出した隠居の重豪が天保4年(1833年)に死去する。重豪の死後も笑左衛門は斉興のもとで家老として引き続き財政再建にあたり、斉興も笑左衛門には全幅の信頼を寄せた。そして斉興と共謀の上、贋金(にせがね)造りもはじめた。そして借金の500万両を事実上踏み倒す事にした。藩内の商人には金高に応じて武士の身分を与え、江戸、上方の商人には、借金の証文を騙し取って焼き捨ててしまった。これにより商人達が騒ぎ始め 、共謀した浜村屋孫兵衛が大阪東町奉行所から詮議をうけたが、微罪で赦され笑左衛門への嫌疑には及ばなかった。これは、幕閣への賄賂が十分に効いていたためであったと言う。その後も奄美諸島の特産品「黒糖」を専売にし、現金売買を一切禁止して島での黒糖と他の日用品との交換比率を改悪した。そして黒糖その物の品質も改良して、売り上げも1.5倍に伸ばした。これらの改革により500万両の借金があった薩摩藩も改革10年目にして250万両の蓄えを持つまでになった。その資金を活用して笑左衛門は藩内の新田開発や治水工事等、環境開発にも着手して一層の増収を得る事が出来た。が士族たちも改革の矛先が自分達の方に向かい始めると、反感を募らせる者達が出てきて、笑左衛門の改革にも暗雲が立ち始める。

丁度そのころ斉興の跡目をめぐって本妻の子、斉彬を支持する勢力と斉興の側室お由良(おゆら)を中心に久光を擁立する勢力が対立していた。このお由良は、江戸三田の町人の娘といわれる。笑左衛門は曾祖父、重豪の影響を強く受けた斉彬を危惧して、久光の擁立を支持するようになる。跡目相続の抗争が長期化するとやがて斉彬は笑左衛門を憎み、失脚のため身辺を探らせるようになる。そして笑左衛門が中国との密貿易の指示を出していた事実をつきとめ、幕府の老中筆頭 阿部正弘にリ−クした。賄賂のためか元々斉彬の支持派であった阿部正弘は久光の失脚につながる笑左衛門への疑惑の追求に喜んで荷担した。
嘉永元年(1848年)の秋、江戸の到着した笑左衛門は直ちに幕府より召喚され、密貿易について厳しい尋問を受けた。笑左衛門は嫌疑が藩主斉興に及ぶ事を恐れ、一切の責任を負って三田にある藩邸内の長屋で毒を仰いで死んだ。
笑左衛門の死は秘密にされ、嫡子の左門は「稲留」と姓を変え、名を数馬と変えて小納戸役を解任された。さらに屋敷も取り上げられて国許に帰らされるが、これは斉興が幕府の手前を取り繕うためで、まもなく稲留数馬は斉興に番頭に取りたてられ屋敷の買い上げ金600両を下賜されている。だがその斉興もお由良騒動から斉彬擁立派を一掃したが、幕府の圧力で隠居せざるを得なくなった。笑左衛門の死後2年後のことである。

斉彬が藩主となると非凡な才能の持ち主西郷隆盛などを登用して、洋式工業を興し、兵器や軍艦を大量に作り藩を近代化して 討幕へと向かって行く。そして幕末期には最強の軍隊と呼ばれた「薩摩藩軍」も含めてその基礎となる資金には笑左衛門が藩政改革で備蓄したものが使用された。おそらく笑左衛門がいなければ、近代工業も、最強の軍隊も薩摩藩は持つ事が出来ず、極論すれば明治維新そのものが、怪しくなっていたと思われ、その偉業は後の日本にとって忘れられない物となっている。

最後になったが私の友人、調所(ちょうしょ) 正俊氏は、調所 笑左衛門の子孫であり、氏の許しを得てご先祖の話を掲載させていただいた。

関連項目

・むかし、むかし10篤姫行列の麻布通過








6.東禅寺襲撃事件<高輪>

高輪の仏日山東禅寺は1610(慶長15)年麻布の台地に建てられたが、1636(寛永13)年当地に移転し15,000坪に及ぶ広大な寺領を有した。安政6年(1859年)イギリス初代公使オ−ルコックが江戸に入ると東禅寺は幕府からイギリス公使館と定められたが(他の候補もあったがイギリス側も非常事態にすぐに軍艦に乗船できる当地を選んだと言われる。)、攘夷思想による 当時の不穏な情勢を反映して寺院内には10余りの番所をつくり、公使館のまわりを竹矢来で囲み常時150名ほどの武士が護衛として配置されていた。そんな厳重な警戒の間を縫って安政7年1月7日(1860年1月29日)日本人通訳の伝吉が寺の門前で白昼に殺害された。そして約1年後には寺そのものが襲撃を受ける。

1回目の襲撃事件は1861(文久元)年5月28日の夜11時頃、水戸藩士有賀半弥ら14名の浪士が表門の垣根を破って乱入し イギリス人2名を負傷させ、警備の武士、浪士ともに数名の即死者と多数の負傷者を出した。しかしオ−ルコックを発見する事は出来なかった。これは彼の部屋が一番奥にあったためで、もし襲撃が裏手から始まっていたら真っ先に彼は殺害されていたと思われる。

明け方、赤羽接遇所に滞在していたシーボルトが事件を聞きつけ警護の武士に守られて来館し負傷者の治療に当たった。 2回目の襲撃はオ−ルコックが英国に帰国中の1862(文久2)年5月29日におこった。ちょうどこの夜は1回目に乱入して死亡した浪士の一周忌が行われた。寺の警備の松本藩士伊藤軍兵衛は長槍を持って公使の庭に忍び入り見張りのイギリス人を殺害した。混乱した現場から逃れた彼は自宅に戻り自害して果てた。彼は、日本人同士が傷つけ合うのは外人が居るためと思いつめ、暴挙に走ったと考えられた。
幕府の滅亡後、東禅寺の寺領は上地となり檀家の武家も故国に帰ったので自然と寂れた。しかし今も玄関の鴨居や柱に1回目の襲撃時の刀きずや弾痕を見る事ができ、当時の面影を色濃く残している。








7.四国町のポルタ−ガイスト事件<三田>

東京朝日新聞(現、朝日新聞)に掲載され後に「日本怪奇物語」と言う本で「夜半に室内の道具が動き出して百鬼夜行」として掲載された話を以下にご紹介。
明治23年九月上旬、芝区三田四国町二番町へ引越してきた宮地一家(主人48歳、長男7歳、長女10歳)3人は、引越した当初は平穏な暮らし を営んでいた。しかし10月10日頃から夜になると不思議な事が起こりだした。
まず部屋にある煙草盆、火鉢などがゆらゆらと自然に動き出し、天井に吊り上げられたり、台所の米びつや、すり鉢、釜、茶碗などがまるで生きている様に踊りだしたりした。またある時は、家族が寝ている天井から米や灰が降ってきたりもした。こんな事がしばらく続くと 子供達はすっかり怖がってしまい父親もあまりの怪奇さに困り果て、今度動き出したら切ってしまおうと枕元に包丁を置いて寝ると、その包丁までもが部屋を飛び回り始めた。ほとほと困り果てたが、怪奇現象はなおも続き、縁の下から按摩の笛が聞こえたり、戸や障子がリズムをとって鳴り出したりした。
仕方が無いので父親は高輪警察に訴え出ると共に、祈祷師に御払いを依頼した。とあるが残念ながらその結果どうなったかを確認できる書物は無い。






8.とげ抜き万蔵(芝)

芝金杉橋のあたりに、漁師で魚屋でもある万蔵という者が住んでいた。この万蔵は不思議な芸を持っていた。それは、大人、子供、男女の区別なく万蔵が「よし、よし」と言うと、即座に刺さった「とげ」が抜けてしまうというものだ。万に一つの狂いもなく刺さったとげが抜けてしまうのである。そして万蔵が留守の時は、女房が代わって「よし、よし」と唱えると、簡単なものなら抜けるようになったという。
ある時は、よそのおかみさんが、食後に楊枝をくわえていたところ、何かの拍子に喉に刺さって抜けないばかりか、楊枝の先が喉に食い込み、どうにもならない。外科に見せ、鍼医にも匙を投げられて、万蔵のところに竹輿で運ばれてきた。今までのいきさつを話し、竹輿から下ろそうとしたところに万蔵が出てきて、「よし、よし」と言うとそのおかみさんは、くしゃみと共に楊枝を吐き出してしまった。
またある時は、大工の倅の14、5才の少年が錐(きり)をけった拍子に、先が折れて足の親指の爪先に深く入り込んでしまった。戸板で万蔵のところまで担ぎ込まれて来ると、例のごとく「よし、よし」と言うと錐は自然と抜け出し、痛みも去ったという。しかしこの技も万蔵一代限りで終わってしまったといわれる。







9.狸狐の仕業(白金)

江戸の頃、白銀(現白金)に、大御番七番組の石川源之丞という武士が住んでいた。源之丞には一人の娘がいたが、その娘が13歳のとき、ふと庭に出て、そのまま行方がわからなくなってしまった。源之丞は、家内の者を集めて屋敷中隈なく捜したが、見つけることが出来なかった。
ところが、その翌日、神田木挽町から、お嬢様をお預かりしているとの知らせが届いたので、早速家来の者を迎えにやり、屋敷につれて帰った。娘が落ち着いたところで事情を尋ねると、「見知らぬ人に連れられて、面白い所を方々見物してきました。」と答えた。不信に思った源之丞は、木挽町の者に見つかった時の様子を尋ねてみると、どうした訳か芝居茶屋の庭に一人でいたので、色々と訳をたずねたが、言葉も定かでないので、いったん休ませ、正気に戻ってから尋ねると、こちらのご息女だと言うのでお連れした。との事だった。
この事件を町の者たちは、狐か狸の仕業であろうと囁きあったという。この話は江戸時代の「梅翁随筆」に収められている。



10.中川屋嘉兵衛(芝白金)

牛肉販売の元祖、中川屋嘉兵衛は三河の人で、幕末に異人相手の商売を志して英語を修め、慶応元年に横浜に出た。最初、横浜で塵芥処理の人夫などをしていたが、アメリカ人医師のシモンズに認められて、その雇人となった。シモンズとの交流の中で、嘉兵衛は「牛乳」の需要に目をつけて横浜の洲干弁天付近で搾乳業を始め、壜詰の上シモンズを通して外国人に供給した。ところが搾乳業がようやく軌道に乗りかけたとき、不幸にも火災のため搾乳場と乳牛2頭を焼失してしまった。火災の報を聞いたシモンズは、馬で駆けつけ、焼死した乳牛をみて、「中川は牛の丸焼きをつくった」と冗談をとばして、悲嘆に暮れる彼を元気づけた。

嘉兵衛はこの災厄に屈せず、北方村の天沼に移り、通称トワンテ山(イギリス狙撃兵第21連隊が駐屯していたために、ついた名)のイギリス軍の食料用達商となり、野菜果実を納入しながらイギリス兵と懇意になってパンの製造を伝授され、パン製造にも乗り出した。そして兵士達と交流している内に、牛肉の美味と栄養価を知り、これの販売に乗り出した。
慶応二年(1866年)、嘉兵衛は小港屠牛場の牛肉を販売し始め、翌年三年には江戸荏原郡白金村で支店も開業した。支店の開店にあたって嘉兵衛は、横浜から牛肉を運ぶより江戸に屠牛場を設けたほうが便利であると考え、土地を物色したが、旧弊人の多い江戸では、誰も土地を貸そうとしなかった。しかし、やっと白金村の堀越藤吉という名主が、畑の一部を貸与してくれたので、屠牛場と牛肉販売店を作り、江戸における牛肉販売が確立した。
この白金村の名主、堀越藤吉はその後に嘉兵衛が製氷業に転ずるさい、公使館の肉納人の株を惜しんで、あとを引き継がぬかと相談したところ、喜んで引き継ぎ、名義人「中川」のまま営業して後に牛肉販売だけでなく、牛鍋屋も開業して、東京で牛鍋屋の元祖となる「中川」 の経営者となった。

余談だが、先見の明がある嘉兵衛は慶応三年十月版の「万国新聞紙」第7集の広告に、

パン、ビスケット、ホットル
此品私店に御座候。御求め願い奉り候
横浜元町一丁目、中川屋嘉兵衛

とあり、パン製造の他に、ビスケットなども製造していた事が知れる。




11.芝・紅葉館(芝)

現在東京タワ−が建っている山は、その昔に紅葉山と呼ばれた。これは徳川2代将軍秀忠が、江戸城内の楓山から多数の楓樹の根を分けて移し植えた事から起こった地名で、金地院前の坂を「紅葉坂」、渓流から流れる滝を「紅葉の瀧」と呼んだ。

明治14年(1881年)この紅葉山に、当時の代表的な純日本風高級社交場として「紅葉館」が開業した。同時期(明治16年)には西洋風の社交場である「鹿鳴館」が開業し鹿鳴館時代などと呼ばれもてはやされたが、西洋の舞踊などが主であったため、僅か七年で消滅した。その後の外国人接待、政財界人の集いなどは主にこの芝・紅葉館が使用された。
創業時の敷地面積は1,956坪であったが、その後の用地買収などで最終的には4,610坪という広大な土地を有し、庭内には渓流、瀧、築山などもあり、本館には純和風の客室、供待ち部屋の他に、総檜造りの湯殿、京都大徳寺山門から移され、生前自らが刻んだと言われる千利休の木像が安置された「利休堂」があった。そして上野で開催された第1回国内博覧会で、天皇が休息した建物を移築し縁を鴬張りに改造した離れ座敷「便殿」もあった。また明治22年には新館が増築され、三間合わせて100畳敷きの畳を上げると檜の舞台にもなった。
開業当初、芝・紅葉館は300名限定で会費300円の会員制で完全予約制であり、ほんの一握りの上流階級に属する者しか会員の資格を認められず、有名人でもなかなか入れなかったという。そして入り口には「雑輩入るべからず」と書かれた看板があり、また門には制服姿の守衛が警備して入館者を厳重に管理した。

利用客の主だった会合の一部を紹介。

明治14年柳川春三の追悼会に訪れた福沢諭吉。
明治15年晩餐会に出席したE.Sモ−ス
明治16年出獄祝宴の陸奥宗光
明治18年欧米出張を命じられた高橋是清の送別会。
明治22年読売新聞創刊15周年祝賀会の尾崎紅葉
明治24年帰国船親睦会の新渡戸稲造
明治27年外交団晩餐会のベルギ−公使
明治28年祝宴の伊藤博文
明治29年米国公使赴任送別会の星亨
明治29年自由党宴会の板垣退助
明治31年日本美術院創立披露の岡倉天心、横山大観
明治35年代議士懇親会の原敬
明治36年陸海連合懇談会の大山巌大将、伊藤祐亨大将
明治40年雨声会の西園寺公望、田山花袋、島崎藤村、国木田独歩、他

この中でも明治30年頃の常連と言われた人の中に、尾崎行雄、犬養毅、尾崎紅葉などがおり、尾崎紅葉は、紅葉館の女中「お須磨」をモデルに金色夜叉のお宮を描いた。これは、文人仲間の巌谷小波が紅葉館に幾度となく足を運ぶうちに女中の「お須磨」と恋に落ちた。しかし家庭の事情から金に困ったお須磨は、他の客の物となった。これに怒ったのは、小波とお須磨の仲立ちをしていた紅葉である。実際に、紅葉は主席でお須磨を激しく詰問したうえ、廊下に連れ出して足蹴にした。この時の様子が金色夜叉の熱海の海岸場面として登場する事になる。
またこの紅葉館女中の中からは後に川上音次郎の進めで女優になった「お絹」、伊藤博文夫人の「おすま」、ハインリッヒ・ク−デンホ−フ婦人「おミツ」などがいた。
上流の者でもめったに紅葉館には入れなかったので、たまにビジタ−として訪れる者が紅葉館の備品を失敬する事が多かったという。特に杯は人気で、酔った勢いで持ち出した杯を2次会の新橋あたりの料亭において帰る者が多く、紅葉館もあまりの紛失ぶりに苦慮したらしいが、結局他の高級料亭に置いて行かれた杯も紅葉館の名をさらに高める効果をもたらしたという。

繁栄を誇った芝・紅葉館も昭和20年3月10日の大空襲で焼失し、その幕を閉じた。しかし登記面上は昭和35年まで存在しており、この年の2月23日に日本電波塔株式会社に吸収合併され名実供に「東京タワ−」となって完全に消滅した。








12.清正公の祭り(白金)



清正公は正式には最正山覚林寺という寺号を持ち、古くから近隣の信仰を集めてきた。寺は日蓮宗安房誕生寺末で1631年(寛永8年)可観院日延上人により開山された。可観院日延上人は加藤清正が朝鮮征伐の時、王族の連枝を連れてきたうちの一人で、もう一人は、熊本本妙寺の第三代本行院日遙上人。また日延上人は「水仙花」の栽培に長けていた事から、当地に幕府から水仙畑として賜ったともいわれる。寺に入って正面の清正堂には有栖川熾仁親王が揮毫した破魔軍の大額がかかっている。 慶応2年(1866年)1月には、門前に牝ライオンの見世物小屋がかり大賑わいとなった事もあったという。
毎年、加藤清正の命日を偲んで行われる5月4、5日の清正公祭は、露店が天神坂まで連なって壮観である。昔は東京三大縁日のひとつに数えられ、祭りには50万人の人出があったという。
この時にだけ頒布されるお守りは「勝守(しょうぶ守ともいう)」と呼ばれ、加藤清正の武勇にちなんだ縁起物として重宝され、紙の鯉のぼり「開運出世祝鯉」の授与もある。
99年5月4日子供を連れてお参りした折に、露店で菖蒲を購入。しかし、しばらく歩くと菖蒲をさっきの半額で 売っている店を発見!トホホ....。金魚すくい、ベビ−カステラ、くじ屋、射的屋、輪投げと昔ながらの遊びが満載でした。

ところで「端午の節句」とは、奈良時代から行われている古い行事で、
「端午」とは、五月の初めの午(うま)の日という意味。それがいつのまにか
五月五日に固定されてしまったものだという。
奈良・平安時代の端午の日は、災厄を避けるための行事が行われる重要な日で、
宮廷ではこの日、軒に菖蒲やよもぎを挿し、臣下の人々は菖蒲を冠に飾ったり、
菖蒲の葉の薬玉を柱に下げたりした。鎌倉時代には、武家の間から菖蒲と尚武をかけて
この日を大切にする気風が生れた。そして、江戸時代には、端午は幕府の重要な式日となり、
大名や旗本は江戸城に出仕し将軍にお祝を述べた。将軍に世継が生れると、
城中にたくさんの幟や作り物の遣り、長刀、兜などを立てて盛大にこれを祝った。
そして江戸の中期頃になると庶民の間から町民のアイデアで鯉のぼりが生れた。
これは中国に古くから伝わる登竜門の伝説になぞらえ、竜門の滝を登り切ると鯉が竜になるように、
我子も健康に育ち、将来は大きく出世して欲しいとの気持を込めたものだといわれる。
この頃は和紙に鯉の絵を描いたものだったが、大正時代に破れない綿の鯉のぼりが生まれ、
昭和三十年代の半ばには雨にぬれても色落のしない合成繊維の鯉のぼりが誕生し、
現在に受継がれているとのこと。



★<追記> 山門脇電話ボックスの横に門前碑がありその南側の側面下部に
几号水準点が彫り込まれている。
また、山手七福神の毘沙門天としても有名である。

◎山手七福神

  1. 恵比寿−滝泉寺・目黒不動(目黒区下目黒)
  2. 弁財天−蟠竜寺(目黒区下目黒)
  3. 大黒天−大円寺(目黒区下目黒)
  4. 福禄寿−妙円寺(港区白金台)
  5. 寿老神−妙円寺(港区白金台)
  6. 布袋尊−瑞聖寺(港区白金台)
  7. 毘沙門天−覚林寺(港区白金台)


関連項目

・むかし、むかし10麻布の几号水準点







13.品川で見つけた芝(大井の大仏(おおぼとけ))

品川区西大井5丁目のある養玉院如来寺は、大正12年に元禄年間より下谷にあった三明院と、明治41年高輪から当地に移転してきた如来寺 が合併して出来た寺である。この高輪の如来寺には高さ3メ−トルあまりもある5体の五智如来が安置されていた事から「高輪の大仏」と呼ばれ、多くの信仰を集めていた。

如来寺の開祖木喰上人は俗名を「又七」と言い神田大工町に住む仏師であった。しかし彼のもう一つの顔は「隠れキリシタン」でもあった。元和5年、幕府の厳しい追求により又七と共に57人の隠れキリシタンが捕まり、品川海岸で磔となって槍で突き殺されてしまった。しかしどうした訳か又七だけは生き残ることが出来、翌朝通りかかりの旅人に助けられて上総の国(千葉)に逃れ、そこで天神山にこもって木食の行(人付き合い、五穀を断つ行)をして一心に仏像を彫った。この仏像は5体の如来像で後に五智如来と言われるようになった。

この五智如来が無二の名作との評判がたつと、噂を聞きつけた代官所の役人による詮議が行われ、過去に隠れキリシタであった事も発覚した。しかし、厳しい取り調べの結果キリシタンから仏教に転向した事が認められ、芝高輪に土地が与えられ寺を建てて五智如来を安置することが許された。そして後江戸に戻った又七は「但唱」と名を改めて56人の冥福と供養のために市中を托鉢して回り、その寄付によって寺は建てられたという。やがて大勢の参拝客が訪れ「高輪の大仏」として有名になった。しかしその後、享保の頃に寺は火災にあい薬師如来を除く4体が焼失してしまい現在のものは、延享3年ころに造られたものであるとの事。








14.品川で見つけた芝(次郎兵衛とたけのこ)


品川区戸越近辺は、かつてタケノコの特産地であり今も品川区小山1丁目には「孟宗竹栽培記念碑」が残されている。これは江戸時代 この辺りに廻船問屋「山路次郎兵衛」の別邸があり、まわりは畑作中心の農村地帯であった。しかし台地の地形から水が不足しがちで、満足な収穫も得られず、貧しい農家が多かった。

これを改善しようと次郎兵衛は考え、ある日、たまたま通りかかった三田の薩摩藩邸に立派な孟宗竹が生えているのが目に止まった。そして、これを植えて作物としようと考えた次郎兵衛は、早速藩邸の門を叩き孟宗竹の株分けを頼んだ。しかし、当時薩摩藩のみが持っていた孟宗竹は、琉球から献上された貴重な物で、即座に断られてしまった。

その後も懲りずに何度も頼んだがやはりだめであった。そこで次郎兵衛は藩邸に出入りする植木屋に頼んで弟子となり、1年後、ついに株を持ち帰るのが許された。持ち帰った孟宗竹を自宅に植えて、品種の改良を行い、近隣の農家にも栽培を督励した。やがてタケノコは付近の名物となり、目黒不動の門前では「たけのこ飯」を出す店なども出来て「目黒の筍」と名を広めた。

それから17年後の文化2年(1806年)、次郎兵衛はこの世を去り、翌年の一周忌に息子の三郎兵衛が父の偉業を称えて遺骨の一部を筍栽培地の中心に埋め、その上に碑を建てた。その碑には次郎兵衛の号「釈竹翁」と辞世の句、

櫓も楫も、弥陀にまかせて雪見哉

が刻まれている。この碑は、今も品川区の文化財に指定されている。










15.品川で見つけた芝(15.寛政のくじら)

約200年前の寛政10年(1798年)5月1日、前の晩からの暴風雨によって品川沖に一頭の鯨が迷い込んで来た。近隣の漁師たちは力を合わせて鯨を天王洲に追い込み、動けなくなったところで生け捕りにした。捕まえてみると鯨は長さ16メ−トル、高さ2メ−トルのせみ鯨であり、その大きさに皆驚いた。そして品川で鯨が取れたと言う知らせが江戸中に伝わると、大勢の見物人が押しかけ、300メ−トルほど沖の鯨を一目見ようと漁師たちの船を借り上げて見物したので、漁師たちの懐には、思わぬ大金が入ったという。その後、評判を聞きつけた代官所の役人が調べに来て、とうとう将軍家斉からも見せろとの使いが来た。5月3日漁師たちは鯨に縄をかけて浜御殿(現浜離宮)沖まで引いて行き将軍に供覧した。家斉はたいそう喜び、漁師達に「猟師町元浦」と書いた旗まで贈って感謝を表した。

その後再び品川沖に戻された鯨は「将軍上覧の鯨」として前にも増して人気となった。しかしその後日がたつにつれて鯨は弱って死んでしまったので、漁師たちは鯨を解体して油をとり、骨は縁台などにしたという。そして余った骨を目黒川河口付近の利田神社の境内に埋め、その上に碑を建てた。この碑は「鯨塚」といわれ現在も残されている。

この鯨騒動は「享保の象」「文化のらくだ」と共に江戸動物3大事件として語り継がれている。また当時、鯨フィ−バ−にあやかって、鯨手ぬぐい、鯨にちなんだ食べ物も売り出され、また、滝沢馬琴が「鯨魚尺品革羽織」、十辺舎一九が「大鯨豊年貢」なども表した。そして「品川の沖にとまりしせみ鯨、みんみんみんと飛んでくるなり」という狂歌まで流行ったという。

また、今から149年まえの嘉永4年(1851年)4月11日に現れた時は、御林町と呼ばれていた鮫洲の海岸に一頭の鯨が漂ってきた。これを見つけた御林町の漁師達は、全員総出で鯨を海岸に引き上げ、そのことを村役人がら代官所に届け出た。 さっそく代官所の役人が来て調査し規則通りに入札にかけ、大井町の吉太郎という者が落札した。これをさらに深川の越前屋茂兵衛が買い受けて、浅草で見せ物にした。しかし、しばらくすると腐り始めたので、脂を絞って売りに出し、残った骨を鮫洲八幡神社に埋めて塚を作り供養したという。

しかしこの塚は残っておらず、また、獲れたのも鯨ではなく、鮫だったとの説もあって、どちらが本当だか今となってはわからない。その他にも品川沖には文政5年(1822年)にも鯨が現れたと言われるが、寛政、嘉永のくじらほど資料も文献も残されていない。















16.品川で見つけた芝(森永製菓大崎工場)

現在田町駅前にある森永製菓は、明治32年赤坂で森永太一郎が2坪あまりの敷地に「森永西洋菓子製造所」を建てて創業した。しかし当時チョコレ−トなどは「牛の血が入ってる」「泥を固めた」等と言われ全く売れなかったという。またせっかく売れて店頭に並んだチョコレ−トも商品知識の不足から直射日光に当たって溶けるなどして返品の山となってしまい、それを溶かして溜池に流して捨てていたという。しかしキャラメルは居留地に住む外国人などには売れ、当時三田に住んでいた福沢諭吉家からも注文があったようだ。それでも一般の人たちは、ミルクとバタ−の匂いがするので、気味悪がって食べなかった。

その後、時代が下るにつれてやがてキャラメルは一般にも売れるようになった。そして大正3年、それまでバラで売っていたキャラメルを20粒入りの紙箱に入れ、上野で開かれた大正博覧会に出したところ爆発的なヒットとなり、以後「キャラメルの森永」といわれるようになった。これを機にアメリカから自動包装機を購入して現在の北品川5丁目近辺に2000坪あまりの大崎工場をつくり 大量生産体制に入って現在の基礎を作ったという。また三田にあった工場が翌年全焼してしまい、キャラメル製造は大崎工場が名実供に主力工場となり、その生産は大正15年に閉鎖されるまで続く。しかし現在、当時のなごりを示すものは、目黒川にかかる橋「森永橋」のみとなってしまった。





17.品川で見つけた芝(鈴ヶ森刑場跡)

南大井の第一京浜と旧東海道がぶつかるあたりに「鈴ヶ森刑場跡」がある。この刑場は慶安4年(1651年)それまで 芝高輪にあった「仕置場」を移転して開設されたものである。1623年(元和9年)10月13日、高輪仕置場で原主人らキリシタンが火刑にあったのを手始めに、1639年(寛永15年)にはキリシタンが禁教となって、移転前の1640年には品川で早くもキリシタンが処刑されている。またさらに以前の1619年(元和5年)、2代将軍秀忠によるキリシタン弾圧の時もに、仏師又七と共に57人の隠れキリシタンが捕まり、品川海岸で磔となっており、正式な移転前から処刑が行われていた事がわかる。そしておそらくそれまで江戸の郊外であった高輪仕置場も江戸の町域の膨張と、キリシタンの禁教による処刑者が増したことで、されに郊外の鈴ヶ森に移転せざるを得なくなったと考えられる。

当時、一般に鈴ヶ森刑場は「一本松獄門場」と呼ばれていた。これは海岸に面した所に一本の大きな松があったためで、まわりには民家も無く寂しい場所であった。刑場は間口40間(約73m)奥行き9間(約12m)ほどの長方形の敷地に竹矢来を囲らせていて、その中には小川が流れていた。この川は刑に使用した槍を洗ったので「槍洗川」と呼ばれた。そしてこの小川のほとりには「あし」が群生していたがその葉はすべて片葉であったという。

刑場は明治4年(1871年)に廃止されるまでの220年間に10万人近くの 罪人が処刑されたといい、現在も当時、刑に使う角材や鉄柱などを立てた「台石」が残されている。罪人の中には平井権八、丸橋忠弥、天一坊、八百屋お七、白木屋お駒などの有名人も含まれ、 その他には、多くのキリシタン信者の殉教地でもあった。当時の刑は多分に「見せしめ」の要素が強く、すぐ前が海であったため、 浜風で窒息しない「火焙り」、すぐには絶命しない様に刺した「磔」などがおこなわれた。またキリシタン信者には「逆さ磔」という過酷な刑でのぞみ、これによって多くの信者が命を落とした。そして品川の郷土史資料を見ると、10万人の処刑者の内なんと、4割はえん罪であったとある。

当時、地元の人は、刑死者を供養することが認められていなかったので、百姓小屋をたてて密かに供養したという。これが現在も刑場跡の横にある「大経寺」の縁起といわれる。また、この刑場に続く旧東海道の立会川にかかっている橋は、今は「浜川橋」というが、昔は罪人と見送りの家族が最後の別れをした場所から「なみだ橋」と呼ばれていた。

そして、このあたりを「鈴ヶ森」と呼ぶのは近くに「鈴ヶ森八幡神社」があるためで、この神社に「鈴石」が置かれていたために付いた地名とのこと。この神社 は「むかしむかし」で書いた磐井神社の事であり、江戸期には「鈴ヶ森八幡神社」と呼ばれており、麻布にあった「鷹石」も同社に保存されている。











18.品川で見つけた芝(ドレスメ−カ−女学院)

大正15年(1926年)3月、芝に洋裁学校「ドレスメ−カ−スク−ル」が杉野芳子によって誕生した。開校時スク−ルは20畳の洋間に30台の机と数台のミシンだけで、生徒はわずかに3人であった。杉野芳子は明治25年(1892年)千葉の旧家に生まれ、女学校を卒業すると鉄道省職員〜教員となったが、大正2年(1913年)自らの勉学のため教師を辞めてニュ−ヨ−クに渡った。渡米後は、アメリカの大都会の生活の中でも袴姿であった。その後、しばらくすると日本では一部の女性しか身に付けていなかった洋服をぜひ着用したいと思ったが、アメリカ製の既製服はあわず注文服はとても高価だったので、洋裁を習い始めた。そして持ち前の機用さで洋裁の技術をメキメキと身に付けた。その後、アメリカで出会った日本人と結婚し7年ぶりの大正9年(1920年)夫と共に帰国。そして新居を芝に構えた。そして日本の女性達にも洋服を安価に普及させる目的で、自宅近くのビルにドレスメ−カ−スク−ルを開いた。

しかし、3人しか生徒の集まらなかったスク−ルは家賃が払えず、わずか1週間で閉鎖となってしまった。しかたなく杉野はスク−ルを自宅に移して授業を続行した。そして開校から半年経った9月、評判を聞きつけて生徒が集まりだし13人となった。そこで11月2日に、手狭になった自宅を現在の品川区上大崎に移転し、スク−ルも「ドレスメ−カ−女学院」と改めて現在と同地に開校した。丁度その頃から読売新聞の洋裁講座の執筆も始まり、生徒も増え続けて現在の基礎を築いたという。その後同校は短大、女子大、夜間部、通信教育部、衣装博物館を備え現在に至っている。

20年ほど前、私はよくこのドレメの横で、当時の友人?の授業が終わるのを待っていた「ほろ苦い」記憶がある。




19.品川で見つけた芝(星製薬)

当ペ−ジGuestBook5月22日で川口氏が投稿してくださった作家の星新一氏は晩年、高輪のマンションにお住まいであったそうだ。 その星新一氏の父、星一は品川区荏原にある星薬科大学、星製薬の創始者である。

明治6年(1873年)福島県に生まれた星一は18歳で上京、東京商科学校を卒業後21歳で渡米。コロンビア大学政経科を苦学して卒業し日本人で初めて雑誌「ジャパン・アンド・アメリカ」を創刊した。また渡米中に生涯の師と仰いだ新渡戸稲造をはじめ後藤新平、伊藤博文、野口英世、杉山茂丸などと知り合った。その後、明治39年(1906年)、12年の渡米生活を終えて帰国した星一は、社会奉仕、大衆性などから製薬事業を始め、それまでの問屋制度ではなく全国に特約店制度を敷き、日本で初めてのチェ−ン店組織を確立し成功を収めた。

5年後の明治44年(1911年)には品川区西五反田に「星製薬株式会社」を創立。同地にあった工場は、現在のTOC(東京卸売りセンタ−)から区立五反田文化センタ−、現星薬科大学を含めた2万3千坪という広大な敷地にあり、鉄筋4階建て、従業員3,000人の巨大な工場は当時、東京名物の一つに数えられるほどであった。またその経営も、福利厚生の重視、株式の公募など現代の経営に通じる先駆的なものであったという。さらに大正11年(1922年)には星製薬商業高校を創立、昭和16年には星薬学専門学校、昭和25年に星薬科大学となって現在も続く。

しかし企業の方は、大正13年(1924年)、成功に対する周囲の嫉妬や、政党の抗争に巻き込まれ、生アヘンの取扱いで犯罪者の汚名を着せられた。しかしその後、裁判で無罪を勝ち取ったが個人的な財産は破産し、事業家としての信用を失った。その後、入植者を入れてペル−でコカインを栽培するために渡米したが、ロサンゼルスで77歳で亡くなった。




20.品川で見つけた芝(現東芝病院敷地その1)

大井町駅を過ぎて左手線路際にある現在の東芝病院(東大井6丁目)の敷地は、その昔は毛織物工場であった。

大井町の開発者としても知られる後藤恕作は安政5年(1858年)現在の兵庫県で生まれ15歳の時、政治家の森有礼に随行して北京に留学した。そして明治11年(1858年)に帰国すると北京で習得した語学と毛織物の染色技術を使って、当時普及しはじめた洋服の元となる毛織物の製造をはじめた。明治13年共に北京で過ごした加藤書記長が帰国すると、恕作は彼の援助をうけて芝区白金台町に作業員20名ばかりの後藤毛織製造所を創立した。当初はなかなか事業が軌道に乗らず、負債を出した事もあったが、明治23年ころにやっと回復し、工場も白金から大井村(現東芝病院)に移して235名の作業員を抱えていた。さらに明治32年。この頃になると小学生でも洋服を着るようになり、それに伴って工場の敷地は2万坪を超え、従業員も1,200名の大企業となった。しかし翌明治33年の過剰生産恐慌と羊毛の価格暴落から多額の債務を生じ、休業に追い込まれる。そして「三井」の所有となって敷地を縮小しながらも、その後カネボウと合併、昭和40年まで操業された。




21.品川で見つけた芝(現東芝病院敷地その2)

明治44年東京電気株式会社(現東芝)は、前記「後藤毛織製造所」の一部工場跡地をかりて電球の工場を開設した。

イギリスで応用ガラス細工の技術を取得した藤岡市助は明治23年、技師数名と京橋に「白熱舎」という電球製造所を創設し電球の製造に 着手した。当初1日に10個ほどしか製造出来なかった電球も、明治27年には日産400個ほどの製造量となり明治29年には会社を株式組織として社名も「東京白熱電燈球製造株式会社」とし、さらに3年後東京電気株式会社と社名変更した。

その頃になるとそれまで三田、川崎にある工場では生産が追いつかなくなり、明治44年に「後藤毛織製造所」の一部1920坪を借りて大井工場が開設された。この工場では炭素電球工場も設け、タングステン電球、バルブ用陶器の三工場からなる大工場となった。さらに大正に入ると小型電球工場も加わり、三田にあった工場をすべて当地に移転して8000坪の敷地となった。その後東京電気株式会社は昭和14年に芝浦製作所と合併し東京芝浦電気株式会社となり、のち昭和59年に東芝となって現在に至る。




22.添え乳、母の霊(芝金杉)

明治24年4月5日の新聞にある「母の霊、愛しい子に添え乳」と言う記事の要約をご紹介。

芝金杉町3丁目12番地の油屋、鈴木久米蔵の妻おたかは明治23年11月に男の子を出産したが産後の肥立ちが悪く、12月の始め頃亡くなってしまった。夫の久米蔵は大変に悲しみながら野辺送りを済ませ、懇ろに葬った。しかしそれまで妻に手伝わせていた家業も手数が足りなくなり、赤ん防の世話が出来なくなってしまった。困りきった久米蔵はある人にいくらかの手当てを払い、子供の面倒を見てもらうことにした。ところが子供を預かった家ではその晩から赤ん坊が火がついたように泣き続き、数日後には手におえなくて赤ん坊は久米蔵の元に返されてしまった。しかし久米蔵の家に戻ると赤ん坊は何も無かったように機嫌が直り平穏が続いた。久米蔵は赤ん坊を預けた家が手が掛かるので面倒になり返したのだと思い、新たな預け先を見つけた。しかし、ここも手におえないと返されてしまった。その後、幾度も預け先を変えたがその都度、赤ん坊は夜になると火がついたように泣き手におえないと言って返されてしまうので、ついに久米蔵は赤ん坊を預けるのを諦めて、自分で育てる決心をした。すると赤ん坊は何事も無かったかの様に夜もおとなしくなった。

ある晩、久米蔵は赤ん坊を寝かし付けてから店をかたずけて、再び家に戻ってみると赤ん坊の横には亡くなった妻のおたかが、添い寝して乳をあげている。驚いた久米蔵が大きな声を出すと、近所の人たちが何事かと集まってきた。そこで、久米蔵が今までのいきさつを話すと、これまで赤ん坊を他家に預けてもすぐに泣き出してしまったのは、おたかが我が子を育てようとした一念であったのだろうと近所の大評判となった。








23.白禅寺の幽霊<白金>


img/kin/hakuzenn.jpg img/kin/hakuzenn2.jpg ある日図書館で、雑誌のバックナンバーをパラパラとながめていると「白禅寺境内の亡霊騒ぎ」と題した文章を発見した。そして読んで行くうちにその亡霊騒ぎが江戸時代とかではなく、昭和の事であったので興味がわき、その文の原型となる昭和26年7月29日(日)の毎日新聞を早速読んでみた。以下はその概略。

白金聖心女学院裏の白禅寺境内にあるトウモロコシ畑に囲まれた一軒家に住む天谷ちかさんが夕涼みで庭に出ると、白い詰襟に紺の半ズボンをはいた16〜7歳の少年が入り口の石段にションボリとたたずんでいた。ちかさんが不審に思って声をかけようとしたが何故か顔と足がぼんやりとしていてそのままス−ッと暗闇の中に消えていった。

また、これより一月ほど前に同家では夜になると戸の隙間から17歳位の少年が家に入ってきて枕元に立つので、隙間に目張りをしたがそれでもおさまらず、毎夜現れて家人を苦しめたという。

家人がこの話を付近の人に話したところ、終戦の年(1945年)の7月に同じ所に住んでいた17歳の少年が不発弾の処理中に誤って爆死してしまったので、同地内で荼毘にふした事が判りその亡霊が現れるのだろうということになった。それ以来、近所でも評判となり、夜は気味悪がって人通りも少なくなってしまったので、7月27日にはとうとう亡霊の供養まで行ったとある。そして新聞は最後に高輪警察署巡査の「騒ぎは聞いているが、所詮、迷信深い人達ばかりだから騒いでいるのだろう。」と言うコメントで結んでいる。

この話しを調べるために付近を散策してみたが、白金三光町に「白禅寺」という寺は見つからず、また近代沿革図集にも昔から白禅寺は見当たらない。そこで新聞は「興禅寺」と間違えているのではないかと言う結論となった。(もし「白禅寺」をご存知のかたはご一報下さい。)

新聞にはトウモロコシ畑と民家の写った写真が掲載されているが、私が生まれる少し前まで白金に畑があったとは驚きである。またこの新聞の同じページには映画案内が掲載されていて、高輪映画では「神変美女峠・マンガ」、広尾銀映では「母恋草・牢獄の花嫁」、芝園館では「母を慕いて」が上映中であった。








24.小判を呑んだ老僧<芝・愛宕>


 寛保(1741〜44年)のころ、芝愛宕町に良覚という老僧が住んでいた。この僧はかなりの高齢で病の床についていたが友人・身寄りも少なく、たまに甥だという男が訪ねてくるだけであった。甥は見舞いに来ると必ず医者の診断を受けて薬を飲むようにと言ったが、老僧は「金が惜しい」と一向に取り合わなかった。ある日見舞いに来た甥に、なるべくやわらかい餅を200ばかり買ってくるように頼んだ老僧だが、甥が言われたとおり餅を買ってくると一向に食べる様子が無い。仕方なく甥は戸棚に餅をしまって帰っていった。そして二日が過ぎて再び甥が見舞いに訪れると、老僧はすでに亡くなっていた。そして戸棚を調べると老僧が餅を48ほど食べたようで、残った餅が盆に乗せてあった。その盆を片付けようと甥が持ち上げると、盆はずしりと重かった。不思議に思った甥が餅の一つを割ってみると、中には小判が入れてあり、残りも割ってみるとすべて小判が入っていた。人一倍お金への執着が強かった老僧が自分の死期を悟り冥土に持って行こうとしたと悟った甥はそのことを早速奉行所に届け出た。すると奉行所から役人が来て検死の結果、腹の中に小判を入れたまま埋葬するのは金の冥利に背くと判断されたので老僧を火葬にして遺灰から48枚の小判を取り出し、盆に残った小判とあわせて甥に下げ渡した。しかしその晩から甥の枕元に金への執着を残した老僧が毎晩現れ、小判を返せとせまった。眠ることも出来なくなった甥は困り果てて再び奉行所に相談し、その小判をすべて各寺々に寄進した。そしてそれ以降老僧は甥の枕もとに立つことは無くなったという。

この話を聞いて落語の
「黄金餅」を思い浮かべる方は多いと思う。場所は下谷、愛宕と違うが、金に執着のある老僧が金を飲み込む(この話では小判を呑んでいるが、噺のほうではより現実的に小粒<1両の4分の1の一分金>)と状況が似ており、もしかすると噺の原型となった事件?であったのかもしれない。  





25.元和キリシタン遺跡(芝・札の辻)


都旧跡 元和キリシタン遺跡 碑拡大画像・碑文


先日所用で札ノ辻を通りかかったところ、元の芝浜中学隣地に三田ツインビルという新しいビルができている事を知った。
広々とした庭には聖坂を登ったあたりに出られるエレベーターも完備され、月の岬・亀塚・済海寺などに行くのが大変便利になった。そして庭の北側隅に碑があるのに気づいた。 碑には「都旧跡 元和キリシタン遺跡」とあった。
碑の横の説明を読むと三代将軍家光の頃にキリシタン信者の処刑が行われた地と書かれており、興味を持ったので帰宅後に参考となる書を調べたが、見つけることが出来なかった。そこでネットで検索すると非常に興味のある文章に出くわした。それはカトリック東京大司教区サイトの教区ニュース 2007年3月号にあった。今回はカトリック東京大司教区広報部様に転載許可を頂いたのでご紹介


原主水の生涯 (6)   高木一雄




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+ 処刑の日時と場所
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 元和9年 (1623) 閏8月24日、 第3代将軍に就任したばかりの徳川家光が京から江戸に帰った。 
そして9月7日父親である前将軍徳川秀忠も江戸へ帰った。 そこで将軍徳川家光は父の助言や老中土井
利勝(どいとしかつ)、 永井尚政(ながいなおまさ)、 酒井忠世(さかいただよ)などの意見を容れて10月
13日 (12月4日) の仏滅日に牢内のキリシタン50人を火焙りにするとした。 そして刑場を選ぶの
には猶も30日間を要したわけであった。 
その頃、 江戸の刑罰場(けいばつば)は千住街道沿いの旧鳥越村から蔵屋敷造成のため浅草山近くの
新鳥越村 (台東区浅草七丁目) に移されたばかりであった。 だが、 そこは残酷極まりない火焙りを行なう
場所ではなかった。 それに江戸参府の諸大名にも見せ付ける場所としては最も賑わいのある東海道入り口
の芝口にある広場しかなかった。 そこで江戸城から一里半の札の辻 (港区三田三丁目) の山の斜面に決定
したわけであった。

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+ 火焙りの準備
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 元来、 火焙りの刑は最も重罪とされ、 放火犯人だけに適用されていた。 その方法は 『刑罪大秘録』 
によると磔刑とは異なり一本の柱 (長さ二間の五寸角) に釣竹で固定して縛るのであった。 磔刑の場合
だと縄で縛りつけるが火焙りとなると焼けてしまうからであった。 また、 『刑罪書』 によると 「火罪壱
人分御入用」 として 「薪二百把、 萱七百把、 大縄二把、 中縄十把」 とある。 従って50人の火焙りとなる
と厖大な量の薪や萱を準備するのであった。 
次に立ち合い人は北町奉行島田次兵衛利正(しまだじへいとしまさ)、 南町奉行米津勘兵衛田政(よねづ
かんべえたまさ)、 牢屋奉行石出帯刀吉深(いしでたてわきよしみ)、 それに伝馬町□□小屋頭藤左衛門(とう
ざえもん)などであった。 それら処刑の記録は幕府が延宝8年 (1680) 8月23日に第5代将軍徳川
綱吉が就任すると天和2年 (1682) 2月19日、 すなわち第4代将軍徳川家綱時代以前の延宝7年 
(1679) までのキリシタン古証文を悉(ことごと)く焼却処分させたため今日では詳しい記録が残され
ていない。 

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+ 刑の執行日
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 元和9年 (1623) 10月13日、 伝馬町牢内のキリシタン男子51人は裏門から3組に分けられ
出発した。 先ず第一組はジェロニモ・デ・アンデリス神父、 次に第二組はフランシスコ・ガルベス神父、
そして第三組は原主水佐が先頭となり後手に縛られ首に縄をかけられて馬に乗せられ、 他の者たちも縛
られたまま歩いて従うのであった。 そして□□小屋頭藤左衛門の先導で多くの□□たちに付き添われ、
名札を掲げられながら今日の室町―日本橋―京橋―銀座―新橋―浜松町―三田―芝口と引き回される
のであった。 
さて、 札の辻に着いてみると、 そこには柱が47本と少し離れて3本が立てられ、 側には多くの薪や
萱が積み上げられていた。 そこで町奉行は一人の囮(おとり)を使い一同に棄教を迫ったが誰一人として
応じる者もなく却って見物人の中から男女2人が同じく処刑されることを申し出たという。 因(ちなみ)
に囮となった転びキリシタンは間もなく殺されたといい、 また見物人の中から処刑を申し出た男女は
伝馬町牢に入れられ後日処刑されたという。 

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+ 処刑の史実
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 初めに47人のキリシタンが柱に縛られ町奉行の合図により藤左衛門配下の者たちが風上より一齊
いっせいに火を放った。 そこにはジェロニモ・デ・アンデリス神父 (55歳)、 フランシスコ・ガルベス
神父 (47歳)、 原主水佐胤信(たねのぶ) (36歳) が見せつけられていた。 そして第2回目に3人が
処刑されたわけであった。 そのとき、 江戸市中からは多くの人々が集まり広い野原や周りの丘は群衆
で一杯であったという。 また江戸参府の諸大名も立ち止まっていたらしいが、 市中に残っているキリシタン
たちも見ていたという。 そして三日三晩屍(しかばね)が焼け尽きるまで番人が立っていたらしく、 それが
終わるとキリシタンたちは殉教者の聖遺物を拾い集めたという。 
今日、 それら処刑された50人の中、 37人の名前だけがわかっている。 また処刑された日については
日本側史料にも外国側史料にも一致して 「寒い日」 だったとしている。 だが正しい場所について 
『徳川実記』 には 「江戸に入る門戸」 とあり、 『万年記』 には芝とだけある。 そして外国側史料である
イエズス会クリストヴァン・フェレイラ神父やフランシスコ会ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父の
報告書、 それに 『オランダ商館日記』 などには 「東海道に沿った海の見える小高い丘」 とだけある。
曽かつて芝浦は遠浅の製塩の地であり遥か房総の山々がよく見えたという。 


(高木一雄 キリスト教史研究家)






新装なった江戸元和殉教跡地




近々列福が確実視されている188殉教者の一人ヨハネ原主水が、 他の49名と共に火刑に処せられた
札の辻の江戸元和殉教 (1622年) 跡地に、 住友不動産が2002年から進めてきた三田ツインビル
西館と、 付随する約3,000坪 (10,000平方メートル) の庭園が完成した。 
庭園の大部分は国道に面してビルの北側 (田町駅寄り) に展開、 残りはビルの裏 (崖) 側を済海寺の
直下まで延長、 全体に緑を生かす、 なだらかな築山造りになっている。 
北側の庭園を国道からの緩やかな階段を使って上りきると、 正面に巨大な天然石が横たわり、 右隣
に都教育委員会の「都旧跡 元和キリシタン遺跡 智福寺境内」の石柱と説明板が移されている (写真)。
この庭園と後述のエレベーターは、 午前5時から午後11時まで一般に開放。 
旧智福寺はビルの裏手、 済海寺下にあったはずで、 史実と若干違うのは目をつぶろう。 ただ緩やか
な階段がまるで参道のように見えて、 歩道脇にあった石柱が一挙に忠魂碑風に格上げされた印象。 
施主に感謝しながら、 永く保存されることを祈りたい。 
巡礼するのに便利になったのは都旧跡の石柱から30〜40メートル離れたところに、 エレベーター
・タワーと陸橋が設けられたこと。 これを利用すれば、 開国後最初にフランス領事館が置かれた済海寺
へ直接楽に行ける。逆に不便なのは、 以前ここが大駐車場であったため、 休日に限って集団巡礼の大型
バスが駐車できたが、 それが不可能になったことだ。 


(「江戸切支丹殉教ゆかりの地」編者 村岡昌和)



原主水の生涯 (6)

著者:高木一雄 氏
出典:「カトリック東京大司教区『東京教区ニュース』240号

新装なった江戸元和殉教跡地

著者:村岡昌和 氏
出典:「カトリック東京大司教区『東京教区ニュース』240号

※ 今回ご紹介した文章は著者様ならびにカトリック東京大司教区様のご好意により転載のご許可を頂きました。

※ 出典元サイト : カトリック東京大司教区−教区ニュース2007年3月





<追記>

今回の掲載に当たって東京大司教区カトリック東京大司教区広報部様より下記
のメールを頂きました。 あわせてお読みください。

今年は殉教者の“列福”が決まり、列福式を11月に控え(於:長崎)
日本のカトリック教会においては特別な年です。
原主水をはじめ、札の辻で殉教した人々も福者とされます。
この掲載を機会に多くの方に、殉教者とカトリックの信仰
にふれていただければと思います。















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