麻布の由来

アサップル説

麻布と言う地名は、”麻の産地であり又織物もさかんであった。”というのが定説なのだろうが、江戸時代位までは、 阿佐布、麻生、浅府、安座部、などと多様に書き表されていた。これは、地名の意味が分からず当て字のためと思われる。 そこで稲垣利吉氏は、アザブとはアイヌ語ではないかと言う説を披露している。

要約すると、太古の昔、十番あたりまでは海であった。 東京湾に突き出ている芝公園の高台より飯倉、狸穴、鳥居坂、日ケ窪、麻布山麓、仙台坂と続く半島と、三田山、ぎょらん坂、三光町、 恵比寿、天現寺まで続く半島に囲まれた内海は、海草が繁殖し、小魚の天国であったので、早くから人が住みついたと思われる。そしてそこには、石器時代からの民とアイヌの人たちが仲良く住んでいた。 (麻布山にも貝塚があったらしい。)当時内海には、小島が点在し、又半島を横切るために船や筏にようなものが多く使われていたと思われ、それにより狩や、物々交換を行っていた。こうして船で渡る事をアイヌ語で”アサップル” と呼んだらしい。

「向こう岸の三田山は聖坂まで海水が来て一個の独立した孤島であった。この島に美しいピリカ(乙女)が多数いたので多くの若者がアサップルしていく事は、若衆の唯一の楽しみで、物交も楽しいがそれ以上に楽しい事であった。」とある。

ピリカの島の予想図
ピリカの島の予想図


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・むかし、むかし8-134 アサップル伝説






麻田説



「あざぶ」は昔、多摩川にもほど遠くないこの地に麻を多く植え、布を織り出した所からきた地名と言う。 日本記にも豆田、粟田をまめふ、あわふと訓読みしたように麻田をあざぶと呼んだと言われ、武蔵の国では調布を玉川で晒し、 貢ぎ物としたとあり、その産地であったと思われる。また麻布山善福寺の言い伝えによると昔、 麻布山に麻が降ったことがあり、麻布留山(あさふるやま)と言ったのを後に略して麻布山と唱えたのが広まり、地名となったと言われる。



○江戸志
此所は多摩川へもほど遠からざれば、古へこの地に麻を多くうへおき、布をもおり出せるよりの名ならん、多摩郡にも布多村といふあり、手調布 を多くおり出せしよし、或人云、あさふは麻布にあらず、此辺昔は山畠にて麻を作りしゆえ、麻田をあさふとよめり、日本記にも豆田、粟田を まめふ、あはふと訓するがごとく、此外にも、蓬生又浅芽生の類に同じ、武蔵国には調布を玉川にさらして貢物にも奉りしゆへ、此辺麻田なるべし、 延喜式、万葉集の歌にものする所なり



時代は下って永禄2(1559)年「小田原衆所領役帳」には、
一、狩野大膳亮、五拾三貫貳百文江戸阿佐布
と記述があり、さらに天正18(1590)年には「校注天正日記」に
7月3日あざぶより源兵衛来る
の記述がある。



江戸期

江戸初期までの麻布領は現在の麻布の概念よりも遙かに大きいものであった(@表参照)。しかし、その後「麻布十六ヶ村」と呼ばれる範囲(A表参照)となり、さらに 「麻布七村」と呼ばれた区域(B表参照)に限定されてゆく。

○望海毎談
武蔵国渋谷の内、麻布七村といふて所広し、其地名多摩川に続き、此辺にて普く布織出し、多摩川にて是を晒し、世にひろむるより調布の出所なり、 六の玉川の内、むさしの玉川は布をさらすことを古歌にもつらね玉う
玉川にさらす調布さらさらに昔の人の恋しきやなぞ
是をもって知るべし
麻布七村と言われたのは、竜土、桜田、谷町、市兵衛、六本木、上ノ町、雑色であり、正保の頃(1644〜48年)の郷帳に阿佐布村高745石一斗七升七合、 善福寺領10石とある。その後正徳3年(1713年)にそれまでの代官支配から町奉行支配となり、江戸市中に組み込まれてゆくこととなる。 そして、さらにその後も多くの町が起立してゆく。またそれまで「あざぶ、阿佐布、麻生、浅府、安座部」など多彩に表記されていたものが次第に 「麻布」と統一されるようになってゆく。

この表記について「文政町方書上」麻布本村町では、
正徳3(1713)年町御奉行所御支配に相成り候頃より麻布と文字書き改め候。この訳は往古この辺り、一円百姓地にて御代官伊奈半左衛門様御支配所に御座候。その頃、 百姓耕作の助けに麻を作り女子ども手業に布を織り、また、麻苧紙と申すを漉き渡世に致し候由、これにより阿佐布を麻布と文字改め候由申し伝え候
と「麻布」と表記するようになったのは麻布が江戸市中に組み込まれた頃と明記している。 また麻布区史は麻布が町域になる元地を3つに分けて解説している。
@村落が発達して市街地となった地域
A寺社の門前に町域を設けた地域
B小禄の御家人に屋敷を給し、これに町人を住まわせて家賃収入を得るため町家となった地域(拝領町屋敷)
としている。



@「麻布十六ヶ村」以前の広大な麻布領


「御府内備考」で定義された江戸初期までの麻布領(府内)
青山久保町原宿町善光寺門前
渋谷宮益町道玄坂
麻布今井町今井谷町今井三谷町谷町
市兵衛町永坂町今井寺町代地坂下町
南日ヶ窪町北日ヶ窪町宮村町一本松町
台雲寺門前龍土六本木町飯倉六本木町龍土坂口町
龍土町龍土材木町桜田町三軒家町
広尾町宮村町代地本村町田島町
永松町龍土町龍土材木町桜田町
三軒家町広尾町宮村町代地本村町
田島町永松町
飯倉飯倉町1〜6丁目飯倉片町
金杉通1〜4丁目金杉裏1〜5丁目金杉浜町本芝1〜4丁目
本芝材木町本芝下タ町本芝入横町横新町
通新町田町1〜9丁目伊皿子町伊皿子台町
伊皿子七軒町伊皿子寺町
三田三田1〜4丁目台町1、2丁目台裏町北代地町
南代地町久保町久保三田町古川町
麻布古川町老増町
白金台町1〜10丁目猿町
高輪北町中町南町北横町
台町小台町



A「麻布十六ヶ村」
・豊島郡 十六村
・荏原郡  五村
-------------------
合計  二十一村












B「麻布七ヶ村」−御府内備考
「新編武蔵風土記」で定義された麻布領(府下)
豊島郡十六村1.麻布村2.桜田町3.龍土町4.今井町
5.飯倉町6.芝金杉町7.本芝町8.上渋谷村
9.中渋谷村10.下渋谷村11.渋谷宮益町12.上豊沢村
13.中豊沢村14.下豊沢村15.穏田村16.原宿村
荏原郡五村1.白金村2.今里村3.上高輪町在方4.下高輪村
5.三田村
1.龍土 2.櫻田 3.谷町 4.市兵衛 5.六本木 6.上ノ町 7.雑色



C麻布12町−町域となり町奉行支配の江戸市中となる
1.本村町 2.一本松町 3.坂下町 4.永坂町 5.北日ケ窪町 6.南日ケ窪町
7.宮村町 8.宮村町代地 9.三軒家町 10.広尾町 11.永松町 12.古川町







☆麻布における町域の発達
年 代町 名
慶長年間(1596〜1615年)今井台町 起立
元和6(1620)年8月今井谷村 起立
元和(1615〜1623年)以降龍土町・龍土材木町 起立
寛永元(1624)年桜田町 起立
寛永6(1629)年正信寺門前・光専寺門前・深広寺門前 起立
寛永8(1631)年妙祝寺門前・妙善寺門前・観明院門前・
正光院門前・今井法音寺門前 起立
寛永10(1633)年御箪笥町 拝領町屋敷となる
慶安1(1648)年善長寺門前・順了寺門前 起立
慶安5(1652)年善福寺門前元町・善福寺門前東町 起立
寛文2(1662)年飯倉1〜6丁目・狸穴町・片町・永坂町 町方支配となる
寛文8(1668)年坂下町・一本松町・三軒家町
・広尾町・宮村代地町・本村町
の家作を改める
天和3(1683)年東福寺門前 起立
貞享元(1684)年的場屋敷 起立
元禄9(1696)年坂江町拝領町屋敷となる
一本松に拝領町屋敷
元禄12(1699)年芝森元町 拝領町屋敷となる
元禄13(1700)年田島町 拝領町屋敷となる
元禄15(1702)年教善寺門前に家作を許される
宝永2(1705)年西光寺門前に家作を許される
宝永4(1707)年永坂光照寺
門前に家作を許される
宝永6(1709)年永坂町・永松町・善福寺門前西町
に家作を許される
宮下町・新網町1丁目
拝領町屋敷となる
宝永7(1710)年網代町拝領町屋敷となる
宝永8(1711)年北日ヶ窪町に拝領町屋敷
正徳3(1713)年今井三谷町・谷町・箪笥町・今井寺町・
市兵衛町・永坂町・今井寺町代地・坂下町・
宮下町・南日ヶ窪町・北日ヶ窪町・宮村町・
一本松町・龍土六本木町・龍土坂江町・龍土町・
龍土材木町・三軒家町・広尾町・宮村代地町・
本村町・田島町・永松町 町方支配となる
享保6(1721)年不動院門前 家作を許される
享保13(1728)年善福寺門前代地町 家作を許される
享保15(1730)年春桃院門前 家作を許される
享保16(1731)年台雲寺門前 家作を許される
享保17(1732)年十番馬場町・新網町2丁目 起立
享保19(1734)年今井谷町・今井寺町光林寺跡・
飯倉新町 町方支配となる
元文4(1739)年赤羽圓明寺門前 家作を許される
延享2(1745)年長専寺門前・妙祝寺門前・妙善寺門前・観明院門前・
正光院門前・東福寺門前・赤羽圓明寺門前・今井法音寺門前・
不動院門前・台雲寺門前・善福寺門前元町・善福寺門前西町・
善福寺門前東町・善福寺門前代地町・春桃院門前・教善寺門前
町方支配となる
北日ヶ窪に拝領町屋敷
延享5(1748)年永坂光照寺門前・光専寺門前・
深広寺門前 町方支配となる

※拝領町屋敷
小禄の御家人に屋敷を給し、これに町人を住まわせて家賃収入を得るための拝領屋敷



江戸時代麻布辺
の土地種別(港区史・上巻)
江戸時代麻布辺の土地種別(港区史・上巻)















大小区時代

明治期に新設された町名
新設町名備 考
三河台町 我善坊町 芝森元町 鳥居坂町 東鳥居坂町 竹谷町 霞町 笄町 新笄町 新堀町 富士見町 新広尾町 明治4年に東京を6大区に分けさらに明治7年1月改定されて第一大区(16小区)、第二大区(12小区)、第3大区(11小区)、第四大区(11小区)、第5大区(12小区)、第六大区(8小区)、第七大区(7小区)、第八大区(8小区)、第9大区(6小区)、第十大区(6小区)、第十一大区(6小区)に分類した。第一〜第六までの大区は朱引内で、麻布は第二、第七大区に編入された。以下はその町名。

大区

小区 町名(青字は新設された町名)
第二大区 6小区 飯倉1丁目、2丁目、6丁目、麻布市兵衛町1丁目、2丁目、麻布仲之町、麻布今井町、麻布谷町、麻布箪笥町、麻布三河台町、麻布我善坊町
七小区 飯倉3丁目、4丁目、5丁目、芝森元町1丁目、2丁目、3丁目、芝新門前町、麻布新網町1丁目、2丁目、麻布永坂町、麻布東鳥居坂町、飯倉片町、麻布狸穴町
  十小区 麻布田島町
  十二小区 麻布坂下町、麻布山元町、麻布網代町、麻布一本松町、麻布西町、麻布宮村町、麻布宮下町、麻布鳥居坂町、麻布南日ケ窪町、麻布北日ケ窪町、麻布六本木町、麻布材木町、麻布龍土町、麻布桜田町、麻布三軒家町、麻布本村町、麻布竹谷町、麻布東町、麻布新堀町
第七大区 一小区 新笄町、麻布富士見町、麻布盛岡町、麻布広尾町、麻布本村町、渋谷神原町
第八大区 一小区 麻布龍土町、麻布霞町、麻布笄町









麻布区の誕生



明治11年11月2日、郡区町村編成法が発布された事により大小区が廃止され東京市を15区に分け、その中の一つとして麻布区が誕生した。その後も編入、改編が行われ、
明治12年4月 −−−麻布広尾町に新笄町の一部を合併。
明治12年11月−−−麻布富士見町に麻布本村町の一部を合併。
明治13年9月 −−−芝区新門前町の内、1〜18番地、45〜47番地を麻布に編入。芝を取って単に新門前町と称す。
明治14年1月 −−−森元町1〜3丁目を芝森元町1〜3丁目と称し、新門前町を芝北新門前町と改称して麻布区に編入。
明治19年3月 −−−赤坂区渋谷神原町を麻布区に編入。
明治19年6月 −−−南豊島郡下渋谷村字笄開谷の内第一番〜13番、段別1町7畝24歩を麻布区麻布笄町へ編入。
となった。麻布区は芝、赤坂、麻布の各区を合併した「港区」が出来る1945年まで続く。

開設当時の麻布区は
人口−−−2万1008人(男10686人、女10322人)
戸数−−−6,281戸
であった。

開設当時の麻布区の町名は以下。
飯倉一丁目〜6丁目 飯倉片町 麻布我善坊町 麻布市兵衛町一〜二丁目 麻布南日ケ窪町 麻布材木町 麻布本村町 麻布広尾町 麻布富士見町
麻布盛岡町 麻布一本松町 麻布宮村町 麻布桜田町 麻布三軒家町 麻布仲之町 麻布龍土町 麻布新龍土町 麻布網代町
麻布坂下町 麻布今井町 麻布三河台町 麻布永坂町 麻布新網町1、2丁目 麻布東鳥居坂町 麻布鳥居坂町 麻布六本木町 麻布宮下町
麻布北日ケ窪町 麻布笄町 麻布新笄町 麻布霞町 麻布山元町 麻布谷町 麻布箪笥町 麻布西町 麻布東町
麻布竹谷町 麻布新堀町 麻布田島町 麻布本村町 渋谷上広尾町 渋谷広尾町 渋谷下広尾町    









○関連項目134.アサップル伝説

○関連項目麻布の旧町名

















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