むかし、むかし10








156.麻布の几号水準点


先日、何気なく麻布のサイトを検索していたら、「三角点の探訪」というサイトで不思議な表が目に入った。麻布一本松氷川社石華表28.3348とあり、ページのトップを見ると「几号水準点」とある。なんだろうと思いつつ文章を読むと几号は「キゴウ」と読み、明治初期の内務省が地図つくりを試みていた当時の水準点に相当する標石と記されていた。さらに読むと一本松の他にも麻布の地名が列記されておりさらに芝、赤坂の麻布近隣をはじめ東京の各地にあった几号水準点の詳細が記されていた。その中で「三角点の探訪」のサイト製作者である上西勝也氏の了解を得て、麻布とその近辺の几号現存状況をお伝えします。


図1−麻布付近に設置された几号水準点

No.現存名 称標 高設 置 場 所備 考地図
1.×西福寺8.0838m麻布四ノ橋近傍西福寺石手水鉢 地図
2.×麻布氷川神社28.3348m麻布一本松氷川神社石華表現在の石華表は昭和期設置地図
3.×末広神社8.9796m石華表設定地は現ハラストアー地図
4.×赤羽橋北詰4.9566m赤羽根橋際迷子知ルヘ石 地図
5.×櫻田神社30.8500m石華表 地図
6.飯倉狸穴坂上26.3900mロシア大使館前路傍、水平面刻印PBbox脇地図
7.×六本木 光専寺30.6609m門前碑戦災により消失との事地図
8.×麻布長谷寺31.0600m入り口 地図
※ 麻布の現存率 12.5% (0%)
1.×愛宕町 愛宕神社6.1376m石華表  
2.×愛宕町 愛宕山上25.4296m三角測点石上面  
3.愛宕町 愛宕山上26.2361m安永八年二月ト記シタル碑「不」ではなく「T」字型地図
4.×新橋 (旧宇田川町)3.1820m路傍  
5.×金杉町北詰(西)4.4778m芝金杉橋欄干石柱  
6.×東新橋 会仙橋北詰東2.2420m岸壁  
7.×新橋 蓬莱橋南詰(西)3.8321m蓬莱橋石欄干石柱  
8.芝東照宮4.0300m石華表右足下方正面地図
9.芝鹿島神社3.9243m狗石台石赤字「若者中」下方地図
10.高輪大木戸4.1871m大木戸石垣車道側側面地図
11.白金覚林寺(清正公)12.7753m門前碑「清正公大神儀」碑左側面台座下部地図
12.×白金台町 妙延寺28.9700m   
13.白金三光町 西光寺14.2100m念仏碑境内左手「南無阿弥陀仏」碑左面下部地図
14.西久保八幡町 八幡神社22.2700m石華表鳥居の左足下方正面地図
15.三田 綱の手引坂上 路傍、水平面刻印綱坂・綱の手引き坂合流点角・2010年撤去地図
※ 芝の現存率 53.3% (50%)

1.×赤坂葵町 塀の北門14.7053m測量課邸北ノ角石垣  
2.赤坂氷川神社 華表 地図
3.×赤坂 浄土寺9.1210m   
4.南青山7丁目路傍27.7600m路傍郵便ポスト右手民家境界塀最下部道路面地図
5.×南青山 梅窓院32.7387m石手水鉢  
6.×北青山 善光寺34.3900m石塔  
7.×青山六道辻甲賀町壹番地33.2702m新設石柱  
8.×元赤坂 赤坂離宮前門前15.6700m旧鮫河橋路傍  
9.×元赤坂 紀伊国坂上24.1000m紀伊国坂上溝際石柱路傍  
10.×赤坂元町 赤城神社25.9700m駿ケ台赤城神社石華表  
※ 赤坂の現存率 20.0%

1.渋谷区東 宝泉寺16.8800m境内常磐薬師堂碑下部移設地図
2.×広尾 広尾橋西詰10.7900m   
3.×渋谷区東 渋谷橋交叉点13.4800m路傍  







上記図−1から、旧麻布区内における几号水準点の現存状況が、他の旧港区内地域に比べて著しく損なわれているのがお解かりいただけるかと思う(ロシア大使館の几号が水準点ではないと仮定すると現存ゼロになってしまう)。同じように関東大震災、戦災、60年代開発、バブル期再開発、そして今期の再々開発にあいながらなぜこのような違いが出てしまったのかは、再考する必要があると思われる。なを、今回の記事を書くにあたり、まったく几号水準点の事を知らなかった私が参考にさせて頂き、またメールでのご教授もいただいた「三角点の探訪」サイト製作者である上西勝也氏に感謝いたします。と同時にこの記事をお読みいただいて、几号水準点に興味をお持ちの方は「三角点の探訪」サイトにご訪問されることを、強くお勧めいたします。そして最後に現地調査に協力して下さったOさんにも謝辞を述べさせていただきます。

「三角点の探訪」はこちらからどうぞ!

GoogleMap 几号地図






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157.赤羽橋の迷子しるべ石
      
赤羽橋
赤羽橋
   
赤羽橋の親柱
赤羽橋の親柱
   
一石橋迷子しらせ石
一石橋迷子しらせ石
      
一石橋親柱と迷子しらせ石
一石橋親柱と迷子しらせ石
      
一石橋迷子しらせ石標解説板
一石橋迷子しらせ石標解説板


前回の几号水準点を「三角点の探訪」サイトで調べていて、また不思議な記述が目に付いた。それは赤羽橋一石橋の几号を彫り付けたものが赤羽根橋際迷子知ルヘ石・一石橋迷子知ルヘ石とあり、今回は「迷子知ルヘ石」のおはなし。

「迷子知ルヘ石」は「迷子しるべ石」と読み、繁華街(赤羽橋は水天宮があったので大変な賑わいであった)などで迷子が生じた場合にはぐれた親子を会わせるための標識で「明治事物起源」によると、その起源は江戸時代天保13年(1842年)池田治兵衛という絵師が湯島天神開帳の混雑で迷子が多く出ることを憂いて、たづねる方・おしいる方と書かれた「奇縁求人石」という碑をつくり迷子救済の道標にしようとしたが、事情あって別当所喜見院の境内に埋めた。これを後年惜しんだ人が掘り起こし境内に建てる事になったが、その際一石橋と浅草寺にも池田治兵衛の志をついで「迷子のしるべ」と名を変えて同じ物を建てたことが始まりと言う。

さて赤羽根橋の「迷子しるべ石」であるが、「三角点の探訪」サイトの表は明治12年(1879年)の内務省地理局雜報をもとに作成されているのだが、明治7年(1874年)刊行の「やまと道しるべ」には湯島天神前、浅草観音仲見世前、一石橋南際の3箇所とともに赤羽根橋北とある。そして、明治17年(1884年)刊行の「改正東京案内」ではこの4ヶ所の他に、芝大明神・両国橋北・神田万世橋際が追加された。とあるから明治17年までの現存は確認できるが、残念ながらその後は不明である。

この項で紹介した画像は残念ながら赤羽橋ではなく一石橋のものであるが、たぶんそう違わない迷子しるべ石が赤羽橋にもあったであろうことは今回確認できた。

余談だが日本橋川にかかる一石橋は、両岸に後藤家があるので五斗と五斗であわせて「一石」という噺もあるらしい。そして一石橋迷子しるべ石は「東京都指定有形文化財」に指定されて現存されている。下記にその傍らに記された文を掲載。





一石橋迷子しらせ石標

江戸時代も後半に入る頃この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでたた場合、町内が責任を持って保護ることになっていたので、付近の有力者
が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満(ま)よい子の志るべ」、右側には、「志らする方」、右側には、
「たづぬる方」と彫り、上部に窪みあある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の
特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を
書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として
珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊
された。








<赤羽橋関連記事>

28.有馬家化け猫騒動
44.赤羽接遇所(外国人旅宿)
31.お竹如来
78.瓢箪床
2.ヒュ−スケン事件
3.清川八郎暗殺















158.読売On Lineの麻布写真
前からよく訪れるサイトのひとつに、YOMIURI ON-LINEの中の「よみうり写真館」というコーナーがある。これは新聞に掲載された写真を中心としたデータベースで、文字による検索などもできる。ちなみに「麻布」と入力すると今日現在(2005.1)で378枚の画像が確認できる。1ページ目には、昨年10月の台風22号で潅水し大江戸線麻布十番駅、1979年の南麻布ニューサンノーホテル建設反対を訴える地元住民のデモ、2ページには昨年2月に南麻布の立体駐車場から古川に転落した車、3ページには一昨年10月に麻布十番の信用金庫でおきた火事、78年に亡くなった田宮二郎が生前買い残した億ション4ページには発砲事件など事件、当時の世相などが満載されている。下記にその主だったものをご紹介。(以前は、原金の釣堀で釣りを楽しむ落語家、きみちゃん像とその管理者の画像などもっとあったのですが、経年淘汰されるようです。)

1977年12月−十番温泉越の湯で入浴している社会党脱党の楢崎・秦・田の3議員。
1953年7月−まだ大使館に昇格する前の、狸穴の旧ソ連代表部。
2002年5月−善福寺裏に完成した元麻布ヒルズ。
1977年2月−周辺住民の通報により写された善福寺横マンション地下の巨大地下壕。
1976年4月−大きな縁日がでた善福寺の花祭り。
1975年12月−鳥居坂トラ箱に収監された泥酔者。
2001年8月−大江戸線の開通で賑わう十番商店街。
2500年(皇紀?)1月−満州国大使館の川島芳子と水谷八重子。
1970年1月−麻布長谷寺でのエノケンの葬儀
1950年5月−なぜか焼き芋屋の店頭で見つかった旧軍砲弾200発。
1999年10月−南麻布高速道路上で起こったタンクローリー爆発事故。
1968年8月−完成した一の橋交通公園のミニハイウェー。
1999年8月−麻布サル騒動。
1999年7月−大雨で土砂崩れ、マンション駐車場で車が土砂に埋まる。
1999年4月−本村幼稚園で投票する明石都知事候補。
1968年8月−牛乳Gメン出動。
1965年11月−早朝の三河台火事。
1959年6月−麻布台小学校で給食の見学をするするスカルノ大統領。
1959年5月−ローンテ・ニスクラブでテニスを楽しむ皇太子ご夫妻。
1949年3月−麻布育英会を慰問する天皇皇后両陛下。
(年代順不同、掲載順)





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159.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )

      
善福寺側地下壕入り口@
昭
      
善福寺側地下壕入り口A
昭
前項「読売On Lineの麻布写真」で見た「巨大地下壕」は、以前むかし、むかしで取り上げた防空壕であるが、 調べてみると防空壕というよりは、もっと大がかりで巨大な「地下壕」であることがわかった。

まず写真の表題は「旧軍隊が掘った本土決戦用地下壕工事用ブリキ管は朽ちてボロボロ」となっていて、さらに 説明文には、

「東京・港区元麻布のマンションの地下に旧軍隊が掘った本土決戦用地下壕工事用ブリキ管は朽ちてボロボロ。(1976年8月10日撮影)15日朝刊掲載」

とあったのでさっそく当時の新聞を探してみた。しかし 1976年8月15日の紙面にはこのような記事は見つからず、さらに調べると1977年2月15日付けの朝刊に「ぎょっ麻布地下の”怪”旧軍ナゾのトンネル」と題した記事が掲載されていた。

記事は、周辺住民の「壕内に大量の油が浮いている」という通報から、麻布消防署が壕内部のガス検査・廃油処理をしながら調査した模様が詳細に書かれていて、さらに紙面には7枚の写真と共に総延長200mとされる壕内部の見取り図も書かれていて、麻布山善福寺境内の斜面を通り高台に隣接するNマンション(当時)の真下まで続いており、コンクリートで固められた高さ2.5m、幅2.3mの本坑には、はりめぐらされた電線・コンクリートを送るためのパイプ、マンション建設で突き抜けているパイルの様子などが書かれている。そこで、記事の中に区が早急に再調査をすると書かれていたので管轄した麻布土木事務所に行き、現所長にお話を伺った。しかし、当時の資料は何も残されておらず、この件を知っているのも自分以外にはいない。との事で、さらに、

とのお答えであった。そして、次に麻布消防署に問い合わせてみたが、やはり当時を知る署員は誰も居らず、調査資料はまったく残されていないとの事であった。

そこで新聞記事から掘削を担当した部隊名等ががわからないかと再読したが、

【その一 構築部隊は?】 〜海軍、陸軍、諸説あり、はっきりしない。昭和20年。善福寺と南山小に、相当数の兵隊が駐とんし、連日、トラックでどこかの作業現場へ出かけていくの を見た〜
【その二 感謝状】 〜善福寺・麻布照海住職の手元に、一通の感謝状がある。昭和19年2月、当時の台湾海軍燃料廠東京出張所長の福島海 軍中佐(故人)が住職に宛てて書 き残したもの〜

としか書かれておらず、実行部隊名も不明であった。次に、都立中央図書館に行き、壕の所在を記載した書籍のレファレンスを依頼したが、1週間後に届いた回答には該当書籍は皆無であった。次に防衛庁防衛研究所史料閲覧室に赴きレファレンスをお願いしたが、昭和17年以降の旧軍関係書類はほとんど残っていなく、部隊名の特定は不可能との答えを頂いた。さらに実行部隊が駐屯した南山小学校に問い合わせると、郷土史料室に何かあるかもしれないとのお答えを教頭先生より頂き、さっそく訪れると、「本校沿革抜粋」と題した表のなかに、
  • 昭和19年08月18日 南山学童集団疎開第一陣出発(栃木県佐野市)
  • 昭和20年04月01日 初等科1、2年は縁故疎開、3年以上は集団疎開にて授業休止になる。高等科は登校し男子は分割して工場へ女子は学校工場へ勤労動員さる
  • 昭和20年04月15日 十番商店街はじめ学区内焼失
  • 昭和20年04月16日 集団疎開児童71名出発、戦災者学校講堂に収容
  • 昭和20年05月04日 陸軍和気部隊二階9教室に入る
  • 昭和20年05月25日 再び学区内焼失全校を戦災者宿舎に開放
  • 昭和20年05月26日 全校を海軍設営隊宿舎として徴発さる 
  • 昭和20年07月07日 伊藤先生死去(※筆者注 「六男二組の太平洋戦争」に詳細が記載されている)
  • 昭和20年08月15日 終戦
  • 昭和20年09月01日 海軍設営隊引上げ 学校長興福寺に常駐
  • 昭和20年10月25日 佐野地区児童帰京
  • 昭和20年11月08日 学校にて授業再開 児童468名  
とあり、戦争末期南山小学校に駐留していた部隊が存在した事は確認できた。しかし残念ながら壕のとのかかわりを示す文章は、発見できなかった。

その後、東京大空襲・戦災誌(第2巻−東京大空襲・戦災誌編集委員会)という書籍の中に戸田勝久さんという方が書かれた「麻布十番罹災記」という項を発見した。

〜抜粋はじめ〜
(376p) 麻布十番罹災記−戸田勝久 〜麻布山善福寺も、東部軍管区兵站部海軍燃料廠として、また、近衛四連隊 東部八部隊、六部隊の宿舎として徴発され、また海軍は、南山国民学校のある内田山丘陵地帯一帯を本土決戦の要塞とすべく、現在の篠崎製菓近くの坂下町側と宮村町の二方面より、軌道を敷き、一大地下要塞の構築をはじめまし た。
〜抜粋終わり〜

そして、戸田勝久さん と言う終戦当時麻布十番在住で15歳の方のお名前に記憶があったので調べてみると、佐々淳行(初代内閣安全保障室長で南山小学校出身) 氏の著書「六男二組の太平洋戦争」(小学館文庫)に戸田勝久さんのお名前があり、佐々氏と同級生であることがわかった。 そして六男〜の中に当時の同級生の集合写真と氏名一覧があるのを見つけ、十番商店街の役員をしていた商店主に問い合わせた所、戸田勝久さんは十番商店街で 「おばな屋」という呉服店を営んでいた事がわかった。しかし戸田氏は20年前、神奈川に転居しており、お話を伺うのは難しい状況であった(さらに後日、 戸田氏の息女と私は南山小学校で同級生であった事もわかった。)。また文中にある東部八部隊をインターネットで検索すると東部八部隊に所属していた方 のサイトを発見したので早速問い合わせてみたが、その方は近衛歩兵麻布第七連隊・近衛歩兵東部八部隊に配属されたのが1年位で最下位の二年兵であで 竹田宮邸警備が任務であったので殆ど周りが分からなかったとのこと(近衛は初年兵から選抜されて二年兵から)とお知らせ頂いたが、残念ながら麻布の 地下壕はご存知なかった。
      
宮村町側入り口
宮村町側入り口
      
宮村町側入り口と通路
宮村町側入り口と通路

次に「十番わがふるさと」を再読してみると壕はこれだけではなく、宮村町(元麻布2丁目)側からも出入り口を造り、文字通り麻布山を貫通する大規模なものであった事が書かれている。

〜抜粋はじめ〜
(82p〜84p) 敗戦の色濃い日本軍部は、本土決戦を覚悟し「地下戦に転じた。麻布のごとき山岳戦に適した場所は、まず目をつけられた。横須賀海軍に命じて、 海軍陸戦隊1個大隊(450名)は、南山小学校を兵舎にして、壕堀りの仕事を 19年4月頃から始めた。初期の計画は、賢崇寺の山を現篠崎製菓の裏の 崖から掘り始め、一方、宮村山水舎の右方から掘り出し、中で二又にわか れ、善福寺の方へ抜いていく予定であったが、約六割ぐらいで、完成する 前に終戦になってしまった。壕のはば2米くらいで、両壁はコンクリートブロ ックで張りつめ、道路は下水の溝を作り、中央にトロッコのレールが敷かれ てあった。掘った土は外が焼け野原だから、道の片面に土をもり上げてあった。

とにかく陸戦隊のやる仕事だ、素人であり失敗もある。ある時、賢崇寺の深い井戸の底を抜いてしまい、掘っている兵も大洪水にびっくりしたが、寺も水がなくなり困った。兵達も壕から月がさし込むので、風流な兵士が「井戸の蛙とそしらばそしれ月もさし込む花もちる。」と、都々逸まがいで唄ったかもしれない。仕事は突貫工事だから、下級の兵はかわいそうで見ていられない。陸軍で経験のある地元の熊田さんも、表道りで叱られている兵士を見ると幾度かたしなめたと言っていた。このなかに特にひどく怨まれたのがいた。

 兵隊たちは、おりあらば叩き殺してしまおうと、相談していた。終戦の翌日、方丈は仏像のあるバラックで一人自炊の夕食をしていた。そこへ一人の海軍兵士が、色青ざめた顔をして恐る恐るはいってきた。夕食中の方丈は、兵士のただならぬ様子に箸をおいてたちあがり入り口にいって「何事ですか」と問うと 「私は今、殺されようとしています」 「助けてください」と身をふるわせている。「私は南山小学校の兵舎で、仕事をしている海軍の兵士です。部下に無理な仕事をさせ虐待しました。軍の解散命令とともに、部下がこぞって上官である私を殺そうとしているのを知り、このお山に逃げてきたのです。私を追って後からすぐ来ると思います。かくまってください」と手を合わせている。

 そうしていると、下の方から数人の声とともに、石段を登ってくる足音が聞こえてきたので、方丈は「とにかくここへお入りなさい」と、男を仏壇の奥へ押し込んだ。そして膳の前へすわった時、表から兵士が七、八人飛び込んできた。そしてやにわに「坊さん、ここへ今一人の兵士がきたでしょう」と威丈高に声をはずませた。方丈は、静かに立ち上がり入り口まで出て、これらの兵士を見まわし「兵士のごときはこないが、何かあったのかな」と言うと、「たしかにこの山に来たのを見たのです」と兵士達は、室の中へたちいろうとしているのを見て、方丈は剣道五段、しかも陸軍志願で鍛えた声で、大喝して言った「何事か!君たちは住職の私が言っている事が信用できんのか。だったらこの山から出て行くがよい。注意のため言っておくが、このお山は鍋島藩の殉死した葉隠武士が多く眠っている所だ。たとえ本人がいても暴力を加える事は許さんぞ」と禅で鍛えた声で厳然たる態度で、彼らを睥睨(ヘイゲイ)したので一同は黙ってしまった。

 上官らしいのが「わかりました」と答え、「失礼いたしましたお許しください」と慇懃に挙手の礼をして同行十人ばかりと山をおりていった。一時間ほど間をおいて、仏壇の奥から兵士を出して、うれしなきに泣いている彼に向って過去のことは一切水に流し、一時も早く親元に帰りなさいと諭した。地獄で仏に出会った彼はいくかどか方丈に最敬礼をしていそいそと山をおりていった。八月の月は何事もなかったように、静かに山を照らしていた。〜抜粋終わり〜

〜抜粋はじめ〜
(116p) 戦時中、終戦に近い昭和19年春頃から日本軍は配色濃い本土決戦のため 宮村から賢崇寺の山をくり抜いて仙台坂に通じる壕を掘り始めた。南山小学校を兵舎にして横須賀海軍の海兵四百五十名が十九年二月頃より山水舎の 裏山から掘り出した土砂は安全寺前の細い道路片側に積み出したが、それ は十番本通りまで続いた。壕は本格的に作るので、中の道路をブロック塀で囲い、道路にトロッコの線を敷き、下には下水を通すようにするのだから大仕事で ある。反対側の雑式通りは現篠崎製菓の裏山から掘り出したが、ここは焼跡で 土砂の山であった。筆者は終戦の直後、この壕に入り見学したが、八分ど通りトロッコの鉄道も壁面 のブロックも出来ているのを見て、軍部も金の要る時にずい分無駄な事をしたも のだ、「オボレる者はワラをもつかむ」とはよく言ったものだ、とつくづく思ったことだった。
〜抜粋終わり〜

以上の文献などからも地下壕の詳細を発見する事は出来なかったが、これまでにわかった事を整理してみると、

  • 地下壕掘削は昭和19年春から始まった。(稲垣氏)
  • 入り口は少なくても善福寺横、宮村町の2箇所があった。(他にも里俗には宮村公園壁面、光隆寺前崖面等)
  • 終戦時壕は未完成であったが、善福寺側は8割、宮村町側は6割完成していた。(稲垣氏)
  • 掘削実行部隊は不明だが南山小学校には陸軍和気部隊・海軍設営隊が駐屯していた。(南山資料室)
  • 善福寺には近衛四連隊 東部八部隊、六部隊が駐屯していたが掘削との関係は不明。(戸田氏)
  • 善福寺には台湾海軍燃料廠東京出張所長の感謝状が残されているが、壕との因果は不明(読売新聞)
  • 1977年2月上旬、麻布消防署が善福寺側壕内を調査した。(読売新聞)
  • 麻布消防署の調査後、麻布土木事務所が調査し、壕の埋め戻しを行った。(読売新聞)
  • 壕入り口は、善福寺横しか存在が確認されなかった。(麻布土木事務所談)

    また疑問点として、稲垣氏は昭和19年春から掘削が始まったとしているが、掘削を実行したと思われる海軍設営隊は20年4月から南山小学校に駐屯しており、それ以前はどうしていたのか?また、本土決戦用とされる壕の使用目的は何か?(読売新聞には備蓄倉庫・作戦本部用とある)また、海軍設営隊が南山小学校を引上げるのは9月1日だが終戦後約2週間存続したのは何故か?(他所に存在する本土決戦用地下壕では、終戦後も意地として壕を完成させてから解散してる部隊もあった。)そして1977年2月の麻布消防署、麻布土木事務所の調査資料がまったく残されていないのは何故か?(特に麻布土木事務所による埋め戻し作業はかなりの大工事であったと推測されるが)そして麻布土木事務所長の善福寺側以外の入り口は存在しなかったという見解は正しいのであろうか?多くの疑問が残る麻布山大地下壕だが、私は今でも、ビルのパイルを打ち込まれながらも「壕」は、静かに存在する気がしてならない。



    参考文献


    読売新聞1977年2月15日付朝刊
    十番わがふるさと−稲垣利吉著
    六男二組の太平洋戦争−佐々淳行著
    戦時少年−佐々淳行著
    南山小学校郷土資料室文献
    東京大空襲・戦災誌第2巻−東京大空襲・戦災誌編集委員会
    日本軍隊用語集−立風書房
    麻布区兵事議会沿革史−麻布区兵事議会編
    在郷軍人(将校)服役便覧−麻布連隊区将校団編
    本土決戦準備1(関東の防衛)−防衛庁防衛研修戦史室著
    本土決戦日本内地防衛軍−茶園義男著
    日本本土侵攻作戦の全貌−トーマス・アレン著
    相模湾上陸作戦−大西比呂志・他著
    新修港区史−港区編
    麻布区史−麻布区編
    麻布本村町−荒 潤三著
    麻布新堀竹谷町−山口正介著
    麻布の少年−暗闇坂瞬著
    古川物語−森記念財団編

    レファレンス協力

    東京都立中央図書館東京室
    防衛庁防衛研究所史料閲覧室









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    160.続・猫塚−荷風の見た猫塚


          
    赤羽小学校の猫塚
    赤羽小学校の猫塚
          
    防衛省防衛研究所の猫石
    防衛省防衛研究所の猫石
          
    猫石解説板
    猫石解説板
    前項の調査のために目黒の防衛庁防衛研究所を訪れたおり、庭に大きな石が二つ並んでいるのが見えた。その時はあまり気にしていなかったのだが、次に訪れた際、石の傍らに説明文が掲載されているのを見つけた。二つの石のうち一つは白っぽい台形のような形で名を「樊獪石(はんかいせき)」と呼ぶらしい。そしてもう一つは黒っぽくてねじれた円錐のような形であり、説明文には「猫石」と書かれていたので読んでみると、なんと赤羽橋有馬邸のものであることがわかった。

    むかし2-28で紹介した「有馬家化け猫騒動」で赤羽小学校に現存する猫塚と同じ所にあった石である。小学校の裏庭にあるその猫塚を4年位前に見たとき、付き添って頂いた先生の話では塚の由来はまったく不明との事であったが、見た目が新しいその塚は江戸の昔からあるものにはすこしも見えなかった。なぜ塚は赤羽小学校に現存し、「猫石」と呼ばれるものが恵比寿にあるのかを調べてみた。石の説明文によると明治4年に有馬藩邸が工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分局)、明治16年に海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となり明治35年の海軍造兵廠時代に、まず猫塚から表門正面へこの石が移された。そして築地を経て昭和5年9月、目黒に移設されたという。それでは赤羽橋の猫塚は?その答えは永井荷風の「日和下駄」にあった。

    「日和下駄」第八−閑地で大正3年(1914年)5月、当時慶応大学の教授で35歳の荷風は友人から「有馬の屋敷跡に名高い猫騒動の古塚がいまだに残っている」事を聞きつけ、学校帰りに造兵廠跡の閑地へと友人と共に日和下駄を進める。しかし閑地への入り口を探しあぐねた荷風一行はやむなく、恩賜財団済生会(現済生会中央病院)から「用事あり気に」構内に入り、母屋の赤煉瓦を迂回した裏手には二筋の鉄条網があるのみ。そこで荷風が目にしたものは......忽然と現れたパラダイスであった。

    「広々した閑地は正面に鬱々として老樹の生茂つた辺から一帯に丘陵をなし、その麓には大きな池があつて、男や子供が大勢釣竿を持つてわいわい騒いでゐる意外な景気に興味百倍して」手にもっていた愛用の蝙蝠傘と図書館から借出した重い書物を友人に預け、父親の形見の夏袴をはしょって「図抜けて丈の高い身の有難さ」から何の苦もなく鉄条網を乗り越える。そして「浅草公園の釣堀も及ばぬほど」に大勢の釣り人が集まっていて「鰌と鮒と時には大きな鰻が釣れるという」古池を廻って崖の方へと足を進める。

    さらに二人は崖に通じる小道をよじ登って行き、大木の根方に腰をかけて釣り道具に駄菓子やパンなどを売っている「機」を見るに敏な爺に敬服しつつ猫塚の所在を尋ねる。「爺さんは既に案内者然たる調子で、崖の彼方なる森蔭の小径を教え、なお猫塚といっても今はわずかにかけた石の台を残すばかり」であることを聞き、さらに奥へと足を進めると爺さんに聞いたのよりも更につまらない「石のかけら」があるのみで、はたしてそれが猫塚の台石かどうかも疑わしいくらいの物であった。荷風は「名所古蹟はいずくに限らず行ってみれば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである」としている。

    しかし塚に来るまでの光景を「私達二人を遺憾なく喜ばしめた」としつつ、いついまでも崖からの情景にたたずんだ荷風は、再び長い情景描写のあと、文は「私達は既に破壊されてしまった有馬の旧苑に対して痛嘆するのではない。一度破壊されたその跡がここに年を経てせっかく荒蕪の詩趣に蔽われた閑地となっている処おば、更になんらかの新しい計画が近いうちにこの森とこの雑草とを取払ってしまうであろう。私達はその事を予想して前もって深く嘆息したのである。」としてやっと見つけたパラダイスの運命を予感して深く嘆いている。

    有馬の猫塚は、塚の上部は造兵廠移転と共に目黒に移され、台座は赤羽小学校に残され新たな石碑が乗せられたと考えるのが妥当だと思われる。

    防衛省防衛研究所−猫石説明文−

    この石は、芝赤羽橋の元有馬家(久留米藩主)上屋敷の猫塚に据えられていたものと言われる。
    同地は、維新後の明治4年に工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分局)、続いて明治16年に海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となったが、明治35年の海軍造兵廠時代に、猫塚から表門正面へこの石が移された。(海軍造兵廠は、大正12年海軍艦型試験所及び海軍航空機試験所と合併し、海軍技術研究所となった)海軍技術研究所は関東大震災によって大損害を受けたので、築地の用地を東京市に中央卸売市場用地として譲渡し、昭和5年9月にこの目黒の地に移転したが、その際猫石も移されたものである。
    猫石の由来は、世上有馬の怪猫退治等として流布(黙阿弥作「有松染相撲浴衣」、永井荷風作「日和下駄」、菊池寛作「有馬の猫騒動」等)された猫の塚ということであろうか。この有馬の猫塚の跡と言われるものが、現在、区立赤羽小学校の一隅にある。

    ※猫塚のある有馬家屋敷跡は麻布ではなく芝に属するので本来は「近隣編」に乗せるべきですが、2-28「有馬家化け猫騒動」を書いた当時は「近隣編」がまだ無かったので便宜上、続編もむかし、むかしに掲載しました。









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    161.麻布の石火矢試射


    1639年(寛永16年)6月21日、麻布においてオランダ人による石火矢の試射が行われた。石火矢とは古くは 中国から伝来した弓のような発射器に石・鉄・鉛丸などを発射する武器であったが、後の1576(天正4)年に 大友宗麟が南蛮人から入手した「国崩」などの大型の大砲が石火矢と呼ばれるようになり、弾丸重量1貫目以上 を石火矢、1貫目以下を大・中・小の筒として区別され、石火矢はおもに攻城兵器として使用された。

    試射の前年 にやっと終結した島原の乱の際も攻城側の幕府軍は、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルに依頼し島原城に 5ポンド砲・12ポンド砲を打ち込んだが、決定的な破壊はできなかった。これはその時に使用した砲が旧式の直射砲であ ったた事と、砲弾は信管のないただの鉄の弾であるためとニコラス・クーケバッケルは幕府に釈明し、ヨーロッパ では最新技術により放物線を描いて信管つきの炸薬弾が飛ぶ「臼砲」が攻城の主力であると説いた。

    島原城攻めに手を焼いた苦い経験を持つ幕府はすぐに平戸藩主松浦肥前守を通じてオランダ商館側に「臼砲」への重大 な関心を示した。それは当時のアジアではマカオと平戸にしかないオランダの高度な鋳造所でしか作成することができ ない「臼砲」は最新の兵器であり、その平戸を擁する幕府が欲しがったのは当然のことであった。

    オランダ側としても敵国ポルトガルとの間で日本での有利を争っている時期であり、また幸運にも丁度幕府からの「臼砲」 鋳造の依頼が来た時期に滞日20年のフランソワ・カロンが商館長に着任し、さらに優秀な砲術手で、父親に高名な鋳造師 をもつハンス・ヴォルフガング・ブラウンが平戸に着任したことから臼砲の鋳造に着手することを決めた。

    1639年(寛永16年)2月26日、藩主松浦肥前守臨席のもとに平戸で1号臼砲が鋳造され、さらに二日後の28日には2号臼砲が鋳造 された。そして3月の半ばにはオランダ商館近くの海岸で試射が行われた。しかし発射の衝撃で青銅製砲袈と木製砲袈が完全 に破壊され、急遽鉄製の頑丈な砲袈に改められた。こうして出来上がった臼砲は3月24日、江戸に向けて搬送が開始され、臼 砲3門・砲袈・弾丸60発を運ぶ人夫300人と商館長フランソワ・カロン以下の商館員は大阪までを海路、その先は陸路東海道を 使用して江戸に入った。

    1639年(寛永16年)6月21日早朝、麻布村において臼砲の試射が行われた。幕府側の検使として、病床の家光の名代 で前老中の堀田加賀守正盛、老中阿部對馬守重次・牧野内匠守信成、目付兼松彌五衛門正直 、鉄砲方井上外記正継ら幕府の主だった要人が参加し、オランダ側は4月から江戸に参府していた平戸商館長 フランソワ・カロンと商館員たちが参加した。そして当日は噂を聞きつけて多くの野次馬や見物人が江戸中 から押し寄せ、弁当持参で傾斜地に陣取った。

    群集、幕閣が見守る中、ハンス・ヴォルフガング・ブラウンともう一人の砲手クリスチアンが進み出て、鉄砲方 井上外記に指示された四町(約440メートル)離れた茅葺小屋五棟を標的として、まずブラウンが第一弾を発射した。 しかし、弾は標的の手前の稲田に落下し不成功に狼狽した群集が騒いだが、その時稲田の地中6メートルまで潜り 込んだ弾は信管により炸裂し、大きな土煙をあげ人々を驚かせた。次にクリスチアンが2号砲による第二弾を発射 した。しかし弾は砲身内で爆発してしまい、クリスチアンは顔面に重症を負い他の商館員も残らず負傷し、さらに 閣老の幕舎も大損害を受けた。しかしこれだけの大損害を出しながらも、幕府側によりその後も試射を続けるよう 命令が下され、ブラウンがさらに9発を発射した。しかし標的に命中させることはできず、すべて空中で炸裂 するか、標的の手前に落下し土中で炸裂してしまった。そこで今度は閣老から砲弾を小屋の中に置いて点火させてみよ との指示を受けて商館員が砲弾の信管に点火すると小屋の屋根は空中に吹き飛び、小屋全体が炎に包まれた。これを見た 幕閣たちは大いに喜び満足した。しかし、それまで幕府の大砲製作を担っていた鉄砲方井上外だけはオランダ人による 職権の侵害を恐れて、不機嫌であったという。

    この結果はさっそく家光に絵師によって描かれた絵図などをもとに詳しく報告され、標的には届かなかったにもかかわ らず、砲弾の威力には家光も満足を示し喜んだ。商館一行は後日将軍より賛辞と報奨が送られ、平戸帰任時にブラウン は幕府側から「徒歩での行動より馬か駕籠を使用する身分」を認められた。そしてさらに幕府は引き渡された三門の他 に新たに数門の臼砲鋳造を依頼し、翌年の寛永17年には臼砲七門と砲弾140発以上が幕府に引き渡された。

    試射の場所については「江戸・東京の中のドイツ」の著者は、鉄砲方井上外記正継の屋敷のそばにあった砲術練習場 ではないかとしているが、これは現在の日枝神社付近との事で当時の麻布村領の広大さを知ることができる。

    試射後幕府に引き渡された三門の臼砲は臨席した担当者である鉄砲方井上外記ではなく、もう一人の鉄砲方である田 付四郎兵衛影利が管理を命じられた。そして驚いたことに、その後数世紀を経た1937年にはドイツ・ウルム市立博物館 に複製が作成され、太平洋戦争中はドイツとの親和のプロバカン ダとして利用され、靖国神社の「遊就館」に保管された。さらに1945年(昭和20年)まで現存が確認されているが数世紀 を生き延びた歴史あるこの臼砲は終戦後、アメリカ占領軍に接収されて現在も行方不明とされている。

    -付記-

    武江年表には寛永16年の項に「六月、目黒原にてホウロク火矢打あり」との記述あり。

    麻布区史121Pには「火矢を麻布に試射す」として、

    〜その頃蘭人は西洋の新武器なる石火矢を幕府に献じた。仍て家光は寛永十六年五月廿日之を麻布野に試射 せしめたが其の成績は「寛永日記」に「場所四丁先かや家立地夫江打掛候へ共、とどきレ不申候ゆへ焼不レ致 阿蘭人少怪我いたし候、玉放十打候得共、家は焼不レ申候」〜

    徳川実記(大猷院殿御実紀)寛永16年6月の項にはもう少し細かく、

    〜廿日蘭人進貢せし石火矢をもて。麻生の地にて蘭人にその技を試しめ。堀田 加賀守正盛。阿部對馬守重次。牧野内匠頭信成。目付兼松彌五衛門正直監臨せしめらる。四町ばかり へだてたる茅屋へ打ちかくる事。数度なりしかども。とどかざれば茅屋に火もうつらず。かへつて蘭人殷傷 せしとぞ。〜
    などとある。

    東京史稿市街編第6-田付四郎兵衛影利の項には、この麻布の試射から11年後の1650年(慶安3年)にも江戸郊外の 牟礼野(現三鷹市牟礼)で、オランダ人ユリアン・スハーデルらによる臼砲の試射が行われたとの記述がある。


    参考文献

    江戸・東京の中のドイツ(ヨーゼフ・クライナー著) 第二章大砲鋳造師ブラウンによる麻布試射
    徳川実記(大猷院殿御実紀)
    武江年表
    麻布区史
    港区史略年表
    東京史稿市街編第6
    寛政重修諸家譜第7巻
    徳川家光-山岡荘八著
    徳川家光-藤井譲治著



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    162.麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その1
          
    東京統制無線中継所
    東京統制無線中継所(1964年)
          
    本光寺境内から見たTRC
    本光寺境内から見たTRC(1964年)
    小学校3〜4年生のころ(昭和40年代前半)、男の子の遊びでは12チャンネルで「ローラーゲーム」などという番組を やっていたからか、ローラー・スケートが流行っていた。 現在の車輪が一列に並んだインライン型ではなく当時は前輪2輪・後輪2輪の安定の良いもので、 割とすぐに滑る事が出来るようになるようなものだった。車輪はゴム・木・鉄製のものがあり、 最新のものはゴム製、しかし何年か前のクリスマスプレゼントで貰い、そのまま放置してあった 私のスケートの車輪は鉄製で、けたたましい轟音と夕方には火花まで散らすという旧型であった。

    最初は安全な公園内や私道などで遊んだが、 ある程度姿勢の制御が出来てスピードが出せるようになると、物足りなくなってくる。そこで 私たちがよく遊んだのは比較的自動車の往来が少ない内田山山頂付近の通称「マイクロウェーブ」と呼んでいた 大きなパラボラ・アンテナのある建物(地図)附近から狸坂下まで一気にスロープを滑り下りることが出来る坂道であった。 学校が終わると「マイクロウェーブ行こうぜ!」っと誘い合い、競い合いながら一気に坂を駆け下りた。 大人になりいつの日か「マイクロウェーブ」のパラボラが撤去されても関心を持つこともなかったが、 鉄輪をガリガリいわせながら遊んだ坂上のあの「マイクロウェーブ」って、何だったのだろう.....。

    子供たちが「マイクロウェーブ」と呼んだ建物の正式名称は「日本電信電話公社・東京統制無線中継所」と言い、大きな パラボラアンテナは文字どうり超短波の中継アンテナであった。そしてそのアンテナはあの歴史的な事件を報じる初中継に 使用されていた。

    昭和38年(1963年)11月23日、アメリカから日本へ初めての衛星中継が放送された。 これは通信衛星「リレー1号」を使用した衛星放送で、当時は「宇宙中継」と呼ばれた。リレー1号は3時間 で地球を1周する低軌道衛星であり、放送は両国から衛星を見渡せる約20分間に限られていて20メートルの パラボラを使用しても衛星の微弱な電波を捉えるのは「アメリカで点けた電球の熱を日本で感知する」ようなもの だったという(プロジェクトX)。

    モハービー地上局から衛星に送られた電波は茨城県多賀郡十王町にある国際電信電話会社宇宙通信実験所の 直径20メートルのパラボラ・アンテナで受信(この過程はプロジェクトXに詳しい)し、筑波山を経由してマイクロ波で 麻布の東京統制無線中継所(TRC)テレビジョン中継センターに送られ、そこから有線でNHK放送センター(当時は代々木では なく内幸町にあった)に送り、各民放に配信された。

    ※TRC−東京テレビジョン中継(リレー)センターの略

    放送経路

    米太平洋岸カリフォルニア・モハービー地上局
    (リレー1号に向けて1725メガサイクルで送信)

    リレー1号
    (アメリカからの電波を4170メガサイクルに増幅)

    国際電信電話会社宇宙通信実験所(茨城県多賀郡十王町)
    (直径20メートルのパラボラアンテナで受信)

    NHK中継車からマイクロウェーブ送信

    石尊山

    日立製作所日立研究所屋上(日立市)

    電電公社無線中継所(筑波山)

    東京統制無線中継所テレビジョン中継センター(東京・麻布)
    ↓(ケーブル)
    NHK放送会館(内幸町)

    民放配信



    第一回目の放送はモハービー地上局から5時18分に待機指令が来て、午前5時27分に始まる。予定では アメリカ・ケネディ大統領のメッセージが流される予定であったが、 画面にはテストパターン・カラーパターン・NASAのロゴが繰り返し映し出された後、予定外のモハービー砂漠の映像が 流され、演説は始まらなかった。日本側関係者は予定外の映像に戸惑った。実はこのとき流される予定の映像はケネディ 演説も含めて「事前に録画されたもの」を送信することが前もって決められていた。その録画も流せない状況とは......。

    1963年11月22日アメリカ中部標準時12時30分(日本時間23日午前3時30分)、テキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺されていた。

    しかし、こう書くとまるでケネディ暗殺は衛星中継が始まるまで 「誰も知らなかった」と思いがちだが事実は違う。中継関係者も新聞社も初中継の時間までには、暗殺をすでに知っていた。
    暗殺事件の第一報はUPIで、入電は午前3時40分。そして同50分までにAFP、ロイター、APと続き4時30分には ついに「大統領の死亡」が伝えられた。この時各新聞社ではすでに都内版締め切りは過ぎており輪転機が廻り始めていた。 しかし、各社ともそれをストップしてほぼ三分の一程度を刷り直したという。

    当日の各紙朝刊は一面トップに、

    ・ケネディ大統領暗殺さる(読売?版)
    ・ケネディ大統領撃たれ死亡(朝日12版)
    ・ケネディ大統領暗殺さる(毎日13版)

    とそれぞれ速報で記事は少ないながら掲載した。話を戻すと、じつは衛星中継関係者も放送前に暗殺を知り、中継が中止 となる事に危惧を抱いていた。そこに開始直前の5時14分、NASAから「大統領が映っている部分の放送は取りやめる」という 連絡が入り、何が流されることになるのか危惧は深まった。

    結局第一回目の中継は砂漠の映像に終始して終わり、2回目の放送に関係者の不安は募った。 2回目の放送は同日午前8時58分から予定どうりはじまり、ついにケネディ暗殺のニュースが衛星を経由してもたらされた。 その後の放送の詳細や事件の詳細はプロジェクトXや他のサイトを参照して頂くとして、実はこのケネディ暗殺の速報となった 23日の2回の放送の他に、3日後の26日午前4時・午前7時50分にも第二回目の宇宙中継が行われ、容疑者のオズワルドが射殺 される瞬間の映像、ワシントンでの国葬の模様が中継され、2回にわたる宇宙中継は成功のうちに終わった。そして東京オリンピックを迎えた翌年 の1964年には静止衛星の「シンコム3号」が打ち上げられ、長時間で安定した東京オリンピック画像の初衛星世界中継が可能となった。 この時も麻布のTRCは大活躍をしたものと思われるが、残念ながら詳細な資料は手に入らなかった。

    (この項を書くに当たって「初宇宙中継」、「ケネディ暗殺放送」については比較的容易に資料を手にすることが出来ましたが、 TRCの概要や通常業務、経歴などの書籍・ネット・新聞などの情報は、あまり存在しないようです。これは対テロ・セキュリティ上 の保安措置や、N中マニアへの対策からと思われます。)

    <当日の放送スケジュール>※テレビ東京は1964年4月開局なのでありません

    @宇宙中継特別番組
    −11月23日(土)朝日新聞朝刊テレビ放送欄から
    放送局 放送開始時間 番組タイトル
    NHK 05:10 日米宇宙中継始まる(生)
     〃 08:40 日米宇宙中継始まる(生)
    日本テレビ 10:25 太平洋越えてテレビ中継成功(録)
    TBS 05:20 リレー衛星で日米初のテレビ中継(生)
    フジテレビ 10:40 日米テレビ中継成功す!!(録)
    NET 05:05 宇宙テレビ中継第1報(生)
     〃 08:35 宇宙テレビ中継第2報(生)
     〃 15:00 宇宙テレビ中継第1報(再)


    Aケネディ暗殺・宇宙中継特別番組
    −11月23日(土)毎日新聞夕刊テレビ放送欄から
    放送局 放送開始時間 番組タイトル
    NHK 19:00 ケネディ大統領の暗殺と世界情勢
    20:00 ケネディ大統領をしのぶ
    22:00 日米テレビ宇宙中継の成果
    フジテレビ 19:30 ケネディ大統領の死と今後の国際政局
    NET 11:45 ケネディの功績
    朝刊に放送予定のない緊急特別番組

    B宇宙中継特別番組
    −11月26日(火)新聞朝刊テレビ放送欄から
    放送局 放送開始時間 番組タイトル
    NHK 04:00 ?(生)
    07:15 ケネディ大統領の葬儀(生)
    10:30 アメリカの新戦略と日本
    日本テレビ 06:40 故ケネディ大統領の葬儀(録)
    07:50 ?(生)
    TBS 11:00 故ケネディ大統領の葬儀(再)
    04:00 ?(生)
    07:40 弔鐘世界に鳴る(生)
    11:00 故ケ大統領葬儀中継(再)
    フジテレビ 08:05 ケ前大統領の葬儀中継(生)
    10:40 ケ前大統領の葬儀中継(再)
    23:40 ケ前大統領追悼ミサ中継(再)
    NET 04:00 ?(生)
    07:20 ケ大統領葬儀(生)
    16:00 ケ大統領葬儀中継(再)
    23:15 ケネディと米国


    Bケネディ暗殺・宇宙中継特別番組
    −11月26日(火)朝日新聞夕刊テレビ放送欄から
    放送局 放送開始時間 番組タイトル
    NHK 19:00 ケネディ大統領の死
    10:30 アメリカの新戦略と日本
    フジテレビ 23:40 ケ前大統領追悼ミサ中継(再)
    NET 23:15 ケネディと米国
    朝刊に放送予定のない緊急特別番組



    1963年(昭和38年)の主な出来事
    ●政治 総理大臣 池田勇人 ●経済 大卒初任給 19,380円
    米国大統領 ケネディ、ジョンソン 映画館入場料 350円
    ソ連書記長 フルシチョフ たばこ(ハイライト) 70円
    中国指導者 毛沢東 理髪料金 282円
    ●映画 大脱走 北京の55日 入浴料 23円
    わんわん忠臣蔵 007は殺しの番号 ●事件 吉展ちゃん誘拐事件 3月
    ●音楽 見上げてごらん夜の星を 坂本九 狭山事件 5月
    恋のバカンス ザ・ピーナッツ 三井三池炭鉱爆発事故 11月
    こんにちは赤ちゃん 梓みちよ 国鉄鶴見事故 11月
    高校三年生 船木一夫 ケネディ大統領暗殺 11月
    東京五輪音頭 三波春男 力道山刺殺 12月
    ●テレビ番組 鉄腕アトム 鉄人28号 ●大相撲 大鵬 初、春、夏、秋場所優勝
    狼少年ケン 三ばか大将 ●プロ野球 巨人 セリーグ優勝
    ロンパールーム 三匹の侍 西鉄 パリーグ優勝
    エイトマン 花の生涯 巨人 日本シリーズ優勝


    参考資料

    ・1963年11月23日読売新聞朝刊・夕刊
    ・1963年11月23日朝日新聞朝刊・夕刊
    ・1963年11月23日毎日新聞朝刊・夕刊
    ・1963年11月26日読売新聞朝刊・夕刊
    ・1963年11月26日朝日新聞朝刊・夕刊
    ・1963年11月26日毎日新聞朝刊・夕刊
    ・電気通信物語
    ・にっぽん無線通信史
    ・衛星通信Q&A
    ・衛星通信入門
    ・衛星放送のすべて
    ・衛星通信
    ・プロジェクトX挑戦者たち第9期第160回「衝撃のケネディ暗殺 日米衛星中継」DVD
    ・プロジェクトX挑戦者たち 26 復興の懸け橋
    ・私説放送史
    ・日本テレビとCIA
    ・昭和・平成現代史年表
    ・GHQ日本占領史55−通信
    ・東京の電話−東京電気通信局
    ・日本の電信電話−東京電気通信局








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    163.麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その2       
    宮村公園坂上から見たTRC
    宮村公園坂上から見たTRC(1964年)
    前回は初の宇宙中継に貢献した東京統制無線中継所を紹介したが、そもそも通常の「東京統制無線中継所」は、 どんな業務を行っていたのか再び資料を探し始めた。しかし、残念ながら前述のとおり資料をほとんど 見つけることが出来なかった。

    そこで一般的な事項としてNTT中継回線で検索すると、

    電電公社からNTT(分割後はNTTを起源として発足した会社等)が所有、管理もしくは運用する、映像、音声、 データ伝送などのための電気通信用回線のことであるが、主に電話の市外回線やテレビ局とテレビ局の間を 結ぶテレビ回線などをマイクロ波を用いた無線中継伝送により、日本列島を縦貫するように結ぶ手段のよう である。当然前項の宇宙中継も麻布の「東京統制無線中継所」が担当したのは筑波山→東京間の国内中継である ので、これに含まれる。そして民放が誕生するとキー局と地方局を結びニュース素材や番組を送信する手段 として使用された。また、NHKのNTT中継回線は、アナログ放送・デジタル放送ともに2004年3月頃に完全に デジタル回線(光ファイバー伝送)に移行。さらに全民放128局の全国回線も2006年6月4日深夜に完全に デジタル回線に移行し、この日をもって1960年代にかけて全国に拡大したマイクロ波を用いた中継回線 は52年間続いた役目を終えた。(北海道NTT道内中継回線は2008年終了と予定されている。)

    とのことで麻布の「東京統制無線中継所」は主に電話の市外回線やテレビ局とテレビ局の間を 結ぶテレビ回線などをマイクロ波を用いた無線中継伝送を行う施設であったことがわかる。そしてその創立は 東京−名古屋−大阪間 が開通した昭和29年頃かと推測した。.....と書いたところで参考となると思われるサイトを発見した。それはNTT退職者 のコミュニティサイト「電友会」というサイトで、東京無線支部の「思い出」のなかに麻布の「東京統制無線中継所」 とよく似た建物を見つけた。しかし確証がもてなかったのでメールで連絡したが、返事を頂くことは出来なかった。
    そこで同じページに写っていた「マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑」が麻布にも残されていればこのサイトの画像 が麻布のものであることが確定されることに気づき、さっそく現地に向かった。しかし今はマンションとなっており やはり違うのかと思い始めたが、ふとマンションの境界線あたりに、あきらかに敷地の雰囲気とは違う緑地をみつけ奥 に入ってみると、「マイクロウェーブ幹線創始の地」と書かれた碑が、静かにたたずんでいた。そして、これであの サイトの画像は麻布の「東京統制無線中継所」であることが確定した。

    使用の許諾が取れていないので画像をお見せできないのが残念だが、昭和29年開業当時の中継所はアンテナは2基のみ 南東方面に丸ではなく四角いパラボラアンテナ?がついていて、1958年(昭和33年)東京−仙台−札幌開通時には、丸く 見慣れたアンテナが北東方面に2基追加され、さらに1960年(昭和35年)東京−金沢−大阪開通では北西にさらに2基追加 され6基のアンテナに、そして1968年(昭和43年)の画像では私たちの見慣れたアンテナになっている。そして中継経路も 名古屋・大阪方面の場合、麻布から送信した電波の最初の中継は神奈川県磯子の円海山、次が箱根の双子山そして静岡県清水市山原(やんばら) 〜栗岳と続いていることもわ かった。

    さらに別の「科学新聞」サイトの「科学者が語る自伝」に元NTT副社長桑原守二氏の項に、

    (抜粋はじめ) 〜昭和三十二年十月末から、今度は現場機関に配属されての養成訓練である。私は東京統制無線中継所(東端と略称した)に配属となった。 東端は麻布宮村町にあった。東名阪回線(SF―B1方式)、東仙札回線(SF―B2方式)の統制局である。昭和三十三年五月には東京 〜金沢〜大阪(東金阪)回線が開通し、東京、大阪間がループになった。  東端は全国の無線中継所から兄貴分として尊敬されていた。これは統制局としての権限の他に、優秀な無線の人材が集結していたことによる〜 (抜粋終わり)

    などとあり、麻布の「東京統制無線中継所」は最先端の技術を担う優秀な人材が集結していたことが伺える。


          
    マイクロウェーブ幹線記念碑
    マイクロウェーブ幹線記念碑
    ○マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑-碑文

    昭和29年4月1日東京大阪間を結ぶマイクロウェーブ回線 がこの地を起点として開通した。
    この回線は4000MHz帯を使用し周波数分割多重市外電話 360回線また放送用白黒テレビジョン信号を、周波数変調 方式により伝達するものであった。
    無線による周波数分割多重方式は昭和15年米澤滋博士が 世界にさきがけ超短波によって実用化し無線の多重化技術 の基礎を確立したものである。
    戦後黒川廣二博士を中心として諸先輩がこれを発展させ 今日の輝かしいマイクロウェーブ技術の進歩をみた。
    いまやマイクロウェーブ回線は全国テレビジョン中継は もとより市外電話回線網の中枢をなしている。またこの マイクロウェーブ技術はわが国が開発した自主技術として 世界の最高水準を行くものである。


    この碑はこの地がマイクロウェーブ幹線創始の地である ことを記念するとともにわが国のマイクロウェーブ技術 の発展に寄与された諸先輩の偉大な業績を偲んで建立 したものである。

    昭和46年12月1日建立



    <追記>

    東京−名古屋−大阪ルートの全貌がわかったのでご紹介。

    東京都港区・麻布〜横浜市磯子区・円海山〜神奈川県足柄郡・双子山〜静岡県清水市・山原(やんばら)〜静岡県掛川市・栗ヶ岳 〜愛知県南設楽郡作手・本宮山〜愛知県名古屋市・名古屋中〜滋賀県坂田郡・大野木〜京都市・比叡山〜大阪市・大阪第一端局

    しかし、このルートは、昭和43年3月〜4月に都内ビル高層化にともなう電波進路の障害のため、麻布宮村町の東京統制無線中継所 から、新たに建設された目黒区祐天寺の「唐ヶ崎統制無線中継所」に移された。また、昭和39年12月には、テレビ中継・市外電話回線需要 の増大から東京−名古屋−大阪に、全く別の中継所を持つ第二ルートが完成している。

    東京・渋谷統制無線中継所(昭和36年新設)〜神奈川県・秦野〜静岡県・愛鷹(あしたか)山〜静岡県・阿部〜静岡県浜松市・引佐〜愛知県名古屋市・名古屋中〜 三重県・石榑〜滋賀県・岩間〜大阪第二端局

    東〜名〜阪第一ルートのマイクロウェーブ回線の開通日は「マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑」の碑文によると昭和29年 4月1日とあるが、電電公社・東京電気通信局発行の「東京の電話(下)」によると、

    (522P抜粋−始め)

    〜 昭和29年4月16日、東京・名古屋・大阪を結ぶ465.9キロのマイクロウェーブ回線は開通した。記念すべき開通式は、4月15日、 東京(東京会館)・大阪(本町電話局)・名古屋(丸栄ホテル)を結んで盛大に執り行われ、東京会場には三笠宮をはじめ各界の 代表が招かれて、「テレビ電話」による記念通話がとりかわされ、その模様はNHKテレビで実況放送された。「顔をみて、 "こんにちわ"、ご披露マイクロウェーブ」(昭和二九年四・一五朝日新聞)....もちろん、どの新聞もの、書き落とせぬ 写真つきニュースである。開通の当初には、わずか電話三六通話路とテレビ1ルートを通すに過ぎなかったこのマイクロウェーブ 施設の登場は、しかし、こんにちの大きくとびらを開いたもの、戦後文化史上に特筆大書されるべき事項であったのである。 〜

    (522P抜粋−終わり)

    とあり、日本初のマイクロウェーブ回線の開通が1日か16日なのかは、残念ながら判断できない。

    次回は、第3段として「テレビ開局と日本テレビ−正力マイクロ構想とアメリカ」をお知らせする予定。





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    164.さよなら麻布の都電

        
    都電6000形(安藤幸洋)
    都電6000形(安藤幸洋)


    ※ 画像は34系統を走っていた物と同じ形の都電6000形(愛称一球さん)。この6086は、 昭和24年に製造 青山、南千住、三田、巣鴨営業所で活躍後、 昭和45年荒川営業所配属53年まで荒川線を走っていました。
    (画像・情報共に薮下生まれの安藤幸洋さんにお借りしています。)


    昭和30年代中盤ころ、まだ乳児だった私はよく寝ぐずりをしたそうだ。そんな時に私の親は 宮村町にあった自宅から、わざわざ一の橋停留所附近まで都電を見せに行ったそうだ。不思議に 都電を見ると、すやすやと眠ってしまう癖のついた私を、その度におんぶして一ノ橋まで連れて行 ったという。しかしこの記憶はもちろん無い。そして私の記憶にはじめて登場する「都電」は、 決して愉快なものではなかった。

    私が幼稚園に通っていた昭和37〜38年頃のある夏の日、近所のおじさんが自家用車で私と父を 「はぜ釣り」に連れ出してくれた。目的地はその頃はぜ釣りの定番の場所であった東雲である。 車は宮村町を出発してしばらく走り、仙台坂を下って二ノ橋から一ノ橋に向かう大通りに出た。 そこで忘れ物をしたことに気がついた運転手の近所のおじさんは、来た道を戻るため大通りの 都電軌道をまたいで反対車線にでようとした(当時ももちろんUターン禁止だったと思うが(^^;)。 車が都電軌道にさしかかった瞬間、けたたましい警笛にはっとすると、目の前に都電が迫っていた。 都電は急ブレーキで2メートルほど手前で停車し、事なきを得たが、
    都電運転手の、

    バカヤロー!あぶないじゃないか!こっちは乗客を預かってんだ!

    っという怒声に、近所のおじさん運転手は、

    バカヤロー!こっちには子供が乗ってるんだ!

    っと切り返し、子供心にもいたたまれなくなった記憶が残っている。

    当時、古川橋〜一ノ橋間には、

    • 4系統(五反田駅前〜銀座七丁目)一ノ橋経由
    • 5系統(目黒駅前〜永代橋)一ノ橋経由
    • 8系統(中目黒〜築地)一ノ橋経由
    • 34系統(渋谷駅前〜金杉橋)一ノ橋経由

    が走っていたが、この一ノ橋通過系統の他にも麻布には、


    • 6系統(渋谷〜新橋)龍土町・六本木経由
    • 7系統(品川駅前〜四谷3丁目)天現寺・日赤病院下経由
    • 33系統(四谷3丁目―浜松町1丁目)六本木・飯倉経由

    などが通っておりまた、乗り継ぎ停留所として、

          
    都電6000形(安藤幸洋)
    都電6000形(愛称一球さん)
    ●赤羽橋

    • 3系統(品川駅前〜飯田橋)

    ●芝園橋

    • 2系統(三田〜曙橋)
    • 37系統(三田〜駒込千駄木町)

    ●金杉橋

    • 1系統(品川駅前〜上野駅前)

    などがあった。その中でも麻布十番商店街を擁し乗降客の多かった一ノ橋停留所は、一際長い停留所 だったようで、一ノ橋停留所を筆頭に麻布近辺は、まさに「城南の都電王国」であったとする回顧談もある。

    そんな都電も、道路の渋滞緩和政策から、4・5・8系統は1969年(昭和44年)3月、最後まで残ったドル箱 の34系統(渋谷駅前〜金杉橋)も1969年(昭和44年)10月25日を最後にして姿を消した。



    ☆古川線 (4・5・7・8・34系統) 天現寺橋 - 古川橋 - 麻布十番 - 赤羽橋 - 芝園橋 - 金杉橋

    • 一の橋周辺はセンターリザベーション化されていた
    • 1908(明治41)年11月18日:天現寺橋 - 四ノ橋間開業
    • 1908(明治41)年12月29日:四ノ橋 - 一ノ橋間開業
    • 1909(明治42)年6月22日:一ノ橋 - 赤羽橋間開業
    • 1911(明治44)年12月26日:赤羽橋 - 芝園橋間開業
    • 1914(大正3)年3月15日:芝園橋 - 金杉橋間開業
    • 1969(昭和44)年10月26日:廃止

    ☆天現寺橋線 (8・34系統系統) 渋谷駅前 - 渋谷橋 - 天現寺橋 (玉川電気鉄道が敷設した路線)

    • 1921(大正10)年6月11日:渋谷 - 渋谷橋間開業
    • 1924(大正13)年5月21日:渋谷橋 - 天現寺橋間開業
    • 1937(昭和12)年:渋谷駅前停留所を東口へ移設(のちの東急玉川線と線路分断)
    • 1969(昭和44)年10月26日:廃止

    ☆目黒線 (4・5系統) 魚籃坂下 - 清正公前 - 上大崎 - 目黒駅前

    • 1913(大正2)年9月13日:(古川橋) - 白金志田町 - 白金郡市境界(白金火薬庫前(上大崎))間開業
    • 1914(大正3)年2月6日:白金郡市境界(元白金火薬庫前) - 目黒駅前間開業
    • 1967(昭和42)年12月10日:廃止

    ☆札の辻線 (3・8系統) 飯倉一丁目 - 赤羽橋 - 札ノ辻

    • 1912(明治45)年6月7日:開業
    • 1967(昭和42)年12月10日:廃止

    ☆恵比寿線 (豊沢線、天現寺線とも) 天現寺橋 - 伊達跡 - 恵比寿長者丸

    • 元々は外濠線が免許を取得していた路線。池上方面への延伸計画があったが実現せず
    • 1913(大正2)年4月27日:天現寺橋 - 恵比寿(伊達跡)間開業
    • 1922(大正11)年7月31日:伊達跡 - 恵比寿長者丸間開業
    • 1944(昭和19)年5月4日:廃止

    ☆六本木線 (3・8・33系統) 浜松町一丁目 - 御成門 - 神谷町 - 飯倉一丁目 - 六本木 - 北青山一丁目

    • 1911(明治44)年8月1日:御成門 - 麻布台町(六本木?)間開業
    • 1912(明治45)年6月7日:青山一丁目 - 六本木間開業
    • 1915(大正4)年5月25日:宇田川町(浜松町一丁目) - 御成門間開業
    • 1969(昭和44)年10月26日:廃止

    ☆伊皿子線 (4・5・7系統) 古川橋 - 魚籃坂下 - 泉岳寺

    • 1913(大正2)年9月13日:古川橋 - 白金志田町(魚籃坂下)間開業
    • 1919(大正8)年9月18日:白金志田町(魚籃坂下) - 車町(泉岳寺前)間開業
    • 1969(昭和44)年10月26日:廃止

    ☆五反田線 (4系統) 清正公前 - 白金猿町 - 五反田駅前

    • 1927(昭和2)年8月16日:清正公前 - 白金猿町間開業
    • 1933(昭和8)年11月6日:白金猿町 - 五反田駅前間開業
    • 1967(昭和42)年12月10日:廃止

    ☆霞町線 (6系統) 溜池 - 六本木 - 西麻布 - 南青山五丁目

    • 1914年9月1日:(麻布三河台) - 六本木 - 青山六丁目(南青山五丁目)間開業
    • 1925年6月6日:溜池 - 六本木間開業
    • 1967年12月10日:廃止

    ☆広尾線 (7系統) 青山一丁目 - 西麻布 - 天現寺橋

      大半が専用軌道
    • 1906(明治39)年3月3日:開業
    • 1969(昭和44)年10月26日:廃止

    ※☆はWikipediaより引用




    ★都電麻布通過系統・停留所一覧
    系統 路線 総延長km 停留所 開業 廃止
    4 五反田駅前〜銀座七丁目 8.088 五反田駅前-白金猿町-ニ本榎-清正公-魚籃坂下-古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-金杉橋-大門-浜松町1丁目-新橋5丁目-新橋-銀座7丁目-銀座4丁目-銀座2丁目 S8.11 S42.12
    5 目黒駅前〜永代橋 10.243 目黒駅前-上大崎-白金台町-日吉坂上-清正公-魚籃坂下-古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-芝公園-御成門-田村町4丁目-田村町1丁目-内幸町-日比谷公園-馬場先門-都庁前-鍛冶橋-京橋-桜橋-八丁堀-越前堀-永代橋 S2.3 S42.12
    6 渋谷駅前〜新橋 6.124 渋谷駅前-青山車庫-青山6丁目-南町-高樹町-霞町-材木町-六本木-今井町-福吉町 -溜池-虎ノ門-南佐久間町-田村町1丁目-新橋 T14.6 S42.12
    7 品川駅前〜四谷3丁目 8.321 品川駅前-高輪北町-泉岳寺-伊皿子-魚籃坂下-古川橋-四ノ橋-光林寺-天現寺橋- 広尾橋-赤十字病院-霞町-墓地下-南町1丁目-青山1丁目-権田原-信濃町- 左門町-四谷3丁目 T8.9 S44.3
    8 中目黒〜築地 10.209 中目黒-下通5丁目-恵比寿駅前-渋谷橋-下通2丁目-天現寺橋-光林寺-四ノ橋- 古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-飯倉4丁目-飯倉1丁目-神谷町 -巴町-虎ノ門-霞ヶ関-桜田門-日比谷公園-数寄屋橋-銀座4丁目-三原橋-築地 S2.3 S42.12
    33 四谷3丁目〜浜松町1丁目 5.753 四谷3丁目-左門町-信濃町-権田原-青山1丁目-新坂町-竜土町-六本木-三河台町 -飯倉片町-飯倉1丁目-神谷町-御成門-浜松町1丁目 T13.2 S44.3
    34 渋谷駅前〜金杉橋 6.372 渋谷駅前-並木橋-中通2丁目-渋谷橋-下通2丁目-天現寺橋-光林寺-四ノ橋-古川橋 -三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-金杉橋 T13.5 S44.10


    ★都電運賃表(昭和37年10月現在)
    種類 片道普通券 早朝割引 回数券 通勤定期 通学定期
    都電 15円 25円 100円 660円 360円
    無軌条 20円 30円 95円 710円 390円

    ※無軌条とはトロリーバスです。
    ※早朝割引は往復運賃です。
    ※回数券は都電7枚・無軌条5枚の料金です。
    ※定期は1ヶ月の金額です。(通学は中学生以上の料金です。)



    <補筆>

    天現寺〜渋谷間の都電の線路は元は東急玉電が埋設したもので、 1924年(大正13年)5月21日渋谷橋〜天現寺橋間に延長開業した玉電天現寺線は、1937年(昭和12年)上期に 玉電ビル(現在の東急百貨店東横店西館)工事による渋谷駅高架化工事にともない渋谷橋〜天現寺橋間は 玉電から分断さた。そして1938年(昭和13年)11月1日天現寺・中目黒線の経営は東京市に委託され、更に1948年(昭和23年) 3月10日からは東京都へと譲渡され正式に都電となった。
    また昭和40年代前半には桜田通り(まだTV朝日通りというんでしょうか?)にも東急バスが運行されていた記憶があったが 曖昧だったので、櫻田町名主の忠兵衛さんに問い合わせると早速情報の提供があり、 桜新町・等々力〜東京駅を結ぶ路線であったことがわかった。忠兵衛さん感謝!また、古い事なのでよくわからない としながらも、

    • 昭和26年 5月10日 等々力〜東京駅(狸穴町経由)運行開始
    • 昭和31年 3月16日 都営バスと相互乗り入れ
    • 昭和40年 3月 1日 経路変更(経路不明)
    • 昭和53年 4月 1日 六本木経由
    • 昭和28年 4月10日 駒沢から東京駅(天現寺経由)
    • 昭和31年10月 1日 桜新町から東京駅(えびす・材木町経由)
    • 昭和42年12月25日 桜新町から東京駅(首都高速3号線経由)
    • 昭和54年11月22日 廃止

    「材木町(NETテレビ前)」停留所は 昭和43年5月15日に「六本木六丁目」となりました。

    という情報を即日提供していただいた「東急バス株式会社」さんにも謝辞を述べさせていただきます。
    ※(等々力〜東京駅は経路を目黒に変えて東急・都営相互運用で現在も運行されています。)


    そして昭和32(1957)年には十番通りを通っていた唯一の都営バス70系統(田町駅 - 赤羽橋 - 信濃町駅 - 新宿駅、目黒担当)が運行を開始する。

    • 田70甲
      田町駅東口(港区スポーツセンター) - 一ノ橋 -(←鳥居坂下/飯倉片町→)- 六本木 - 青山一丁目駅 - 信濃町駅 - 四谷三丁目 - 新宿駅西口
    • 田70乙
      田町駅東口(港区スポーツセンター) - 一ノ橋 - 飯倉片町 - 六本木 - 青山一丁目駅 - 信濃町駅 - 四谷三丁目 - 新宿駅西口
    • 田70丙
      田町駅東口(港区スポーツセンター) - 赤羽橋 -(←鳥居坂下/飯倉片町→)- 六本木 - 青山一丁目駅 - 信濃町駅 - 四谷三丁目 - 新宿駅西口
    • 田70丁
      田町駅東口(港区スポーツセンター) - 赤羽橋 - 飯倉片町 - 六本木 - 青山一丁目駅 - 信濃町駅 - 四谷三丁目 - 新宿駅西口


    新宿方面と田町方面で経由が異なっていた。芋洗坂が20時以降の車両通行が禁止されるようになってからは、両方向とも飯倉片町経由となった。 1957年の70系統(田町駅 - 赤羽橋 - 信濃町駅 - 新宿駅、目黒担当)が前身で、1年後には同区間の三ノ橋経由便を新設、赤羽橋経由を甲、三ノ橋経由を乙とする。1970年には両系統とも田町駅 - 田町操車所(現・港区スポーツセンター)を延長開業し、1972年に田70甲・乙と変更した。 1982年12月26日、新宿が加入して共管を開始。1992年の目黒撤退を経て2000年12月12日に廃止。その後、一部に「ちぃばす」が設定された。 PS用ゲームソフト「東京バス案内」で、中ノ橋 → 新宿駅が収録されている。



    ★都バス・田町駅〜新宿駅西口沿革
    系統年月日経路・事象総延長
    70系統開設S32. 3. 1田町駅〜赤羽橋〜信濃町駅〜新宿駅西口8.472km
    70甲S33. 4.15田町駅東口発着に延長9.422km
    70乙S33. 4.15三ノ橋経由を開設、乙とする。9.592km
    70乙S54. 7.25田町操車所(現港区スポーツセンター)発着に延長9.320/ 9.170km
    田70S54. 7.25終点停留所を田町駅東口から港区スポーツセンターに変更
    田70甲S56.12.25新宿駅西口行きが六本木通りをトンネル経由となる9.810/ 9.170km
    田70H 5. 2. 1新宿駅行きを飯倉片町経由とし、午後8時以降の芋洗坂交通規制のため
    両方向とも飯倉片町経由となる系統を乙・丁とする。従来の乙は丙に
    田70H12.12.12大江戸線開通に伴い路線を廃止







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    165.篤姫行列の麻布通過

    NHKの大河ドラマ「篤姫」が高視聴率をあげているという。といってもNHKの大河ドラマ自体が 毎回高視聴率なのだと思っていたが、近年20%を超えているのはさすがに「利家とまつ」、 「功名が辻」だけで、他は17%前後の平均視聴率となっている。しかし「篤姫」は平均で21.9% (7回までの平均)で最高はなんと25%、これは2,000万人が視聴した事になるという。 また、最新のビデオリサーチ(4/6付け)でも22.3%となっていてジャンルを超えて1位である。 高視聴率は、「わかりやすい」・「女性が主人公」が共通の要因だと言う。
     
          
    薩摩藩渋谷藩邸跡地
    薩摩藩渋谷藩邸跡地
          
    薩摩藩士により建てられた常盤松の碑
    常盤松の碑
          
    常磐松解説板
    常磐松解説板
          
    篤姫輿入れ順路
    スライドショー
    薩摩藩常磐松藩邸
    その篤姫だが、意外なところで麻布と関わっていた。それは将軍家定との婚儀のために江戸城に 入城する際、篤姫の行列は麻布を通過していた。しかし、通常大名の奥方・姫は上屋敷住まいが普通であった。 薩摩藩は上屋敷を三田に、中・下屋敷を日比谷・高輪に持っていたが、三田から江戸城では麻布を通過 はしない。実は、篤姫は江戸城に入るまでの期間を渋谷常盤松の薩摩藩渋谷屋敷で過ごしていた。

    1853年(嘉永6年)3月1日、第28代藩主島津斉彬と篤姫は父子となり、根回しの上幕府に実子 として届け、それまでの一子(かつこ)から篤姫と呼ばれるようになった。そして同年8月22日篤姫は、鹿児島を出発し江戸に向かった。 (ドラマ中では船による旅となっていたが、海上の治安が悪いため、実際には陸路であったという。) 10月2日、近衛家に参し、京都、宇治を見物した後に、10月6日伏見を発ち、同月23日江戸に到着、 上屋敷の三田藩邸に入った。その行程は2か月をかけ、約440里(約1700キロ)にわたる旅であった。 しかし海に近い三田の上屋敷が外国からの攻撃にさらされる危険がある事と、10月2日安政の大地震で 被災した事により、1855年(安政2年)12月、斉彬が新規に購入した渋谷常盤松の渋谷藩邸に移居した。 さらに1856年(安政3年)4月京都近衛家の養女となり、名を「敬子(すみこ)」と改め君号を篤君とした。同年11月11日、篤姫は将軍家定の 正妻となるために、この渋谷藩邸から江戸城に入る事となった。

    婚礼の調度品は藩主斉彬自らのかなり細かいところまでの指揮で揃えられ、その数も膨大なものとなった。準備のため調度品を 渋谷藩邸に納入のさいには長持などが50〜60個を毎日、6日間にわたったといわれる。 そして幕府からは前日夕刻に御供の旗本や乗り物などの迎えが来ており、それらの者たちでごった返した屋敷内を藩主斉彬もその間を挨拶に廻った。 1856年(安政3年)11月11日正午に常盤松(薩摩藩邸)を出発した行列は、現在の東京女学館脇から日赤横を抜け堀田坂を下って笄川を渡り麻布に入る。 そして鉄砲坂・北条坂の2段坂を登って桜田通りを中国大使館方面に直進、麻布消防署からヘアーサロンタナカ前を通り、材木町を右折し、芋洗い坂・六本木を通り、飯倉片町、飯倉と麻布を抜けて 新橋、薩摩藩中屋敷(装束屋敷とも言われる)がある日比谷を通過し、さらに進んで大奥の通用門である平川門から江戸城内に入った。(この部分は落語「黄金餅」風にお読みください(^^;) その日の荘厳を極め乗り物には朱傘が仕掛けられ、沿道は往来止となった。そして驚くべき事に、行列の先頭が江戸城に入ったにもかかわらず、 最後尾はまだ渋谷藩邸内であったという。

    江戸入りから、この江戸城入りまでに2年の歳月を要した篤姫はその後、12月3日内婚の儀、11日に結納を経て18日には表向きの婚姻披露を行い、この日をもって「御台様」と呼ばれるようになった。

    ※(この話は3月31日行われた六本木研究会の『激動の時代を駆け抜けた篤姫と和宮』セミナーで清田和美講師にお聞きした話を基に作成しましたが、聞き間違い、勘違い等で誤記がある場合、DEEP AZABU管理人の責任となることを明記させて頂きます。)



























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    166.宮村町の千蔵寺

          
    広尾稲荷神社
    広尾稲荷神社
    「篤姫行列の麻布通過」を調べるため渋谷区郷土博物館を訪れた折、文献を探していると全く別件で興味をそそられる記述に遭遇した。 それは、笄川にかかっていた広尾橋の欄干が広尾稲荷神社に保存してあるという記述で、篤姫調査は「そこそこ」にして早速広尾稲荷神社 へと向かった。
    広尾稲荷に着き、境内を探したがそれらしき欄干が見当たらなかったので社務所を訪ね、大奥様にお聞きした。すると広尾橋の欄干は 数年前に渋谷区に寄贈されたとの事で、もはや境内にはない事がわかり、残念な思いでお話を伺っていると広尾稲荷神社の別当でもある 「千蔵寺」の所在がわからず困っているとお聞きし、さらに千蔵寺が宮村町にあったと伺ったので、それでは少し調べてみますっ! と安受け合いしてしまった。

    広尾稲荷神社を辞したその足で宮村町の寺ならこの方に!っと思い、さっそく普段からお世話になっている十番商店街のきみちゃん 像管理人で、「十番未知案内」サイト管理人の仁さんを訪問すると、文久元年の復刻古地図で調べてもらい、ものの5分でこの寺の所在が 判明した。文久年間、寺は今改装中の麻布保育園・麻布福祉事務所の地にあったことが分った。仁さんありがとうございました(^_^)v

    これならば楽勝と家に戻り早速近代沿革図集で探すと江戸期までは確かに千蔵寺があるのだが、明治になると地図から消えている事が分った。 また麻布区史・文政江戸町方書上等を見たが、千蔵寺の情報を見つける事は出来なかった。
    これはおそらく「廃寺」か「移転」しかないと、区外も含めた広範囲でネット検索したが、出てきたのは横浜、千葉、川崎の千蔵寺ばかりで宮村町の千蔵寺情報は 皆無であった。仕方なしに電話で1件ずつ宮村町の千蔵寺との関連を確認したが、残念ながら該当する寺を見つけることは出来なかった。 ここで自力探索の限界を感じ、港区郷土資料館・都立中央図書館などにレファレンス依頼のメールを送り、結果を待つ事にした。
    数日後、まず港区郷土資料館から連絡があり、港区刊行の「港区神社寺院一覧」に宮村町の千蔵寺は明治30年川崎に移転したと記載がある との情報を頂いた。早速先日電話をした川崎市中瀬町の千蔵寺に再び電話を入れると今度はご住職が出られ、確かに宮村町から移転した 寺であるとのお言葉を頂戴した。しかしお話を伺うと、残念ながら寺には古い資料が何も残されておらず、広尾稲荷との関連を示すものは なにも残されていない事がわかった。さらにもし何か分ったら教えてほしいと依頼され、再び振り出しに戻ってしまった。 そこで気持ちを新たにネット上で検索すると東京都公文書館サイトで「江戸・東京寺院探訪〜東京のお寺を調べる〜旦那寺への道」と題した 古いお寺の資料の見つけ方をレクチャーしてくれる文面を目にした。それによると、

    • 御府内備考続編(御府内寺社備考)
    • 明治五年寺院明細帳
    • 明治十年寺院明細簿

    の3つの書籍から調べたい寺院についての歴史的情報はほぼ得ることができるはずという。

       
    千蔵寺見取図
    1829年(文政12年)
    千蔵寺見取図
    さっそく翌日図書館で御府内備考続編(御府内寺社備考)を手に取ると....あ・り・ま・し・た!
    1829年(文政12年)に調べられた寺の様子が、沿革が、敷地絵図が...。
    「御府内寺社備考」第二冊天台宗によると
    山王城琳寺末 麻布宮村町 法隆山五光院千蔵寺
    「起立の年代は分らないが、元は狸穴にあり天和3年甲府宰相「甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)」様の屋敷用地 となり当地(宮村町)に替地となり移転、その際公儀から300両の支度金が支給され諸堂を建立する。しかしその後たびたび火災 に合い詳しい事は分らない。」とありさらに、
    ・開山の祐海法印は1665年(寛文5年)入寂
    ・本尊は、阿弥陀如来木像・毘沙門天木像(聖徳太子作)・観世音銅立像
    ・延命地蔵堂があった
    ・社地は21坪で門前家屋が総間口13間半
    などの記述もあり、敷地の見取り図もあるので大変に参考となった。
    さらに都立中央図書館からレファレンス結果のメールを頂き、多くの情報を得る事ができた。そのメールでは、
    ・「御府内寺社備考」
    ・「東京都社寺備考」
    ・「大日本寺院総覧」
    ・「天台宗寺院大観」
    ・「全国寺院名鑑」
    ・「全国寺院名鑑」
    ・「川崎市史 別編 民俗」
    などをご紹介頂き、その中では宮村町の千蔵寺は川崎に移転したのではなく、もともと川崎のその地にあった「清宝院」と合併して いる事が分かった。
    他にも「東京市史稿」という書籍にも数多くの情報が書かれ、また東京都公文書館にレファレンスを依頼すると明治30年の 移転に関する詳細な資料が数多く見つかり、マイクロフィルムに収められていることもわかった。
    それらを整理すると、

    西暦元号記載内容出典
    1665年寛文5年5月16日開祖祐海入寂御府内備考続編
    1678年延宝6年10月、麻布狸穴の寺地が甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)邸地となるため、363坪の代地を武州豊島郡麻布宮村に拝領し引き移る東京市史稿
    1724年享保9年千蔵寺 麻布宮村町稲荷社別当となることを寺社帳に登録する東京市史稿
    1820年文政3年5月、千蔵寺門前町屋1軒の撤去を願い出る東京市史稿
    1883年明治16年4月、宮村町47番地天台宗千蔵寺、同町75番地天台宗円福寺は、いずれも南豊島郡渋谷村の宝泉寺(渋谷区東2丁目)住職が兼務東京都公文書館資料
    1884年明治17年「厄神鬼王」を神奈川県藤沢市本町1丁目 入町厄神社に分神し明治24年に神殿を建立インターネット情報
    1897年明治30年麻布宮村町四十七より川崎市中瀬町三に移転港区神社寺院一覧


    ※別当

    神社の役職の一つに「別当(べっとう)」と呼ばれる役職があった。「別当」とは神社に属しつつ仏教儀礼を行う僧侶 のことで、神僧や社僧とも言われた。江戸時代以前には伊勢神宮以外の多くの神社に別当が置かれ、僧侶による神社祭祀・神前読経など が一般化。神社における別当の権威はときに本職の神主をもしのぎ、神社の仏教的色彩はますます強くなっていった (神仏習合:しんぶつしゅうごう)。(資料参考:築土神社別当成就院楞厳寺サイト)

    江戸初期、麻布宮村町に幕府により移転された千蔵寺は、移転時幕府との約束により元地の二割増の敷地を拝領するはずであったが、 実際に移転してみると敷地は二割減となってしまった。その後宮村町の千蔵寺は、宮村町稲荷(これが広尾稲荷の事と思われる)の別当となり いく度かの火事災害を乗り越え再興された。しかし寺の経済状態はあまりよくなかったと思われ、 文政3年、門前町屋1軒の撤去を願い出た文章には「寺が貧乏で建て替え費用が工面できない。荒れ果てた空き家のまま放置するのも 物騒なので壊したい」などと書かれ当時の寺の経済状況をうかがう事ができる。
    そして、明治になると無住職の寺となってしまった千蔵寺を渋谷宝泉寺の住職が兼務で支え、 移転にいたる。東京都公文書館のマイクロフィルム資料によると、少なくとも明治16年から移転する明治30年までの14年間は 宝泉寺の同じ住職が兼務し続けたようで、移転関連書類(墓地改葬届、寺移転届、売買契約等)にも同一のお名前が見える。 これについて面白い記述を見つけた。寺の敷地は麻布区と売買に関する契約を結んだようだがその際、東京市が 、何故同じ名前の住職が2ヶ寺もみているのかという質問状を麻布区に送っており、麻布区はその理由を返書している。

    これまでに分かった事を広尾稲荷神社にお伝えすると大変に喜ばれ、先代の宮司さんも千蔵寺を探して川崎まで行ったが 手がかりを見つけることが出来なかった事をお聞きしたので、今回、多少ではあるがお役に立てた事と思う。

    さらに広尾稲荷神社さんにはあまり関係のない「移転関連書類」が手元に残っていたので廃棄するよりはと、先日千蔵寺さんを 訪れ、資料をお渡しした。こちらも大変に喜ばれ、寺の移転に関与したのは現住職のお父様とのことをお聞きしたが、 口伝だけで資料が何も残されていなかったようで、寺にとっても貴重な資料となったと思われる。またその際にご住職から 色々とお話をうかがう事ができたが、最大の成果は寺の江戸期の過去帳から、広尾稲荷にまつわる文書を発見した事である。 その文章は1812年(文化9年)に行われた町内安全を願った祈祷の際の記録で、広尾稲荷神社の名前もはっきりと読み取る事が出来る。
    だがその内容を品川歴史館学芸員の方に解読していただくと、広尾稲荷神社うんぬんの前後の文章に広尾稲荷神社との関連性は無く、 本寺への奉納金の控えや、切支丹詮議を受けたと思われる檀家の身元保証(確かに天台宗の宗徒で千蔵寺の檀家である証明)など が書かれていることが解った。また文章後半に書かれている広尾稲荷神社記述の事もこれは恐らく文章ではなく、寺の本堂正面などに かけてある「棟札」の文言では無いかとのご教授を頂いた。残念ながら千蔵寺と広尾稲荷の関係を示す文章は多くはなかったので広尾稲荷神社が 必要としている情報が十分に得られたとは言いがたい。しかし、これでまぎれもなく千蔵寺が明治の宮村町から忽然と 姿を消した寺である事が確定され、また広尾稲荷神社の「別当」であった事も確実となったので、今回の調査は終了とさせて頂いた。

    ※過去帳を判読して頂いた品川歴史館学芸員の方と、広尾稲荷神社との連絡にご自分のメールアドレスを快くお教えくださった社のお孫さん に心より感謝させていただきます。

          
    千蔵寺過去帳の広尾稲荷記述
    1812年(文化9年)
    千蔵寺過去帳
    参考文献

    ・「御府内寺社備考」第二冊 天台宗
    ・「東京都社寺備考」 寺院部 第1冊 天台宗之部
    ・「大日本寺院総覧」上
    ・ 港区神社寺院一覧
    ・ 藤沢市郷土誌「わが住む里第38号」
    ・ 東京都公文書館マイクロフィルム資料
    ・ 東京市史稿
    ・ 新修港区史
    ・ 麻布区史
    ・ 近代沿革図集
    ・ 他。
    レファレンス協力

    ・広尾稲荷神社
    ・千蔵寺
    ・東京都公文書館
    ・都立中央図書館
    ・港区郷土資料館
    ・品川区立品川図書館
    ・品川歴史館
    ・神奈川県藤沢市立総合市民図書館
    ・神奈川県立川崎図書館






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    167.夜窓鬼談の大入道

          
    芝切り通し
    芝切り通し
    今回は明治22年に漢学者・南宋画家の石川鴻斎いしかわこうさいに よって書かれた漢文の怪談集、「夜窓鬼談やそうきだん」の中の”大入道”という一編をご紹介。

    麻布のある商人が、ある夜涅槃門の前を通り過ぎると、青黒い顔をし黒衣を着た僧が路傍に佇んでいた。商人が不審そうに見 ていると、突然怪しげな気配がして寒気に襲われた。見ると僧が鉢のような頭をし、 輝く三つ目の大入道となって首を延ばし、商人を舐めまわした。驚いた商人は何度も転びながら逃げてやっと家までたどり着いた。 翌日商人は鍛冶屋にこの話をすると、元侠客で度胸のすわった鍛冶屋は商人の仇を討とうと、その日の夜中に手に金槌を持って涅槃門 に行った。そして長い時間待ったが何も現れないので「妖怪、出て来い!退屈で困っておる!」と叫んだ。するとどこからともなく身の丈90cmほどの 小僧が姿を現し、3つの目で鍛冶屋をにらみつけ、手招きをする。怒った鍛冶屋は金槌を振り上げて小僧を打とうとしたが、 小僧は走って門のひさし に飛び乗りそこに座って大笑いした。ますます怒った鍛冶屋は金槌を振り上げたが庇が高くて届かない。そこで石を投げたが当たっても 小僧は平然としている。しかたがないので鍛冶屋はじっと小僧を見つめて下で待った。やがて、夜が明け始めると小僧は次第に小さくなり、 開けきると姿は無くなってしまった。
    鍛冶屋は庇を見つめているだけであった。

    この話の舞台となっている涅槃門は、現在の芝高校付近にあった増上寺の涅槃門で、さらに上がると現在の給水所あたりは広い原っぱであったという。この話の導入部分で作者は、

    芝の三緑山(増上寺)の北部一帯は樹木が鬱蒼と生い茂り、僧坊もほとんど無い場所であった。天保の末頃、世間に大入道が出て人を脅す という流言が広まり、日没後は行き来する者も稀であった。そのため大入道を見たものはいなかった。
    −夜窓鬼談現代語訳・大入道より抜粋−

    としている。また港区近代沿革図集は、涅槃門のあたりを、

    〜涅槃門は切通坂のなかばにあって、みだりに通り抜けが出来ず、まがりくねった細道であった〜

    としてこの地の寂しげな様子を表しているがいるが、さらに「切通し」については、港区近代沿革図集には、

    切通しの上は広い原で軍談師、売卜者、浄瑠璃かたり、賭博師、豆蔵、噺師、酒売り、菓子売りなどがあって賑わったが 今は増上寺山内に囲い込まれた。(増補改正万世江戸町鑑)

    この地は赤羽とともに栄えた地で、見世物・浄瑠璃・芝居・香具師・古着屋等が並び、いまの浅草公園のようであったが、 維新後撤去された。(東京案内)

    などとあり、坂上の原っぱ付近は栄えていたが、少し下った涅槃門付近はとても寂しい所であったものと考えられる。

          
    石川鴻斎が眠る
    三田小山町の龍原寺
    三田小山町龍原寺
    夜窓鬼談は明治22年〜27年にかけて出版された怪異奇談の短編集で上下巻で86話からなる漢文の著書だが、 多少の例外を除いて日本の怪談・奇談が題材とされている。またこれらを渋沢龍彦や小泉八雲などが底本にしたことでも著名である。 作者の石川鴻斎は清国大使館などにも出入りし、清国官吏などとも交流を深めたが、1918年(大正7年)9月13日、静岡県磐田市で86歳の生涯を終え、 同所省光寺に仮埋葬された。そして、その後の同25日には三田小山町の龍原寺(オーストラリア大使館向い)にて本葬が営まれ、墓所に葬られた。




















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    168.麻布七不思議の定説探し


    今までに数度「麻布七不思議」を取り上げたが、今回は不思議話の内容ではなく、そもそも麻布七不思議 って何だろうという素朴な疑問を追ってみたい。

    麻布七不思議は多くの書物が取り上げていると思っていたが、よく調べてみると麻布の不思議話は数多い ものの、七不思議として定義されているものは意外に少ないことがわかった。そして定説となったと思い 込んでいた江戸時代の書物に「七不思議」と定義されたものは、見つけることが出来なかった。 これは「七不思議」という言葉自体が明治期に西洋文化が取り入れられたさいに「the seven of wonders of the world」 が伝わったときにその訳語として表されたというのが定説のようだ。Wikipediaによると、

    七不思議(ななふしぎ)は、7つの不思議なものや現象を数え上げたもの〜

    〜紀元前2世紀にビザンチウムのフィロンの書いた 「Επτ? θα?ματα του αρχα?ου κ?σμου (世界の七つの景観)」の中で  景観と訳されている {lang|el|θα?ματα}} とは、ギリシア語で「必見のもの」といった  意味である。つまり、本来は「怪しい」「ありえない」といった意味は含まれていない。〜

     〜しかし、英語では「Seven Wonders of the World」、日本語では「世界の七不思議」などと  訳されたた〜

    また、エンカルタによると古代ギリシャ・ローマ人が驚異の対象とした7つの建造物を世界の七不思議 とし、

    1.エジプト・ギザのピラミッド
    2.バビロンの空中庭園
    3.オリンピアのゼウス神像
    4.ギリシャのアルテミス神殿
    5.ハリカルナッソスのマウソレイオン
    6.ロドス島のコロッソス
    7.ファロス島の灯台

    と定義している。

    しかし一方では日本には古来から、

    七転び八起き
    七難隠す
    七転八倒
    なくて七癖
    七曲 ななまがり
    七世転生
    などという言葉があり、「七」と言う数字には、特別な意味合いが込められているような気がする。 また七不思議は「名数 (同類のものをいくつかまとめ、一定の数をつけて呼ぶもの。)のひとつであり、「七」の項目はその他にも多く存在する。



    このように、本来の意味とは違うニュアンスとなって広まってしまった七不思議だが、麻布においての七つを特定するのは さらに難しい。下記の表は麻布の不思議話を「七不思議」または付随して「その他の不思議話」 と定義して掲載されたものを図書館のレファレンス等を利用して集めたものだが、個人の主観、 年代などにより大きく選定内容が変わっている。表中で、 7.一本松と11.秋月の羽衣松、6.永坂の脚気石と9.かなめ石等は同じものを表していると伝えられ(一本松と秋月の羽衣松が 同義というのには個人的には疑問を感じるが。)さらに七つの選択を困難にしている。

    また、書籍8.東京百話は黒沢明監督の師にあたる映画監督の山本嘉次郎が書いた「麻布七不思議」を参照しているが、 これによると「くらやみ坂のオイワシコイ」、「なんとか様(大名邸)の泣き人形」など山本嘉次郎のみが伝える不思議話が 掲載されており、これに至ってはその話の内容も不明である。

    またこの表を別の切り口で見ると、

    ・麻布総合支所B1壁面と続・麻布の名所今昔
    ・鳥居坂警察署誌と郷土史家中山狐村氏説

    では麻布七不思議の定義が完全に一致しており、前者が後者を底本としていることが伺える。そしてこのような事を調べる上では 「バイブル」ともいえる麻布区史は、第五章「雑祖」の冒頭で麻布七不思議を取り上げているが、
    〜ただその擧ぐるところに各異説があって、書物により口碑により夫々異聞がある。従ってこれを合計すると十数不思議、否二十五六 不思議になるのである。〜
    としながら「東都新繁昌記」、「東京風俗誌」、「郷土史家中山狐村氏説」の三説を取り上げ、 あえて自らは七つの定義を避け、18の不思議話を披露するに止まっている。





    麻 布 七 不 思 議 の 定 義 と 現 存
    平成20年9月現在
    名  称 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 七不思議回数 その他回数 備  考
    麻布総合支所壁面 東京風俗誌 東都新繁昌記 江戸の口碑と傳説 郷土史家中山狐村氏 鳥居坂警察署誌 麻布区史 東京百話 続・麻布の名所今昔 十番わがふるさと 港むかしむかし 江戸の闇・魔界めぐり 麻布六本木歴史散歩 「お化け」生息マップ
    発行年 明治34年 大正7年 昭和6年 昭和6年 昭和16年 昭和45年 昭和49年 昭和55年 不 明 平成10年 平成17年 平成17年
    No. 七不思議定義数 現存 7 7 7 7 7 7 18 7 7 7 7 8 7 7 麻布七不思議と定義されたもの
    その他の不思議 0 0 3 6 ? 0 0 20 3 10 0 8 0 七不思議と定義されたもの以外の不思議話
    1 柳の井戸 6 1 7 善福寺境内
    2 狸穴の古洞 × 10 0 10 アメリカンクラブ下斜面近辺?
    3 広尾の送り囃子 × 9 1 10 広尾橋〜天現寺近辺
    4 善福寺の逆さ銀杏 12 1 13 善福寺境内
    5 蟇 池(がま池) 9 2 11 がま池・蝦蟇池 現在見学不可
    6 永坂の脚気石 × 3 0 3 かなめ石と同義
    7 一本松 6 0 6 五代目。別名冠の松とも秋月邸の羽衣の松とも
    8 六本木 × 8 1 9 六本木
    9 かなめ石 × 7 0 7 六本木5-16-47路傍にあった
    10 釜なし横丁 × 5 3 8 絶江坂近辺 落語に登場
    11 秋月の羽衣松 × 5 1 6 一本松と同義との節も
    12 東町の鷹石 4 2 6 大田区磐井神社に烏石として現存
    13 狸穴の狸蕎麦 × 3 2 5 狸橋に由来あり
    14 狸穴の婚礼 × 1 2 3 狸穴
    15 大黒坂の猫又 × 1 2 3 大黒坂
    16 我善坊の大鼠 × 2 3 5 我善坊の猫又ともいわれる
    17 古川の狸蕎麦 2 2 4 狸橋近辺 由来碑あり
    18 谷町の遊女屋敷 × 1 1 2 不明
    19 二本松の赤子 × 1 1 2 不明 六本木の旧二本松藩主 丹羽邸か?
    20 白金御殿の一本足 × 1 1 2 不明(白金御殿は麻布御殿と同義)
    21 七色椿 × 3 3 6 西町旧ベネズエラ大使館近辺。昭和12年枯死
    22 古川の狸囃子 × 1 1 2 古川端
    23 我善坊の僧 × 1 0 1 我善坊谷
    24 狐しるこ × 1 4 5 四ノ橋辺
    25 紅毛久助の墓 0 2 2 墓所は光林寺 アメリカ通訳 ヘンリー・ヒュースケン
    26 村上喜剣と寺坂吉衛門 0 1 1 曹渓寺
    27 狸坂の狸 × 0 1 1 別名 旭坂
    28 狐坂の由来 × 0 1 1 別名大隈坂
    29 こうのとりがつたえた霊薬 × 0 2 2 麻布長谷寺
    30 お亀団子 × 1 3 4 永坂辺 落語としても有名
    32 お竹大日如来 1 1 2 心光院
    33 寒山拾得の石像 × 1 1 2 秋月佐渡守邸(現麻布中学)にあった石像
    34 夜叉神の石像 1 1 2 麻布長谷寺
    35 陰陽石 × 1 1 2 良縁、安産にご利益があった。がま池付近
    36 烏帽子形の石 × 1 1 2 森川家石像
    37 麻布のキ(気・黄)が知れん × 0 1 1 むかし、むかし4-55参照
    38 くらやみ坂のオイワシコイ × 1 0 1 不明
    39 なんとか様(大名邸)の泣き人形 × 1 0 1 不明
    ● 七不思議として取り上げられた話 ○ その他の不思議話
    ※ 名称をクリックすると詳細説明が、現存の○△×をクリックすると地図がご覧になれます。



    上記の表から登場回数の多い不思議話を回数順で、書籍で定義された「七不思議」、「それ以外」に分類して グラフ化したのが下記の図である。

    @は表の項目そのままで、Aは同義項目を合算したもの であるが、定義としてはAのほうが現実に近いと思われる。また一部の順序に不整合があるが、これは 私見で判断した。これをもって麻布七不思議の定説!などと定義するつもりはまったくないが、ご自身が定義する七不思議の参考にはして頂けると思う。


    @ 著書に取り上げられた回数別の麻布七不思議Best7(表順)
    (七不思議基準)
    順位 名称 現存 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17
    1 善福寺の逆さ銀杏 12 1 13
    2 狸穴の古洞 × 10 0 10
    3 蟇 池(がま池) 9 2 11
    4 広尾の送り囃子 × 9 1 10
    六本木 × 8 1 9
    5 かなめ石 × 7 0 7
    6 柳の井戸 6 1 7 七不思議
    7 釜なし横丁 × 5 3 8
    8 秋月の羽衣松 5 1 6 その他の不思議話
    9 東町の鷹石 4 2 6
    10 七色椿 3 3 6
    A 著書に取り上げられた回数別の麻布七不思議Best7(同義項目合算)
    (七不思議基準)
    順位 名称 現存 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17
    1 善福寺の逆さ銀杏 12 1 13
    2 一本松(秋月の羽衣松) 11 1 12
    3 狸穴の古洞 × 10 0 10
    かなめ石(永坂の脚気石) × 10 0 10
    4 蟇 池(がま池) 9 2 11
    5 広尾の送り囃子 × 9 1 10
    六本木 × 8 1 9
    6 釜なし横丁 × 5 3 8
    7 柳の井戸 6 1 7 七不思議
    8 東町の鷹石 4 2 6
    9 七色椿 × 3 3 6 その他の不思議話
    10 狸蕎麦 3 2 5



    この項をもとに今まで何気なく知っていた「麻布七不思議」をご自身で新たに定義して頂くのも宜しいかと。また根岸鎮衛の耳嚢が 最近のブームで「新耳嚢」として新しい感覚で定義されているのと同じく、「新・麻布七不思議」を定義してみてみるのも一興かとおもいます。

    蛇足ですが私が考える「新・麻布七不思議」は、

    1.六本木ヒルズ毛利池の水源
    2.十番納涼まつりのマナー
    3.四の橋近辺の古川の鯉
    4.がま池の公開
    5.元麻布ヒルズの形状
    6.麻布山地下壕
    7.有栖川公園の蛍養殖


    スミマセンm(__)m、趣旨がちょっと違いマシタ.....。



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    169.麻布の句・川柳・地口・言回し・唄


    麻布近辺では、昔から色々な句・川柳・地口・言回し・唄などが伝えられてきた。今回はその一部をご紹介

    ★麻布句・川柳・地口・言回し集・唄

    ・狸坂くらやみ坂や秋の暮 岡本綺堂

    ・白菊か夜は麻布の黄が知れぬ 市川団十郎

    ・うぐいすをたづねたづねて阿佐布まで 松尾芭蕉

    ・櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

      ・気が知れぬ ところ坂まで 長いなり

    ・長袖の命短く殺されて、やどにふたりが寝つ起きつ待つ
    (107.堀田屋敷の狐狸退治)


    ・三輪くされ定めて場所も藪医者の、はて珍しき狐(くは)たき討ち哉
    (107.堀田屋敷の狐狸退治)


    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    以下85.円生の見た麻布 から

    ・弔いを山谷と聞いて親父ゆき、麻布と聞いて人だのみ

    ・繁盛さ狸の穴に人が住み

    ・麻布の祭りを本所で見る

    ・一本は松だが六本きが知れず

    ・から木だか知れず麻布の六本木

    ・火事は麻布で木が知れぬ

    ・ねっから麻布で気が知れぬ

    ・火事は麻布で火が知れぬ

    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    90.芳川鎌子のその後

    ・「千葉心中」--- 淡路美月

     ああ春遅き宵なりき
       恋に悩める貴人(あでびと)の
       真白き指に輝ける
       ダイアの指輪憂いあり
       都に浮き名うたわれし
       二人の胸に秘めらるる
       恋の絆のからみ糸
       線路の錆と血を流す……。

    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    ・更科の蕎麦はよけれど高稲荷
            森を眺めて二度とこんこん

    ・麻布長谷寺に清水観音の開帳あり、梅窓院のうしろより田の中の
    溝をこゑて来るとて蛙飛ぶ田道あぜ道清水のお開帳へと心はせ寺

    ・寒山が拾得きたる絵姿は医者でもあらず茶坊主てもなし

      ・年礼のかりの一つらかへるなり後なが先にかうがいのはし

      春のはじめ麻布さくら田町霞山いなりの前にて
    ・やがてさくさくら田町のさくら麻の麻布のほとりまづかすみ山

       蜀山人(大田南畝)
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    永坂更科布屋太兵衛 碑

    ・唐崎も 麻布も今は やもめなり  古川柳

    ・十番の 流れ 金杉橋に 出る   古川柳

    ・更科と 月を見おろす 高稲荷   古川柳

    ・鳥居坂 狐うなぎの 近所也    古川柳

    ・十番を はいて小栗は 碁盤なり  古川柳

    ・春麻布 永坂布屋 太兵衛かな   万太郎 (久保田万太郎)

    ・一筋の 枝も栄へる 麻布山    古川柳

    ・十番のわきに子捨てるやぶもあり  古川柳

    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    冬の夜を語る麻布の七不思議  句佛

    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    近隣

    ・赤羽根の 流れに近き水天宮 うねるようなる 賽銭の波

    ・商いも 有馬の館の水天宮 ひさぐ5日の風車うり

    ・人はみな 尋ねくるめの上屋敷 水天宮に賽銭の波

    ・湯も水も火の見も有馬 名がたかし

    ・火の見より 今は名高き 尼御前

    ・名からして江戸っ子らしい源氏綱

    ・あぶないと 付き添う 姥に幼子も 手をとられたる 三田の綱坂

    ・江戸っ子に してはと綱は 褒められる

    ・氏神は八幡と綱申し上げ




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    170.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その3
    −明かされた壕掘削−



    二度に渡りお伝えした「麻布山の巨大地下壕」だが、前回調査以降にわかったことを途中経過ながらご紹介。

    むかし、むかし記事作成のため新しいネタをインターネットで検索しているときに、今まで一度もヒットしなかった サイトが見つかった。そのサイトは戦史研究をする会の会報が掲示され、千葉県館山にあった「赤山地下壕」 を会のイベントとして訪問した際の見学紀を掲載したものであった。「特別投稿1.驚きと悲しみの館山紀行」 と題されたその中の文章に、

    〜私が麻布で海軍の壕掘りを手伝っているときに〜

    という文章があり、興味をひかれたので早速会報の発行元に連絡を入れさせて頂いた。会の名前は 「日吉台地下壕保存の会」といい、 太平洋戦争時に海軍の連合艦隊司令部などとして使用された日吉の慶応高校一帯にある地下壕 の見学会等をされている会であった。文章はネットに掲載されていたのはその会の会報2004年 7月16日第71号であった。そして会の顧問をなされている白井厚氏により書かれているので、さっそく 白井氏へのコンタクトを会の方にお願いしたところ、白井氏 の連絡先をお教えいただき、早速連絡させて頂いた。すると白井氏とは 慶応大学名誉教授の白井厚先生 であることが判明し、正直に言うと、少々ビビッてしまった。しかしここで諦めては先に進めないので、メールで麻布山地下 壕調査の趣旨と現状をお話すると、白井先生は研究室のある三田校舎での面会約束と2冊の本を紹介して下さった。

    1冊は私家版として発行された「麻布学園234会著−オレたち終戦派」で、もう1冊は白井先生が体験した 勤労動員時の様子も書かれている「白井厚著−大学とアジア太平洋戦争」である。どちらも麻布山地下壕の掘削体験が語られた 貴重な資料だが特に「オレたち終戦派」には当時麻布中学3年生であった白井先生と同級生たちの戦争体験、 特に昭和20年8月1日から15日までまで勤労動員された麻布山地下壕の短期間ではあるが貴重で生々しい体験が多く語られていた。(他に、安立電気での作業・有栖川公園防空壕掘削体験 などもあり)

    内容は個人別の体験談で、

    ●〜下士官から「この戦争は日本は危ない」などと聞かされ、〜(山口冨成氏−勉学の意欲そがれてP90)

    ●〜私の奉仕は三人一組の重いリヤカー運搬で(背の高い計9人従事)、隧道入り口付近で製造するコンクリートブロック(隧道アー チの基礎台で一個四十キロ)3個を仙台坂付近にあった主要隧道への連絡坑道掘削入り口現場まで、麻布十番のガレキだけを残す焼け野原の曲がりくねった険路三キロほどを一日四、 、五回往復する重労働だった〜(花井清氏−本土決戦下の中学生勤労動員P92)

    ●〜われら三年生が働く先となったのは、 麻布十番の外れの台地に、海軍の地下壕を作る作業であった。食糧不足で力仕事もできぬ 私たちの担当したのは、コンクリートのなかに埋め込む鉄筋作り。〜(大西将夫氏−地下壕掘りP114・115)

    ●〜この仕事は本土決戦に備えて海軍がつくっていた地下壕建設の手伝いで、われわれが割 り当てられた所は、麻布十番通りを六本木へ向かって進んだ左側、南山小学校の付近であ ったように思う。地下壕はトンネルを掘った後、コンクリートブロックで枠組みをしてい たようで、当時あまり背丈の大きくなかった私は、生コン製造の班にまわされた。海軍の 水兵さんの指揮で生コンの原料を必要量混合器へ投入する役目であったが、あまり若くな い水兵さんは優しい人で、力仕事はそれほどやらされず、つらい仕事ではなかった。〜(森田宏氏−不発の焼夷弾P116・117)

    ●〜この大規模な防空壕は、当時霞ヶ関にあった海軍省が米軍の日本本土上陸に備えて、長野県松代(当時その地に大本営を移転する計画が準備中であった)へ退却するまでの、抗戦指導用の後方基地として掘削していた。 麻布十番に向かって左は海軍省(仙台坂の台地)右は陸軍省(鳥居坂の台地)のそれぞれの防空壕であったが、 海軍省がダイナマイトや土木機械を活用して掘削しそのあとをセメントで固めていたのに対して、 陸軍は、ツルハシやシャベルと坑木で壕を掘り進めていたのが対照的であった。これは私たち の焼け跡整理の動貞現場がちょうどこの両防空壕建設の前面であったために、この海軍へ動員 される直前に、毎日状況を観察していた事から承知していた。そんな事があってから二、三日後、 われわれは運命の八月十五日終戦の日を迎えた。〜(岩田整氏−学徒勤労動員の1日P146〜147)

    (上記すべて「オレたち終戦派」より抜粋)

    著書は1990年の出版時に、当時を回想して書かれているようだがその内容は豊富で、数多くの地下壕体験談 が生々しく語られている。(地下壕関連だけでも18あまりの証言が書かれている。)
    また、書籍検索すると白井先生の監修で「学び・調べ・考えよう 日吉・帝国海軍大地下壕」 という本があり、こちらも内容が日吉台地下壕の事とはいえ、壕の掘削工事開始時に周辺の建物強制疎開が行われたこと等、 大変に参考になった。

    そして面会当日、正門から研究棟にはいると研究室前の談話室に教授は秘書の方とすでに到着されており、挨拶の後早速お話を伺った。 しかし、素人インタビューアーの悲しさで、白井先生が少し麻布の周辺歴史情報に興味を持たれる度に話がそちらにそれてしまい、十分に お話を伺うことが出来なかった。しかし、その中で、 善福寺側で掘り出した土砂をダンプカーにのせてわざわざ飯田町(現在の飯田橋JR貨物本社近辺)まで 捨てに行かれた体験、その作業中に飯田橋駅に機銃掃射を受けた列車が入線してきた話等々、貴重で 生々しいお話を伺う事が出来た。私の後に新聞記者のインタビューが控えていたので、お約束のは1時間であったが、 気がつくと時間を大幅にオーバーして1時間半以上が経過していたので、心残りながらもインタビューを終わらせた。 さらにその席で白井先生は、数日後に控えている会合で会う予定の麻布中学の同級生にも壕の事を聞いていただける との事で、感謝を述べてその場を辞した。そして数日後、ご連絡を頂いたが、残念ながら著書以上の情報は得られなかった との事であった。このようにして少なかった地下壕情報に突然明かりが差し始めたが、書籍検索を続ける一方で、 別の視点である「地元在住の証言者探し」も並行して行おうと、改めて決意しはじめた。そのご紹介は次回「確定された宮村側入口」にて。

    ※ 数多くの麻布山地下壕掘削体験談などが掲載された「麻布学園234会著−オレたち終戦派」ですが私家版のため、都内では「麻布高校図書室」 、「都立中央図書館(現在改装中で閲覧は?)」、「区立みなと図書館書庫」にしか在庫が確認されていません。




    参考文献

    ・オレたち終戦派−麻布学園234会著
    ・大学とアジア太平洋戦争−白井厚著
    ・フィールドワーク 学び・調べ・考えよう 日吉・帝国海軍大地下壕−白井厚監修・日吉台地下壕保存の会著
    ・証言太平洋戦争下の慶応義塾 −白井 厚・編
    ・旧制高校生の東京敗戦日記−井上太郎著
    ・平和への願いをこめて 今語りつぐ戦争の体験−港区戦争・戦災体験集編集委員会
    ・平和への願いをこめて 今語りつぐ戦争の体験2007−港区戦争・戦災体験集編集委員会
    ・東洋英和女学院百年史−東洋英和女学院百年史編纂実行委員会
    ・東洋英和女学院120年史−東洋英和女学院120年史編纂実行委員会
    ・本土決戦準備1(関東の防衛)−防衛庁防衛研修戦史室著
    ・小説 日本本土決戦−檜山良昭
    ・六男二組の太平洋戦争−佐々淳行著
    ・東京大空襲・戦災誌−東京大空襲・戦災誌編集委員会
    ・太平洋戦争中の空襲による消失及び建物疎開区域図(新修港区史付図)
    ・Wikipedia「東京大空襲」画像(空襲をうける東京市街)


    <関連項目>

    2.防空壕
    159.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )


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    171.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その4
    −確定された宮村側入口−



    前回白井名誉教授へのインタビューを期に、「地下壕」の目撃者を当時の成人に近い 80歳台としていたものを、それまでは思ってもいなかった白井先生と同年代で現在70台中盤から 後半の方の探索へと対象者を広げようと考えた。すると以前読んだ 佐々淳行著六男二組の太平洋戦争 に登場する南山小学校の方たちがほぼ近い年代である事を思い出し、文中に掲載されている卒業写真と お名前から手がかりを探してみた。するとその中に現在も宮村町にお住まいの方が見つかり、 早速インタビューさせていただいた。さらに現在宮村町にお住まいの方も見つかったのであるが、 その中の一人はなんと60歳くらいで戦後、昭和30年代前半に壕への侵入をした体験をお持ちであった。 これらに加え、壕の存在を知っているかもしれない方を数名紹介していただいたのでそのインタビュー内容をご紹介。 なを、今回の壕体験者探しにあたっては、私の小中学校の同級生で唯一宮村町にお住まいの「K氏」に大変にお世話になった。

    証言者A氏(終戦当時15歳)
    当時十番通りに住まいがあったが昭和20年5月の空襲で罹災。賢崇寺の私設防空壕で一夜を明かし、南山小学校に 避難。その後、西町仮住まいを経て宮村町に居住。宮村公園斜面上に2本の防空壕入口があった。しかし それは斜面上のお屋敷のもので個人用であった。また山水舎付近に大掛かりな地下壕の入口があり、トロッコ の線路が通り付近まで出ていた。そして通りの反対側には土砂が積まれていた。詳細はわからないが、軍の機密 と聞いていたので、あまり近寄らなかった。
    証言者B氏(帰還時26歳)
    品川区五反田生まれ。戦争中は近衛師団工兵として中国北東部〜フィリピンと転戦。昭和21年帰還。 以降宮村町居住。帰還直後宮村公園上には2本の壕入り口が残っていた。中に入った事はないが、善福寺 までつながっていると噂があった。山水舎近辺の入口は知らない。
    証言者C氏(昭和2年生まれ)
    戦前より宮村町在住。他界された弟さんが佐々氏同級生。戦争中は中国に出征。帰還後も宮村町在住だが 壕の話は聞いた事がない。
    証言者D氏(終戦当時11歳)
    祖父の代、明治期より宮村町に在住。昭和19年南山小学校の集団疎開で栃木県佐野市に疎開。帰京は20年10月。 浜松町で電車を下りると、ホームから南山小学校の煙突が確認できた。壕へは昭和20年秋頃に入った。 現在の谷沢ビル奥壁面最左に1本と、さらにその右手に1本の入口があった。左手壕入口は、奥行き70〜80mほどか? 昭和20年春にご自身の生家・工場も空襲により焼失。 ・壕の通路は幾重にも折れ曲がっていた。そして、 入ってすぐ左手に20畳位の広い部分があり、部屋のようであった。 自身は外光が届く範疇(多分30〜50m)までしか入った事はないが、更に奥があった。

    ★ご自身の体験として、

    • 壕入口近辺は強制疎開で空いていた。
    • 昭和20年秋に壕内入った。罹災したのでその中に住もうという人もいた。
    • 一本松近辺までは堀進んでいた。
    • 壕入口が水がはけるように少し勾配がついていた。
    • 入口は2本あって中でつながっていた。
    • 戦後、危険なので穴の入口をを2度くらい塞いだ。
    • 陸軍が掘削した鳥居坂壕については聞いた事がない。もしあれば最近まで存命していた雇い人などから 聞いた事があるはずだ。
    • 中の部屋は少なくても2つ以上はあった。


    ★聞いた話として、

    • 工事調査は19年、自分たちが疎開後から始まった。20年春から本格的な掘削が始まった。
    • 地方から徴用された方が南山を宿舎としていた。
    • 陸軍ではなく海軍が掘っていた。
    • ここだけでなくいくつかを掘っていた。
    • 従業員も掘削に加わった。手彫りだった。粘土質なので水の心配がなかったのであまり強度の補強は 必要なく掘り進めた。
    • 反対側は篠崎製菓から掘り出し、その他補助の穴も掘っていた。
    • レールを引いてトロッコを通していた。
    • 壕の補強を中空のコンクリート・ブロックで行っていた。
    • 南山も空襲時被弾したが、駐屯していた兵士がすべて消した。
    • 掘削には100人からの人が携わっていた。
    • 海軍掘削部隊は食料などを分けてくれる訳ではなかったが、地元民に親切だった。
    証言者E氏(昭和22年生まれ)

    終戦後両親と共に宮村町に居住。少年期に地下壕に入った体験がある。これは地下壕の最奥部の壁面に 粘土層がむき出しになっており、その良質の粘土を取るために昭和30年代前半、懐中電灯や蝋燭を手に 壕に入ったとの事。

    • 壕は矢沢ビル入口の他に、並んで光隆寺正面あたりにあり合わせて2本であった。間隔は50mほど。
    • 壕の奥行きは不明だが少なくても60〜70m以上はあったと思う。
    • 方向は一本松の方向であり、一本松下くらいまでは到達していたと思う。
      (壕入口から一本松まで直線距離は約130m-DEEP AZABU注)
    • 谷沢ビル入口はスロープを登った正面あたりにあり、壕入口は数段の階段が設けられ少し低い位置から始まっていた。
    • 谷沢ビル壕入口付近は時期によっては水溜まっていることもあり、入れないこともあった。
    • 壕に入ると通路は直進しており、かなり奥に入ったあたりで右へ伸びる通路が分かれて光隆寺正面入口と つながっていた。
    • 壕の最奥部は通路よりかなり広くなっていて部屋のようだった。正面には削りかけの粘土層が露出していた。
    • 壕内部壁面・天井・地面はコンクリートのようなもので塗り固められているように見え、土が露出しているのは 最奥部正面のみであった。
    • 壕内部の地面は中央に側溝が掘られており、天井は補修をしたような形跡があった。
    • 光隆寺正面入口はすでに塞がれており、そこからの侵入は無理だった。よって谷沢ビル入口から入り、 通路を右折すると光隆寺正面入口からの通路と合流しており、内部が確認できた。しかし、光隆寺正面入口から伸びる通路 は更に奥まで続いていたが、ガレキなどで奥には入れなかった。


    証言者E氏が描いた昭和30年代前半の壕内部図


    証言者F氏(昭和?生まれ女性)

    • 聞き取り準備中。
    • 戦前からの居住者で壕掘削を目撃している。


    証言者G氏(昭和2?年生まれ)

    昭和30年代前半に家族で竹谷町に移転してきた。引越し当初母親が近隣住民から聞いた話として、

    • 壁面を第一師団方面に掘っていた。
    • 残土で今も周囲が他所よりも高くなっている。
    • 軍隊が掘っていたのかは不明。
    • 時期は不明
    • 壁面の上に不自然な道路がある。
    • 近隣の現韓国大使館あたりには昭和20年に海軍官邸があり米内光政が住んでいた。
      (この証言は宮村町ではなく、竹谷町入口情報です。)


    証言者H氏(昭和17年生まれ)

    麻布十番雑色通り商店主

    • 戦後壕入口がよく見えた。
    • 入口は賢崇寺墓地地表より3〜5m位下にあった。
      (墓地地表の標高は約25m、十番パティオきみちゃん像前の標高は約9mで入口は標高20m位の高い位置にあったと思われる。)
    • 斜面上の方に入り口はあった。
    • 壕埋戻し工事には気がつかなかった。
      (この証言は宮村町ではなく、篠崎製菓入口情報です。)


    など多くの情報を提供していただいた。また同級生で唯一宮村町に現在もお住まいのK君からの情報により、私がこの調査の初期に探し当てた 1977年2月15日読売新聞朝刊の記事には続きがあり、何と驚いたことに、その翌日1977年2月16日読売新聞朝刊に 「その地下壕を掘った」という方が名乗りを上げられていた。内容は麻布中学の生徒が戦時中勤労動員で地下壕掘削に動員され、その中の一人が読売新聞に名乗り出られたのだ。 さらに新聞は同級生の一人にもインタビューを行って記事の確証性を高めている。記事自体は「オレたち終戦派−麻布学園234会著」 で書かれたものとほぼ同じだが、新聞記事は体験から32年しか経ていず、著作が1990年11月と体験から45年が経過しているので、記事に書かれた内容は 貴重な資料となっている。
    また、この壕に関連すると思われる別の記事も昭和34年の新聞に掲載されていた。1959年8月11日朝日・読売・毎日・日経の各夕刊に谷沢ビル入り口のあった場所のがけ崩れにより作業員が 土砂に埋まり、負傷したとの記事がある。記事によるとがけ崩れ防止工事中の事故であったとのことで、記事は各紙とも3面に小さな扱いだが壕入口の埋戻し工事かと思われるのでこちらも貴重な資料となっている。

    これらの証言や新聞記事により、今までまったく謎であった宮村町側の壕入口の正確な位置、本数、内部構造、 奥行きなどかなり多くの事実を確認する事ができた。次回は更に港区史付図に書かれた空襲による消失区域・建物強制疎開図に書かれた謎を追う予定。

    参考文献

    ・六男二組の太平洋戦争−佐々淳行著
    ・オレたち終戦派−麻布学園234会著
    ・1977年2月15日読売新聞朝刊
    ・1977年2月16日読売新聞朝刊
    ・1959年8月11日朝日・読売・毎日・日経、各夕刊
    ・戦乱と港区
    ・港区史











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    172.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その5
    −建物疎開図の謎−



    麻布山地下壕の書籍を探しているうちにたまたま新修港区史の付図を見た。付図の正式な名称は 「太平洋戦争中の空襲による消失及び建物疎開区地図」といい、港区全体の戦災地図でピンク色 に塗られた部分が「戦災による消失区域」で黄土色に塗られていたのが「建物強制疎開の区域」を表 していた。これは何か参考になればと軽い気持ちで見たのだが、麻布区域をコピーし、地図上に軍事上の重点項目、壕の入口と考えられる 場所をプロットしてみると、黄土色に塗られている「建物強制疎開の区域」にある特徴が現れて、驚いてしまった。 それは、建物強制疎開の区域は大まかに言うと古川に沿って中の橋方向から天現寺近辺までの南まわりの区域と、 麻布十番商店街→日ヶ窪→薮下→玄碩坂〜櫻田通りで一旦櫻田神社を避けるように左折して、大横町(富士見)坂 を下って(現在の)外苑西通りを青山墓地方面に伸びている北周りの区域によって建物疎開は行われたようだ。 (注:もしかしたらこれは計画図で全部は実行されなかったのかもしれないが)

    そして、この円周(完全な円ではないが詳細は後述)の中心がほぼ「がま池近辺」で、周囲から中心方向に向かって4本の 建物強制疎開帯が入り込んでいる。これに軍事要点をプロットしてみて驚いた。なんと4本のうち3本が地下壕の入口と 確定または噂される場所に重なった。そして残る一本は五の橋近辺で新坂沿いに内部に入り込み、旧麻布プリンスホテル(更にその前は鷹司邸)壁面 (現フィンランド大使館)あたりで止まっている。そこで最後の一本も地壕入口では?と予想し、さっそくその壁面を 見に行ってきた。すると新坂を登りフィンランド大使館角の本村小学校方面壁面(この壁面はかなり古そうで、当時からの物かもしれない)に、 小さいがそこだけコンクリートで新しく塗られた入口状の場所を発見した。しかし、この入口は全くの未確認であり、目撃談も 書籍の記述も無い私個人の推測に過ぎない。よって、これをもって「新坂地下壕入口」と 断定するつもりは無いが、疎開区域図上の確率からすると全く捨て去る事もできない。

    私がプロットした地図はこちらからご確認頂きたい(対比のためプロットしていない原図はこちら)。 内部に入り込んだ4本のうち、

    @ は新聞記事となった篠崎製菓入口(ここには2本の入口があったという)
    A は前回171.でお伝えした宮村町入口2本(土砂崩れ事故はこの1本)
    B は竹谷町住民が語った「第一師団の方向に掘った壕」の入口。
    そしてC は推測で未確認の壕入口


    また、この4本は北側1箇所、東側2箇所、南側1箇所(推測)に設置されているが、西側が皆無である。そして、天現寺から 外苑西通り沿いに笄小学校あたりまで建物強制疎開帯は設けられていない。これも大きな謎で、この図が計画図なら、当初から 西側には壕の入口を設置する予定が無いと考えられ、また、建物強制疎開実施済みを表す図ならば、終戦によりこの部分が強制疎開帯設置に間に合わなかったとも考えられる。 もし、この図を計画図と仮定して疎開帯を設置する予定が無いと考えると、もう一つの見方が見えてくる。それは北周り(私は勝手に日ヶ窪Rootと名づけた。)をたどると、 青山墓地方面のその先には「麻布三連隊」につきあたる。昭和20年当時、通称麻布三連隊こと歩兵第三聯隊(豊五六二〇)は ご存知のように2.26事件の関与部隊であった事もあり中国北東部の最前線に展開してから昭和十九年に沖縄方面に移動し、 終戦を宮古島で迎えた。次に営舎は新設の近衛歩兵第五聯隊が 14年8月から16年1月まで使用し、昭和18年から終戦まで使用していたのは通称号、 東部八部隊と呼ばれた「近衛歩兵第七聯隊」である。この部隊は最後の皇居守護・帝都防衛部隊であり、本土決戦時には 東京市内の防衛を担っていた(この部隊は「東京大空襲・戦災誌(第2巻−東京大空襲)」において麻布十番罹災記を記した 戸田 勝久氏が麻布山善福寺に東部六部隊と共に駐屯していたとする部隊である。)。私はこの日ヶ窪ルートを地上における 部隊の移動用通路ではないかと推測し、その方面にに詳しい方に聞いてみたが建物強制疎開帯を通路として使用した事例は 聞いた事が無く、ただの偶然であるといわれた。しかし、私には依然として進撃・撤退をするための通路に見えてしまう のだが.....。

    いづれにせよ、

    ・建物強制疎開帯進撃路説
    ・新坂地下壕入口説

    の謎は、闇に包まれたままである。 (この二説はDEEP AZABU個人が推測しているに過ぎないものです。確証も文献もありません。邪説とお考えください。





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    173.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その6
    −資料集−



    3回にわたり連続してお伝えした麻布山巨大地下壕だが、今回は今までの情報を整理する意味も含め、これまでの 証言・書籍などの内容を、一部以前の内容と重複するが総てお知らせ。

    著書による証言

    十番わがふるさと−稲垣 利吉著

    • 日本海軍は麻布の丘を利用し、本土決戦場の一翼にせんと南山小学校を本陣として 賢崇寺のお寺の各所に横穴を掘り、防空壕に利用して居ましたが、更に、本格的に 地下道を作らんとして坂下側から宮村町に貫通させるためにレールを壕に敷設し、 兵隊を督励して掘進んでいました。(p27)

    • 敗戦の色濃い日本軍部は、本土決戦を覚悟し「地下戦に転じた。麻布のごとき 山岳戦に適した場所は、まず目をつけられた。横須賀海軍に命じて、海軍陸戦一個大隊 (四五〇名)は、南山小学校を兵舎にして、壕掘りの仕事を十九年四月頃から始めた。 初期の計画は、賢崇寺の山を現篠崎製菓の真の崖から掘り始め、一方、宮村山水舎の右方 から掘り出し、中で二又にわかれ、善福寺の方へ抜いていく予定であったが、約六割ぐらい で、完成する前に終戦になってしまった。壕のはば二米ぐらいで、両壁はコンクリート ブロックで張りつめ、道路は下水の溝を作り、中央にトロッコのレールが敷かれてあった。 掘った土は外が焼けの原だから、道の片面に土をもり上げてあった。(p82)

    • 戦時中、終戦に近い昭和十九年春頃から日本軍は敗色濃い本土決戦のため宮村から賢崇寺の 山をくり抜いて仙台坂へ通じる壕を掘り始めた。南山小学校を兵舎にして横須賀海軍の海兵 隊四百五十名が十九年二月頃より山水舎の裏山から掘り出した土砂は安全寺前の細い道路片側 に積み出したが、それは十番本通りまで続いた。壕は本格的に作るので、中の道路をブロック塀 で囲い、道路にトロッコの線を敷き、下には下水を通すようにするのだから大仕事である。 反対側の雉式通りは現篠崎製菓の裏山から振り出したが、ここは焼跡で土砂の山であった。  筆者は終戦の直後、この壕に入り見学したが、八分通りトロッコの鉄道も壁面のブロックも 出来ているのを見て、軍部も金の要る時にずい分無駄な事をしたものだ、「オボレる者はワラ をもつかむ」とはよく言ったものだ、とつくづく思ったことだった。(p116)

    • 誤って賢崇寺の井戸を掘りぬいてしまい伝声管として使用した。(p28)

    • 終戦の翌日、賢崇寺に部下からリンチされそうになった掘削部隊上官兵士が逃げ込み、これを追って 部下の兵士たちが来たが、住職が一喝して追い返した。(p83)


    東京大空襲・戦災誌(第2巻−東京大空襲)

    • 麻布十番罹災記−戸田 勝久氏
      〜麻布山善福寺も、東部軍管区兵站部海軍燃料廠として、また、近衛四連隊 東部八部隊、 六部隊の宿舎として徴発されされ、また海軍は、南山国民学校のある内田山丘陵地帯一帯 を本土決戦の要塞とすべく、現在の篠崎製菓近くの坂下町側と宮村町の二方面より、軌道を 敷き、一大地下要塞の構築をはじめました。〜(p376)

    • 鉄筋の防空壕で−岡田 久男氏
      〜この防空壕は、間ロが高さ、幅ともlb半くらい、奥行が一〇〇bあまりもあって、鉄筋で両方の 入り口は鉄の二重扉であった。中には電灯もついていた。工事費は三万円かけたとか。その後終戦 まで軍が使っていたようである。〜(p808)


    オレたち終戦派-麻布学園234会著

    • 勉学の意欲そがれて−山口冨成氏
      〜その後、海軍部隊の地下壕陣地構築に従事させられ、下士官から「この戦争は日本は危 ない」などと聞かされ、また、「こんな中学生を使うようではおしまいだ」と兵隊が言って おり、故山崎君はどこから聞いてきたか、「日本は敗けるよ」と話していたのを思い出し〜(P90)
    • 本土決戦下の中学生勤労動員−花井清氏
      八月一日から南山国民学校坂下付近で海軍が掘削中の本土決戦の「随道」と称し、いわば「麻布の丘」 の土手っ腹に長い横穴を開ける大防空壕構築(軍機)に八月十五日まで動員された。私の奉仕は三人一組 の重いリヤカー運搬で(背の高い計9人従事)、隧道入り口付近で製造するコンクリートブロック (隧道アーチの基礎台で一個四十キロ)3個を仙台坂付近にあった主要隧道への連絡坑道掘削入り口現場まで、 麻布十番のガレキだけを残す焼け野原の曲がりくねった険路三キロほどを一日四、五回往復する重労働だったが、 現場監督は丸腰の設営隊の棚橋一等兵曹という部下思いの下士官だった。なお同現場と道を隔てた向き合い の家が当時五月二十五日の海軍省焼失で移転してきた大臣官邸とささやかれ、表札のない門前に着剣の戦隊 水兵が守備しており、官邸の主は御前会議である最高戦争指導会議(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、 軍令部総長等構成)の和平派たる米内光政海相(元首相)だったわけだが、海相の末子でわれわれの三年 先輩の米内尚志さん(当時慶大生)も起居されていたようだ(現在同地は大韓民国大使館敷地の一部か?)。 八月になると、六日広島に原爆投下、八日ソ連対日宣戦布告、九日長崎に原爆投下と戦局は末期症状を呈し、 ついに十五日(水)正午、設営隊駐屯本部の南山国民学校講堂に集合し、海軍の「気をつけ」ラッパの響き 「タッタカ タッタター」(一回吹奏)で不動の姿勢をとり、将兵と共に満場粛然息もつまるような静けさ であの玉音放送を聴き、戦争も動員も終わった。(P92)
    • 地下壕掘り−大西将夫氏
      疎開せずに東京に残っているわれら三年生が働く先となったのは、麻布十番の外れの台地に、海軍の地下壕 を作る作業であった。食糧不足で力仕事もできぬ私たちの担当したのは、コンクリートのなかに埋め込む 鉄筋作り。赤さびて曲がった鉄棒をたたいて真っすぐに伸ばす作業であった。このころには日本は制空権も 制海権もなく、米軍の艦載機の飛来もよくあり、作業の方はしばしば中断していたようだった。〜(P114〜115)
    • 不発の焼夷弾−森田宏氏
      次に回されたのは、麻布の丘の地下壕掘りの手伝いだった。 今考えると、もういく工場もなかったのだろう。  この仕事は本土決戦に備えて海軍がつくっていた地下壕建設の手伝いで、われわれが割り当てられた所は、 麻布十番通りを六本木へ向かって進んだ左側、南山小学校の付近であったように思う。地下壕はトンネルを 掘った後、コンクリートブロックで枠組みをしていたようで、当時あまり背丈の大きくなかった私は、生コン 製造の班にまわされた。海軍の水兵さんの指揮で生コンの原料を必要量混合器へ投入する役目であったが、 あまり若くない水兵さんは優しい人で、力仕事はそれほどやらされず、つらい仕事ではなかった。 当時われわれは遊ぶ時間を持たなかったが、唯一の遊びは昼休みに付近一帯の焼け跡から、不発のエレクト ロン焼夷弾−陸上リレーのバトンより少し大きめだったと思う−を拾い集め、焼け残った塀へ投げつけては、 それが発火して大きく火花が飛び散るのを見て、花火を見るような気分で面白がったものだ。(P116〜117)
    • 老兵の涙−中川安郎氏
      〜次の動員が麻布十番近くの海軍の防空壕掘りであった。予備役召集の老兵が、東京の夜 空が炎に包まれ焼け尽くされるありさまを見て、家族の身を案じ、しきりにわれわれに情報 を求めてきた。終戦の詔勅もそこで聞いたが、老兵の目に大粒の涙が光っていたのが今でも 私の脳裏から離れない。〜(P123)
    • ひとかけらの記憶−廣島邦彦氏
      〜そして、最後が麻布十番での穴掘りである。当時、共に働いた兵隊たちが「何か食い物があったら 持ってきてくれ」というのには驚いた。見れば、その兵隊たちは、年齢はかなりいっているようにみえた。 「この際には食糧が不足しているのか」「これからどうなるのかな」とは思うものの、深刻に状況を考え、 「もう戦争は放けるのか」とはついぞ思わかった。(P127)
    • 帝国海軍敗れたり!−山田英夫氏
      僕たち麻布の三年生は、勤労動員にひたすら汗を流していた。それまでの激しい空襲や強制疎開で、 今やガレキと化した麻布の台地に、本土決戦に備えて地下壕陣地を構築しようというのだ。作業の主体 は海軍部隊。海軍といってもて地下壕陣地を構築しようというのだ。作業の主体は海軍部隊。海軍といって も当時すでに乗る船はなく、忠勇無比の将兵といっても、多くは多くは四十歳前後とおぼしきオジサン たちである。でも僕たち、救国の情やみがたく海軍さんにまじって、黙々として作業に従事した。 作業は、練りあげた生コンをシャベルで蒜ずつ運び、並べられた枠型に流しこむという単純なものである。 とある日。 「学生サン、こげんこつただやっちょっりおってもつまらんたい。どっちがたくさんできるか、ひとつ競争 でもややりまっしょ」てな調子で、海軍サンから競争がもちかけられた。 彼我同人数で、所定時間内により多くのブロックを作ったほうが勝ち!という競技である。 ヨシ!敗けてなるものか、と早速そのゲームは開始された。 戦いなかばごろ、敵は?と見れば、あっずるい!チンタラ、チンタラやっているだけではないか。最初から まじめに競争する気なんてない。ノセラレタ!!と気がついたものの、そこはそれ、愛国少年の僕たち。 手抜きなんかせず、最期まで一生懸命頑張った。 もちろん結果は、学生軍の大勝。そこで海軍側のリーダーの言うことがふるっている。 「ああ、帝国海軍敗れたり!」と。 太平洋戦争のホントの現場では、帝国海軍はとうの昔に壊滅していたのだが、この陸上の海軍サンは、 純なわが愛国少年たちに、うまうまとノルマ達成のお手伝いをさせるだけの狡知はもっていたわけである。 〜(P142〜144)
    • 学徒勤労動員の1日−岩田整氏
      それは日本の敗戦が避け難いと一部の人々がささやき始めたころのことであった。私たちの周囲には、 乙種や丙種合格の体格のために、よもや招集令状が来るとは思ってもみなかったのに、招集でかきあつめられた 、歳のころも四十歳を越えているのではないかと思える三等水兵、二等水兵たちが固まって、たき火の中の 飯ごうでヤマゴボウの塩ゆでができあがるのを眺めていた。  私たちは、それまでに、安立電気への工場動員(空襲で焼失)、防火帯建設のための強制疎開の建物の 取り壊し、焼け跡の整地とサツマ芋の植え付けなどの動員を経験したあと、ここ麻布十番に向かって左側 の仙台坂側の台地に、横穴式の大規模な防空壕建設工事に動員されてきたところであり、この塩ゆでの ヤマゴボウは、三水や二水などの、招集で駆り出された海軍の兵たちが、支給された食事では身がもたぬと、 志願兵あがりの兵曹たち(疲らは二十歳前後で、軍隊の階級制度で一応十分の食事給与があった模様)の 目を盗んで「おやつ作り」に励んでいた。彼らの唯一の望みは、腹いっぱいに食事をとることであり、私も 当時、非常食として常時、雑のうに携行していた、いり米・いり豆を彼らが豊富に給付されていた日用雑貨と 交換して自宅に持ち帰り、母に大変喜ばれた記憶がある。 (純綿のタオル・化粧用せっけん等で彼らはこのような物資は潤沢に消費できたが、食糧は相つぐ空襲で 食糧の備蓄倉庫が焼失して窮屈となり、結果として民間より悪い状況であった‥…われわれ民間の 米穀配給制度の欠配・遅配が深刻な状況となったのは、この直後の八月十五日を過ぎてからである)。  この大規模な防空壕は、当時霞ヶ関にあった海軍省が米軍の日本本土上陸に備えて、長野県松代 (当時その地に大本営を移転する計画が準備中であった)へ退却するまでの、抗戦指導用の後方基地 として掘削していた。 麻布十番に向かって左は海軍省(仙台坂の台地)右は陸軍省(鳥居坂の台地)のそれぞれの防空壕で あったが、海軍省がダイナマイトや土木機械を活用して掘削しそのあとをセメントで固めていたのに対して 、陸軍は、ツルハシやシャベルと坑木で壕を掘り進めていたのが対照的であった。これは私たちの焼け 跡整理の動員現場がちょうどこの両防空壕建設の前面であったために、この海軍へ動員される直前に、 毎日状況を観察していた事から承知していた。そんな事があってから二、三日後、われわれは運命の 八月十五日終戦の日を迎えた。(P146〜147)
    • 作りそこなった新記録−川合澄男氏
      暑い日だった。真っ青な空にわずかに雲が浮いていた。 「本日は正午より恐れ多くも天皇陛下おんみずからのご放送がある。それまでに必ず戻るように」 と命令を受けてトラックに乗りこんだ。 私たちは、麻布の丘に海軍部隊が構築中の地下陣地の作業に動員されていた。動員最初の日、将校 に連れられて建設中の地下壕の中を見学した。「これは軍の最高機密である。ここで見聞きした内容 については、家族にも絶対話してはならん」と言われ、「敵が上陸してきたら、貴様らもわれわれと ともにここで最後まで戦うことになる。生死をともにする仲となるのであるから、親しい友達同士で 班を作れ」とおどされた。私たちは、掘削中の地下壕から土砂を運びだすグル−プ、内部を固める コンクリートブロックを作るグループ、砂利・砂・セメントをトラックで運ぶグル−プなどに 分かれて働いた。 いた。お世帝にもたくましい若者とは言えない私たちにとって、スコップで砂利や砂をあげ おろしする作業は楽ではなかった。それでもスコップの砂を散らさずに投げ上げるコツも覚え、 一日三往復、空襲の最中も休むことなく、ピストン輸送にたずさわった。身をかくす場所もない 皇居前で米軍の艦載機に狙われ、命のちぢむ思いをしたことむあった。  「重大放送って、何だろう?」「みんな、ガンばれってことだろう」「ひょっとして、日本が 負けたのかなぁ〜」トラックの荷台のうえでコソコソ話し合っていた私たちに、水兵が怒鳴った。 「ばかッ、日本が敗けるかぁッ」。私たちは沈黙した。  昼までに戻るために私たちは必死で働いた。二度めの砂を乗せて戻ったのは正午過ぎ。  「これなら今日は四往復して新記録が作れるぞ」と話し合いながら集合場所の南山国民学校の講堂へ駆け込んだ。  放送はすでに始まっていた。列の最後尾についた私たちに、放送の内容はよく聞き取れなかったが、 ともかく放けたらしいとは分かった。講堂に座り込んで号泣していた将校の姿が印象的だった。  午後の作業は中止。私たちの新記録は、実現しなかった。(P150〜151)
    • 私の終戦−早乙女和雄氏
      当時中学三年生であった私たちは、麻布十番の焼け跡の斜面にトンネルを掘っていた。 本土決戦に備えて、陸に上がった海軍の陣地をつくるため、動員されていたのである。 動員は前年の二年生の時から始まり、学校に近い安立電気の工場に出された。この工場は 無線通信機をつくっていたが、中学三年生の役に立つ仕事はなく、会社側も大いに迷惑 だったようで、長く続かなかった。入社式で、細川校長が、低学年中学生の工場動員に 反対の意味の話をされたことを覚えている。 終戦直前の状況は悲惨であった。私の家は五月の空襲で焼かれ、腹も頭も空っぽだった。  ある日、将校さんに、一人ずつ順に来るようにいわれ、トンネルの奥の部屋に入った。 割リバシに水あめをまいて差し出し、「ここで食べなさい。君たちも間もなく学校に帰れる だろう」といわれた。水あめがとても甘かった。終戦の前日だったと思う。〜(P152〜153)
    • 八月十五日前後−宮地進吾氏
      〜終戦の十日ほど前の日の、花井君との会話を今でも思い出す。当時、彼とは有栖川公園で、 一トン爆弾でも耐えることの出来る防空壕のセメント作りに専念していた。その作業を実質的に 指揮をとっていたのは、海軍の軍属で丹那トンネルを掘ったことがあるという温厚な人だった。 私とはよく話をし、「ここは地盤があまりよくないから、学生は中に入らない方がいいよ」 と言われていた。その人が落盤で足をケガした数日後が、八月十五日だった。  その日は晴れた日で、たしか南山小学校に十二時に集まり、玉音放送を聞いた。その場にいた 海軍将校のおえつ、二、三人は軍刀を抜いて割腹しようとしたので、下士官に取り押さえられて いる光景が異様な雰囲気をかもしだしていた。しかしその反面、冷ややかにその光景を見詰めて いる兵隊や軍属がいたのも私は見逃さなかった。(平常、大きな顔をして無理な仕事を押しつ けていたのだろう)  悲しかった。とめどなく涙があふれた。しかし今日からは、もうゲートルを巻いたまま寝なく てすむんだなあ……。焼夷弾の恐怖に襲われることはない。と思うと♪ほっとした気持ちだった。 〜(P154〜155)
    • したくもなかった経験をした焼け跡派−喜多智慧夫氏
      〜やがて、いわゆる学生生活を楽しむどころではなく、敵国の言葉である英語などトンでもない という時代になり、勉強どころではなくなった。空襲警報が鳴るとよく有栖川公園の防空壕へ 避難した。しかし戦線が拡大し、本土に戦雲が垂れこめてアメリカ軍の空襲も激しさを増して くるころ、勤労動員に駆り出された。最初の動員先の安立電気が戦災を受けるとつぎに海軍の 防空壕作りを手伝うことになった。毎日毎日ゲートルを巻き軍靴を履いて、トラックに乗って 砂利運びをした。そんな状況の中で八月十五日を迎え、あの玉音放送を聞いた。泣いていいのか、 笑っていいのかわからず、ただぼう然としていたのを覚えている。夏の暑い太陽が降り注ぐ中、 周囲には広い焼け跡が広がっていた。〜(P156〜157)
    • 自由は死なず-新川清氏
      私は戦争の終わる前日まで、仙台坂の横手に、海軍の兵隊と一緒に、防空壕を掘っていた。 私の役目は、麻布十番からコンクリートブロックをリヤカーに積んで、仙台坂の現場まで 運ぶのが仕事だった。一ノ橋から二ノ橋にかけての付近一帯は一面の焼け野原で真夏の 太陽が容赦なく照りつけ、十五歳の少年には大変つらい労働だった。夜はB29の空襲で寝られず、 食べ物もなく、こんな状態がいつまで続くのか不安だった。  運命の八月十五日当日も、かなり暑い日だった。正午に、近所の学校の校庭に海軍の兵隊と 一緒に集められ、天皇の録音放送をきいた。最初は、天皇が国民に対しもっと頑張って戦えと いう話かと思ったら、結局戦争が終わるということが分かり、悔しいと思ったのも一瞬で夜中 に起こされずにすむ。明日からの重労働が無くなる―。これから先の苦労など何も考えず、 なんだか訳の分からない虚脱感と開放感があった。〜(P162〜163)
    • 私の戦争体験 ”権力は欺く”−白井厚氏
      〜中学に入ると戦局は厳しくなり、カーキ色の制服にゲート〜を巻いて登校、教練・戦闘訓練に 明け暮れ、学徒勤労動員で一九四五年一月末には天現寺の安立電気KKに入所。工作係仕上調整班 に所属して海軍の無線機用バリコン(バリアブル・コンデンサー)をつくった。アルミ板を平に 重ねて組み立てるわけだが、軸が固くてうまく回転せず、面倒だとばかり軸をドリルに接続して モーターで回してみたら、軸だけでなくバリコン本体が回転し、これが遠心力であっというまに ひん曲がって私の左手首を切ってしまった。物理の勉強をおろそかにした無知の結果なのだが、 二針縫ったこの傷が、私の体に残る戦争の跡である。  やがて空襲が激しくなり、五月末に工場は焼けてしまった。わが家は北鎌倉に疎開。われわれ 中学生は、本土決戦に備えて麻布の丘の中腹に横穴を掘る海軍の手伝いをしたが、掘り終わらぬ うちに敗戦の日が来てしまった。〜(P164〜165)
    • 終戦前後−久保田健三氏
      三年生の八月から麻布の高台に横穴式の防空壕の建設作業に動員された。海軍の仕事であったが、 現地責任者の下士官の方はわれわれにやさしく接してくれ、時には作業貞の昼食のおかずのおすそ 分けにあずかった。一方、時折、自転車でフラッとやってくる若い士官にはどうも好感が持て なかった。徴用された年配者の人々の口からは故郷を思う言葉が漏れることがあった。  ここで終戦を迎えるわけだが、あの玉音放送はなぜか家で聞いたように思う。やはり悔しさは あったが、それ以外の別段の気持ちは今となっては思い出せない。〜(P168〜169)
    • 「その日」は、空が青かった−立松久昌氏
      三月十日の東京大空襲以降、次第に空襲も激化し、安立の工場も焼けてしまった。資材課動員の仲間は、 その後麻布十番で本土決戦に備えて、麻布が丘の横っ腹を掘る巨大な防空壕づくりに駆り出され、そこで 終戦を迎えたのである。  安立資材課での検品・品出しの作業とは打って変わり、土を掘る→一輪トロッコで運び出す→トラック に積む→荷台に乗って捨てに行く、という防空壕掘りは、いま考えると、当時、十四、五歳の空きっ腹 をかかえた中学生にとっては、お国のためとはいいながら、とてつもない重労働であった。  「その日」は、朝から指揮をとる配属の将校がなんとなく落ち着かず、何か重大な発表があるという ことで、私たちは近くの城南中学の校庭に集合するように命令された。集められた学徒一同は、そこで、 いわゆる「玉音放送」を聞いたのである。〜(P170〜171)
    • 激動の時代 米軍を恐れて山中へ逃避行−星 亘氏(P184〜185)
      〜昭和二十年八月からわれわれは麻布十番の海軍司令部用の地下壕掘りに動員された。一面の焼け野原 の一角にガソリンエンジンで回転するコンクリートミキサーがモクモウと白煙を吹きあげる現場は、 労働としては暑さの中でもあり相当なものだったとは考えられるが、私の記憶に残っているものは、 隊長坂田中尉の優しさと、キュウリの酢の物と、いった大豆の味のみである。そして八月十五日の終戦 の翌日、集まったわれわれに分配されたさけ缶やゆで小豆の缶づめ、白い毛布等が鮮明に思い出される のである。優しかった隊長、坂田中尉も、昭和二十六年ごろ若くして世を去られたと聞きおよんでいる。


      • 麻布の横穴から教室へ−白井厚氏
        〜そして、いよいよ本土決戦ということで、我々も焼け跡整理や疎開家屋の引き倒し作業などに 動員されたが、やがて三年生100人以上は、八月一日から帝国海軍の下働きになったのである。 そこは南山国民学校の坂下に近く、仙台坂の横手あたり (麻布区宮村町)だっただろうか。台地の斜面を利用して、海 軍の設営隊が横穴式の大防空壕を掘っていた。米軍が上陸し て地上戦になったら、海軍省は松代(長野県)に退却するま での間、この穴にこもって戦うつもりだったらしい。  我々中学生はこの穴掘り作業の手伝いをしたのであって、 掘り出した土を一輪車で運び、それをトラックに積み、荷台 に乗って飯田町の貨物駅あたりに捨てに行くグループ、壕の 内部を固めるコンクリート・ブロックをつくるグループ、そ れをリアカIで運搬するグループなどがあったようである。  我々を持挿した海軍の軍人は、召集で釆たような申年の人 が多く、我々も夜は空襲で何度も起こされた若年・未熟の労 働力で、帝都を守る精鋭部隊とは言えなかった。作業中に空襲 があったし、トラックで土を捨てに行ったグループは、米 軍の艦載機に狙われて危険な目にも遭ったという。 米軍が上陸して東京総攻撃となったら、この人工の穴が沖 縄のガマのように、我々の墓場になったことであろう。しか し幸いなことに、私がこの巨大な穴の入り口あたりでウロウ ロしているうちに、八月十五日になったのである。

          声の主はどんな人

         その日、午前中は各々の作業を行い、正午に設営隊本部が あった南山小学校に、海軍の軍人たちと一緒に整列して「玉 音放送」・を聴いたが、カン高い人間離れのしたような声は、 とても聴きとりにくく、私は「これは米軍の謀略放送では… …」と一瞬疑ったことをよく覚えている。  「神州不滅」を教えられた軍国の少年は、直ちに祖国の敗 戦を納得することはできなかった。しかし、あとで聞くと友 人の中には父親から敗戦のことを聞いていたという者がい て、この情報量の巨大な落差に私は衝撃を覚えた。  下級将校や下士官、水兵たちは、やはり何も知らなかった のか、その場に座り込んで泣く者もいた。私は何が何だかわ からずに放心状態でいた。天皇の声を初めて聴いて、いった い声の主はどんな人なのだろうかと疑った。これから日本は どうなるのか……。〜(p71〜73)
      大学とアジア太平洋戦争−白井厚著

      第T部 戦時中の大学
      1大学一風にそよぐ葦の歴史


      ○貨物駅にて

      それであとは、海軍が麻布の丘の横腹に本土決戦に備えて地下壕を掘る。それを手伝え ということで、われわれ中学生ですから実際に掘ったわけではありませんが、水兵たちが丘に横穴を掘るのを手伝 う雑用をやっておりました。  その頃のことでした。今日みたいに暑い時でしたけれども、ここに近い飯田橋駅の少し向こうに、飯田町という 貨物駅がありました。そこの引込線のところへ行ったら列車が入ってきたんですが、何やら異常な感じがいたしま した。そうしたら鉄道員の人が早速飛び乗って、オーイ見てみろというので行きましたところ、客車の床は血だら け。そして床に散乱していたのは妙った大豆でした。あのころは食糧が足りませんので、みんな大豆を妙って食べ る。これが貴重な蛋白源でした。そういうものが散乱しておりました。中央線の列車が米軍機の機銃掃射を受けた んですね。おそらく阿鼻叫喚の地獄で人々は列車の中を逃げまわっていただろうと思います。私が見た時はもう空 で、死体や負傷者も降ろした後だったのでしょう。鉄道の人が棒でもってひょっと飛ばして見せたものは人間の指 でありまして、私は愕然といたしました。床の血糊と大豆、ちぎれた人間の指という異様なものを見て、戦争の悲 惨さを感じた次第であります。〜(p2〜3)
      平和への願いを込めて2007

        中学時代の戦争体験−神山三郎氏

        ○麻布中学での戦争体験

        〜中学三年の夏休み頃からだったと思うけど、麻布十番の丘に地下陣地を構築する仕事に動員されました 極秘のもので海軍の兵隊が壕を掘る仕事をやり、私たちの仕事は飯田町の貨物駅から、スコップで砂利を トラックに積んで現場まで運ぶ作業でした。一日三往復しました。暑い炎天の中で、手にまめが出来てね。 砂利はスコップにずっしりですから、フラフラになっちゃうんです。積み上げた砂利の上に疲れて、寝そ べっている時、米軍の艦載機に狙われて、命のちぢむ思いもしました。〜


        ○終戦の日

        八月十五日の前の日あたりから「明日は南山国民学校の校庭に集まれ」といわれ集められました。その日は 兵隊が前方に、我々は後ろの方でした。放送を聴いたけれども、声が割れるし後方からは聞きとれなかった ですね。前方の方から、嗚咽の声が聞こえてきました。後で聞いた話では、指揮官だった人が自決をしよう としてとめられたという話を聞いています。〜(p156〜157)
    新聞記事による証言

    1977年2月15日読売新聞朝刊

    ○タイトル「ぎょっ麻布の怪 旧軍謎のトンネル」

    159.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )を参照の事。


    1977年2月16日読売新聞朝刊

    ○タイトル「旧軍地下壕、我々が掘った 麻布中のOB 感慨の名乗り」

    前日の記事に対して、麻布中学OBが読売新聞新宿支局に名乗りを上げ、麻布地下壕を掘ったのは 旧海軍工作隊と明かした。OB氏によると、

    • 南山小を宿舎とした海軍工作隊の手伝いで、三年生全員(300人)が勤労動員にかり出された。
    • 詳しくは知らないが、海軍の中堅幹部が司令部として作ったように思う。
    • セメントやジャリを運んだ。
    • 終戦の日まで作業した。

      と明かし、さらにOB氏の同級生もインタビューで、

    • 麻布に海軍大臣の公邸があって、邸を中心にあちこちで壕を掘ったと聞いた。
    • 海軍将校から、壕の存在は最大軍機で家族にも話してはならないと言われた。
    • 敵軍上陸時の首都防衛陣地か


    などと話している。 また同日午後、麻布土木事務所(関口明所長)が午後1時半から4時まで壕内をくまなく測量し、 マンション建設後6年が経過しているにもかかわらず、岩盤も堅固で、シートパイルを 打ち込まれながらも壕内の崩落がほとんどないため、壕上に建設された マンションの安全性が確認された。...とある。
    1959年8月11日朝日・読売・毎日・日経、各夕刊

    矢沢ビル裏の鉄筋コンクリートアパート建設現場で、ガケ崩れ防止のコンクリート壁の 基礎工事中に土砂崩れにより作業員2名の半身が埋没し、麻布消防署救援隊が30分後に救助した。 原因は6号台風直後で地盤の弛みから。
    地元住民の証言

    証言者A氏(終戦当時15歳)

    当時十番通りに住まいがあったが昭和20年5月の空襲で罹災。賢崇寺の私設防空壕で一夜を明かし、 南山小学校に 避難。その後、西町仮住まいを経て宮村町に居住。宮村公園斜面上に2本の防空壕入口 があった。しかし それは斜面上のお屋敷のもので個人用であった。また山水舎付近に大掛かりな地下壕 の入口があり、トロッコ の線路が通り付近まで出ていた。そして通りの反対側には土砂が積まれていた。 詳細はわからないが、軍の機密 と聞いていたので、あまり近寄らなかった。
    証言者B氏(帰還時26歳)

    品川区五反田生まれ。戦争中は近衛師団工兵として中国北東部〜フィリピンと転戦。昭和21年帰還。 以降宮村町居住。帰還直後宮村公園上には2本の壕入り口が残っていた。中に入った事はないが、 善福寺 までつながっていると噂があった。山水舎近辺の入口は知らない。
    証言者C氏(昭和2年生まれ)

    戦前より宮村町在住。他界された弟さんが佐々氏同級生。戦争中は中国に出征。帰還後も宮村町在住だが 壕の話は聞いた事がない。
    証言者D氏(終戦当時11歳)

    祖父の代、明治期より宮村町に在住。昭和19年南山小学校の集団疎開で栃木県佐野市に疎開。 帰京は20年10月。 浜松町で電車を下りると、ホームから南山小学校の煙突が確認できた。 壕へは昭和20年秋頃に入った。 現在の谷沢ビル奥壁面最左に1本と、さらにその右手に1本の 入口があった。左手壕入口は、奥行き70〜80mほどか? 昭和20年春にご自身の生家・工場も 空襲により焼失。 ・壕の通路は幾重にも折れ曲がっていた。そして、 入ってすぐ左手に 20畳位の広い部分があり、部屋のようであった。 自身は外光が届く範疇(多分30〜50m)まで しか入った事はないが、更に奥があった。

    ●ご自身の体験として、

    • 壕入口近辺は強制疎開で空いていた。
    • 昭和20年秋に壕内入った。罹災したのでその中に住もうという人もいた。
    • 一本松近辺までは堀進んでいた。
    • 壕入口が水がはけるように少し勾配がついていた。
    • 入口は2本あって中でつながっていた。
    • 戦後、危険なので穴の入口をを2度くらい塞いだ。
    • 陸軍が掘削した鳥居坂壕については聞いた事がない。もしあれば最近まで存命していた 雇い人などから 聞いた事があるはずだ。
    • 中の部屋は少なくても2つ以上はあった。


    ●聞いた話として、

    • 工事調査は19年、自分たちが疎開後から始まった。20年春から本格的な掘削が始まった。
    • 地方から徴用された方が南山を宿舎としていた。
    • 陸軍ではなく海軍が掘っていた。
    • ここだけでなくいくつかを掘っていた。
    • 従業員も掘削に加わった。手彫りだった。粘土質なので水の心配がなかったので あまり強度の補強は 必要なく掘り進めた。
    • 反対側は篠崎製菓から掘り出し、その他補助の穴も掘っていた。
    • レールを引いてトロッコを通していた。
    • 壕の補強を中空のコンクリート・ブロックで行っていた。
    • 南山も空襲時被弾したが、駐屯していた兵士がすべて消した。
    • 掘削には100人からの人が携わっていた。
    • 海軍掘削部隊は食料などを分けてくれる訳ではなかったが、地元民に親切だった。
    証言者E氏(昭和22年生まれ)

    終戦後両親と共に宮村町に居住。少年期に地下壕に入った体験がある。これは地下壕の最奥部の壁面に 粘土層がむき出しになっており、その良質の粘土を取るために昭和30年代前半、懐中電灯や蝋燭 を手に 壕に入ったとの事。

    • 壕は矢沢ビル入口の他に、並んで光隆寺正面あたりにあり合わせて2本であった。間隔は50mほど。
    • 壕の奥行きは不明だが少なくても60〜70m以上はあったと思う。
    • 方向は一本松の方向であり、一本松下くらいまでは到達していたと思う。 (壕入口から一本松まで直線距離は約130m-DEEP AZABU注)
    • 谷沢ビル入口はスロープを登った正面あたりにあり、壕入口は数段の階段が設けられ少し低い位置から始まっていた。
    • 谷沢ビル壕入口付近は時期によっては水溜まっていることもあり、入れないこともあった。
    • 壕に入ると通路は直進しており、かなり奥に入ったあたりで右へ伸びる通路が分かれて光隆寺正面入口と つながっていた。
    • 壕の最奥部は通路よりかなり広くなっていて部屋のようだった。正面には削りかけの粘土層が露出していた。
    • 壕内部壁面・天井・地面はコンクリートのようなもので塗り固められているように見え、土が露出しているのは 最奥部正面のみであった。
    • 壕内部の地面は中央に側溝が掘られており、天井は補修をしたような形跡があった。
    • 光隆寺正面入口はすでに塞がれており、そこからの侵入は無理だった。よって谷沢ビル入口から入り 、 通路を右折すると光隆寺正面入口からの通路と合流しており、内部が確認できた。しかし、 光隆寺正面入口から伸びる通路 は更に奥まで続いていたが、ガレキなどで奥には入れなかった。
    証言者F氏(昭和?生まれ女性)

    聞き取り準備中。 戦前からの居住者で壕掘削を目撃している。
    証言者G氏(昭和2?年生まれ)

    昭和30年代前半に家族で竹谷町に移転してきた。引越し当初母親が近隣住民から聞いた話として、
    • 壁面を第一師団方面に掘っていた。
    • 残土で今も周囲が他所よりも高くなっている。
    • 軍隊が掘っていたのかは不明。
    • 時期は不明
    • 壁面の上に不自然な道路がある。
    • 近隣の現韓国大使館あたりには昭和20年に海軍官邸があり米内光政が住んでいた。
      (この証言は宮村町ではなく、竹谷町入口情報です。)
    証言者H氏(昭和17年生まれ)

    麻布十番雑色通り商店主

    • 戦後壕入口がよく見えた。
    • 入口は賢崇寺墓地地表より3〜5m位下にあった。
      (墓地地表の標高は約25m、十番パティオきみちゃん像前の標高は約9mで入口は標高20m位の高い位置にあったと思われる。)
    • 斜面上の方に入り口はあった。
    • 壕埋戻し工事には気がつかなかった。
      (この証言は宮村町ではなく、篠崎製菓入口情報です。)


    荒潤三氏(大正14年生まれ83歳)

    麻布本村町著者、当時本村町61番地在住

    • 当時個人用防空壕が多くあったので、地下壕の存在は知らなかった。
    • 本村小学校西側家屋の強制疎開を手伝った。
    • 麻布中学に兵隊が駐屯していたのは通学の途中によく見たが、老兵で装備も不十分。ゲートルも巻いていなかった。
    • 本村小に兵隊が駐屯していたのは知らなかった。
    • 仙台山下壁面は当時からコンクリートで、壕入口があっても不自然ではない。


    ★戦時中、軍隊の駐屯した麻布近辺の学校
    学校名陸・海軍部隊名目的時期出典
    南山国民学校和気部隊昭和20年5/4〜?南山郷土史料室
    海軍壕掘削作業昭和20年5/26〜9/1南山郷土史料室
    笄国民学校陸軍東部八部隊昭和19年9/29〜11/?港区史・下
    陸軍東部六部隊校舎偽装工事昭和20年6/7〜?五十年史
    本村国民学校建物強制疎開昭和20年2月頃〜1ヶ月程港区史・下
    麻布国民学校陸軍工兵隊・通信隊・衣料班昭和19年8/?〜21年2月頃港区史・下
    白金国民学校海軍昭和20年4/10〜8/30港区史・下
    高輪台国民学校防衛召集部隊昭和20年2月〜8/15港区史・下
    東洋英和陸軍東京師管区司令部昭和20年?
    東京連隊区司令部昭和20年?
    東京防衛軍司令部昭和20年?
    麻布中学陸軍東部七、八部隊昭和20年?月オレたち終戦派
    ※飯倉・東町・神応・三光など不詳・戦災による喪失と書かれている小学校は除外


    レファレンス協力

    ・証言者の皆様
    ・白井厚氏(慶応大学名誉教授)
    ・荒潤三氏(麻布本村町著者)
    ・東京都立中央図書館
    ・港区立麻布図書館
    ・港区立みなと図書館
    ・東京都立公文書館
    ・防衛省防衛研究所史料閲覧室


    参考文献

    ・十番わがふるさと−稲垣利吉著
    ・オレたち終戦派−麻布学園234会著
    ・大学とアジア太平洋戦争−白井厚著
    ・旧制高校生の東京敗戦日記−井上太郎著
    ・平和への願いをこめて 今語りつぐ戦争の体験−港区戦争・戦災体験集編集委員会
    ・平和への願いをこめて 今語りつぐ戦争の体験2007−港区戦争・戦災体験集編集委員会
    ・本土決戦準備1(関東の防衛)−防衛庁防衛研修戦史室著
    ・六男二組の太平洋戦争−佐々淳行著
    ・戦時少年−佐々淳行著
    ・東京大空襲・戦災誌−東京大空襲・戦災誌編集委員会
    ・港区史−港区役所/編集
    ・新修港区史−港区役所/編集
    ・太平洋戦争中の空襲による消失及び建物疎開区域図(新修港区史付図)
    ・戦乱と港区−港区資料室
    ・南山小学校郷土資料室文献
    ・1977年2月15日読売新聞朝刊
    ・1977年2月16日読売新聞朝刊
    ・1959年8月11日朝日・読売・毎日・日経、各夕刊

    (周辺情報として参考にした書籍)

    ・フィールドワーク 日吉・帝国海軍大地下壕−白井厚監修・日吉台地下壕保存の会著
    ・証言太平洋戦争下の慶応義塾 −白井 厚・編
    ・Wikipedia「東京大空襲」画像(空襲をうける東京市街)
    ・麻布区史−麻布区編
    ・麻布本村町−荒 潤三著
    ・麻布新堀竹谷町−山口正介著
    ・麻布の少年−暗闇坂瞬著
    ・古川物語−森記念財団編
    ・日和下駄−永井荷風
    ・麻布雑記−永井荷風
    ・断腸亭日乗−永井荷風
    ・日本軍隊用語集−立風書房
    ・麻布区兵事議会沿革史−麻布区兵事議会編
    ・在郷軍人(将校)服役便覧−麻布連隊区将校団編
    ・本土決戦日本内地防衛軍−茶園義男著
    ・日本本土侵攻作戦の全貌−トーマス・アレン著
    ・相模湾上陸作戦−大西比呂志・他著
    ・東京史稿−東京市・東京都
    ・近代沿革図集 (麻布・六本木)− 港区立三田図書館
    ・麻布−その南西部−港区教育委員会
    ・麻布−その北東部−港区教育委員会
    ・榎の木の下に−若宮ケイ
    ・昭和は遠く−松浦喜一
    ・まち探索ガイドブック−港区産業・地域振興支援部
    ・描かれた港区−港区三田図書館
    ・写された港区−港区みなと図書館
    ・南山小学校開校120周年記念−南山小学校
    ・開園60周年記念誌なんざん−南山幼稚園
    ・笄小学校五十年史
    ・笄小学校六十五周年記念読本
    ・ほんむら 創立八十周年記念誌
    ・東町 開校80周年記念誌
    ・麻布小学校創立百年沿革史
    ・白金小学校開校100周年記念誌
    ・高輪台 開校50周年記念誌
    ・東洋英和女学院百年史−東洋英和女学院百年史編纂実行委員会
    ・東洋英和女学院120年史−東洋英和女学院120年史編纂実行委員会
    ・麻布十番「たぬき煎餅」親子三代奮戦記−日永 清
    ・昭和・平成現代史年表−神田 文人
    ・小説 日本本土決戦−檜山良昭



    関連項目

    2.防空壕
    159.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )
    170.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その3−明かされた壕掘削−
    171.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その4−確定された宮村側入口−
    172.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その5−建物疎開図の謎−





















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