むかし、むかし13




201.末広池

   
      
末広池
明治初期の末広池
      
現在の末広池あたり
現在の末広座跡グルメシティ麻布店
      
現在の末広稲荷元地
現在の末広稲荷元地
      
暗闇坂下の藪下辺
暗闇坂下の藪下辺
      
池の大きさ比較
池の大きさ比較
1883(明治16)年に陸軍参謀本部が作成した地図「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」を何度かご紹介してきたが、 この地図には江戸期のものとは違い、標高点・植栽種類・池・沼・坂名・地名・建物種別など、ほぼ現在の地図と変わらない細かい記述がある。 特に池や沼などの水源地についてはごく小さなものまで正確に記載されており、これを見ると当時の麻布中央部には無数の水源池が存在し、特に宮村町周辺には、 がま池・ニッカ池(毛利池)・原金池以外にも多くの池が集中していたことがわかる。


その中で、ががま池・ニッカ池に次ぐ規模の大きな池が十番商店街(現在のグルメシティ麻布店裏手あたり)にあった。 その池は末広稲荷神社(現十番稲荷神社)の脇にあり、がま池の約1/4、ニッカ池の1/3ほどの規模であった。 この池には名称が記載されていないので当サイトは独断で「末広池」と呼ぶこととする。 この末広池は十番商店街に隣接していたためか明治の早いうちに埋め立てられたと思われ、この陸軍参謀本部地図以外に描かれているのを目にしたことがない。 しかし、江戸末期の一本松坂の居酒屋を舞台にした小説「女だてら 麻布わけあり酒場」にはわずかながらこの末広池が「暗闇沼」という名称で描かれている。

<池付近の岡場所>

このサイトを開設した1998(平成10)年当初にお知らせした「むかし、むかし1-10 原金の釣り堀」文中で、
この池(原金池)のほとりにあまり高級じゃない岡場所があり、遊女ではなく夜鷹が、かなりのボッタクリをしていた。ある夜、久留米藩の侍が遊びにきたがあまりのひどさに腹を立て、藩の侍100人あまりを呼んでき 徹底的に打ち壊してしまった。それ以降2度と店は出来なかったそうだ。
とお伝えしたが、どうやらこの打ち壊しがあったのは原金池(現在の六本木ヒルズ住宅棟辺り)ではなくこの末広池であった可能性が高い。
この間違いは、私が宮村町で生まれ育った昭和30年代当時は 「藪下(やぶした)」という宮村町里俗の字名が現在の六本木ヒルズ住宅棟辺りのみを指す地名であったことに起因し、

藪下+池=原金池

と短絡した結果であった。 しかし、江戸期の「藪下」はもっと広い地域の名称であったという。
○ 文政町方書上−宮村町

一、里俗藪下と申すわけ相知れ申さず候。もっとも宮村町一円に相唱え申し候。

○ 麻布区史−宮村町

町内一円を里俗に今も藪下と称している。

○ 異本岡場所考−藪下

里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也

○ 角川 日本地名大辞典−藪下

江戸期の麻布宮村町一円の俗称名称。

○ 東京35区地名辞典−藪下坂

桜田町から宮村町北部へ下る玄碩坂の別名。坂下一体は俗に「藪下」と呼ばれた低地で、そこへ下ることに因む坂名。

○ 道聴塗説−藪下

麻布大明神、今は氷川と称す。北に当て宮下、又は藪下とて〜(略)。

○ 岡場所図絵−藪下

麻布宮村町、同宗英屋敷、同貞喜屋敷を里俗藪下と呼びたり〜(略)。


このように藪下の地名は暗闇坂下周辺にも及んでいたと思われ、末広池のほとりに江戸末期存在した下級の岡場所について 「江戸 岡場所遊女百姿」(花咲一男著)には、
享保五(1720)年二月廿九日、一、藪下稲荷(※推定:末広稲荷)前。とあれば、当時既に繁盛せしを知るべく延享三(1746)年八月十一日、 御手入の節召捕られし売女ぎんといひし者、川中の数にも入らぬつとめにて、うきことのみにはづれざりけり。 とよみし由、見聞雑記に見えたり。当所安永度には四六の大見世五十文の切見世なりしが、後やや衰えて、文政度には 百文の切見世となりぬ。天保八(1837)年(花散る里には天保十年四月十五日。大郷信齋は文政七、八年という)久留米候の 中間と口論より事起り、終に断絶するに至りぬ
とあり、延享年間に行われた幕府の手入れで捕縛されたこの池の畔の岡場所の遊女「ぎん(別説では「けん」)」が、それまでの無数の商売により 「浮事の身」に落ちてしまっと記されている。

また天保年間におきた赤羽橋に藩邸がある久留米藩中間によるこの岡場所の「打ち壊し騒動」について麻布区史は「異本岡場所考」を引用して、
里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也、 局見世計りなれども古■(※推定:古来)はん昌の地にして至て女風俗よろしからずして、客を引き留むりと引上げ 、銭なんぼうでも遊ぶようふなる所なれども、此地は右触書之以前天保十年四月十五日、久留米家之者参り右場所にて 口論致候、ついに大喧嘩となる、同日書中に■■(※推定:有馬)屋敷■百人余同勢にて押来り、右場所をさんざん打ちこわし 同勢屋敷へ引取、其後御公儀之御沙汰に及び、追々商売不致候様に成其儘に家作地所共に召上られ今に野と成事目前なり。
と記して、打ち壊し後にこの池畔の岡場所は二度と再興せず、跡は野原に戻ってしまいそうな様子が記されている。
(※推定事項はすべてDEEP AZABUの解釈です。)



<当時の狂歌>
藪下へ 出る化け物は 切り禿かむろ

十番の わきに子捨てる やぶもあり




その他、この末広池以外にも江戸期の麻布およびその周辺には下記などの岡場所が存在したという。
○ 高稲荷(別名:三田稲荷・世継稲荷)

永坂の途中更科蕎麦・高稲荷辺にあった見世。妓級は四六見世・五十文の局見世。
天明の此局見せにて五十文より客呼と云、色里名鑑に云、高稲荷此處に住けり 、毛色四六して人をばかし斯あれば四六見世共有しと見えたり(異本岡場所考)

「眉の毛をしめせど場所が高稲荷」と詠まれた。

○ 森元町



○ 市兵衛町



○ 古川端



○ 芝明神



○ 三田三角



○ 赤坂氷川前



      
港区浸水ハザードマップ
港区浸水ハザードマップ
<大正期〜現在の池跡地>

大正期には末広稲荷前で池のあったあたりに「末広座」芝居劇場が出来、関東大震災直後の1924(大正13)年1月には震災により損害を受けた明治座が この末広座を借りて「明治座」公演を行った。そして戦後にはこの末広座は映画館として繁昌し、映画衰退後には麻布十番で初めてのスーパーマーケット「セイフーチェーン」 が開業、その後スーパーマーケットの経営はダイエー系の「グルメシティ麻布店」となり、現在も引き継がれている。

現在この末広池の痕跡を残すものは何もないが、港区が作成した「浸水ハザードマップ」には細流合流点・掘留跡と共に末広池周辺が、 集中豪雨などの大雨が降ると1〜2mの水深となってしまうことが掲載されており、あくまでも想像ではあるが、湧水地点は現在も生きており その湧水と雨水が下水道に流れ込むために水深が高くなってしまうとの推測も考えられるのかもしれない。

余談となるが「港区浸水ハザードマップ」では浸水地域としてマークされているこのあたりも、液状化マップ では「液状化がほとんど発生しない」地域となっており、安政大地震・関東大震災でも周囲に比べて被害が少なかった麻布中央部が、武蔵野台地の突端であることから来る地盤の強固さを 改めて思いだし、その自然の地形に感謝する必要があるのかもしれない。














<参考文献>
・江戸 岡場所遊女百姿
・文政町方書上
・麻布区史
・麻布鳥居坂警察署誌
・東京35区地名辞典
・角川 日本地名大辞典
・港区浸水ハザードマップ
・東京の液状化予想図
・参謀本部陸軍部測量局 五千分一東京図測量原図 復刻版−東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍







<関連項目>
原金の釣り堀
十番稲荷神社
十番稲荷神社(公式サイト)
がま池
ニッカ池
六本木ヒルズ
祥雲山竜沢寺
麻布な涌き水
宮村町の宗英屋敷
麻布の狂歌
麻布の歌舞伎公演−南座と明治座
Google Map「麻布の水系」
柳の井戸









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202.藪下の岡場所「鎌倉屋」

 
      
現在の岡場所周辺
現在の岡場所周辺
   
異本岡場所考
[早稲田大学図書館所有]
異本岡場所考に描かれた藪下の岡場所
      
暗闇坂から鎌倉屋
暗闇坂から鎌倉屋
前項でお伝えした末広池畔にあった岡場所の、より正確な位置がわかったのでご紹介。

麻布区史などで引用されていた「異本岡場所考」の原本が早稲田大学図書館のデータベースにあることがわかり 早速調べてみた。この資料には江戸市中の岡場所が図入りで詳細な解説がなされており、その中には「麻布市兵衛町」、「芝明神」、「三田三角」などと並んで この藪下の岡場所が掲載されている。

これによると岡場所は暗闇坂下西側にあり、屋号は「鎌倉屋」とある。また隣接した現在のゲーム店「Max」あたりには藪下稲荷とよばれる御稲荷さん があったと記されている。 鎌倉屋は局見世(切見世)とよばれる最下等の遊女屋でここの女郎は一切(一回の交渉・約十分)五十文・百文にて切り売りしたが、 大概は一切では済まず数倍の揚げ代を要求されたという。「異本岡場所考」はその様子を、
〜至って女風俗よろしからずして、客を引留むり引き上げ、銭なんぼうでも遊ぶようふなる所〜
と記している。
このような乱暴な客引きや強引な交渉と、実際のサービスが大きく違っていたことに憤慨した有馬藩の家士により鎌倉屋は徹底的に打ち壊されて、その後お上に 召し上げられた土地が原野に戻ってしまったことを前章でもお伝えしたが、後年同地は、幕府将棋所大橋宗英の拝領屋敷、 西の丸表坊主早野貞喜の拝領屋敷となって幕末まで続くこととなる。
里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也、 局見世計りなれども古■(※推定:古来)はん昌の地にして至て女風俗よろしからずして、客を引き留むりと引上げ 、銭なんぼうでも遊ぶようふなる所なれども、此地は右触書之以前天保十年四月十五日、久留米家之者参り右場所にて 口論致候、ついに大喧嘩となる、同日書中に■■(※推定:有馬)屋敷■百人余同勢にて押来り、右場所をさんざん打ちこわし 同勢屋敷へ引取、其後御公儀之御沙汰に及び、追々商売不致候様に成其儘に家作地所共に召上られ今に野と成事目前なり。


○「異本岡場所考」敷地図の間違い

・岡場所の南方に「武家ヤシキ」とあるのは「増上寺隠居所」
・西方に「大住山通り」とあるのは「大隅山」
・一本松通りとは?
・暗闇坂が明示されていない


○「異本岡場所考」による発見

・暗闇坂下に藪下稲荷があった


◎「異本岡場所考」の画像を使用するにあたって、快く許諾を頂いた早稲田大学図書館様に感謝させて頂きます。





○参考文献
・異本岡場所考
・川柳岡場所考
・岡場所遊女百姿
・雑俳川柳江戸岡場所図絵
・港区史(上)
・麻布区史

○関連項目
末広池
宮村町の宗英屋敷
原金の釣り堀
十番稲荷神社
十番稲荷神社(公式サイト)
がま池
ニッカ池
六本木ヒルズ
祥雲山竜沢寺
麻布な涌き水
麻布の狂歌
麻布の歌舞伎公演−南座と明治座
Google Map「麻布の水系」
柳の井戸











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203.高尾稲荷神社



 
   
麻布氷川神社末社の
高尾稲荷神社
麻布氷川神社末社の高尾稲荷神社
   
品川区が設置した仙台藩
大井屋敷解説板
品川区が設置した仙台藩大井屋敷解説板
      
日本橋箱崎町
高尾稲荷神社
日本橋箱崎町高尾稲荷神社<
   
日本橋箱崎町
高尾稲荷神社
日本橋箱崎町高尾稲荷神社
      
日本橋箱崎町
高尾稲荷神社の由緒書
日本橋箱崎町高尾稲荷神社の由緒書
      
文久二(1862)年御府内沿革図書の
仙台藩麻布屋敷
文久二(1862)年御府内沿革図書の仙台藩麻布屋敷
      
昭和8(1933)年東京市麻布区地積図の
高尾稲荷神社
昭和8(1933)年東京市麻布区地積図の高尾稲荷神社
麻布氷川神社の境内には、末社のひとつである高尾稲荷神社が鎮座しています。
この高尾稲荷神社は、戦後道路拡張のため南麻布一丁目(旧竹谷町)から遷座したといわれていますが、 江戸期からその元地にあったと仮定すると仙台藩の「
邸内社」 であった可能性が高いと思われます。
そして高尾とは、俗説とされながらも 第三代仙台藩主の伊達綱宗により惨殺されたと伝わる「高尾太夫(二代目高尾太夫・万治高尾)」 のことであると想像されます。
仙台藩はこの南麻布の屋敷のほかに品川区大井にも屋敷を拝領していました。品川区が設置したこの仙台藩大井邸の解説板によると、

屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、
その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。

と記されており、この「高尾」がやはり高尾太夫のことであるならば、 麻布氷川神社末社の高尾稲荷神社も元は仙台藩邸で高尾太夫を祀った稲荷と考えることもできます。
この高尾稲荷神社の本社は日本橋箱崎町そば(中央区日本橋箱崎町10-7) にある高尾稲荷神社であると思われます。 この箱崎町の高尾稲荷神社にほど近い湊橋の南東詰にある案内板には、
今より約三百二十一年の昔万治二年十二月皇紀
二阡三百十九年、千六百五十九年隅田川三又
現在の中洲あたりにおいて仙台候伊達綱宗により
遊舟中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の
遊女高尾太夫(二代目高尾野洲塩原の出)の遺体
がこの地に引上げられ此れより約八十米隅田川岸
旧東神倉庫今の三井倉庫敷地内に稲荷社として
祀られ古く江戸時代より広く庶民の信仰の対象と
なりかなり栄えておりましたが明治維新明治五年
当時此の通りを日本橋永代通りと謂われ最初
の日本銀行開拓庁永代税務署等が建設にあり
高尾稲荷社は只今の所に
移動しおとづれる人もおおかったが
昭和二十年三月二十日戦災
により社殿は焼失いたし
時代と共に一般よりわすれ
られ年々と御参詣人も 少なくなってしまいました。
時折り町名変更につき
当町会名保存と郷土を
見なをそうとの意志に
より高尾稲荷社を
昭和五十年三月再建工事
の折り旧社殿下より高尾太夫の実物の頭蓋
骨壺が発掘せられ江戸時代初期の重要な
史跡史料として見直され
ることになり数少ない 郷土史の史料を守るため 今後供皆様のご協力を
お願い申しあげます。

日本橋区北新堀町々会

また、豊海橋(北詰西側)の案内板には、
江戸時代この地は徳川家の船手組持ち場であったが、宝栄年間(1708年)の元旦に、 下役の神谷喜平次という人が見回り中、川岸に首級が漂着しているのを見つけて手厚く埋葬した。 当時万治(1659年)のころより吉原の遊女高尾太夫が、仙台侯伊達綱宗に太夫の目方だけの小判を積んで請出したのになびかぬとして、 隅田川三又の舟中で吊るし斬りされ、河水を紅で染めたと言い伝えられ、世人は自然、高尾の神霊として崇(あが)め唱えるようになった。 そのころ盛んだった稲荷信仰と結びつきいて高尾稲荷社の起縁となった。明治のころ、この地には稲荷社および北海道開拓使東京出張所 (のちに日本銀行開設時の建物)があった。その後、現三井倉庫の建設に伴い、社殿は御神体ともども現在地に移された。

(昭和57年11月、箱崎北新堀町会・高尾稲荷社管理委員会掲出)



とあり、そして高尾稲荷神社の由緒書には、

高尾稲荷社の由来

万治二年十二月(西暦一六五九年)江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門
抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて、
艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない
全盛をほこったといわれる。

生国は野州 塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九才であった。
その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され、大金をつんで身請けされたが、
彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りを
買って隅田川の三又(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に
捨てられた。

その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え
居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。

高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊
高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。
現在この社には、稲荷社としては全国でも非常にめずらしく、実体の神霊
(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。
江戸時代より引きつづき昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く、
縁日には露店なども出て栄えていた。

懸願と御神徳 頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁昌、縁結び、学業成就。
◎懸願にあたりこの社より櫛一枚を借り受け、朝夕高尾稲荷大明神と祈り、
懸願成就ののち他に櫛一枚をそえて奉納する習わしが昔から伝わっております。
高尾が仙台侯に贈ったといわれる句
「君は今 駒形あたり 時鳥」

辞世の句
「寒風よ もろくも朽つる 紅葉かな」

昭和五十一年三月

箱崎北新堀町々会

とあります。



「つるし斬り」と呼ばれるこの高尾太夫殺害事件は、一般的には俗説とされていますが、仙台藩においては、その霊魂を慰めようとしていたのは事実ではないかと思われます。 このような事例は水天宮や火の見櫓で有名な赤羽橋の有馬藩邸における化け猫騒動を鎮魂する「猫塚(大正期には「永井荷風がこの塚を探索する様を日和下駄に記しています。)」や、 目黒区祐天寺の「累塚」にもみられ、当時の人々の信仰心の強さを示すものと考えられます。

江戸末期の文久年間に描かれた地図には仙台藩邸の北西角に「稲荷」があり、また時代は下って昭和8年の地図にもやや場所は違いますが旧仙台藩邸南部と思われる場所に鳥居が描かれています。 昭和8年地図は私が地元古老からお聞きした戦前の高尾稲荷神社元地の位置と酷似していることから、ほぼ間違いないと思われますが、文久年間地図の方は、高尾稲荷神社を表すものであるという確証はありません。 またこの事件も、長くもめることとなる伊達騒動の一部としてとらえることもあり、 麻布仙台坂藩邸においては、この高尾稲荷神社とは無関係ではないかとは思われますが、霊夢による稲荷信仰促進事例として、

天保八年(1837)年の9月初め頃、麻布仙台坂にある伊達藩下屋敷の長屋に大蔵庄衛門という能役者が住んでいた。
ある晩、老翁が夢枕に立ち、

「私は稲荷の霊である。近年の出火にて祠が焼失し難儀している。そちの尽力で祠を寄進せよ!」

と言った。
庄衛門は夢ながらも、「自分も長屋住まいの身で祠の建立などとんでもありません。」と答えた。
すると老翁は、

「それはわかっておる!そちは力を貸せば良いのじゃ。寄進する気があれば出来るものじゃ!」

と言い、場所は汐見坂上原であると言い残し消えてしまった。

ここで夢から覚めた庄衛門は、不思議な事もあるものと翌日使用人を汐見坂に行かせると、坂上に俗称「焼け跡」と言われる場所があり確かに昔、「原」と呼ばれていたとの事だった。 早速庄衛門も自身で出かけ付近の者に話を聞くと、

「火事で焼け跡になる前に確かにここに稲荷があり、その後、焼け跡に小さな祠を建てて祭ったが、子供が遊んでいてひっくり返すなどするために、榎にくくり付けていた。 しかし、その祠も最近の大嵐で跡形も無く飛ばされてしまった。」

と言う。そしてここの地主は下町の大家であると聞き、早速その大家を訪ね、霊夢の事を話し土地を借用したいと切り出すと、何とその大家も老翁の霊夢で庄衛門の来訪を待ちわびていたと言う。そしてあの土地は少しの借金のかたに取った物であるから、未練も無く、空き地総てを寄進しようと言い出した。これには庄衛門も驚き、貸してくれるだけで良いと押し問答となったが、とうとう地主に根負けして沽券、証文残らず庄衛門の物となった。 この土地に庄衛門が普請し、めでたく稲荷は戻ったが、この稲荷が流行ったと言う話しは残されていない。全く不思議な話しである
と結んでいます。

汐見(潮見)坂は現六本木五丁目12番あたりで東洋英和女学院の裏手付近の坂ですが、「原」と言う里俗は確認できず、ここかどうかは判断できません。


最後に、この項を書くに当たっては、仙台藩は大藩であったため多くの屋敷を保有していましたが、時代により呼称が変わることもあり、不確実でしたのであえて中屋敷・下屋敷という呼称は使いませんでした。
また、麻布氷川神社末社の高尾稲荷と日本橋箱崎の高尾稲荷を結びつける由緒や言い伝えは麻布氷川神社にも、その他書籍等にも全く残されておらず、あくまでもDEEP AZABU筆者の私見であることをお断りしておきます。また、麻布氷川神社に遷座したおりには、すでに合祀されていたと伝わる「應恭稲荷神社」については、現在のところまったくその由緒が明らかにされていません。








☆関連項目        麻布氷川神社









より大きな地図で 高尾稲荷神社 を表示




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204.笑花園と仙華園



 
      
陸軍参謀本部作成明治16年地図
桑茶政策の名残り
松方正義邸・仙華園辺の茶畑
陸軍参謀本部作成明治16年地図
 桑茶政策の名残り
 松方正義邸・仙華園辺の茶畑






      
江戸末期の仙台伊達藩邸
江戸末期の仙台伊達藩邸






   
東京名所図会 仙華園
東京名所図会
 仙華園






      
大正2年東京史地図の 仙華園
大正2年東京史地図の
 仙華園






      
明治44年實地踏測東京市街全圖の
笑花園
明治44年實地踏測東京市街全圖の笑花園
以前お伝えした麻布の銘木・名花ですが、明治になるとそれらがあった土地である大名邸跡地、武家地などの大きな土地が空き地となり、1873(明治6)年には地租改正が行われて一般市民の土地取得も可能となったことや、政府主導の桑茶政策が行われたことから麻布は一気に緑地化します。

この桑茶政策とは、明治新政府の主導により空き地となった武家地や廃仏毀釈により無住となった寺地などを、外貨獲得のための生糸用の蚕のえさである桑の葉の生産と、お茶栽培の農地として、その土地を取得した元士族などの個人がこれらの畑をつくることを空き地の有効利用と外貨獲得の目的で政府が強く奨励した政策でした。

しかし、もともと農地ではないところで農民ではない町人や元士族などが養分もない宅地だった土地で即席で農業を行ったため 農地は荒れ果て、短期間のうちに桑茶政策は破綻してしまいます。そして政府はその奨励を失敗と認識して即座に撤回します。そのような時代にもまだ草深い場所であった麻布周辺はにまだまだ桑茶政策の名残が多く残り、やがてそのような土地の中で広尾に笑花園が、麻布竹谷町の仙台藩邸跡には仙華園という回遊式の植物園が開園することとなります。

その、笑花園の様子を麻布区史では、
笑花園は広尾町に在り、園内に古川の流を引入れ四時草花絶ゆることなく殊に菊花の頃は、遊客来集したものである。
としており、さらに広尾の近くに藩邸があった佐倉藩の江戸留守居役で、明治期には文人となった依田学海の日記『学海日録』には笑花園で仲のよい友人たちと花を愛でながら酒肴を楽しむ様子が綴られています。
また、仙華園について麻布区史は、
仙華園は竹谷町に在って盆栽花卉の栽培を主として、牡丹・梅・朝顔・菊・萩等百花の花壇があって四季夫々都人の杖を曳くものが多かった。上記二園は曾て芝公園の苔香園、向島の百花園、三河島の喜楽園或は目黒花壇等共に明治初年の都人の話題に上がった〜
と記しています。 そして、1890(明治23)年創刊の東京名所図会は仙華園をさらに詳しく、
仙華園は、麻布竹谷町六番地にある。門外左右に双幹の赤松各一株を植え、井桁石等を置き、門柱に園号を掲ぐ。主人は植木商にて、大塚安五郎いう。電話新橋二千四官二十九番を架す門内凡三十間。左右樹木の間に、石燈及び古代型形の塔三十台許と手水鉢石或は庭の點景となすべき岩石を諸所に配置したり。此所を過ぎ小高き地を歩して奥庭に入れば客室あり。庭園は楓多く陰をなし、東方に丘?起り、雑樹蔚蒼として紅塵を銷したる一の幽境なり。本園総坪三千程なるを、三分の二は盆栽を列ね、又は梅、牡丹、朝顔、菊、萩、等を培養するの地となしたり。又暖室の設けあり。客室及び居宅とも前庭には土花壇と唱ふるを設けたり。蓋し土花壇とよぶは、常の花壇より一層高く石にて築き、上に幅三尺余(曲直に併行すれば従て長さは一ならず)の水盤を、結成石にて塗出したるなり。其中に砂を敷き水を含めて、陶甃を置きたる上に盆栽を並列ねたり。乙は近頃大阪地方の創作にかかれる由なり。通常の木棚に比すれば体裁佳のみならで、蟻を防ぎ?の害を免るるの便ありといふ。盆栽は、多く長方形若しくは楕円形の盆にして大小あれど、辺縁の高さは底幅の四分の一程より深からず。之に栽植するは多くは竹木等にて、草にては石菖の類なり。其の奇観愛すべきは、孰れも数十年若しくは百年以上の星霜を経たる物のみにして、或は矗立亭々して林を成し、或は枝條の蟠錯たる。或は梢を盆外に拱埀たる。青苔朽節を封するあり。怪石根を壓して幹の斜に傾きたるあり。各峰巒雲霧の中に生立たる如き自然の形状なれば最幽邃なる景致を存し、山水書の中景にも充るに足るべく巧に培養を施せり。木は赤松、樅の属、落葉松、杜松、檜属の類多し。樹勢舒暢せず。梢枝密生し、鮮緑の針葉重畳たり。又濶葉樹にて庭木としては賞するに足らざる、そろ、楡、さはしば、欅、楢、くぬぎ、衛矛の類等も少なからず。樹十二尺に盈ざるも、老幹衰色なく、若葉露を吐き、穂を垂れず実を結びたる等野趣多く、皆卓上の珍玩なる物凡数百盆を陳列せり。丘上には亭あり休憩に供ふ。そが中に、槭樹を四隅に植えて柱とし、枝にて屋上を覆ふたるあり。又薔薇を左右に植え、枝を交差して作れる門あり。本園は近傍に同業者なく、春秋草花あり。歳寒の松柏あり。盆栽に庭樹に、飽きぬ眺めを鬼集めれば、四季の顧客絡入絶ゆる間なし。旧時は松平陸奥守の下屋敷なりし荒蕪の地を、今より十年前に、斯くは開拓したりといふ。
と、当時の繁盛の様子を記しています。
また黒田清輝の日記には、

1903年(明治36)年11月16日 月曜日 晴 媒取ニテ朝ヨリ騒動ナリ 午前十時頃合田來 約束ニ困リ堀江 合田ト一時ニ溜池生功〓ニ出遇ヒ三人ニテ志田町ニ山本翁ヲ訪ヒ盆栽談ヲ聽ク 後又三人ニテ仙臺坂仙華園ヲ覽ル 點燈頃堀江ニ別レ合田ト久米ヲ訪ヒ八時頃合 久ノ二氏ト麻布ノいろはニテ〓 十時少シ過久ニ別テレ合ト歸ル 今日久シ振ニテ 自轉車ヲ用ヒタリ


と友人と仙華園を訪れた様子が記されています。
その後、残念ながら笑花園・仙華園も明治後期から大正時代くらいにかけて衰退していったものと思われ、やがて姿を消しました。 この衰退の大きな要因は、宅地化や邸宅の建設など周辺の都市化が大きな原因となったのではないかと思われます。

しかし、東京でも名だたる名百草園が麻布にあったことは、現在も記憶にとどめておくべきであると私は考えています。





 追記

タイトルを笑花園と仙華園としましたが、その後の調べで笑花園のあった場所は下渋谷村現在の恵比寿橋あたりであったことが判明し、麻布域で唯一の百草園は仙華園のみであることがわかりました。













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205.麻布と保科家



   
松平(保科)肥後守三田下屋敷と飯野藩保科家麻布屋敷
松平(保科)肥後守三田下屋敷と飯野藩保科家 麻布屋敷
      
飯野藩保科家 広尾屋敷
飯野藩保科家 広尾屋敷








   
永坂更科の創業家である
更科堀井
永坂更科の創業家である更科堀井
   
永坂更科発祥之地碑
永坂更科発祥之地碑
























      
永坂上部の岡仁庵邸・森要蔵道場辺
永坂上部の岡仁庵邸・森要蔵道場辺
      
森要蔵道場・岡仁庵邸・おかめ団子
永坂更科・稲荷
森要蔵道場・岡仁庵邸・おかめ団子・永坂更科・稲荷
















      
おかめ団子のあった
永坂上の飯倉片町角
おかめ団子のあった<br>永坂上の飯倉片町角
今年から放送されているNHK大河ドラマ「八重の桜」にちなんで、麻布と保科家の関係をご紹介します。

本家である会津藩保科(松平)家は現在の網代町あたりと三の橋の三田側対岸に屋敷を持っていました。特に三の橋対岸の下屋敷は、藩主も頻繁に使用していたとされています。また、三の橋は「肥後殿橋」とも呼ばれており、この松平(保科)肥後守下屋敷脇であったことから付けられた橋名です。

そして網代町の屋敷はその後に、飯野藩保科家の屋敷となります。この飯野藩保科家は会津藩保科家と親戚です。

本来の信州の名族保科家の血統はこちらが本流で、 元和3(1617)年、信濃高遠藩主・保科正光は弟の正貞を養子としていましたが、不仲となり廃嫡し(一説には権力者の庶子を養子に迎えるため遠慮したともいわれる)ます。そして二代将軍徳川秀忠の落胤である幸松(のちの保科正之)を養子として迎え、高遠藩保科家の継嗣とします。 これは幸松の養育を任されていた見性院穴山信君(梅雪)正室)と、やはり武田家の遺臣であった保科家との縁で養子として育てられることになります。

やがて保科家を継いだ正之は、信濃高遠藩主・出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主となり徳川系保科(松平)家は幕末まで会津藩主として続くこととなります。そして、正之は異母兄である三代将軍家光に大変可愛がられ、晩年死期の迫った家光は枕頭に正之を呼び寄せて「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残したそうです。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めます。そしてこの遺勲を忠実に守ったのが幕末の会津藩主松平容保でした。
また保科正之は家光から早い時期に松平姓を許されていましたが、自分を扶養してくれた保科家への恩義を忘れなかったため、生前はずっと保科姓を名乗ります。そして保科正之は保科家重代の宝物などを飯野藩主の保科正貞に返還しています。この会津藩保科家が松平姓を名乗り、葵の御紋を使用する事になるのは三代藩主正容になってからで、これにより会津藩松平家(保科家)は御親藩となります。

会津藩開祖の保科正之は寛文9(1669)年に嫡男の正経に家督を譲って隠居し、寛文12(1672)年12月18日、三田の下屋敷で死去しました。享年63(満61歳没)。

一方廃嫡された保科正光の実弟であり、養子でもあった保科正貞は、保科家を出て諸国を放浪した後に三千石の幕臣となります。そしてその後も加増され、さらに大阪定番となったことから一万石を加増されて一万七千となり、上総飯野藩(現在の千葉県富津市下飯野)を立藩します。
そして幕末まで上総飯野藩保科家二万石は、代々大阪定番を勤める家柄となります。特に最後の藩主保科正益は大阪定番を勤めた後に若年寄にまで栄進し、第2次長州征伐では幕府軍の指揮を務めることとなります。

この飯野藩保科家の麻布屋敷に出入りしていた信州保科村の反物商清右衛門は蕎麦を打つのが上手いことから藩主保科兵部少輔の助言で蕎麦屋に転向し、名前も布屋太兵衛と改め、藩邸にも近い永坂で永坂更科を開店することとなります。

この「更科」とは信州の蕎麦の集積地である長野県千曲市旧戸倉町の千曲川西岸の地名といわれる「更級」と、信州の名族で元は保科村の領主であった保科家の「科」を掛け合わせた造語で、この店で出されるそば粉の大吟醸とも呼べる胚乳部分を粉にした白いそば粉を使う高級な「御膳蕎麦」が評判となり、増上寺の僧などにもよく食されました。また大田蜀山人(南畝)はこの店の蕎麦をその値段の高さから、

更科の蕎麦はよけれど高稲荷(高い也)

森(盛り)をながめて

二度とコンコン(来ん、来ん)

稲荷とは別名三田稲荷ともよばれるお稲荷さんで 、当時永坂更科の店の横の森にありました。現在も永坂の更科工場 屋上に鎮座しています。
 
◎永坂更科発祥之地碑
 
昭和54年11月吉日 永坂更科発祥之地 永坂更科布屋太兵衛建之 布屋太兵衛を商号とする祖先布商 清介は元禄年間江戸麻布に郷里保科 御大名の御好意で麻布十番近く■ 保科兵部少輔邸内の御長屋を借用 晒布を行商。寛政元年八代目清右 衛門は、主君の奨めで麺舗に転業。 代々布屋太兵衛と襲名す。郷里の 地名の「更」と、保科家の「科」 の一字を賜り「信州更科蕎麦處」 永坂更科布屋太兵衛と名付け大方 様の評判を頂く。 保科家、増上寺に報恩奉仕しその 推挙で将軍の御用を承る。増上寺 修行僧の諸国遍歴は江戸噺として 全国中に声価伝達。当地麻布永坂 の三田稲荷の御加護を頂きここを 根拠とし家歴百九十年を印す。 小林勇 記
また、この永坂更科の少し坂上には同じく飯野藩保科家にゆかりのある森要蔵の道場がありました。

森要蔵は飯野藩保科家の剣術指南役であり北辰一刀流千葉道場の達人で千葉道場の四天王と呼ばれていました。やがて、千葉道場から独立して永坂に構えたこの道場の門下生は数百人とも千人を超えていたともいわれています。そして、道場での森要蔵はは相当厳しかったようで、稽古をつける彼の姿は雷を纏った龍のようだと評されていました。 天保十二年、森要蔵は三十二歳の時に上総飯野藩二万石の御前試合で勝利し、七両二分四人扶持で召抱えられ、安政四年には七十石取りにまで出世します。そして、

    保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森の要蔵

と世間で謳われたといいます。

この森要蔵が59歳の時、戊辰戦争が勃発します。すると要蔵は家老の密命により三〇名あまりの藩士と共に飯野藩を脱藩し、主家の本家である会津藩に合流して、白河口の戦闘で息子の虎尾とともに奮戦の末に命を落とします。 その様子は、共に参戦した飯野藩士の勝俣音吉によると、

先生白河口に向かふや「どうせ死ぬなら土佐の間宮の隊へ斬り込んで死にたいものだ」といわれた。蓋し既に死期を察したる先生はその弟子であり甥であるところの土佐藩の間宮某に首を与へて功名させる意図であったのであろう。虎雄先づ弾丸にたほれた。弟子・大出小一郎も傷ついた。小一郎は親友であったので小一郎を背負ひて後退した。先生も亦一丸を蒙った。虎雄に先立たれ、傷を蒙った先生は落胆して堤に腰を下ろして休息していた。板垣配下の一隊が通りかかった。先生俄かに踊り出して「森要蔵之にあり」と切り込んだ。遙かに振りかへった時は蒙煙の中に先生の奮戦の様はかくされていた。先生は連日不眠不休と悪食のため、全身に水気来り、片足を痛めて大変弱っておられたいふ。数日の後此の所に四寸角ほどの卒塔婆に、「森要蔵の墓」と墨痕鮮やかに記されていた。あたりに先生の袴の端切れ等が散乱していた。之を持ちかへり、門弟等と共に浄信寺に葬った。件の卒塔婆は確かに先生の姪の夫に当たる間宮某の字であった所を見ると彼の建てたものであらうと。
と記しています。 また早乙女貢著「会津士魂H」ではその様子を、

〜此の老人は日の丸の軍扇を開きて兵を指揮し、隊兵十余人と山間に集合す。我が八番隊之と戦いしに、彼等衆募敵せず多く斃る。 中に一少年あり、老人に謂ひて曰く、阿爺突撃せんと、小刀を揮るって奮闘し、遂に我が八番隊に狙撃せられて地に倒る。老人も亦一壮士と共に勇戦して斃る。 余其の少年の勇壮を愛惜し、令して之を助けしめんとしたるも、傷重くして遂には死せり〜 〜思うに保科候と会津候とは同系の家なるを以って、要蔵は其の情誼を思い、同志を率いて亡命し、宗家の危急授けて此に至れるならん。武士の殉義誠に哀しむべきなり〜


と記して幕末という時代の最後に驚くべき武士道が存在していたことを伝えています。

しかし飯野藩主保科正益は会津保科家が朝敵となった事に連座して謹慎を申し渡され、その弁解のため幕府側となった家臣を処刑して罪を許されます。(また一説には脱藩者を出した事への責任から家老の樋口盛秀と野間銀治郎が自害したとも伝わります)このようなことは幕府側として戊辰戦争に参加した各藩でも起こっており、奥羽列藩同盟の盟主ともいえる仙台藩伊達家でも、この森要蔵とも白河口で共に戦い面識があったかも知れない但木土佐と坂英力を明治2(1869)年5/19に仙台藩麻布屋敷で叛逆首謀の罪で処刑しています。

まったくの想像ですが、この道場の門下生はおそらく道場で厳しい稽古を終えた後に更科蕎麦を食したのではないかと思います。また、やはり道場のすぐ近くにあった麻布名物の「おかめ団子」を食したのも間違いないと思われます。 そして、この道場の家主は将軍の御殿医の岡仁庵で、妹は大奥勤めをしていました。この岡仁庵の屋敷の敷地面積は3000坪もあったそうで、庭の見事な”しだれ桜”が麻布でも有名で、大田蜀山人に、

永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦


と詠まれました。また麻布区史ではこの桜を、

岡の桜、別名「朝日桜」。幹囲り2.7m 高さ7m 樹齢150年 十番通りからも見えたというが、昭和初期に岡邸が売却された折に伐採されたという。


と記しています。

そして岡仁庵の妹の「つち」は13代将軍「家定」付大奥女中で、 つち 御次(おつぐ) 相部屋:ちそ、もん 兄・岡仁庵(御番医師)後、家茂時代に実成院[じつじょういん](14代将軍徳川家茂生母)(フジテレビ「大奥」では野際陽子・NHK大河ドラマ「篤姫」では描かれていません。)に招かれ酒宴をした記録あります。 御台様(天璋院篤姫)のそばに詰め、茶道具、仏間、御膳などの世話を焼く係で、大奥で何か催し物があるときにはまっさきに芸をして盛り上げる係でもあり、三味線・琴などの楽器、舞いなど 一通りの遊芸はマスターしているそうで、大奥の「芸の達人」ともいえる役職だそうです。 何かの催しで当の御次女中の遊芸を観覧して、目を付けたものと思われる。御次は目を付けられる機会が多い役なので、これぞと思う娘を御次に付ければ、将軍の子女を産むという確率が高まることになるそうです。表御殿の役人で野心のある者は、大奥の幹部クラスと組んで、これぞと思う娘を探し出し大奥へ送り込み、その娘を懇ろとなった大奥幹部が御次に就ければ、翌年には将軍の男子を産んで、自分は一躍権勢家などという夢想をしたかもしれません。このことからすると、「つち」の大奥入りは、兄である岡仁庵の計略であったのかもしれません。 お伝えした保科家と更科蕎麦の関係で、布屋太兵衛が出入りしていたのが保科家の正規の血統ともいえる上総飯野藩保科家ではなく、保科家の血筋を持たない会津保科(松平)家であったならば、権力におもねた商魂と疑われ、その印象は大きく違ったものになっていたと思われます。



★蛇足

   
清河八郎暗殺現場付近
清河八郎暗殺現場付近
幕末に新撰組の元となる浪士隊を結成し、京都で幕府を裏切り朝廷に恭順した清河八郎が、江戸に呼び戻されたのち一の橋で暗殺される話を以前お伝えしましたが、その暗殺実行者の一人は佐々木只三郎という名の旗本でした。
佐々木の父は会津藩士であり、親戚の旗本佐々木家に養子となった以降も会津藩とつながりを持ち、清川と別れ京都に残留した浪士(後に新撰組となる)を会津藩預かりとすることを会津藩に提言しました。そして、自身も強力な佐幕派であり、幕府講武所の剣術師範で京都見廻組隊士でもありました。また坂本竜馬暗殺の実行者ともみられているそうです。

ここからは私の勝手な想像ですが、清河八郎暗殺の時にもしかしたら、八郎が出羽上山藩邸で友人と酒を酌み交わしている間、暗殺実行者たちが八郎が出てくるのを待っていたのが佐々木と縁がある会津藩三田下屋敷でもおかしくないと思われます。

また前出の森要蔵の息子はご紹介したように「虎尾」と名付けられていましたが、清河八郎が倒幕・尊王攘夷の思想を持った清河塾の塾生を中心に結成した会も「虎尾の会」と呼ばれていました。 思想的には佐幕で保科家を主君とする森要蔵と、正反対の勤王攘夷を唱えた清河八郎に思想的な共通点は無いと思われますので、ただの偶然だと思われます。



★追記の追記
      
飯野藩麻布邸と森要蔵道場の標高
飯野藩麻布邸と森要蔵道場の標高
飯野藩麻布邸と森要蔵道場の関係を当時の庶民は、
麻布永坂目の下なるに何故か保科さん森のかげ
と謳っています。これを、
  • 森道場が飯野藩邸から坂を下った場所にあったことになぞらえて森 道場の隆盛を顕わしたもの

  • 保科邸は高台にあるのに(藩邸よりも下に建つ森要蔵道場が目立って) 森のお“かげ”で保科の名も上がった
などと解釈していますが、地理的な条件を無視した解釈といえます。
森要蔵の道場はほぼ永坂の坂上にあり、飯野藩麻布邸は古川沿いの二の橋脇から 網代町にあったことから、地理的には森要蔵の道場の方がはるかに標高が高いと思われます。 しかも飯野藩麻布邸は当時すでに商家が多くあった麻布十番の脇です。これに比べて 上杉家の屋敷が通りの片側をしめて、反対側にしか町屋がなかったといわれる飯倉片町辺にあった 森要蔵道場辺は永坂上方にあり、わりと寂しい場所にあったと思われます。

しかし、門弟千人ともいわれる森要蔵道場にはいつも人が集まり、本来は周辺で最も商家が集まる 坂下の飯野藩麻布邸辺よりも坂上で武家地の多い寂しい場所にあった森要蔵の道場の方が目立っていた ことを揶揄したものであると私は思います。
















★画像スライドショー

















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206.寛永江戸全図の麻布





 
      
寛永江戸全図麻布南部
寛永江戸全図麻布南部
      
寛永江戸全図麻布南部
(指標・名称入り)
寛永江戸全図麻布南部(指標・名称入り)
      
現在の同地域
現在の同地域
今世紀に入った平成18(2006)年、九州で発見された地図は江戸市中を網羅した精密地図で「寛永江戸全図」と呼ばれている。 この「寛永江戸全図」が描かれたのは寛永十九(1642)年十一月から寛永二十年九月頃で、江戸を網羅した全図としては最古といわれている。江戸全図に関しては太田道灌が江戸城を築城した長禄年間(1457-1460)に描かれたという長禄年間江戸図があるが、こちらの地図は江戸時代に入ってから当時を想像して書かれた地図だという説が主流とのこと。 また地図自体も非常に大雑把なもので、地名が大まかに解る程度のものであった。しかしこの寛永江戸全図は北は浅草寺辺から南は品川までのほぼ江戸全体を精密に描いており、その内容には河川流路や武家屋敷までも描き込まれている。

この地図に描き込まれた麻布の風景はこの地図でしか確認できないものも多数あり、大変貴重なものとなっている。麻布におけるこの地図を詳細に確認すると、


@柳生但馬守下屋敷

A麻布一本松

B銭架けの松

C浅野内匠頭下屋敷

D古川分岐点

E麻布氷川神社(推定)

F麻布山善福寺・興国山賢崇寺

G櫻田神社(推定)

H竹長稲荷(推定)

I御田八幡(推定)

J飯倉熊野(推定)

K毛利甲斐守下屋敷

L御薬種畑

M久留米藩有馬家上屋敷





などが描かれているのが確認できる。それぞれの項目については下記。







@柳生但馬守下屋敷

      
柳生但馬守下屋敷
柳生但馬守下屋敷
地図中央やや西側に「柳生但馬守下屋敷」とあり、幕府初代総目付であり将軍家兵法指南役でもあった柳生但馬守宗矩(大和柳生藩初代藩主)の下屋敷であることがわかる。 この屋敷は「日ヶ窪屋敷」と呼ばれ、吉川英治の小説「宮本武蔵」には暗闇坂を通ってこの屋敷をお通が尋ねるシーンがあるが、作者吉川英治はどのようにしてこの屋敷の位置を特定したのか非常に興味深い。 また友人であった沢庵和尚も東海寺が出来るまでこの地に滞在していたことがあるといわれている。但馬守宗矩はこの日ヶ窪屋敷で正保三(1646)年3月26日逝去する。
その後、万治元(1658)年2月11日、小見川(千葉県香取郡小見川町)藩主内田氏の上屋敷が設けられ、幕末まで続いたのでこの場所は現在も内田山と称されている。また明治になると元勲の住まいが設けられ、井上馨、芳川顕正などがこの内田山に住んだ。 現在この内田山には南山小学校、六本木高校などが存在する。

◎関連項目
内田山由来
内田山の井上馨邸




A麻布一本松

      
麻布一本松
麻布一本松
「柳生但馬守下屋敷」の右下に松樹が描かれており「麻布一本松」だと思われる。この描かれた場所はは現在の位置よりもやや坂上であると想像され、明暦の大火(振袖火事)で焼失する前の初代?の松なのかもしれない。

◎関連項目
一本松




B銭架けの松

      
銭架けの松
銭架けの松
本村町天真寺(南麻布3−1)境内にあった銘木。「続江戸砂子」によると、
麻布にありと古書に見えたり。尋ぬるにしれす。所の人の云、天真寺に古木あり。それなるへしといふにより、寺に入て尋ぬるにしらすと云。当寺本堂の前に控なる大松の朽木の三抱もあらん、根より一丈はかりありて梢はなし。疑らしくは是ならんか。
とあり、続江戸砂子が書かれた享保二十(1735)年当時には、それとおぼしき松樹が境内にあったことがわかる。



◎関連項目
麻布名所花暦




C浅野内匠頭下屋敷

      
浅野内匠頭下屋敷
浅野内匠頭下屋敷
元和八(1622)年、常陸国真壁藩から転封となった常陸笠間藩浅野内匠頭(長重)下屋敷が寛永期頃からあった。 正保二(1645)年浅野家は長重の長男「永直」の代に常陸笠間藩から 播州赤穂藩に転封となり播州赤穂藩浅野内匠頭が誕生することになる。
そして明暦二(1656)年、陸奥盛岡藩南部家の赤坂屋敷とこの浅野家下屋敷を相対替(等価交換)することになり、浅野は赤坂へ、南部は麻布へと。 約50年後の元禄十五(1702)年大石内蔵助は幕府に接収されて再び三好浅野家(瑤泉院実家)に下げ渡された赤坂の南部坂で「南部坂雪の別れ(フィクション)」 をするが、相対替がなければ麻布が舞台となっていたかもしれない。この時南部家は麻布に移っているが、坂名だけは残っていたので麻布・赤坂双方に「南部坂」が存在する。

◎関連項目
・ニッカ池 (赤穂浪士その一)
・ニッカ池 (赤穂浪士その二)
・水野十郎左衛門
・麻布の吉良上野介
・乃木希典(その1)
・土佐藩麻布支藩の幕末
・ 麻布っ子、上杉鷹山
・上杉家あき長屋怪異の事
・増上寺刃傷事件
・増上寺刃傷事件
・我善坊の猫又
乃木希典




D古川分岐点

      
古川分岐点
古川分岐点
三の橋付近で不思議な分岐をする古川。最初にこれを見た時、折り目がずれているのかと思ったがどうやらそうではないらしい。 三の橋付近の分岐というと「入間川」を想像するが、この分岐はそうではないようだ。細い流路が現在の古川に近く、 太い方の流路は金地院手前(現在の東京タワー下あたり)で止まっており、細流が二本弁天池方面を経て細い方の流路に落ち込んでいる。 またこの太い流路は古川の流路とは逆行する金地院脇から流れ出て三の橋で細い方の古川本流?に流れ込んでいるようにも見える。 また別の推測では、この地図が描かれた当時、古川は改修工事中で仮の流路が設置されていたとも考えられる。

◎関連項目
延宝年間図の古川
古川唯一の分流「入間川【いりあいがわ】」




E麻布氷川神社(推定)

      
麻布氷川神社(推定)
麻布氷川神社(推定)
私が知る限り麻布氷川神社がこの位置に描かれている地図を見るのは初めてである。
麻布の総鎮守として、また明治期には行政権も有するといわれる社格「郷社」として人々の信仰を集めた麻布氷川神社は、天慶五年(942)年創建源経基とも、文明年間(1469-1485)太田道灌創建とも伝わる古いお社である。 江戸初期までは、暗闇坂と狸坂をはさんだ2,000坪以上の広大な社域を持ち、社の二の鳥居が鳥居坂上に(このため鳥居坂となったと言う説もある)、三の鳥居が永坂にあったとも言われ江戸氷川七社の一つとしての面目を保っていた。そしてこの場所に現在も残されている一本松は麻布氷川神社のご神木であったといわれる。しかし、それまでの社地が萬治二(1659)年に増上寺隠居所がとなることが幕命により申し渡され、これをもって現在の地に遷座した。この時に付近にあった民家も広尾の祥雲寺門前に移されたため、のちに祥雲寺門前は宮村町代地と呼ばれ、その住民は現在も麻布氷川神社の氏子であるという。 増上寺隠居所は将軍家の来訪もあり、特に桂昌院(綱吉生母)と将軍綱吉は隠居していた祐天上人を度々訪問している。また、この隠居所周辺の景観は、三緑山志の著者・竹尾善筑は文政二(1819)年四月一四日この場所を訪れた際に辺りの景色を「八境十景」として、 閑扉朦月・窓前虫声・斜径散歩・垂絲綻花・山井清澄・氷川鎮祠 秋園芳草・祖塔蒼苔・長伝幽鐘・麻廛炊煙・總山晩雲・赤橋行客 杜間流蛍・芝峰層塔・海路遠帆・孤松膏雨・枯林宿鴉・春天紅霞    と詠んでいる。この中で「氷川鎮祠」と書かれた麻布氷川神社については、本誉上人により開基したときからの隠居所の鎮祠とされ、桂昌院と綱吉の隠居所訪問時には供物を供えて麻布氷川神社を参拝したとある。  この麻布氷川神社の元地を基準として膝元の村を「宮村町」と呼び、他にも「宮下町」も神社との相対的な位置から町(村)名が名付けられた。そしてこれと二分するように麻布山善福寺を基準とした町(村)名、西町、東町、山元町などが善福寺の門前町として名付けられた(江戸期の正式な町名は「善福寺門前東町」などとされていた)。



◎関連項目
氷川神社(麻布氷川神社)
麻布氷川神社祭礼の謎
本村町の山車人形と獅子頭
本村町獅子頭の彫工後藤三四郎橘恒俊
一本松
黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)
麻布と源氏(笄橋伝説 その 2)
麻布近辺の源氏伝説(総集編)
竹芝伝説
・釜なし横町
麻布七不思議
麻布七不思議の定説探し
高尾稲荷




F麻布山善福寺・興国山賢崇寺

      
麻布山善福寺・興国山賢崇寺
麻布山善福寺
地図中央下部に「全福寺」、「見生寺」と描かれているのは位置的に「麻布山善福寺」と「興国山賢崇寺」であると思われる。

★麻布山 善福寺
麻布山善福寺の起源はひじょうに古く、東京では浅草寺(628年)に次ぐ842年とされている。 弘法大師により開かれ、鎌倉時代、了海上人の親鸞上人との出会いにより、真言宗から浄土真宗に改宗されている。その経緯は、5年間常陸に師(法然上人)と共に流され、放免で京に戻る途中の親鸞上人は、おなじ藤原一門(紀氏ともいわれる)の出身である青年僧で後に関東六老僧の一人となり麻布山善福寺中興の祖と呼ばれることとなる、了海上人のいる善福寺に立ち寄った。この時了海上人は、親鸞を試そうと煮え湯の中に自分の手を入れて、「師もこのような事ができますか」と言い熱湯の入った手桶を、親鸞の前に差し出した。すると親鸞は静かに立って庭の水瓶から水を汲み手桶にさしぬるま湯とした。そして「宗教とは、修行した者のみが、独占するべきではない。だれもが、親しみやすいものであるべきだ。」と言い諭した。この言葉に悟りを開いた了海上人は、ただちに浄土真宗へと改宗した。 そして親鸞が善福寺を去る時、持っていたイチョウの杖を地に突き立てたのが大きく育ち、麻布七不思議 の一つとして数えられ、現存する「逆さいちょう」の起源となった言われる。


◎関連項目
・ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の一)
・ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐)
・逆さいちょう
・柳の井戸
・ヒュ−スケン事件
・続・ヒュースケン事件
・ハリスと唐人お吉
・ヒュ−スケンとお鶴、お里
・徳川将軍家の麻布
・善福寺池
・シーボルトの見た麻布
・シュリーマンの善福寺滞在
・続、防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )




★興国山 賢崇寺
鍋島藩主鍋島勝茂が逝去した子息「忠直」を弔うために建立した寺。当時は幕府により新寺の建立が禁じられていたため寛永十二(1635)年高輪の正重寺を買い取り、 現在の地に移転し寺名を「興国山賢崇寺」と改めた。寺名の賢崇寺は忠直の戒名「興国院殿敬英賢崇大居士」に起因する。歴代佐賀藩主鍋島家の菩提寺であり戦前までは佐賀県人のみが 葬られていたが、住職の藤田師が周辺住民も檀家となることが出来るように改革を行った。二二六事件首謀者が眠ることから毎年2/26(事件当日)と7/12(刑執行日)には慰霊祭が行われている。


◎関連項目
二.二六事件




G櫻田神社(推定)

      
櫻田神社
桜田町、霞町の町名の由来であり、東京(江戸)最古の地名でもあるこの神社は、元々霞ヶ関近辺にあり霞ヶ関、桜田門の名の由来とは同根である。治承4年(1180年)渋谷重国が狩りをした時、霞ヶ関の霞山を焼き狩しようとすると、白い狐が現われ天に向かって気を吐くと、十一面観音が現れた。重国は驚き頼朝に乞うて創建した。その後、源頼朝が奥州征伐の際神領を寄進し、 田に印の桜を植えたので「桜田」と呼ばれ太田道灌にも崇敬されたが、後北条の攻撃で炎上、その後家康入府の後に溜池に移り、寛永元(1624)年ころ現地に移った。この際、元地の百姓も共に移ったので、桜田町を別名百姓町とも言った。 ★JRAビル展示神輿に添えられた由緒書
桜田神社 縁起より 古えは、この付近一帯を桜田郷と呼ばれ、桜木八千余本を数えたという。治承五年「一,一八一年」渋谷庄司重国が、霞山「現在の霞ヶ関」に霞山稲荷「桜田神社」を建立、後に太田道灌が、文明年間「一,四七〇年頃」これを新しく造営した。 江戸時代にい至り、幕府は霞山稲荷を慶長七年「一,六〇二年」赤坂溜池に移し、更に寛永元年「一,六二四年」麻布桜田町「現在の西麻布」に移された。このような歴史背景から、江戸時代には、桜田八ヶ町としてこの一帯の町名に、芝桜田備前町、芝桜田太左エ門町、芝桜田久保町などと桜田を冠せられた。当町会の前身であった芝新桜田町の昭和三二年まで残った。 日本中央競馬会本部の前の通りは、江戸城の濠端で、柳の並木を配し、河岸通りと呼ばれ、当時日本橋にあった魚河岸への道として往還の賑わいをみせたという。明治になり文明開化が進むにつれ、お濠が埋められ河岸通りの面影も消えて、次第に芝桜田の界隈は、東京の中心地と変化していった。 戦前の新桜田町は、三二〇世帯、人口約二,〇〇〇人であった。 町名が、昭和三二年に田村町一丁目、昭和四〇年に西新橋一丁目と改められても、桜田郷の鎮守である桜田神社を氏神様として、崇めている所以である。 競馬会玄関前の広場は、戦前戦後とも町の中心で、色々と町会行事が行われたものである。 秋祭りには御神酒所を設け、麻布のお宮からの神輿巡行は、千貫を超す大神輿を牛車によって行う一大イベントであったという。今日では当時の面影はないが、芝桜田の地に往年の想いをはせ、史実としてこれを後世に伝えることは意義深いものであり、戦後再建された神輿や太鼓を飾ることができたことは、日本中央競馬会のご尽力によるものと深く謝意を表す次第である。 平成六年九月吉日 西新橋一丁目第一町会 町会長 森野平太郎 氏子総代 本田健次


◎関連項目
櫻田神社
櫻田神社宮司のブログ(外部リンク)
桜田町に過ぎたるもの(その−1)
桜田町に過ぎたるもの(その−2)
麻布の句・川柳・地口・言回し・唄
港七福神
乃木希典(その1)
乃木希典(その2)美人コンテスト
沖田総司(その1)
鈴ヶ森の殺人
・振り袖火事(明暦の大火)
麻布の几号水準点
篤姫行列の麻布通過
麻布近辺の源氏伝説(総集編)




H竹長稲荷(推定)

      
竹長稲荷
永坂町四十三 祭神宇迦之魂命、大祭九月十四日・十五日。社伝に依ると弘仁十三年慈覚大師の八咫の神鏡を以て豊島郡竹千代ヶ丘に稲荷社を勧請する処と云ふ。元地は今の鳥居坂上で其の後弘安二年鳥虫≠ェ社殿を再建した。 寛永元年三月現在の処に移り、跡地は戸田氏の拝領地となったが、延宝六年四月十九日境内除地として神社で再び拝領した。
和銅五年の創建に係り往古は大社であったと云ふ説もある。曾て稗田神社と云ひ、又別に竹千代稲荷と呼んだこともある。現稱の竹長は、三代将軍の幼名竹千代を避けて改めたものであると云ふ。「江戸砂子」は竹町稲荷と書かれている。旧幕時代は龍王院(今廃寺となる)が別当であった。宝物中、翁面と陰陽の鍵壹對は古くより神宝として珍重されてゐる。殊に鍵は正安三年正月より神霊と共に奉斎してゐると伝へる。 明治四十年九月三十日現社号を許可された。社殿は入母屋造、氏子は永坂町と新網町に二百八十四戸ある。無格社(麻布区史)

◎関連項目
十番稲荷神社




I御田八幡(推定)

      
御田八幡
和銅2年(709)、牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)というところに、 東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。 その後、寛弘8年(1011)武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。(御田八幡神社由緒書)

和銅2年(709)牟佐志国牧岡(または枚岡)で創建され寛弘8(1011)年〜武蔵野国御田郷久保三田(現・東京讃岐倶楽部あたり)に寛文2(1662)年まで鎮座。その後荏原郡高輪村(現在の地)に遷座。 さらに寛文8(1668)年には大火で焼失し、付近の薬師寺に仮遷座するも、寛文12(1672)年再び現在の地に再建。

◎関連項目
三田小山町




J飯倉熊野(推定)

      
飯倉熊野
飯倉熊野
心光院である可能性も棄てがたく位置的にはやや疑問が残るが、赤い四角形のプロットが他はすべて神社であることを勘案するとやはり飯倉熊野神社であると思われる。

古来、祝融の災に遭うことたびたびに及び、古記録・宝物が失われているため、由緒沿革等詳細は不明であるが、社伝によれば養老年間(717〜724)芝の海岸に勧請され、その後、現社地に遷座したという。文明年間(1469〜87)太田道灌により再興され、宝物が寄進されたと伝わる。 江戸時代は武家から篤い崇敬を受け、仕官の際には当社に参拝し、牛王神符を拝受したという。 明治5年(1872)村社に列格。昭和20年(1945)米軍の爆撃により社殿等灰燼に帰した。同27年再建。(由緒書)



◎関連項目
港七福神




K毛利甲斐守下屋敷

      
毛利甲斐守下屋敷
毛利甲斐守下屋敷
柳生但馬守下屋敷の北西側に「毛利甲斐守下屋敷」と書かれている場所がある。これは長州藩毛利家の支藩である長府藩毛利家の屋敷があったことによる。 地図には下屋敷と記されているが、上屋敷の間違いであると思われる。元禄期には吉良邸襲撃後の赤穂浪士十人がこの屋敷に預けられ、池の畔で切腹した。幕末にはこの屋敷内で乃木希典が生まれる。昭和27年にはニッカウイスキー六本木工場が建設され、その後テレビ朝日敷地を経て現在は六本木ヒルズとなっている。



◎関連項目
麻布七不思議−六本木
ニッカ池(赤穂浪士その一)
ニッカ池(赤穂浪士その二)
乃木希典(その1)
乃木希典(その2)美人コンテスト




L御薬種畑

      
御薬種畑
御薬種畑
「御薬種畑」とかかれている。この場所は幕府直轄の「御花畑」があった場所で、後に将軍の休息所である「麻布(白金)御殿」が造営されることとなる。 御花畑は江戸城二ノ丸、北ノ丸を経てこの地に移転したが、その後寛永年間ころに麻布薬園となり幕府が薬草の栽培に乗り出した。 当時ウコン、マニ、ダイオウなど73種類の薬草が栽培されていたが麻布御殿建設と共に小石川に移転した。 しかし、御殿は将軍の保養施設として広大な土地を有し、御殿の前には「御鷹狩り場」もあった。御殿に将軍綱吉が訪れたのは元禄11年3月、 元禄14年3月30日だが、この2度目の訪問の半月前の3月14日に浅野、吉良による殿中刃傷事件が起きており、事件で疲労困ぱいした綱吉が保養のため訪れたと考えられる。 しかし、その綱吉訪問の翌年元禄十五年2月11日、四谷より発した火災によりこの大工事により造営された御殿もあっけなく焼失してしまった。 火事の後一部燃え残ったものは、芝増上寺御霊屋別当真乗院の伽藍となり現在も保存されている。 この土地の東側を通る坂は現在も薬園坂とよばれ、幕府直轄の薬草園であった由緒を残している。



◎関連項目
麻布御殿




M久留米藩有馬家上屋敷

      
久留米藩有馬家上屋敷
久留米藩有馬家上屋敷
久留米藩有馬家21万石の上屋敷。江戸中期頃からこの屋敷内の西北角に邸内社である「水天宮」が安置され、庶民の信仰を集めた。 また、屋敷内南東丘陵には江戸で一番高い火の見櫓が設置され、江戸のランドマーク・タワーとなっていた。明治期有馬家は青山を経て日本橋蛎殻町に移転し、水天宮も現在の位置に遷座する。跡地には軍関係の施設が設置されるがやがれこれも築地に移転する。その跡地は「有馬っ原」とよばれ大きな池の畔には「猫塚」が設置された。大正期にはこの塚を探して当時慶応大学の教授であった永井荷風が散策しており、その様子は「日和下駄」に記されている。



◎関連項目
有馬家化け猫騒動
続・猫塚−荷風の見た猫塚










これら以外、この時代すでにあったはずなのに描かれていないものとして、



・元神明宮(三田小山町天祖神社)

寛弘二年(西暦一〇〇五年)一條天皇の勅命により創建されました。 渡辺綱(註)の産土神でもあり、多くの武人に崇敬を受けました。 江戸に入府した徳川家の命により神宝・御神体が飯倉神明(現在の芝大神宮)に移される際、氏子・崇敬者の熱意により境内に御神体だけは渡せないと隠し留め、昼夜警護して守ったと伝えられております。 以来、元神明宮と称され有馬侯を始め広く一般より今日まで多くの崇敬を受けてきました。 (由緒書)

◎関連項目
三田小山町
元神明宮
元神明宮公式サイト


・鳥居坂

古来からの往還で古奥州道ともいわれる。また麻布氷川神社の二の鳥居が鳥居坂上にあった事から「鳥居坂」となったともされる。

・暗闇坂

古来からの往還で古奥州道ともいわれる。この坂と狸坂を挟んだ地域は麻布氷川神社の社地であり、坂上の一本松は麻布氷川神社のご神木と伝わる。


などが考えられます。

また、この時代には存在せず、描かれていないのが当然なものとして、


・仙台藩邸

仙台坂の仙台藩邸(現在の竹谷町域)が設置されるのは江戸期最大の大火「振袖火事」直後の明暦三(1657)年5/14のことなので、寛永期に仙台藩邸は存在せず「仙台坂」も別の名称で呼ばれていたのかもしれない。

◎関連項目
大蔵庄衛門の稲荷再建
高尾稲荷
笑花園と仙華園


・増上寺隠居所

暗闇坂と狸坂を挟む元・麻布氷川神社の社地が幕命により増上寺隠居所となるのは萬治二(1659)年のことなので、この地図にはまだ麻布氷川神社と思われるものが記されている。 またこの地図中央部に描かれている「増上寺下屋敷」はこの「増上寺隠居所」とは別のもので、後に「甲府宰相屋敷」が狸穴に設置される際に品川(現在の上大崎)に移転する。

◎関連項目
氷川神社(麻布氷川神社)
麻布氷川神社祭礼の謎
本村町の山車人形と獅子頭
本村町獅子頭の彫工後藤三四郎橘恒俊
一本松
黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)
麻布と源氏(笄橋伝説 その 2)
麻布近辺の源氏伝説(総集編)
竹芝伝説
・釜なし横町
麻布七不思議
麻布七不思議の定説探し
高尾稲荷
麻布の祐天上人






・宮村町寺院群

宮村町に現在もある寺院群(安全寺・広称寺・光骼宦E本光寺・千蔵寺[千蔵寺のみ川崎に移転])などは延宝六(1678)年、甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)邸地が狸穴に設置される際、幕命により狸穴、飯倉、今井町周辺の寺院が集団移転により宮村町に移転するので、この時代はまだそれぞれの元地にあった。。

◎関連項目
宮村町の千蔵寺


・高稲荷

永坂にある高稲荷(三田稲荷)が描かれていない。先に竹長稲荷としてプロットされたものが高稲荷の可能性もあるが、竹長稲荷である可能性が高い。

◎関連項目
麻布と保科家
麻布の狂歌


・渡辺大隅守居宅

宮村町大隅山の由来ともなる町奉行の渡辺大隅守屋敷(狐坂辺)が描かれていない。 渡辺大隅守綱貞は近江の国に1,000石を知行する旗本で、寛文元年(1661年)より寛文13年(1673年)まで第五代の南町奉行を勤めた。よってこの時代にはまだ町奉行ではなく、屋敷も存在しない。

◎関連項目
大隅山由来






地図スライドショー






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