むかし、むかし12
190.二つの東福寺の謎
むかし、むかし188.麻布近辺の源氏伝説(総集編) でもお伝えしたが、麻布と源氏伝説には深い謎がある。
昨年来麻布氷川神社創建説の一つでもある源経基を調べているが、一般的な資料の少なさから遅々として
進んでいない。しかし、不思議な偶然から同じ名前の寺がどちらも経基に関わりを持っていることが判明したのでお知らせ。
麻布氷川神社のご神木ともされる「一本松」だが、この松について江戸時代の享保十七(1732)年に創刊された江戸の地誌や社寺・
名所の来歴を記した「続江戸砂子」では、
○一本松
一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、
帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、
装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、
親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。〜略〜
金王八幡神社別当渋谷山東福寺
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と、松の付近にあった民家に宿泊し、後日その民家は精舎となり渋谷・金王八幡神社の別当寺で社と同じ敷地にある渋谷山東福寺となった事が
記されている。(便宜上、渋谷東福寺と呼ぶ)
◎渋谷東福寺(渋谷山東福寺)−渋谷区渋谷3-5-8
渋谷山東福寺は金王八幡宮の敷地に宮と共に創建された(住職の話では80年ほどの差があるようだが)渋谷区最古の寺院といわれ、
創健者の河崎基家居城渋谷城址の一部と伝わる(別説には源義家創建説もある)。金王八幡社の社伝によると、渋谷氏の祖となる河崎基家は
桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族であり、前九年の役での武功により源義家により与えられた武蔵国豊島郡谷盛庄(やもりのしょう)を有し源頼朝の家臣、渋谷重国の祖父でもある。
この基家の息子「重家」が渋谷氏を名乗ったとされ、さらに重家の息子「渋谷重国」は別名土佐坊昌俊、金王丸とも呼ばれ金王八幡神社の縁起となっている。この渋谷重国は
頼朝の父である源義朝の忠臣であり。
これは渋谷重家の嫡男がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことによるとされる。
笄橋伝説に登場する白金長者の息子「銀王丸」と恋に落ちた渋谷(金王)長者の姫の伝説も残されているが、金王八幡神社には源経基が笄橋に
設けられた関所を通過する際に敵を信用させるために使用したとされる「笄」が社宝として残されている。
この笄について江戸砂子には、
渋谷金王八幡神社に社宝
として伝わる源経基の「笄」
|
○鉤匙橋−大むかしは経基橋といひしと也
此川、大むかしは龍川と云大河なり。天慶二(939)年平将門将軍良望を殺し、下総相馬郡石井の郷に内裏を立てる。
六孫王経基は武蔵の都築郡にあり。将門羽書をして相馬へ招く。その謀をしらんと下総に至り、帰路に竜川にかかる。越後前司広雄と云者、興世王
に与し、竜川に関をすへて旅人をとがむ。ここにおゐて経基帯刀の笄を関守にくだし、是後日の証なるべしと也。
それより経基橋といひならわせしを、康平六(1063)年三月、源頼義当所旅陣の時、その名をいやしむ。いはれあればと鉤匙橋
とあらためられしと也。傍に一宇を建て、鉤匙殿とあがめしと云。
その笄、親王院にありとぞ。此親王院は渋谷東福寺の事なり。かのかうがひ今に東福寺にあり。
としており、「笄」が別当の東福寺にあったことが記されているので寺に問い合わせた。すると、明治初期の廃仏毀釈により寺宝は現在隣接する
金王八幡社に移管し保存されているとのことなので、
早速連絡をすると宝物殿に現存していることが判明した。
○東福寺誌6p
〜略〜
「金王八幡社記」によると、寛治6(1092)年、源義家が後三年の役の凱旋の途中にこの地に赴き、領主・河崎基家が秩父妙見山に
拝持する日月二流の御旗のうち、月の御旗を請い求めて八幡宮を勧請した。そのおり、天慶2(939)年の将門の乱のときに源経基が
宿泊したという家を改めて一寺となし、親王院と称して別当寺とした。これが東福寺の起立である。〜略〜
寺の由来が記された
渋谷山東福寺梵鐘
|
○金王八幡社・社宝
・河崎基家が金王八幡社創建時に勧請した月の御旗(複製)
・源経基の笄
・鎌倉・鶴岡八幡宮の宮御輿
・金王桜
・徳川家光・春日局が寄進した本殿
・三葉葵のついた用途不明の木戸
・渋谷城址石垣の石
渋谷氏
◇ | 河崎基家 | → | 源義家に隷属 | 武蔵国豊島郡谷盛庄に居城渋谷城を構築 |
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◇ | 渋谷重家 | → | 源義家に隷属 | 金王八幡を勧請・渋谷氏を名乗る |
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◇ | 渋谷重国 | → | 源義朝・頼朝の家臣 | 金王丸=土佐坊昌俊 |
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◇ | 渋谷高重 | → | 源頼朝の家臣 | 重国の長男 |
◇ | 渋谷光重 | → | 源頼朝の家臣 | 重国の次男、長男以外の息子が北薩摩に定住し薩摩渋谷氏となる |
金王八幡神社別当渋谷山東福寺
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○渋谷重国=金王丸=土佐坊昌俊・説
金王八幡社の社伝では渋谷重国を金王丸としているが、異説には弟とする説もある。また金王丸が土佐坊昌俊となったと
する説もある。金王丸の由来は重国の父である渋谷重家が子宝に恵まれるように金剛夜叉明王に祈願したところ男児を授かったので金剛夜叉明王の前後の2文字をとって金王丸としたとある。
そして現在も金王八幡社の一隅には金王丸を祀る金王丸影堂が安置されている。源義朝が平治の乱で平清盛に敗れた後、義朝の家臣であった金王丸は京都に上り義朝の
愛妾であり牛若丸(源義経)の母でも
あった常盤御前に事の由を報告した後、渋谷に帰って出家し土佐坊昌俊と名乗って義朝の霊を弔ったとされる。
この伝説からか金王八幡社の近くには、常磐御前が植えたとされる松が由来の一つとされる「常磐松」の地名が残されている。
そして後年、源頼朝の隆盛により再び頼朝の家臣となる。この時期に渋谷重国は頼朝の命により、櫻田郷・霞ヶ関辺に櫻田神社を創建しているので、
おそらく霞ヶ関あたりも渋谷氏の勢力圏内であったと想像される。後年の江戸砂子には渋谷の旧地名で渋谷氏の勢力が及んだと考えられる地域である
谷盛庄を、渋谷・代々木・赤坂・飯倉・麻布・一木・今井として谷盛七郷としている。そして上・中・下渋谷三ヶ村と上・中・下豊沢三ヶ村に隠田を加えた
七ヶ村を渋谷郷としている。
櫻田神社創建に関与した渋谷重国はその後、頼朝により義経追討を命じられ京都にて義経軍との戦いに敗れた後に馘首され生涯を閉じた。(別説には馘首
されたのは影武者でその後天寿を全うしたとの説もある。)これらの功績を惜しんだ頼朝は、鎌倉亀ヶ谷の館に咲く桜木を渋谷重国の本拠地金王八幡に移植し
「金王桜」としたとされる。
金王丸以降も渋谷氏は存続し、この辺りを統治したと思われるが、
大永四(1524)年北条氏綱の関東攻略の際、江戸城の扇谷上杉朝興と氏綱が高縄原で衝突した(高縄原合戦)のおりに渋谷城は炎上し
渋谷氏は滅亡したとされる。そしてそれ以降渋谷氏は青山長者丸付近に館を建てて帰農したとされ、笄橋の銀王丸伝説へと続いてゆく。
また、渋谷重国の子、渋谷光重は宝治元年の合戦の恩賞として北薩摩を拝領し長男以外の子らが薩摩に渡って
土着し、薩摩渋谷氏となる。この家系は分派して明治期に東郷平八郎を輩出する東郷家の他、祁答院・鶴田・入来院・高城など渋谷五家となり薩摩においては島津家に次ぐ隆盛を誇った。
また、戦国時代以降は長年敵対した薩摩氏とも和睦のうえに隷属して後に縁戚を結ぶこととなる。これらのことから、薩摩藩島津家が幕末期に安政の大地震で倒壊した芝屋敷の代わりに
幕府により常磐松の地に再建を許され、天璋院(篤姫)がこの屋敷から江戸城に輿入れすることとなったのも、ただの偶然ではなく島津家と薩摩渋谷氏の関係から選ばれた地であったことが想像される。
またさらに後年、時代の表舞台から姿を消して豪農となった渋谷氏=金王長者の居館があった青山長者丸からもほど近い原宿に、東郷神社が建立されるのも
渋谷氏との関連からと想像される。
余談だが明治期のもう一人の元勲、乃木希典の乃木家は長府毛利家の家臣であったが幕末には櫻田神社に度々参拝したと言われる。
乃木家は宇多源氏系の佐々木氏を祖に持つと云われており、佐々木秀義は平治の乱で源義朝に服属して敗北し、追捕命令が下り奥州へと落ちのびる途中で渋谷重国
が二十年にわたり庇護し秀義を婿に迎えて縁戚をも結んでいる。この秀義の子である佐々木四郎高綱が乃木家の祖と伝えられるので渋谷氏と乃木氏は縁戚関係にあったことになり、
これにより恩人であり縁戚関係もあった渋谷重国が創建に関与した櫻田神社を崇敬したことが想像され、櫻田神社の由緒によると乃木希典が初参り
で櫻田神社を参詣したおりに着用した産着が戦前まで社に保存されていたという話が残されている。(後に櫻田神社により乃木神社に奉納され現在も乃木神社の社宝となっているが非公開)
薬園坂付近七仏薬師東福寺跡
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またこの渋谷東福寺とは別に、江戸期には本村町薬園坂にも「七仏薬師」で有名であり、やはり東福寺の寺号を持つ寺院が存在した。(こちらを便宜上、薬園坂東福寺と呼ぶ)
◎薬園坂東福寺(医王山薬師院 東福寺)−港区南麻布3丁目
この薬園坂東福寺は正確には「医王山薬師院 東福寺」といい、江戸名所図会にも「七仏薬師 氷川明神」として
描かれている。そしてこの薬園坂東福寺の「七仏薬師」は源経基の念持仏であるといわれた。
弘仁年間(810〜824年)に伝教大師が上野・下野下向の折に弟子の慈覚大師が下野国大慈寺に安置し、その後
天慶年中(938〜956年)に源経基が守護仏として護持、その後に源頼義が守護仏として鎌倉に移し代々の管領の崇敬を受けた後に
長禄年間(1457〜1460年)太田道灌により川越に移設、そして江戸城平川に移転。徳川家康移転時には江戸城中に安置されていたものを
慶長9(1604)年神田駿河台に移転し堂宇・常院を建立、元和3(1617)年上野広小路に移転、
そして天和3(1683)年上野広小路より本村町薬園坂に移転した。しかし、江戸期を薬園坂ですごした東福寺も明治初期には廃仏毀釈の影響を受け
廃寺となり、本堂は隣接する明称寺に売却され、七仏薬師像と十二神将像は品川区西五反田の安養院に移設された。そして、残念な事に
昭和20年戦災により像は焼失した。また、明称寺に売却された薬草が天井一面に描かれた本堂は、明称寺の現在の本堂となって現存しているが
拝観は出来ないようだ。
六孫王経基の念持仏とされる本尊の七仏薬師は、
★七仏薬師(伝・伝教大師作)
1.美稱名吉祥如来
2.寳月智厳院自在王如来
3.金色寳光妙行成就如来
4.旡憂最勝吉祥如来
5.法海雷音如来
6.法海惠遊戯神通如来
7.薬師瑠璃光如来
の七像とされ、「府内誌残編」によると、
江戸名所図会 七仏薬師・氷川明神
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〜略〜
寺伝ニ本尊薬師ハ往古伝教大師比叡山ニ於テ手刻セシ七台ノ一ニシテ、比叡山中堂ニ安置セル
薬師ト同木ノ像ナリ。
〜略〜
と記している。
★<その他の寺宝>
・徳川秀忠が家光生誕を記念して家光の名で寄進した十二神将像
慶長1十(1605)年乙巳卯月吉日
源右大将若君(家光) 御寄進
と像の背面に銘があったという。
・日光菩薩像・月光菩薩像
これで、江戸期には同じ宗派でどちらも源経基に深い縁を持つ同名の寺が麻布と渋谷に存在したことが判明した。
この二つの東福寺を比較して見ると、
東福寺 比較
仮 称 | 山 号 | 寺 名 | 宗 旨 | 創 建 | 創建地 | 庇 護 | 経基との関わり | 備考 | 所在地 | 現 存 |
渋谷 東福寺 | 渋谷山 | 親王院 東福寺 | 天台宗 | 永承〜治歴 (1046〜1068)年間 | 金王八幡 境内 | 河崎基家 源義家など | 一本松宿舎 を後に寺とする 源経基の笄が保存 | 谷盛庄渋谷郷(現在地)に 金王八幡宮別当寺として建立 渋谷区最古の寺院 | 渋谷区 渋谷 3-5-8 | 元地に現存 |
薬園坂 東福寺 | 医王山 | 薬師院 東福寺 | 天台宗 | 慶長9(1604)年? | 神田 駿河台? | 源経基 太田道灌など | 七仏薬師像が 経基の念持仏 | 七仏薬師・天和3(1683)年 上野広小路より本村町に移転 | 港区 南麻布 3丁目 | 明治初期 廃絶 |
・宗派・寺号が同じ
・どちらも源経基の関わりを持っている。
・どちらも江戸初期に徳川家光・春日局との関わりを持っている。
薬園坂東福寺敷地見取図
|
と類似点があるが、両寺共に不明な点が多く特に渋谷山東福寺は、梵鐘に書かれた寺の由緒にも創建当時から関係のある金王八幡神社の社記にも
東福寺となった精舎が一本松から移築したという記述は見あたらない。しかし前述のとおり江戸砂子には「一本松」とはっきり明記
されているので、渋谷東福寺と一本松精舎の関連はさらに謎が深まった。また笄橋伝説で源経基は渋谷側から麻布側に橋を渡ったのならば一本松での
宿泊が想像され、その後暗闇坂から現在の麻布氷川神社、本村町薬園坂を抜ける古道(奥州街道といわれる)を通って西へ落ち延びたことが推測できるが、麻布側から渋谷側に笄橋を渡ったのだと仮定すると
渋谷山東福寺での宿泊後に古道(のちの鎌倉街道中道)を西へと落ち延びたことが想像される。しかし残念ながらどちらも推測の域を出ない。
また薬園坂東福寺については、廃寺となっているために資料が少なく
江戸期のあの場所に存在した理由を突き止めることはまったく出来なかった。
しかし東福寺・金王八幡神社の周囲には、渋谷重国の時代に同じ渋谷城内であったと想像され、現在も広大な社領を有して江戸初期までの麻布氷川神社を彷彿とさせる渋谷氷川神社も
鎌倉期には源頼朝の庇護を受けたとされ、金王丸信仰の社
であり、境内では金王相撲と呼ばれた相撲がもようされていたとある。さらにこの渋谷氷川神社に隣接する社の別当・宝泉寺も渋谷重本の開基といわれる。
この宝泉寺は明治初期の廃仏毀釈によって没落し一時無住職となった渋谷山東福寺の管理を行っており、渋谷氏と因縁が深い。また明治初期にやはり
廃仏毀釈によって没落し無住職となった麻布宮村町・千蔵寺(広尾稲荷神社の別当)、薮下・円福寺の住職を兼務するなど、
麻布との関係も深い名刹であることなどがわかった。
★<参考サイト>
・Wikipedia−源経基
・Wikipedia−平将門
・Wikipedia−承平天慶の乱
・Wikipedia−源義朝
・Wikipedia−渋谷氏
・Wikipedia−土佐坊昌俊
・Wikipedia−佐々木氏
・櫻田神社宮司のブログ
★<参考文献>
・麻布区史
・新修港区史
・源氏と板東武士
・源氏将軍神話の誕生
・渋谷山東福寺誌
・御府内備考続編(御府内寺社備考)
・江戸砂子
・郷土渋谷の百年百話
・渋谷町史
・「東京都社寺備考」 寺院部 第1冊 天台宗之部
・近代沿革図集
・ 東京市史稿
・平将門魔方陣
・大江戸魔方陣
・東京魔方陣
・小説平将門
・平の将門
・一千年の陰謀−平将門の呪縛
・櫻田神社御由緒書
関連記事
・麻布近辺の源氏伝説(総集編)
・一本松
・氷川神社
・櫻田神社
・黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)
・麻布と源氏(笄橋伝説 その 2)
・竹芝伝説
・麻布七不思議
・麻布七不思議の定説探し
・宮村町の千蔵寺
・広尾稲荷神社
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191.福沢諭吉の狸蕎麦水車
狸そば水車跡付近
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狸橋と狸蕎麦由来碑
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三田用水白金分水路・古川合流点
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日本の水車〜その栄枯盛衰の記という書籍の第16話に「福沢諭吉の水車場経営」という項目があった。おりしも広尾近辺の水車を調べていたので
さっそく中央図書館で手に取ってみると、その内容には驚くべき事実が記載されていた。なんと慶應大学創始者で幕末期には頻繁に麻布山善福寺の
アメリカ公使館を訪れ、自身も死後この墓地に改葬されることとなる福沢諭吉が、広尾天現寺交差点付近の狸橋辺で個人経営していた水車について詳細に
記されている。
麻布七不思議の一つとしても語られている「狸橋の狸蕎麦」は、橋のたもとにあった蕎麦屋に子連れの狸が通い、勘定を木の葉で済ませたという話で
いわゆる天かすの乗った温かい蕎麦の事ではない。このあたりが里俗に「狸蕎麦」という里俗の地名になったのはこの話が由来とされているが、
やはり麻布七不思議の一つで、江戸城で退治された古狸を狸穴の蕎麦屋の店主が広尾が原に葬って塚を築いた。という「狸穴の狸蕎麦」で伝える
狸塚が元になっているとも考えられる。
この「狸蕎麦」の地名を愛し、さらにこの地に安らぎを求めて別邸としたのが福沢諭吉である。
福沢は後年、慶應幼稚舎となる敷地や現在北里研究所病院となっている敷地も取得する事となるが、その手始めは「狸蕎麦」の
地名の元となった蕎麦屋が廃業した土地を取得することから始まる。蕎麦屋店主北林新三郎は昵懇にしていた福沢諭吉から借財をしていたが、
その際に北林はこの土地家屋を返済の担保としたので、やがて明治8(1875)年〜9年頃から(一説には明治17年とも)福沢の所有するところとなった。
福沢はこの蕎麦屋を営んでいた茅葺きの粗末な建物を別荘として使用し、元の持ち主の蕎麦屋店主を相手によく将棋をさしたという。
福沢諭吉はこの土地2,200坪を北林から1,750円で購入したが、その仲介には福沢と同じ豊前中津出身で藩の御用米穀商人
であった中沢周蔵があたっている。また土地取得に当たっては元の所有者北林新三郎の返済の不履行からと前述したが、
福沢家の帳簿「総勘定」に福沢が明治9年から15年にかけて毎年600円から750円の金を北林に用立ていることが記載されており、
また取得時にも625円が支払われていることからも福沢の温情的な措置が伺える。
この元蕎麦屋は三田用水白金分水路が古川に落ち込む場所にあり、敷地には池を併設した水車小屋があった。
購入当所水車を元の持ち主北林に貸し与えていたが、やがて家賃滞納が頻発したためやむなく福沢はこの水車を整備し名義を長男
の一太郎にして自身で副業として精米業を営む事となる。
明治初期当時水車は地方雑種税の対象であり東京府では5年の有限期間がある営業許可となっているので詳細が残されている。
このことから福沢が水車を取得したのが明治17(1884)年10月であることがわかるが、明治8(1875)年頃に取得したと思われる母屋の元蕎麦屋
と同敷地内にあった水車の営業権の取得は別時期となっていた事も考えられる。以下は取得5年後の明治22(1889)年10月23日東京府に
提出した営業継続願いの願書。
水車営業継年季願
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芝区三田弐丁目弐番地
福沢諭吉長男
営業人 福沢一太郎
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一水車 壱ヶ所
輪径 1丈2尺(※3.39m)
杵数 23本(四斗張3本・三斗張4本・二斗張16本)
総容量 5石6斗(※約784kg)
水堰 1ヶ所(幅四尺七寸三分[※1.433m]・高さ五尺三寸[※1.6m])
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右者私有地芝区白金村百五拾弐番地江去ル明十七年十月ヨリ仝廿二年九月マデ御免許
ヲ以テ営業罷在候処明治廿二年九月季限ニ付本月ヨリ向フ五ヶ年間営業継続御免許被成下
度尤モ水上水下水懸リ村々及仝業之者江示談行届聊苦情無之ニ付此段奉願候也
但明治十七年十月中沢周蔵ヨリ買受之節市太郎トセシハ一太郎の誤リニ付此段申添候也
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明治廿二年十月廿三日
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福沢一太郎 印
芝区白金村五六番地
岸田弥右衛門 印
仝区仝村百六番地
渡辺善太郎 印
三田用水常置惣代
荏原郡大崎村上大崎百五番地
竹内小太郎 印
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東京府知事男爵高嵜五六殿
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※はDEEP AZABU注
そしてこの水車は、明治22年現在、精米業として登録されており
4馬力の仕事量、雇人は男2名女1名の計3名、年間の収益は420円とある
目黒通り方面の三田用水と現在自然教育園となっている池の水を合わせた水流は豊富であったと思われ、
敷地内水車脇の池には豊富な水が湛えられていたという。この様子を福沢諭吉の四男大四郎は、
〜広尾の別荘には池があった。三尺くらいの川から水が来て池になっていた。私が子供の頃、そこに小さい船を浮かべて
遊んだ。〜
と後年語っている。
この水車を福沢は当初「広尾水車」と呼び、出納帳の項目などもこの呼び方で記載されていた。しかし、明治29(1896)年
2月、福沢は2番目の水車を天現寺前付近に取得したことから最初に取得した水車を「狸そば水車」とし、天現寺の水車を「広尾水車」
と改めている。
この天現寺の広尾水車の位置は天現寺の笄川の川向かい現在都営団地前で外苑東通りとなっているあたりと思われる。
以下東京市に提出した取得時の譲渡届け。
天現寺橋
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明治21年 天現寺橋付近地図 (目標物は現在)
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安藤広重「名所江戸百景」 −広尾ふる川− 四の橋より狸橋方面
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水車譲渡ニ付名前換并継年期営業順
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位置
南豊島郡渋谷村
大字麻布広尾町八十九番地
一水車 壱ヶ所
但シ水輪差度シ壱尺弐丈
一堰 壱ヶ所高サ六尺横幅九尺
臼数 九個但シ四斗張也
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東京市麻布区田島町四十六番地
譲渡人 原田梅次郎
東京市芝区三田一丁目弐番地
譲受人 福沢 諭吉
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右水車今般前記之通リ原田梅次郎ヨリ譲受候ニ付名前換被成下度尤モ右水車ハ明治廿七年
一月ヨリ来ル三十一年十二月迄営業御免許相成居候ニ付右残年期営業共併テ御許可被成下
度双方連署ヲ以テ此段奉願候也
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明治廿九年二月一日
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右 原田梅次郎 印
福沢 諭吉 印
隣地東京市麻布区富士見町四十九番地
天現寺住職
泰 宗東 印
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東京府知事三浦 安殿
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この「広尾水車」の規模は「狸そば水車」よりも小さく、
水輪:1丈2尺
挽き臼:3斗張8、2斗張3の計11
であった。
福沢家所有の水車(近代東京の水車−「水車台帳」集成より)
名 称 | 取水 | 営業権 | 所在地 | 用途 | 諸元 | 備考 |
狸そば水車 | 三田用水 白金分水路 | 福沢一太郎 | 芝区白金三光町 字雷神下165番地 | 狸蕎麦 | 精米後に
薬種細末 | 堰高5尺2寸幅7尺3分・馬力2.53搗臼24台 | 福沢諭吉の長男一太郎名義・鉄製。精米から製薬に変更。ハ−キエルス式水車 |
広尾水車 | 笄川 | 福沢 諭吉 | 南豊島郡渋谷村 麻布広尾町89番地 | 天現寺 | 精米 | 堰高6尺幅9尺・水輪1丈2尺・搗臼9台 | 天現寺前笄川対面。諭吉の死後地権は長男の一太郎に、水車営業権は三男の三八が相続 |
移転後の広尾水車 | 笄川 | 福沢 三八 | 豊多摩郡渋谷村下渋谷 字広尾耕地1942番地 | 天現寺 | 精米 | 水輪1丈・搗臼9台 | 上記福沢諭吉水車が移転したもの。その後早川徳次郎から田丸兼次カへ転売 |
また取得した土地は885坪3合7勺で土蔵付き家作1棟・水車場1ヶ所があった。この土地を福沢は1025円で購入し、
明治28(1895)年9月26日に登記している。やはりこちら水車の場合も土地の取得と水車営業権の譲渡日付が違っているのは
さらに調べる必要があり現在は不明である。
笄川・古川合流点
|
しかし、この水車は「狸そば水車」と違って福沢本人が名義人となっており、笄川下流域にかかっていた唯一の水車だと思われる。
水車小屋手前の笄川に堰を造りそこから水車へと水流を引き込んで天現寺橋手前で再び笄川へと放流していた。ちなみに
当時の天現寺橋は現在のように古川をまたぐものではなく、笄川にかけられていた。余談だが古川に架かる橋として、
三の橋の上流には四の橋(相模殿橋)−狸橋−()しか無かったので麻布から目黒方面へ行くには狸橋が最も便利であり、
付近の住人以外ほとんど人通りの無い現在より、はるかに交通の要所で往来もあったと思われる。
明治31(1898)年9月26日に福沢が脳溢血で病臥してからはこれらの水車の経営は福沢夫人が取り仕切っていたが、
この頃から帳簿上の記載がどちらも広尾水車となっていることもあり、記録された数字がどちらの水車を差しているのかを
見極めることは困難であるという。この頃にはすでに「狸そば水車」は北里柴三郎の養生園に貸し出され福沢家には賃料
をもたらしていたという。
また明治34(1901)年3月20日には「狸そば水車」の施設変更願が提出され、それまで木造水輪で精米を行っていた水車を鉄輪で駆動部も
ハ−キエルス式といわれる4馬力の洋式水車に改めた。明治30年11月最初に取得した元蕎麦屋の敷地を養生園に売却し、水車経営権
のみを保持し、月25円で養生園に貸していたものを、明治34年の改修を機に水車を精米から薬種細末用途に変更して完全に病院施設
の一部となることにより福沢家との実質的なつながりも希薄となったと思われる。
この改修の完成を待たずに明治34(1901)年2月3日、医業への貢献を夢見た福沢諭吉は永眠する。
また一方の「広尾水車」も福沢家との縁を失うこととなる。それは時代の変遷とともに広尾天現寺近辺も近代化の波が押し寄せ
天現寺川向こうにあった水車施設が堰はそのままにして現在の天現寺橋横に移転した、さらに明治38(1905)年8月にはついに水車の営業権を
相続した諭吉三男の
福沢三八により早川徳次郎へと売却され、これによって福沢家と水車の関係は総て消滅することとなった。
その後の「広尾水車」について「日本の水車〜その栄枯盛衰の記」筆者は、明治39年に早川徳次郎からさらに田丸兼次郎へと転売され
た事を記し、続いて時代が下った大正2(1913)年頃には水車への水流を確保するため笄川に造られた堰の水流が滞留することが原因で汚濁・悪臭
が起こり周辺住民の間で問題となったとしている。そして遂に東京府知事宛に改善嘆願書が提出されたのだが、その嘆願の筆頭となったのは何と
父諭吉から広尾町89番地の「地所」のみを相続して地主となっていた長男の一太郎であったという。以前父諭吉が関与した水車が原因で悪臭に悩まされるとは
何とも皮肉な運命。とのことが追記されている。
狸そば水車見取図
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この福沢家の水車を含めて渋谷川〜古川には渋谷駅より下流の地域だけでも30あまりの水車業が登録されていた事が判明した。その全容は
次回あの多摩川を整備した玉川兄弟の水車、そして江戸名所図会にも取り上げられた広尾水車(みずぐるま)と共にお伝えする予定。
参考文献
・近代東京の水車−「水車台帳」集成−
・日本の水車〜その栄枯盛衰の記/第16話 福沢諭吉の水車場経営
・近代沿革図集
・江戸の上水と三田用水
・郷土渋谷の百年百話
・ふるさと渋谷の昔がたり
・玉川上水と分水
・明治21年 内務省地理局地図
・明治40年 東京郵便局地図
・地べたで再発見「東京」の凸凹地図
福沢家2水車地図
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狸そば水車見取図
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関連記事
・広尾(玉川)水車
・小山橋の八郎右衛門水車
・麻布山善福寺(其の一)
・麻布山善福寺(其の弐)
・麻布な涌き水
・渋谷川〜古川
・たぬきそば
・麻布七不思議
・麻布七不思議の定説探し
・番外七不思議
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192.小山橋の八郎右衛門水車
高輪台付近の三田用水遺構
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前回、玉川兄弟の水車・広尾水車をお伝えと約束したが、三十あまりの水車の全容を調べていたところ、とんでもないものを見つけたので
今回は予定を変更してそちらをお知らせ。
渋谷駅より下流の水車を調べていたところ、古川からすいぶん離れた位置にあるものも多いことに気がついた。この調査を始めるまで
古川・渋谷川にかかる水車は文字通り川筋に水輪を入れてくるくる廻しているものだとばかり思っていた。しかし古川・渋谷川から実際に取水して
いるものはごく少ない。そしてそのほとんどは三田用水から古川・渋谷川へと落ちる分流沿いにあることがわかった。
<三田用水分水>
・白金分水
・道城池分水
・猿楽分水
・鉢山分水
また、いもり川、笄川、玉名川など古川・渋谷川支流からの流水を使用しているものも見られる。これは比較的流れの緩やかな古川・渋谷川よりも
ある程度の勾配で流れ落ちる支流・分水路が落差による水圧を利用をしやすかったためと思われる。そして多くの書籍には天現寺辺を境にして
それより下流域には水車は無かったとしている。これはちょうどこのあたりまで潮の干満による影響を受けることから当然のことと考えられている。
現在もこの辺り四之橋〜天現寺橋あたりまではボラなどの幼魚の遡上が数多く見ることが出来、それを狙ったシロサギ・五位サギ、マガモなども
数多く見ることが出来る。しかし.....、
「水車台帳集成」には、これよりはるか下流域の一の橋と二の橋の中間にある小山橋際に3つの水車があった事が掲載されている。これら3つの水車の
設置住所はいづれも「広尾八郎右衛門新田」となっており、当初わたしはこれらの場所を広尾近辺と勘違いしていた。しかし、この「広尾八郎右衛門新田」
とは後の「新広尾町」の事であり、新広尾町は広尾町の地番を継承して1番地からではなく81番地から始まる事を思い出した。そしてさらにこの町域は広尾天現寺
から一の橋までの古川両岸を細長く有した区域で81番地は一の橋際から始まっている事がわかった。それら水車の所在地を明治期の地図と照合してみると、なんと3つの水車は
一の橋脇の小山橋付近(当時橋はなかったが)にあった事がわかった。前述したとおり天現寺より下流域は満ち潮で河口から潮水があがってくるので本来の水流は大きく妨げられてしまい、
時には下流から上流に向かって流れが逆行してしまうことも考えられる。特に一の橋付近は天現寺あたりよりずっと河口に近いために潮の影響も大きく、
現在でも満潮時にはボラの成魚なども遊弋しているほどである。そして、何故このような場所にという大きな疑問が残った。
明治21年内務省地理局地図
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そこで明治20年の地図と明治40年代の地図を再度対比させてみると、
・町名が「広尾八郎右衛門新田」から「麻布新広尾町」に変更されている。これは明治5(1872)年に成立した「広尾八郎右衛門新田」はその名前が示すとおり
農地としての成立であったが暫定的に町家が建つようになり、明治44(1911)年「麻布新広尾町」として正式に町家として成立したことによると思われる。
そして「松本亥平外1名」と書かれた134番地水車の元の持ち主は「青山八郎右衛門」という名前であることがわかった。
当初「八郎右衛門新田」の由来となる「八郎右衛門」とは誰なのか?これを探ろうとネットで検索すると3人のそれらしい候補が見つかった。
- 明治から戦前まで麻布今井町に住んでいた三井総領家である北家が代々名乗る八郎右衛門。第二次大戦で屋敷が焼失、戦後は笄町に移転。
- 江戸期に三田用水を開いた中村八郎右衛門。
- 江戸期に深川を開拓した深川八郎右衛門。
新広尾公園から見た小山橋
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明治16(1883)年参謀本部 測量図に描かれた水車
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一の橋際の青山八郎左衛門邸跡
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しかしどれも決め手となる文章を発見することは出来なかった。そこで「水車台帳集成」を再度確認すると、「松本亥平外1名」と書かれた水車の元の持ち主が
「青山八郎右衛門」という名前であることがわかった。
そして早速「青山八郎右衛門」について調べてみると、Wikipediaで装丁家・美術評論家である
青山二郎の父親として八郎右衛門が記載されていた。さらにWikipediaにはこの青山八郎右衛門について
父八郎右衛門(本名茅根清十郎)は養子、茨城県久慈郡金郷村の出身で慶應義塾大学の2期生、古川の護岸工事で地所を拡大し、貸家業で多額の収入を得て、
時事新報の全国50万円以上資産家名簿に名前を列ねていた。
とあり、新広尾町を開拓した「八郎右衛門」であることに間違いないと確証を得た。さらにネット上で東京紅団−青山二郎の世界を歩く
というサイトの「青山二郎の世界」に青山家が詳細に記載されているのを見つけ、
青山家は一の橋際の屋敷(後の新広尾町一丁目24番地)に住んでいたことがわかり、さらに確証を深めた。つまり屋敷の脇に水車を造ったということになる。
Wikipediaには青山家はあの徳川家康の家臣・青山忠成で地名青山の元となった家柄である事が記載され、青山八郎右衛門は養子で慶應大学2期生、妻が青山家の実子であり、
クーデンホーフ光子と従兄弟と記載されている。そこでさらに詳細を探ろうと東京都公文書館で
調べると不思議なことがわかった。青山八郎右衛門は青山家の養子となるまでの実名を茅根清十郎と言い、
明治元(1868)年4月茨城県久慈郡金郷村生まれで明治19年茨城県庁に入庁、その後官吏のまま慶應大学を受験して同26年に卒業。
そして何故か卒業後は時事新報社に入社している事が判明した。その後妻となる青山きんと結婚して青山姓を名乗ることとなるようだが
前述したように「広尾八郎右衛門新田」が開拓を開始するのは明治5(1872)年頃との事なので後の八郎右衛門(茅根清十郎)はまだ茨城県に住む5歳児に過ぎない。
また当然ながら青山でも八郎右衛門でもなかったのでこれらから考えられる事は、
- 開発開始時期がずっと後の八郎右衛門が慶應大学を卒業した明治26年以降。
- 八郎右衛門の名は代々世襲で名乗る「当主名」で開拓開始は先代の八郎右衛門。つまり青山二郎の父ではなく祖父であった。
かもしれない。
しかし明治20(1887)年の地図上には「広尾八郎右衛門新田」が明記されているのでこれ以前であることは間違いないと思われ、@説よりもA説の方が
信憑性が持てる。
また明治5年開拓開始を記している根拠は恐らく1872年(明治5)年地券税法が発布され、田畑永代売買禁止令の廃止で公式に農地売買が出来るようになった
事から来ているものと想像される。
3ヶ所の水車は二の橋寄りの堰に蓄えた水の落差を利用したと思われる。これについて、明治21(1888)年6月4日に提出された
松本亥平水車(133番地にあったもの)の「水車営業延期願」において、
本願水車二ヶ所ハ麻布広尾町字八郎右衛門新田ニ於テ古川筋に設置シタルモノニシテ、右川筋ハ追テ改修ノ見込アルニツ因リ何レモ許可年限満期ニ至リ取払フヘキ旨、
去ル十九年八月中麻布市役所ヨ経テ夫々指示セラレタリ。然ルニ同所ハ元来一個ノ水堰を用テ三個所ノ水車を連設シタルモノニシテ、他ノ一個ハ二十三年一月迄ノ期限ニ付到底右期限迄ハ
水堰ヲ撤去スルニ至ラザルヲ以テ、同年同月迄ハ延期ヲ許スモ敢テ差支ナク、且区長副ノ次第モ有之旁本文指令按ヲ草ス。但文中特ニ官ノ都合ニ依リテモ取払ハスヘキ旨ノ明文を掲ケ、
他日廃撤ノ処分ヲ容易ナラシムモノトス。
などとあり、3基の水車が一つの堰を共同で利用していた事、そしてこの頃にはすでに水車の存続が危惧される状態にあったことが伺われる。また松本亥平は三つの水車の
うち2ヶ所を所有する者であり、上記願いを提出した
水車の他に134番地にあった水車も他1名と連名で所有している。この134番地の水車は明治13(1880)年3月、青山八郎右衛門が新設した水車で明治19(1886)年に
松本亥平が連名で営業権を取得している。しかし松本が譲り受けたのは手塚義明という者からであるために青山八郎右衛門が水車を手放したのはこれより以前かと思われる。
この松本亥平の134番地水車について、明治20(1887)年11月5日、それまでの営業種目であった製糸機器製造から米搗き水車へと用途を転換したい旨の「転業願」が松本により
提出された事が記されている。
青山八郎右衛門 の名が刻まれた 廣尾稲荷神社「献灯」
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「献灯」に刻まれた 青山八郎右衛門の名
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銀杏稲荷大明神
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青山八郎右衛門履歴書
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小山橋 新広尾公園
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しかし翌年5月2日付けで、対岸の三田小山町に住む住民から転業を許可しないでほしいという願いが東京府知事宛に提出されている。これによると
松本亥平所有の水車が製糸機器製造から米搗き水車へと業種変換する旨伝え聞いたが、数十もの臼を搗く振動が家屋を破損させる恐れがあり、その騒音で
付近の住民は安眠できないと思われるので許可しないように。というものであった。
これにより同年5月2日には松本亥平は警視庁から度重なる取り調べを受け、実際に騒音公害などが起こりえるものかを質問されたようだ。そしてその結果
米搗き水車への転業は止めて、活版印刷業に転換することを決定した。この様子は東京府から警視庁宛に通牒按が提出され、その顛末を報告している。
ちなみにこの業種変換への苦情を申し立てた三田小山町住民とは、幕末期に三田薩摩藩邸で自決した薩摩藩家老調所笑左衛門広郷の次男で、札幌農学校初代校長・
札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・貴族院議員などを歴任し、男爵に叙されて華族となっている調所広丈氏である。
余談だが私はこの調所広丈氏血縁の末裔と知己を結んでいたことがあり、こんなところで知人のご先祖様に出くわすとは不思議な縁を感じた。
残念ながら青山八郎右衛門が作成したと思われる水車の資料はここまでしか残されていない。それは水車業を営んでいた事業者は明治初期以来全国的に
「地方雑種税」の対象であり、東京府では5年の有限期間で営業を許可されていた。つまり5年に一度は必ず水車の用途や規模、所有者などを詳細に記した
更新届けを東京府に提出しなければならなかった。しかし明治30(1897)年12月、東京府はその規則を改定し5年間の有限許可から無期限へと改めた事になったためである。
これにより、明治30年以降の水車業の詳細を確認する事は困難となってしまった。
そして明治41(1908)年11月には天現寺→四之橋間、12月には四之橋→一の橋間の市電(のちの都電)が開通するに伴い道路拡張工事、市街地化などの影響
から次々と水車は姿を消していったものと思われる。そして明治42(1909)年6月22日一の橋→赤羽橋間の都電が開通することとなるのだが、その工事中
都電の軌道敷設のための道路拡張工事の影響で一の橋停留所を出てカーブが終わる辺りにあった三田小山町の古木が1本伐採された。
銀杏稲荷の御神木としてはるか昔からこの地にあった2本の銀杏樹は付近で一番高い目標物であったと思われ、
この水車をはじめ、ヒュースケン襲撃、清河八郎の暗殺、など数々の歴史的事象を目撃してきた貴重な証人として
存在した。その後、残された1本の銀杏樹はその後も関東大震災、戦災などを生き抜いて今年まで街を見守り続けてきた。
しかし残念なことに今年2010年3月、樹の老朽化に伴う空洞の影響で倒木が懸念され、伐採されてしまった。
真横で「緑」や「癒し」をコンセプトの一つとして建設された都市再開発が行われたにもかかわらず、
枯死しかけた古い樹1本を救うことが出来なかったのは技術レベルの問題ではないような気がする。ちょうど同時期、鎌倉鶴岡八幡宮の銀杏が
倒れて世間を驚かせたが、最近のニュースでは折れた幹から新芽が吹き出しているという。
一方三田小山町の銀杏には再生すべき幹も土壌も、もはや残されてはいない。ただ、.....残念なことである。
参考文献
・近代東京の水車−「水車台帳」集成−
・日本の水車〜その栄枯盛衰の記/第16話 福沢諭吉の水車場経営
・近代沿革図集
・江戸の上水と三田用水
・郷土渋谷の百年百話
・ふるさと渋谷の昔がたり
・玉川上水と分水
・明治21年 内務省地理局地図
・明治40年 東京郵便局地図
・地べたで再発見「東京」の凸凹地図
Wikipedia
・渋谷川
・福沢諭吉
・青山二郎
・三田用水
・調所広郷
・広尾
・元神明宮
関連記事
・福沢諭吉の狸蕎麦水車
・広尾(玉川)水車
・小山町
・広尾稲荷神社
・麻布な涌き水
・渋谷川〜古川
・ヒュ−スケン事件
・清川八郎暗殺
・調所 笑左衛門<三田>
・麻布十番未知案内 BLOG編(外部リンク)
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193.広尾(玉川)水車
広尾水車のあった山下橋(水車橋)付近
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これまで古川・渋谷川流域の水車について調べてきたが、そもそもこの古川・渋谷川は江戸初期までは水量の少ない小さな川であったと考えられる。
しかし承応2(1653)年、庄右衛門・清右衛門の玉川兄弟の手による羽村−四谷大木戸間43kmの玉川上水が完成すると、その余水が渋谷川にも流され
るようになる。
この玉川上水は神田・亀有・青山・三田・千川などと共に「江戸の六上水」と呼ばれ江戸市民の大切な生活用水を供給することとなったが、
四谷大木戸からの余水放流により渋谷川・古川も大幅に水量が増えた。
そのそもこの玉川上水が造られた目的は江戸城内将軍家への良質な飲料の供給にあり、余水を市中に供給するのは二儀的な目的であったといわれが
、完成から約70年後の享保7(1722)年、幕命により神田・玉川を除く亀有・青山・三田・千川の各上水は、突如廃止されてしまう。
これは上水が完備された時期から偶然に大火が増えた事により、上水が大火の原因という誤った風説が流され幕府も無視できなくなったこと、
市中に井戸が完備され始めたこと、上水の水量不足による将軍家の使用水を十分に確保することなどが原因であったと考えられる。
この中でも珍説である「上水が大火の原因」と力説したのは時の将軍八代吉宗の側近で重儒者の室鳩巣といわれている。
しかし、三田上水は停止から2年後の安永3(1724)年沿線農村の願い出によりはやくも「三田用水」としての使用を許され復活した。
江戸名所図会・広尾水車
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富嶽三十六景・隠田の水車
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江戸六上水
No. | 名 称 | 開 設 | 供 給 | 備 考 |
1. | 神田上水 | 寛永6(1629)年 | 江戸中央・東部 | 継 続 |
2. | 玉川上水 | 承応3(1654)年 | 江戸中央部 | 継 続 |
3. | 亀有上水 | 万治2(1659)年 | 隅田川以東部 | 享保7(1722)年 廃止 |
4. | 青山上水 | 万治3(1660)年 | 江戸西部 | 享保7(1722)年 廃止 |
5. | 三田上水 | 寛文4(1664)年 | 江戸西南部 | 享保7(1722)年廃止後 安永3(1724)年三田用水として復活 |
6. | 千川上水 | 元禄9(1696)年 | 江戸北東部 | 享保7(1722)年 廃止 |
渋谷川の水車発祥
No. | 名 称 | 所有者 | 開 設 | 目標物 | 備 考 |
1. | 玉川水車 | 玉川佐兵衛 | 享保18(1733)年 | 山下橋 (水車橋) | 江戸名所図会に 掲載された広尾水車 |
2. | 柳沢水車 | 柳沢嘉兵衛 | 享保18(1733)年 | 石田橋 | 明治40年廃業 |
3. | 鶴田水車 | 忠左衛門 | 明和6(1769)年 | 鶴田橋 | 葛飾北斎の富嶽三十六景で描かれた穏田の水車 明治20(1887)年鶴田平吉所有 |
4. | 宮益水車 | 甚五郎 | 寛政5(1793)年 | 渋谷駅東口 | 杵数40本、のちの三井水車? |
5. | 忠兵衛水車 | 忠兵衛 | 享和3(1803)年 | 千駄ヶ谷 | 詳細不明 |
6. | 加藤水車 | 加藤** | 文政11(1828)年 | 庚申橋 | 明治期まで存続 |
庄右衛門・清右衛門の玉川兄弟が開発したとされるこの上水建設の実質的な陣頭指揮と立案は、あの知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の家臣
安松金右衛門であったことはあまり知られていない。
しかし幕府からの資金が底をついた後には私財まで投じて玉川上水開発に情熱を傾けた開発責任者の玉川兄弟の功績も決して否定できず、幕府も
工事完了後、兄弟に玉川姓と200石の扶持米を与え水元役に任じ、後年には大木戸に兄弟の銅像が建立され、さらに従五位の官位まで送っている。
玉川上水からの余水が流れ込むようになった後の享保年間(1716〜36年)頃渋谷川では水車の建設が始まり、
玉川家も天現寺からやや上流、現在の山下橋付近の自邸内に水車を所持していた。この水車は一般的に「広尾水車」または「玉川水車」と呼ばれ、
葛飾北斎の富嶽三十六景に描かれた原宿近辺の「穏田の水車」と共に、江戸名所図会に描かれた「広尾水車」は江戸郊外の有名な水車となった。
「渋谷の歴史」では「広尾水車」について、
〜土豪玉川氏が渋谷川をせき止めて水を庭中に導き、水車を用いて多数の杵を動かしたので名高く一般から「広尾の水車」と呼ばれました。
今の山下橋はその頃水車橋といって「江戸名所図会」にも描かれましたが、また玉川氏の後裔玉川次致氏(弁護士)が霊泉院に委託した屏風は
、明治5(1872)年の旧宅を描いたものであるといえます。
嘗(かつ)て将軍が広尾に鷹狩りの際立寄って休息したことがあり、それ以来同家の赤門を御成門と称しました。
同家では八代将軍吉宗と伝えています。〜
などとあり玉川家の功績は時代が下っても些かも衰えていなかったと思われる。また、
「ふるさと渋谷の昔がたり第三集」にはこの玉川家の様子を、
- 広尾に渋谷川の水を利用した「玉川の水車」がありました。玉川金三郎という人が主人公でしたからこの呼び名が生まれましたが、
東京の水車の中でも規模の大きいことでは指折りのものでした。
- この玉川家には、「御成門」と呼ぶ門がありました。徳川将軍が玉川家を訪れた時に出入りした門というので、たいせつにしていたようです。
子供の頃に見たのですが、いつでも固く閉じられていました。
- 玉川家では後に養子さんを迎えましたが、水車屋は引き継いだものの「御成門」は開かれて、そこから出入りしていました。
- 子供のころの記憶ですが、「玉川水車」では、渋谷川の水が少なくなると長い時で二時間ほども水を堰き止めて、水をいっぱいに
してから水車を回していました。一日に二、三回はこれを繰り返していたようです。ところが、堰き止めた時には下流では水がなくなりますから
、フナやアユがたやすく捕れました。子供たちの楽しい遊びでした。
- 「玉川水車」は、電力で水車を回すようになって、やめてしまったのでしょう。記憶では、大正の初めごろまではあったようです。
などとあり、また「郷土渋谷の百年百話」では第十九話「渋谷川の水車」の項で加藤水車所有の加藤氏が所有する明治9年の「水車仲間帳」を掲載しており、
その中に玉川金三郎の名を見ることができる。そしてさらに明治21年東京府農商工一覧 水車数では玉川水車の規模を、
米搗き人:10名
一年間の働き:7,200石
取上げ代金:900円
として掲載しているが、これは渋谷駅付近にあった三井八郎右衛門の所有する水車をはじめ他の古川・渋谷川水車の中でも最大級の規模であったこと
を表している。
表1−明治期 古川・渋谷川(渋谷駅より下流)に流れ込む水流の水車(支流も含む)
設置 河川 | No. | 台帳 No. | 名 称 | 水車所在地 | 目標 | 用 途 | 諸 元 | 備 考 |
渋谷川筋 | 6. | 734 | 玉川金三郎 水車 | 豊多摩郡渋谷町 下渋谷1677番地 | 山下橋 (水車橋) | 精米 | 水輪2丈4尺幅6尺・下射樋長13間・堰高5尺5寸5分・搗臼11台 | 享保18(1733)年新設・江戸名所図会の広尾水車 |
★不思議な「玉川」地図。
謎の「玉川」地図
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これまで水車の情報をお伝えしてきたが、そもそも麻布周辺の水車を調べ始めることになったきっかけは、数年前に近代沿革図集で
不思議な記載があることに気がついた事による。この地図は文久2(1862)年「御府内 沿革図書」が元になっているようだが、
麻布の西南部を描いた地図上、広尾橋付近の広尾神社正面に「玉川」と記された場所がある。この敷地は堀田摂津守下屋敷の広大な敷地
を一部譲り受けているような形で存在しており、いろいろと調べたが書籍、情報は一切確認できなかった。
当初私はこの屋敷に玉川家の
名高い広尾水車が設置されていたものと勘違いしていたのだが、水車の情報を調べ始めるととすぐに違うことに気がついた。
すでにご紹介したように広尾水車並びに玉川家屋敷は天現寺よりさらに3つほど上流の山下橋辺にあったことが確認できた。
それでは、あの広尾神社前の「玉川」とは?.....
さっそく広尾神社に問い合わせたが、玉川家が正面にあったことは聞いたことが無いとのことで、さらに寄進物や灯籠などに刻まれた寄進者
の名前にも玉川は存在しなかった。しかし、広尾神社大奥様が若い頃に先代の宮司様から聞いた話として、
「神社前の堀田家は江戸時代まで笄川を引き込んで水を溜めた池があった。その池ではたまに当主が船を浮かべて園遊会を催していた。」
と伺った。これまで調べた水車の多くが、直接水車を川の流れで回す事は少なく、いったん水路で引き込んだ流水を使用して水車を回していた
事が多かった事とも合致する条件で、証拠や実証は一切無いのだがここに小規模な水車があったかもしれない事を推測できる逸話として記憶している。
これまでは文献や広尾神社のみを追ってきたが、広尾近辺は氏神様として「広尾稲荷神社」「渋谷氷川神社」そして祥雲寺門前が麻布宮村町代
であったことから麻布氷川神社当もその範疇として調べていきたい。そして、いつかこの「玉川」の謎が解けたおりにはまたご紹介させて頂くこととする。
今回は玉川家とその開拓した玉川上水をお知らせしたが、玉川上水は明治期を迎え幕府が滅亡した後には一瞬の空白期間をおいて
その重要性から東京府へと管理を移管された。
その際に玉川上水を四谷大木戸で分岐したものの完成から約70年後の享保7(1722)年に廃止されていた「青山上水」の遺構を復活して麻布方面への
上水を計画し、明治13(1880)年着工、明治14年竣工の麻布区の区営水道「麻布水道」が完成した。しかし、江戸期の古い施設などを使用したためか
この麻布水道の管理は完成後、わずか3年後の明治17(1884)年には東京府に移管されている。
今回、この項のタイトルを当初「広尾(玉川)水車と三田用(上)水 」としていたが、三田用水もお知らせが長くなりそうなので、次回とさせて頂くこととする。
天現寺橋から見た渋谷川上流方面
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194.三田用(上)水と分水
前回玉川兄弟、安松金右衛門が造った「玉川上水」を含む「江戸六上水」が江戸に整備されたことをお伝えした。
そして「神田上水」「玉川上水」以外は完成後、幕命によりわずかな期間で閉鎖されてしまったこと、
その中で「三田上水」が流域周辺の農民の嘆願により閉鎖後二年あまりで「三田用水」として復活したことをお伝えした。
江戸六上水
No. | 名 称 | 開 設 | 供 給 | 備 考 |
1. | 神田上水 | 寛永6(1629)年 | 江戸中央・東部 | 継 続 |
2. | 玉川上水 | 承応3(1654)年 | 江戸中央部 | 継 続 |
3. | 亀有上水 | 万治2(1659)年 | 隅田川以東部 | 享保7(1722)年 廃止 |
4. | 青山上水 | 万治3(1660)年 | 江戸西部 | 享保7(1722)年 廃止 |
5. | 三田上水 | 寛文4(1664)年 | 江戸西南部 | 享保7(1722)年廃止後 安永3(1724)年三田用水として復活 |
6. | 千川上水 | 元禄9(1696)年 | 江戸北東部 | 享保7(1722)年 廃止 |
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三田用水解説板
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今里橋欄干
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並木橋 鉢山分水渋谷川合流口
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渋谷川・古川 清流復活事業
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この三田上水は寛文4(1664)年、中村八郎右衛門・磯野助六の両名よって開かれた上水であるが、単独の上水というよりも玉川上水の分水と考えた方がわかりやすく、下北沢で玉川上水を分水し芝までを流れる水道であった。
その行程は下北沢→駒場→神泉→恵比寿→目黒駅付近で大きく弧を描いて白金台→白金猿町をほぼ尾根伝いに流れていた。開設当初は飲料用の生活水を
確保するための「上水」であったが、享保7(1722)年幕命により廃止された3年後の安永3(1724)年には流域周辺農民の嘆願により早くも農業用水
として復活している。
これは流域住民にとって三田用水がいかに重要であったのかを物語るエピソードであると考えられるが、その用水閉鎖の要因として、
- @ 麻布御殿通水説
- 三田上水は、現在の南麻布南斜面に広大な土地を有していた将軍家の別荘、麻布御殿(白金御殿とも富士見御殿とも呼ばれ、麻布富士見町の由来ともなった)
への通水を主な目的として開設したが麻布御殿は元禄15(1702)年四谷からの大火で焼失してしまい、その後再建されなかったので三田上水も必要性が無くなったので
廃止された。しかし流域周辺農民が止水によって大いに困惑し幕府陳情へとつながり再び通水が許された。
- A 風水説
- 大火が頻発するのは上水が普及したためとする噂が巷で拡がり、将軍吉宗が儒者の室鳩巣に詰問した結果。
という2説が定説となっている事が「江戸の上水と三田用水」という書籍に記されている。
@麻布御殿通水説
について「江戸の上水と三田用水」では、
麻布御殿の開設を元禄11(1698)年としているので、三田上水が完備された寛文4(1664)年よりも
麻布御殿の開設が30年以上も後の事であり、また停止時期も麻布御殿の焼失が元禄14(1701)年、上水廃止が享保7(1722)年であるため、
御殿造営による通水開始説の可能性を否定している。
そして、麻布御殿の元となる「麻布御薬園」が開設したのが寛永7(1630)年(小石川植物園サイトによると1636年とも)いわれているので、
「麻布御殿」を「麻布御薬園」と言い換えてもさらに30年あまりの隔たりがある。しかし、「江戸の上水と三田用水」は麻布御殿、御薬園への
通水を否定しているのではなく、上水設置の最要因として「麻布御殿」、「麻布御薬園」では無理があるということである。
そして「江戸の上水と三田用水」は目黒・白金山塊の尾根を通る三田用水から古川を超えて麻布山山塊南端の麻布御殿への通水には古川をまたぐ必要性
があり神田上水の懸樋(水道橋)のように古川をまたぐ小規模な懸樋が使用されたものと推測しているのは大変に興味深い。
A風水説は、
上水の完成時期と江戸大火が頻発した時期が偶然になさなったため、巷間で上水が大火の原因とささやかれ将軍吉宗の耳に入った。
吉宗がブレーンの一人である儒者の室鳩巣に詰問した結果、
風は空を吹いているが、元来は大地の息で、地から生ずるものだ。ところが、近年は「地下は機を織申如く、縦横十文字に」水道が通じているので、
「悉く地脈を断」ち、風を拘束する力がなくなっている。それで風はうわつき、火を誘い、十町、二十町の遠くまで飛び火する。その上、土は常に
水気を含んで潤っている筈なのに、地中に水道が通っているので、「同気相感」の道理から、土中の水気は水道に吸収されてしまう。それで大地は
乾燥し、風もまた乾燥して、いよいよ火災を大きくする。「江戸の上水と三田用水」
とその問いに答え、その結果このもっともらしくも奇妙な室鳩巣説により上水は廃止と決定されてしまった。これにより江戸庶民はさぞかし困惑したと
思うが、意外にもその様子は記されていない。これは当時掘井戸が普及し始めたことが大きな原因となっているようだ。しかし、井戸水では農業用水を
十分に賄うことは到底出来ないので、上水の恵みを受けていた「農民」による嘆願が開始されたものと考えられる。
三田用水は多くの分水口を持っていた。そしてこれらの分水口は尾根を通る用水本流から目黒川と渋谷川・古川にほぼ均等に分けられている。
これはおそらく偶然の一致ではなく、用水管理の課程で話し合われた結果と考えた方が良さそうである。そして明治期以降は本来の農業用水
という使用目的から工業用へと大きく変換することになり、沿線では陸軍火薬庫への通水、ビール工場への通水と共に水車業への通水が増えることとなる。
しかし、何故水車を回すのに古川・渋谷川、目黒川の水を直接利用して川筋で回す水車が少なかったのかという疑問に対して「江戸の上水と三田用水」は、
川の勾配が緩やかで堰を設けると遙か上流まで影響が及び隣接して同じ流域で水車を操業するのが難しかった為だと記している。
また、この勾配について「郷土渋谷の百年百話」では天現寺橋付近の渋谷川の標高を海抜9.5m、そして渋谷橋付近を13.5mとして両者の距離1.0kmで傾斜を「千分の四」、
宮益橋間を距離1,45km、傾斜を「千分の二」程度とし、玉川水車で五尺五寸(1.667m)の水を張ると水かさは上流600mの一本橋付近となるが、庚申橋付近で同様の水張り
をすると、並木橋付近まで影響が及び水車の輪転を妨げるとある。
そして再び「江戸の上水と三田用水」は、水車には上掛け(上射式)と呼ばれる水輪の上部から水を掛ける方式、中掛け(中射式)
水輪の櫓に水を掛ける方式、下掛け(下射式)と呼ばれる水輪の下部に流水を当てる方式があったが、勾配の緩い河川では下掛け(下射式)以外の方法を用いることは
出来ず、上掛け(上射式)に比べて圧倒的に水輪を回す駆動力が弱かった。これに比べて高台の尾根を通る三田用水からの落差を利用すると、水自体の重量も手伝って
大変に効率が良かったからであるととも記されており、渋谷川筋に直接水車を回すより高台の尾根を走る三田用水の落差を利用した方が効率的であったという、
至極もっともな回答が述べられている。
三田用水の分水
No. | 目黒川 | 用水 | 古川 渋谷川 | 分水口 目標 | 放流口 目標 | 備 考 |
1. | 弁天堂取水口 | | |
2. | 山下口分水路 |
↓
↓
↓
↓
三
田
用
水
↓
↓
↓
↓
| |
3. | 溝ヶ谷口分水路 | |
4. | | 神山口分水路 | 駒場東大 | 道玄坂下 | 宇田川・宮増橋 |
5. | 駒場口分水路 | |
6. | 中川口分水路 | |
7. | | 鉢山口分水路 | 西郷山 | 並木橋 | |
8. | 別所上口分水路 |
9. | | 猿楽口分水路 | 代官山 | 氷川橋・比丘橋下流・渋谷橋上流 | |
10. | 旧・田道口分水路 |
11. | | 道城池口分水路 火薬庫 | 目黒学院東方 | 桜橋・新橋 | |
12. | | 新・田道口分水路 | 防衛省施設脇 | 臨川小学校対岸 | 火薬庫(道城池)分水路 |
13. | | 銭瓶窪口分水路 | 日の丸自動 車学校横 | 狸橋辺 | 白金分水 |
14. | | 渋ヶ谷口分水路 | 自然教 育園前 | 狸橋辺 | 白金分水 |
15. | 鳥久保 | |
16. | 新・久留嶋上口分水路 | |
17. | 妙円寺脇口分水路 | |
18. | | 久留嶋上口分水路 | 白金今里 | 新古川橋 | 玉名池〜玉名川 |
19. | 旧久留嶋上口分水路 | |
20. | 白金猿町 | |
| ↓ | | ↓ | ↓ |
| 目黒川に余水放流 | | 細川用水 芝西応寺まで | 石榴坂方面 |
|
|
三 | 三田用水本流 |
|
古 | 古川に流出 |
|
渋 | 渋谷川に流出 |
|
目 | 目黒川に流出 |
|
|
流域本位の流入口表は→こちらをどうぞ
このリストからも三田用水を利用していた水車が多かった事をご理解頂けると思う。リストの最後に掲載した「32.大橋富太郎水車」を三田用水豊分羽沢分水に
分類しているが、これは水車台帳に、
[引用]
玉川上水三田用水豊分羽沢分水路(字常磐松百七番地池水ヨリ流出、字豊分羽沢田地の下流)
とあることを典拠とした。しかし、この水路は三田用水とは古川を挟んだ対岸の「いもり川」を差していると思われ、他の複数の書籍中にも
「三田用水豊分羽沢分水路」は確認できないことから水車継続営業願い提出者である所有者の誤記であると考えられる。
またこの記述が間違いないものとすると、現在臨川小学校となっている場所の古川対岸の白金台地から掛け樋(水道橋)を通して古川を渡ることとなるが、
いもり川は出典の「字常磐松百七番地池水ヨリ流出」の「常磐松池」の他にも「豊沢池」、「羽沢の池」などからも水流があったので、不自然な通水と思わざるを得ない。
(この件に関して、何か情報をお持ちの方はお手数ですが、ご一報頂けますと幸です。m(__)m)
★細川上水
三田上水の終点 白金猿町
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|
細川上水が通った高輪通り
|
|
細川家伊皿子屋敷跡(高松宮邸)
|
|
これまで三田用水とその分水をご紹介してきた。この三田用水は正式には下北沢で取水した水を白金猿町(現在の都営浅草線高輪台駅前交差点付近)まで運ぶ水路なのだが、
実はそこで終わってはいない。さらに本流は猿町→本立寺北→水車場跡→御殿場小学校へと下って居木橋で目黒川へと余水を流すことになる。しかし一方では白金猿町から高輪通りに出て伊皿子聖坂を通過して
慶應大学で三田通りを東京タワー方面に向かい、旧入間川(いりあいがわ)流域付近で右折して芝西応寺に至り寺を周回した後に余水を当時の薩摩藩邸重箱堀に流したと
思われる「細川上水」が存在した。
この細川上水は細川家が開設して、猿町から西応寺間の約3.6kmを流れていた。....との説が一般的なのだが、実は細川用水は玉川上水を下北沢で取水し
三田用水とほぼ同じ経路で流れる単独の水路であった。つまり三田用水下北沢→白金猿町の総延長が8.5kmであるのに対して、細川上水は猿町→西応寺間3.6kmを足して
総延長12.1kmとなる。後年に三田用水に合併されてしまうのだが、開設時には全く別のものであった。
また、三田用水が幕府により設置されたのに対して、細川上水は細川家が単独で行った事業で、上水の沿革としては三田用水の寛文4(1664)年設置に対して、細川上水
の設置は明暦3(1657)年と7年あまりも細川上水の方が早く設置されている。
この細川上水について文献は、
・東京市史稿
三田用水は元二流ありて、一は三田上水(白金上水)と称し、三田芝辺の飲用に供せしものにして、其の創設は寛文4年の事である。
他の一流は細川上水にして、万治年中細川越中守、用水堀を開削して己が私邸に引けるものである。
・芝区史
三田上水には二つの主なる支渠があった。一つは万治年間細川越中守がその私邸に導水した細川上水であり、他は元禄11年白金御殿(麻布御殿)造営に際して、白金村で分水した
白金上水である。
などとしている。余談だが「江戸の上水と三田用水」筆者はこの2書籍の記述について、
- 東京市史稿が白金上水を三田上水の別称としているのは「誤」。(白金上水は三田上水の別称ではなく分水)
- 同書が細川上水開削を万治年間としているのは「誤」。「正」は明暦3(1657)年。その根拠は熊本藩の公文書「細川家記」に「三年(明暦)6月、熊本城主細川綱利
(越中守)」伊皿子屋敷ニ池ヲ穿チテ、玉川上水ヲ注グ」とある。
- 芝区史が細川上水開削を万治年間としているのは「誤」。
- 同書が主なる支渠は「誤」。(細川上水は三田上水の支渠ではなく独立した流路)
としてその誤りを正している。
つまり細川上水は、明暦3(1657)年6月に細川家が玉川上水下北沢付近の取水口から少なくても伊皿子の藩邸(現在の高松宮邸・高松中学敷地)までを単独で引いた飲用の上水であった事がわかる。
また「江戸の上水と三田用水」は細川上水の下北沢の取水口が三田用水の取水口とかなり近接した位置にあり、その間の距離は328mであったと記している。
そしてそれ以降上水の経路についても、後発の三田上水は先発の細川上水を模倣して設置いると指摘している。
しかしそのようにして建設された細川上水も上水建設時に同時に廷内に9.96mの落差を有する「滝」を設置するに及んで滝のみの出費が500両と破格な建設費であったため
江戸詰めの重役が国元へ不満の書状を送っている。その結果国家老が急遽出府して殿に諫言、滝とそれを落とす池の破却を決め、帰国したという。
これは殿の酔狂を超越して、私邸内の滝の作成が幕府の禁忌事項に触れるための緊急措置であったという。
その後の享保7(1722)年、三田上水が閉鎖された後には細川上水も同時に閉鎖されたという。そして、三田用水が復活した際にも細川上水は個人所有の上水であったため、
周辺住民が使用することは出来ないので再開されることはなかった。しかし「江戸の上水と三田用水」には細川用水が空堀となった以降、その筋の工作によって処理され
三田用水と一体化された。との意味深な記述がありおそらく幕府に取り上げられたらしいことが記されている。私はこれ以降公的な水道となった元細川水道は
三田用水として芝西応寺まで延長して庶民にも使用されたのではないかと考えるが....もちろん根拠は無い。
不幸にして上水という玩具を幕府に取り上げられてしまった細川越中守だが、実はもう一つ同じような玩具を有していた。それは現在品川区の戸越公園となっている
敷地は細川家下屋敷であったが、越中守はこの屋敷にもやはり玉川上水からの品川用水を引き込んでいる。今回の話題からは逸脱するので詳細は省略するが、
興味のある方はお調べ下さい。
しかし、.....全く懲りないお方である(^^;
さらに伊皿子屋敷での後日談を一つ。
細川家伊皿子屋敷に隣接する七千石の旗本板倉修理の屋敷(高松中学辺の低地)に、その頃すでに空堀となっていた細川家の細川上水の溝から
豪雨による水が溢れ落ちてきた。板倉家は再三細川家に苦情を申し立てたがいっこうに改善されず、業を煮やした修理は江戸城登城の際に細川綱利の孫を見つけると
殿中で刃傷に及び、殺害した。これにより板倉家は断絶となったという。これは延享4(1747)年8月の事といわれているので、すでに享保7(1722)年にその役目を終えて
いた細川上水が、なおも殺人の原因となってしまった事件と言える。
さらに元禄15(1702)年12月14日から、この細川家伊皿子屋敷では大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士17名が翌16年2月3日に切腹するまでの期間預けられた屋敷でもあり、
当時はまだ水流も十分にあったと思われる細川上水の水を使用した庭池などを見て切腹までの三ヶ月を過ごしたことは間違いないと思われる。機会があればその逸話
なども探し出し、またご紹介したいと思う。
最後に再び三田用水へと話題を戻すが、三田用水は江戸期から用水管理組合を作り、その使用を厳しく管理していた。
三田用水が開設された寛文4(1664)年には三田用水組合会により管理されていたが、上水廃止後に用水として復活した後は田畑への灌漑を目的とした、
用水管理組合が成立した。組合の構成区域は上目黒村、上目黒村上知、中目黒村、中渋谷村、下渋谷村、白金村、今里村、三田村、代田村、上大崎村、
下大崎村、谷山村、それに北品川14か村で、構成員はその地域の農耕地主であった。そして明治になると、組合は水利組合法施行に伴い名称を
「三田用水普通水利組合」とした。
この組合についての詳細は記録を見つけることが出来なかったので不明であるが、
三田用水普通水利組合が管理所有していたこの用水が、時代が下って都市化によ農耕地がなくなり、三田用水の敷地は道路や公園に替わった中で、
これら元用水であった土地の所有権が、三田用水を管理している「三田用水普通水利組合」にあるとして、所有権確認の裁判を提起した結果、
昭和44(1969)年最高裁により否定的な判決が下されている。そして三田用水が完全にその流れを止めたのは、つい最近の1975(昭和50)年だという。
次回はいよいよこれまでのの総集編として渋谷川・古川の水車の全容などをご紹介させて頂き、水車ネタは最後とする。
三田用水取水口跡
|
|
参考文献
・近代東京の水車−「水車台帳」集成−
・近代沿革図集
・江戸の上水と三田用水
・郷土渋谷の百年百話
・ふるさと渋谷の昔がたり
・渋谷の橋
・渋谷の歴史
・渋谷町史
・1912年発行東京市及接続郡部地籍台帳
・1912年発行東京市及接続郡部地籍地図
・玉川上水と分水
・明治21年 内務省地理局地図
・明治40年 東京郵便局地図
・地べたで再発見「東京」の凸凹地図
Wikipedia
・三田用水
・渋谷川
・細川綱利
・熊本藩
関連記事
・福沢諭吉の狸蕎麦水車
・広尾(玉川)水車
・麻布な涌き水
・渋谷川〜古川
・赤穂浪士の麻布通過
・狸狐の仕業(白金)
・白禅寺の幽霊<白金>
・高縄原の激戦<高輪台>
・中川屋嘉兵衛(芝白金)
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195.渋谷川開口部〜古川区域の水車総集編
当初、広尾橋そばの玉川家について調べようと始めた一連の水車ネタだったが、調べ始めると明治期の渋谷川・古川流域にかかる水車
が多かった事に正直驚いてしまった。そして水車台帳に記載された所在地を明治期の地図にプロットしてゆく課程において、渋谷川・古川
から遠く離れた位置に数多くの水車が存在したことから、当初プロットミスかと思い何度も再検証してみた。しかしその位置に間違いはなく、
原因が「三田用水」にあると気がつくまでにしばらくの時間を要した。それは今まで漠然と描いていた「渋谷川・古川の流れに直接水輪を入れて
水車を回している」という江戸期の玉川水車から連想されるイメージとは大きく隔たりがあるもので、さらに中には100台あまりの臼をついていた
水車などもあり、田園風景で小さな水車小屋がのどかに廻っているというイメージも、明治期の水車には通用しない事が判明した。
これらの漠然としたイメージを整理するため、下記にまとめてみた。
麻布水系 Google Map
より大きな地図で 麻布の水系 を表示
|
|
★暗渠部より下流の渋谷川・古川流域にかかる水車比較
(※「三田用水神山分水」は宇田川を経て宮益橋で渋谷川と合流するため対象から除外し、30項目での比較とする。)
取水水流系列比較
No. | 流 路 | 該当水車件数 | 川別割合 | 川系割合 |
A. | 古川本流 | 古川 | → | 古川 | 3件 | 10.0% | 16.7% |
B. | 支流 | 笄川 | → | 古川 | 2件 | 6.7% |
C. | 渋谷川本流 | 渋谷川 | → | 渋谷川 | 3件 | 10.0% | 13.3% |
D. | 支流 | いもり川 | → | 渋谷川 | 1件 | 3.3% |
E. | 三田用(上)水 | 白金分水 | → | 古川 | 2件 | 6.7% | 70.0% |
F. | → | 玉名川 | 2件 | 6.7% |
G. | 道城池分水 | → | 渋谷川 | 3件 | 10.0% |
H. | 猿楽分水 | → | 渋谷川 | 4件 | 13.3% |
I. | 鉢山分水 | → | 渋谷川 | 9件 | 30.0% |
I. | 豊分羽沢分水 | → | 渋谷川 | 1件 | 3.3% |
計 | 30件 | 100.0% | |
最終流出河川比較
No. | 最終流出河川 | 取水流域 | 該当水車件数 | 割合 | 備 考 |
@ | 渋谷川 | C,D,G,H,I | 5か所 | 21件 | 70.0% | 渋谷川本流、いもり川、三田用(上)水道城池分水・猿楽分水・鉢山分水 |
A | 古川 | A,B,E,F | 4か所 | 9件 | 30.0% | 渋谷川本流、笄川、玉名川 |
これらのことから、渋谷川・古川流域の水車の7割が三田用水の恩恵で水輪を回し、使用した水の7割が渋谷川に落とされていたことが、
おわかり頂けると思う。しかし何故、渋谷川・古川流域で直接操業する水車が少ないのかを疑問に思われる方も多いと思われるが、
前述したとおりに、大きく分けて2のつの理由があるものと思われる。
- 水輪の輪転には上掛け(上射式)と呼ばれる水輪の上部から水を掛ける方式、中掛け(中射式) 水輪の櫓に水を掛ける方式、下掛け(下射式)と
呼ばれる水輪の下部に流水を当てる方式があったが、勾配の緩い河川では下掛け(下射式)以外の方法を用いることは出来ず、上掛け(上射式)に
比べて圧倒的に水輪を回す駆動力が弱かった。
-
渋谷川流域の土地の勾配は「千分の四」となだらかで、水車を回すための堰を設けるとその影響は上流500m以上にもなり、
その間に水車が設置出来なかった。
また、使用した水の最終流出が渋谷川7割が古川3割となり渋谷川流域の方が水車が多いのは、
- 上記河川の勾配が古川ではさらに緩やかとなり、堰を設けた場合の影響がさらに長距離となる。
- 白金分水口を最後に三田用水が南部(白金今里方面)に離れてしまうので古川との距離が拡がる。
などが原因と思われる。
しかし、例外的な水車として小山橋の3基があげられる。赤羽橋から下流域はほぼ水平となっている古川では干満の影響は天現寺橋辺まで
及ぶと思われるが、下流部にあたる一の橋近辺は潮の干満の影響が大きく、流域に直接水輪を入れて転輪することは不可能のように思われる。
そして水車台帳では一つの堰で3基の水車が使用されていたことが記載されているが、これも他の水車には見られない現象である。そして、
東京都立公文書館で「青山八郎右衛門」を調べたときに不思議な記述を目にした。それは2基の水車を所有する「松本亥平」に提出した
営業許可願いで「水力汲水装置販売」というタイトルであった(と思う)。しかしその時には「青山八郎右衛門」の調査にかかりきりであったので
タイトルを確認しただけで内容は確認していない。全くの想像だが、この装置に下流域で水車業が営業できた秘密が隠されているのかもしれない。
後日機会があれば、再調査してみたいと思っている。
また、三田上水は前述したように本来白金猿町で終端となっていて、復活後に細川上水を併合して芝西応寺・赤羽橋方面に流れるのだが、
三田上水当時の終端である白金猿町で実は終わっていない。その後余水を五反田方面に下り目黒川に放流していた。この目黒川合流口を書籍、
ネット上で探したが残念ながらどれも特定していない。しかし唯一「江戸の上水と三田用水」という書籍の巻頭に昭和期と思われる合流口の
写真が掲載されている。ただし残念なのはその写真からも場所を特定することが出来なかった、そこで品川郷土資料館にレファレンスをお願いして
同一書籍の写真を確認して頂いた上で結果をお聞きしたが、残念ながらその写真から場所を特定することは出来なかった。しかし、
- 写真背景にわずかに映っている斜面は池田山か御殿山である可能性が高い
- 古地図には居木橋直前までの水路が掲載されているが、合流点は記載されていない
などがわかった。そこで居木橋から下流の東海橋(第一京浜国道)までの北岸にあるそれらしい合流口を探したところ、下記の3か所が確認できた。
@小関歩道橋−やや上流に直径1mほどの丸形排水口
A居木橋−やや上流に一辺30cmほどの金属製蓋付き正方形排水口
B要津橋脇−北詰下流側・金属製蓋付き直径50cmほどの丸形排水口
さらに、この3か所を品川郷土資料館に問い合わせると、
- @、Aは古地図とも一致する場所なので可能性が高いが、猿町本流の他にも分流があるので特定できない。また写真と同一地域かも特定できない。
- Bは江戸期から東海時の寺領内なので可能性は低い。
とのことであった。しかし、写真に写された合流口のあまり大きくなさそうな管の径、合流口の形状(四角形)から個人的にはAが一番近いと考えている。
三田用水本流→目黒川合流口? @小関歩道橋北詰上流
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三田用水本流→目黒川合流口? A居木橋北詰上流
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三田用水本流→目黒川合流口? B要津橋北詰下流
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目黒川合流口?
より大きな地図で 麻布の水系 を表示
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これまで5回にわたってお伝えしてきた「水車ネタ」も今回でまとめて終了.....などと考えていたのだが、水車や流れていた渋谷川・古川、
三田用水とその分水などの位置を確認するために、生まれて初めて渋谷川暗渠開口部付近から古川河口部までの全区域7kmを数度に分けてたどってみた結果、
次回以降は予定を変更して引き続き古川、渋谷川の支流・分流開口部、三田用水分水合流点、調査中目にした野生動物などとともに、今回までに
お伝えできなかった渋谷川暗渠から上流の隠田川などで稼働していた水車ネタなどを順次お伝えする予定。
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196.延宝年間図の古川
延宝年間(1673〜1681年)地図
|
古川の流域を調べるため江戸期の地図を見ていると、「近代沿革図集別冊V・延宝年間図付総索引」という地図上に面白いものを見つけたので今回は水車ではなく江戸初期の「古川」をご紹介。
港区郷土資料館が発行している「近代沿革図集」は江戸末期から明治・大正・昭和と同一の場所を比較できる便利な地図帳なのだが、江戸期については幕末の文久2(1862)年の地図が
掲載されている。しかし280年あまりも続いた江戸期の地図が1種類のみであるため、補強の意味で江戸初期の延宝年間(1673〜1681年)と中期の安永年間(1772〜1780年)地図が別冊として発行されている。
右に紹介するのは延宝年間地図で、四之橋から新堀橋あたりまでを切り出してみると現在とは全く違う古川が姿を現した。その相違点を図中に赤字でプロットした番号を追ってご紹介。
その前に、この地図が「延宝年間」とだけあるので、もう少しピンポイントでいつ作成されたのかを知る手がかりがないかと地図中に確認してみると、
地図上部に「5.甲府」とあり(正確には甲府殿と記されている)、甲府藩主松平綱重邸であることから少し範囲が狭まり、1678〜1681年の間ということがわかる。
- 1. 現在の赤い靴のきみちゃん像
- 現在「赤い靴のきみちゃん像」が設置されている十番パティオで「目標物」とお考え頂きたい。
- 2. 増上寺隠居屋敷 1659年設置。
- 芝増上寺の法主などの高僧が隠棲した屋敷。36世・祐天上人(弟子の祐海が目黒に祐天寺を建立)隠棲時には将軍綱吉、生母・桂昌院が度々訪問した。
- 3. 1659(万治2)年〜現在の麻布氷川神社社地。
-
- 4. 旧十番温泉あたりで行き止まりになっていた十番通り。
-
- 5. 甲府殿
- 1678(延宝6)年に造られ延宝6(1678)年に拡張された甲府藩主松平綱重(家光第三子、五代将軍徳川綱吉の兄、子は六代将軍家宣)邸地。
- 6. 現在の新一の橋付近にあった橋(字判読不能)掘留の堰?
- 掘の堰か橋だと思われる。
- 7. (判読不能)
-
- 8. 新堀と書かれている。
-
- 9. 一之橋か?一〜四之橋まで記載無し。
- 地図上で唯一川名が記載されているのは下記「三田川」のみ。
- 10. 三田川と書かれている。
- 古川の別名・旧名か?またはこの記載地点が三田領域であったための里俗名か。地域により古川は、赤羽川・新堀川とも呼ばれた。
- 11. 現在の小山橋辺りで右折している古川。銀杏稲荷辺で細流あり。
-
- 12. 現在の二之橋と三之橋の中間と思われる橋
-
- 13. 古川が直角に西に曲がり、南北に架けられた三之橋。
-
- 14. 入間川痕と思われる細流。
- いりあいがわ、いるまがわなどと呼ばれた古川分流。古川が分岐している地点。
- 15. 三之橋と現在の古川橋の中間に架けられた橋。
-
- 16. 絶江坂下の橋。
-
- 17. 「麻布御薬園」とかかれ、のちに麻布御殿となる敷地。
- この地図の10年ほど後の元禄11(1698)年に将軍の鷹狩りなどに使用された休憩所、麻布御殿(白金御殿)が完成するが、それ以前は幕府の薬園であった。
三田用水白金分水はこの御殿への通水を目的として開削されたとの説もあるが、三田用水が完備されたのは寛文4(1664)年であるため確証はないが麻布薬園への通水
が目的だったとも考えられる。この薬園ないし御殿への通水が行われていた事は確かだと思われるので、四之橋近辺には白金側から御殿があった麻布山塊側へと
古川をまたぐ「水道橋」が架けられていたこととなる。
- 18. 本村水流
- 本村町天真時辺から古川へ下る細流。私は仮称で「本村水流」と呼ぶ。現在の釣り堀「聚楽園」もこの流路にある。
- 19. 寺群と宮村町細流
- 5の甲府屋敷造営時幕府により狸穴辺から宮村町へと移転させられた寺院群。明見山本光寺も含まれる。細流は「大隅山水流」、「がま池水流」が狸坂下で合流して「宮村町水流」
となり、現在の「公衆トイレ」先あたりでニッカ池、吉野川、はら金水流と合流し、現在のたいやき浪速屋付近で堀に落ち込んでいた。(※細流の流路・名称はDEEP AZABU記入)
- 20. 芋洗坂、ニッカ池、原金、宮村町水流が流れ込細流。
- 現在のたいやき浪速屋あたりで堀に落ち込んでいた。掘留が馬場となった後に流路が現在の十番通りに変更された。この十番通りに流れていた細流の
合流川は後の大正期には買い物客がこの川に落としたものを拾う専用の「川さらい人」がいたという。その後合流川は暗渠となり、「十番大暗渠」と呼ばれることとなる。現在も一の橋横に開口部を確認することが出来る。
-
- 21. 鳥居坂が描かれていないが「鳥居丹波守」屋敷が描かれている。
-
- 22. 現在の新一之橋からたいやき浪速屋辺まで入り込んだ堀。
-
- 23.興国山賢崇寺が描かれていない。
- 寛永12(1635)年佐賀藩主により創建されている。
Google Earth
延宝8(1680)年地図
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さらに、ほぼ同時期に描かれた地図をGoogleEarthで見つけた。Tokyo1680と題された地図は延宝8(1680)年の地図とのことだが、古川の様子は一変して描かれている。
鳥居坂が描かれていないなど類似点もあるが、古川の流れが現在に近い。また橋も延宝年間(1673〜1681年)図で描かれてい「名称不明橋」が一つも描かれていない。
これはTokyo1680が細部を省略しているための描画の相違とも考えられるが、かなり細かく書き込まれている部分もあるので疑問が残る。もしこのTokyo1680地図が
正確に描かれているのだとすると、延宝年間図が描かれてから数年の短期間で古川流路や橋の改修が行われたこととなり、延宝年間図の方が古い地図だと
考えることが出来る。また延宝年間図の作成された時期が1678か1679年とさらに狭まる。
この地図が描かれた時期に古川の大改修が行われており、2つの地図の相違点はこの改修工事によるものと考えることが出来る。
○古川改修工事
- @ 万治4(1661)年〜寛文12(1672)年
- この時期に古川の大きい改修工事
- A 寛文7(1667)年10月
- 川幅の堀広げ
- B 延宝3(1675)年
- 芝金杉〜麻布十番(麻布日ヶ窪)間の拡張・通船工事、川ざらい
- C 延宝4(1676)年
- 芝金杉〜麻布十番(麻布日ヶ窪)間の拡張工事完成
- D 元禄11(1698)年
- 麻布御殿造営に伴い四之橋まで通船工事
- E 元禄12(1699)年
- 麻布御殿造営に伴い芝金杉から渋谷まで川幅を拡張
-
BCについて麻布区史には、工事はさらに早いAの寛文7(1667)年に幕府により鳥取、岡山両藩に命じられ計画されたが、寛文8(1668)年の大火により延期された。
しかし、困民救済と失業救済の目的で幕府の直轄事業として延宝3(1675)年再び計画され、翌年完成した。この時の困民を一番から十番の組に分けて就業
させたので十番目の組の工区が麻布十番となったと記されている。この工事は金杉橋から将監橋までの川幅を十八間(約32.4m)、それより麻布十番までを十一間(約19.8m)
として両岸に堤防を築き、普請奉行(工事責任者)を阿部四郎五郎政重、岡田将監善次、大久保甚右衛門に命じたと記されている。
延宝8年図以降の古川流域はほぼ変わらないままの形で現在まで残されている。つまり現在の古川流域の原型となったのは三百年以上前の大改修にあった事がおわかり頂けたと思う。
しかし、改修前の姿と思われる延宝年間図も自然のままの古川というより、あたかも堀のように見える。よって、これも人為的な改修が行われた後と考えられる。出来れば全く人為的な
改修が行われていない、太古の昔からの自然な姿の古川を目にしたいと、さらに古い地図を検索しているが、残念ながら今のところ目にしていない。
この延宝年間図を眼にするきっかけとなったのは前述したとおり、古川流域を調べていたからなのだが、もう少し正確に言うと古川の唯一の分流「入間川」を調べるのが目的だった。
そこで、次回は謎にみちた「入間川」と古川の真の姿?をご紹介する予定。
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197.古川唯一の分流「入間川」
水車を調べている課程で、その必要性から三田用水と共に調べ直してきた古川だが、子供の頃から見てきたどぶ川程度の認識しか
持ち合わせていなかったので、改めて調べてみるとその多様性に驚いた。
古川定義
二級河川
城南三河川(渋谷川・古川、目黒川、呑川)のひとつ
河口から天現寺橋までが古川、天現寺から宮益橋(暗渠)までが渋谷川、それより上流部を「隠田川」
この一連の古川・渋谷川流域は多くの支流、細流や三田用水などが流れ込んでいるが、唯一古川筋から分岐して流れ出している
のが入間川(いりあいがわ、いるまがわと読み、入合川とも書かれた)とよばれる分流で、江戸期以前はこちらが古川の本流?ともされる
河川である。
そしてこの入間川は、江戸初期にはすでにその姿を一部にしかとどめていない幻の川でもある。
入間川が江戸港に流出する芝浜辺
延宝年間江戸図(1673〜1681年)
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この入間川について近代沿革図集(芝・三田・芝浦)には入間川(いりあいがわ・入合川)の項で、各書からの引用として、
- ・新編武蔵風土記稿
-
渋谷川は東流して白金村の地先を流れ三田村に達している。むかしは三田村辺で2派となり[一つは古川]、一つは豊島・荏原界を
流れて本芝に至り、いま里俗に入間川(いりあいがわ)と唱える川に通じ、芝橋の東から海にはいった。この流れは正保(1644〜1647)
改定の国図にのせているが、寛文年中(1661〜1672)の江戸図や、その後のものにはない。いま本芝町の入間川と唱えているのは、
松平豊後守の屋敷の溝下水の堀に続き、2・3町で海にはいっている。そのほかは川筋の伝えもなくなっている。
- ・新編武蔵風土記稿
- 芝金杉町と本芝町境を通って海に入る。川幅一間ほど。
- ・文政町方書上
-
芝金杉通四丁目の南境にある。むかしから入間川と唱えた。川幅は芝橋のあたりで三間。水上は松平豊後守屋敷の下水から出て、
北側は芝西応寺町・芝金杉通四丁目・芝金杉町裏五丁目えを経て、芝金杉浜町から海へ流れている。
- ・文政町方書上
-
川幅二間ほど。芝金杉通五丁目の南境にある。
- ・文政町方書上
-
東の方二間三尺、中ほど三間三尺、西の方八尺。芝西応寺町町内南通地先を流れる。
入間川とも
入間川
とも唱えた由。
- ・文政町方書上
- 幅五尺。本芝壱丁目町内北の地先にある。
- ・文政町方書上
- 幅一丈。本芝材木町町内の北にある。むかしは入合川と唱え、入間川とも唱えた。
- ・東京府志料
-
水源は第二大区八小区三田四国町、鹿児島邸跡の下水から流れ出し、南は芝材木町・本芝一丁目と、
北は芝西応寺町・芝金杉町四丁目・芝金杉浜町との間を経て海に入る。延長3町16間、幅10間、深さ3・4尺
、潮汐にしたがって芝橋まで船が通じる。
- ・新選東京名所図会
- 芝浜の入堀である。三田四国町境で掘留となる。赤羽川の支流の余波であろうか。汐入りの堀で退潮のとき
河床が露出し船は泥につく。
- ・東京案内
- いまは半ば埋立地となる。
- ・東京市域拡張史
-
大正7(1918)年、本芝一丁目地先の入間川が埋め立てられ、芝区に編入された。坪数1210坪
- ・芝区史
- 震災後の区画整理で芝浦から直線に三田四国町に貫通する道路になった。
入間川の流路(港区の文化財)
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正保年中改訂図の入間川 1645年-1648年頃
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元禄年中改訂図の入間川 1688年-1703年
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などとある。
また「港区の文化財−三田と芝その2」では景観の変遷の項で、その流路図(右図参照)を掲載しており、また文中においても、上記「新編武蔵風土記稿」などを引用して
入間川を紹介している。しかしその流路、古川の分岐点などの詳細な記述は見つからない。
そこでさらに他の書籍を確認すると「わが街の歴史 改訂版」という書籍の「古川の今昔」の項に、こちらも「新編武蔵風土記稿」を引用して、
〜古川は、むかし下流で二つに分かれ、海に注いでおります。その一つは武州豊島郡と荏原郡の郡境を流れて、本芝(徳川時代の末期まで
芝橋という橋が東海道にかけられていました。)を通り、現在の重箱堀から海に出るのを、下流で入間川と呼ばれており、現在とほぼ同じ流れで
金杉橋を経て芝浦の海に入るのを、赤羽川或いは新堀川と呼んでいたようです。〜
またその分流地点については絵図などから判断して、
古川は昔、現在の三之橋と二之橋の間と思われるあたりから下流に向かって右折し、綱町(現在三田2丁目)及び、現在の慶応義塾大学の岡を谷川となって貫いて、
芝橋(柴橋とも書いたが現在は無く、昔、本芝交差点のあたりにあったようです)を潜って海に注いでいたものと考えられます。
長禄年間図(1457-1460)
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入間川の海への放流口「重箱堀」
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長禄年間図(図解)
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三之橋東詰下流部の入間川分水点?
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網代橋欄干
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古川橋南詰下流部の入間川分水点?
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などと記されている。そして巻末には「新編武蔵風土記稿」掲載の元禄年中改定図を転載しており、これは上記「港区の文化財」図が参考にしていると思われる。
またさらに太田道灌が江戸城を築城した当時の長禄年間(1457-1460)の古地図には大ざっぱではあるが、古川橋で北に曲がらずそのまま直進して入間川域を流れる古川のみが記されており、
これからすると古川の本流は三之橋→二之橋→一の橋〜
赤羽橋−金杉橋を経て海に出る後年の姿ではなく、入間川を経由して直進し現在の東京港口で海へと落ちる流路が本流であったと考えられる。
この地図には古川橋以降の現在の流れは
記されていないが、本来こちらの川筋(仮に赤羽川筋と呼ぶ)は六本木、日ヶ窪、宮村町、善福寺柳の井戸からの水流などの細流が合流して一之橋以降は現在の古川の流路となって
流れたものかと、根拠も確証も無いながらも想像する。なをこの細流筋は江戸初期までは堀割へと落ち込んでいたのだが、堀が埋められ町屋となった以降は現在のたいやき浪速屋前付近で
右折して十番本通りへと流れさらに現在信号機が設置されている中央交差点(小林玩具店前)で左折して十番本通りをそのまま直進し、一之橋脇で古川と合流している。この十番本通り
の川筋は大正時代まで暗渠化されていなかったので、本通りの南側商店前には必ずこの川をまたぐ店自前の板橋などが架けられていた。またこの時期震災の影響が比較的少なかった麻布十番
は都内でも有数の歓楽街として賑わい、このどぶ川には買い物客が誤って川に落としたものを拾う専用の「川さらい人」がいたといわれる。その後この川に蓋が架けられて暗渠化されることになり
十番大暗渠として現在も通りの下に存在する。またこの川を越える橋「網代橋」が暗渠化されるまで現在のパン店「モンタボー」(麻布十番2-3-3)
付近に架けられていて、その欄干は現在、十番稲荷神社の「ガマ像」前付近に展示されている。
話は入間川に戻るが、この川の分水点について「わが街の歴史 改訂版」では「現在の三之橋と二之橋の間」としており、「港区の文化財図」を見ても、古川橋からは少し距離があるように思われる。
しかし一方では、長禄年間図などに描かれた直進する古川が確かだとすると、古川でカーブせずにほとんどそのまま直進したものと思われる。これについて実際に現地でその痕跡を確認したところ、
暗渠化された開口部が古川橋南詰20mほど下流に直径1.2mほどの円形開口部があり、それより下流には三之橋東詰下流部に50cmほどの円形管(中がコンクリートで密閉されている)がある。
しかし、そのどちらが入間川の旧跡なのかは判断できず、また両方共にただの生活用水排水管である可能性も捨てられない。
またそもそも「入間川」の名称が入間川であるならば「入合川」
とも書かれていたことから「入合」が語源となっているのかもしれない。これを広辞苑で調べると、
- ★入合(入会)の定義
- 一定地域の住民が特定の権利をもって一定の範囲の森林・原野に入り、木材・薪炭・まぐさ等を採取するなど共同利用すること。「―漁業」
となっていることから、この川の水流を流域住民が農耕などに共同使用したとも考えられる。
また入間川と読まれたのだとすると埼玉県などを流れるの「入間川」を
想像したものとも考えられ、大宮、浦和近辺にあった源経基の拠点、平将門の拠点、氷川神社の本宮である大宮氷川神社などとの関連から、
芝の入間川流域近くに点在した竹芝伝説、源氏伝説との因果も想像される。もっともこれは何の確証もない邪説としてであるが....。
いづれにせよ、入間川は江戸期以前頃までは古川橋を直進して三田→芝→芝浦と流れ落ちる川で、いつの時代にか古川橋で流れを大きく北に曲げ、
さらに三之橋近辺から2流に分けて
片方を赤羽川水流と合流させ、片方をほぼオリジナルの流路で海まで落とし込む人為的な改造が行われたのではないかと、私は想像する。
一之橋で古川が東にカーブしているのは正面に飯倉の山塊が邪魔をしているので納得がいく。しかし、古川橋で大きなカーブを描いて突然北行する
のは前方に山塊などの障害物が見あたらない事を考えると、自然に行われたとは思いがたい。もちろん邪説で何の根拠もない。
参考文献
・近代沿革図集−芝・三田・芝浦
・麻布区史
・港区史 上巻
・芝区史
・わが街の歴史
・文政町方書上
・港区の文化財−三田と芝 その2
・長禄年間江戸図
・近代沿革図集別冊V・延宝年間図付総索引
・近代沿革図集別冊T・安永・昭和対照図
・合考荏土覧古図
・大日本地誌大系−新編武蔵風土記稿
・地べたで再発見「東京」の凸凹地図
スライドショー
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198.本村町の山車人形と獅子頭
麻布中央部の旧町名と本村町
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麻布南部(現在の南麻布1〜3丁目付近)の本村町
は麻布の中でも早くから人が住み着いたところで、その名が示すとおり
麻布の中心的な集落であったという。江戸中期この周辺がそれまでの江戸郊外の「村」から正徳三(1713)年に江戸町奉行支配下の「町」に編入され
町域となった後も「本町」とは名乗らず「本村町」であった(同様の町名として「宮町」とはならなかった宮村町がある)。そして港区南麻布という無味乾燥な住居表示となった現在まで本村町の名を町会名として残し、
その由緒を伝えている。さらについ近年まで江戸期に町域を更に分割した「字」名を一時期町会名として残しており、その字名について
本村町会史(久松安 著)には、
〜北東の方を「谷の戸」、北の方を「上之町」、西の方を「西之台」、南を「絶江」、延命院の南隣りの町家を「仲南町」と呼んだ。また、曹渓寺門前を
「大南町」と呼び、西福寺あたりを「川南町」と称した。
寛文元年、仙台の松平陸奥守が巣立野に下屋敷を賜るにおよんで、上之町から四の橋に通じる「海道」が新しくできて、道筋に面した町屋を「新町」と呼んだ。〜
また、麻布区史は、
- ○上之町
- 北の方を指して呼ぶ。
- ○谷戸町
- 東北を云った。
- ○西之台
- 西の方を指す。一に御殿新道とも云った。これは地続きに白金御殿があったからである。
西の台は単に西に当たる高台と云う意に外ならない。
- ○絶江
- 一に絶口に作る。南の三ヶ町、即ち川南町・大南町・仲南町を呼んだ。この称は此の地の曹渓寺を開いた僧絶江和尚徳の成らしむるところである。
- ○川南町
- 新堀端とも称し、新堀川南を指す。
- ○仲町
- 新町とも云い、絶江の方面を別称した。
と、本村町における字の成立を伝えている。
さらに本村町を南は四之橋にい至り、北は麻布氷川神社〜一本松〜暗闇坂〜鳥居坂を通る往還の尾根道と新たに作られた道筋である「新道」について「御府内備考」を引用して、
往古本村往還は同所東の方町裏に有之、奥州海道と申候。寛文元年丑年中松平陸奥守様御屋敷に相成候節右古道は御同人様御預り地に相成、新に道筋出来致候故新町と唱候
尤其砌は不残百姓商売家に御座候。〜
と、伝えている。
現在港区内で最大の管理区域を有する本村町会には、江戸期から伝わる麻布氷川神社の祭礼に使用された町神輿・山車の装飾品が残されており、その代表的なものが
毎年、麻布氷川神社例大祭時のみ本村町会神酒所に展示される、江戸期の獅子頭一対と山車人形二体である。
○素盞鳴尊・武内宿弥の山車人形
山車人形と獅子頭
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「素盞鳴尊」山車人形
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「武内宿弥」山車人形
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武内宿弥山車人形の由緒書
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山車人形の素材は「素盞鳴尊」と「武内宿弥(別名:高良大神)」で素盞鳴尊は氷川神社のご祭神、武内宿弥は天皇を補佐した忠臣として、どちらも山車人形の素材として比較的多く使われている。
この武内宿弥を素材とする場合、神功皇后と対になっていたり、武内宿弥が幼い応神天皇を抱いているものもよく見かける。
この応神天皇は大宮氷川神社を勧進したという伝説もあり氷川社とのつながりも浅からぬものがあるが、残念ながら本村町や他町会に応神天皇人形があったのかは確認できない。
また応神天皇の別称:誉田別尊命は一般的に八幡神社の祭神であり、御田八幡神社においても主祭神として祀られている。
そして、同じく本村町会に保存されている昭和45(1970)年に書かれた武内宿弥人形の由緒書には不思議な文言が残されている。
天保3(1832)年に武内宿弥人形が作成された事と共に記されている武内宿弥の経歴は、明らかに御田八幡神社の由緒である。
御田八幡神社の遷座遍歴を見ると武蔵牧岡で勧進されたことが記されており、武蔵牧岡は現在の白金・三田周辺と
いわれていることから、本村町の一部も牧岡であったとしても不思議ではない。(麻布御殿が別称:白金御殿と呼ばれていたのと同義)
そして本村町の一部の「字」が御田八幡神社の氏子であった可能性も、確証はないが否定もできないと思われる。
そこで「武内宿弥人形の由緒書」を港区郷土資料館の学芸員にお見せしたところ、前半の御田八幡由緒部分と中盤以降の山車人形作成にまつわる部分は元々違う文章を、昭和45年に1つにまとめたものではないかという見解を示された。
しかし、私にはこの由緒書は御田八幡と本村町の「いにしえ」のつながりを伝える文言に思えてならない。
武内宿弥人形は近年、顔の塗り直し・衣装の一部を修復しており、素盞鳴尊人形も胴部の破損により展示が控えられていたが、修復した上で再び展示が行われている。
この二体の山車人形を修復保存するために昨年、「NPO法人 麻布氷川江戸型山車保存会」が立ち上がったそうで、将来は山車部分まで含めた完全復刻をするための活動が開始されるとのこと、今後の活動が楽しみである。
○獅子頭
山車人形と共に本村町会には江戸期の獅子頭も保存されている。この獅子頭は雌雄1対の二体あり、由緒書によると文久2(1862)年作成とされる。
これは前述した山車人形が作成されてからちょうど30年後のことで、当時は主に氷川神社の宮神輿渡御の際の行列の先頭を進み、
巡幸路を清め祓うために使用されていたといわれる。時代は下るが昭和10(1935)年に現在の千貫神輿が新調されたおりの巡行絵図が本村町会会館に残されているが、そのおりにも先頭付近にこの獅子頭を見ることが出来る。
そしてそれ以来二度と行われなかった千貫神輿巡行に変わって、つい最近までこの獅子頭を神輿に仕立てて本村町内を巡行していた。
なを、この獅子頭の脇に展示されているのは四神の「青龍」と「朱雀」であるが、本来存在したと思われる「玄武」と「白虎」の行方は不明とのこと。
獅子頭の由緒書で目を引くのは製作者「後藤三四良(郎) 橘恒俊」である。この彫刻師は山車彫刻・寺社彫刻でかなり有名である。天保元(1830)年生まれとの
ことなのでこの獅子頭を
作成したのは、恒俊が32歳のときとなる。また、千葉を中心として寺社彫刻や山車への彫刻を手がけた彫刻師後藤義光の兄弟弟子であったようで、
父の「三次郎 橘恒俊」は京橋在住。恒俊の名は世襲であったと思われ、明治8(1875)年生まれの三四郎恒俊の子供である3代目恒俊も三四郎恒俊を名乗っている。
また制作世話役の最上段に書かれている氷川徳乗院現在栄運とは、江戸時代すべての神社は別当寺に所属しており、
その寺の住職を別当(社僧)とよんだ。この別当は神事も行っていたので「栄運」という別当が麻布氷川神社の社務も執り行っていたものと考えられる。
★徳乗寺(徳乗院)
真言宗 (古義真言宗 冥松山 徳乗院 芝愛宕 真福寺末寺)
元文5(1740)年開基寂 氷川及び朝日稲荷別当 享保20(1735)年北日ヶ窪より本村に移り維新後廃絶(麻布区史)
○郷土資料館調査
天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付@
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天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付A
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平成20年から平成21(2009)年にかけてこれらの祭礼用具について港区郷土資料館の調査が行われた。
その結果を「麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告」として報告書が作成されその成果を、
★調査成果
- 山車人形2点 文久二(1862)年
- 獅子頭1対(2点)
- 幕5点
- 屏風1点
- 置物(鳳凰・龍)各1点
- 御神銘軸物1点
- 「氷川社」扁額1点
- 「麻布上之町」扁額1点
- 昭和41年銘扁額1点
- 神酒徳利4点(供箱) 文政十(1827)年
- 祭礼絵額1点 昭和10(1935)年
と、記している。また調査の結語として、
★結語
麻布氷川神社祭礼は、記録によれば天保3(1832)年に山車の巡行を伴う大規模な祭礼が行われなくなったとされますが、その30年後に
一対の獅子頭が奉納(または制作)されていることは、祭礼の変化を考える上で重要です。現在判明している文政13(1830)年・天保3(1832)年
のいずれの祭礼番付にも獅子頭は描かれておらず、文久2年以降に何らかの理由があって祭礼に獅子頭が登場するようになったと考えられますが、
その理由や祭礼での位置付けは今後の課題といわねばなりません。麻布本村町会が管理しているこれらの祭礼用具は保存状態が良好で、
しかも複数の関連資料が周辺に存在します。今後は現地での聞き取り調査を深め、祭礼用具個々の詳細な記録化を行う予定です。
末筆になりますが、この調査に多大なご理解とご助力を惜しまなかった麻布本村町会各位に、深甚の謝意を表します。
などと報告された。
これらの貴重な江戸期麻布氷川神社の祭礼用品が本村町に残されているのは、幕末の動乱や震災、戦災そして、バブル期のなんでも金銭化してしまう発想から地元住民が全力で守ったことに
由来していると考えられる。つまり歴史的な資産が残されているのは単なる偶然ではなく、地域住民・町会関係者などの大変な努力の末に現在も引き継がれていると考えるのが妥当である。
そして、麻布氷川神社の祭例時、本村町神酒所で年に一度のみ公開されるこの貴重な獅子頭・山車人形を、一人でも多くの方がご覧頂くことを願ってやまない。
◎ 2011年麻布氷川神社例大祭 : 9/10(土)・9/11(日)
○関連項目
・むかし、むかし1-8 氷川神社
・むかし、むかし12-199 本村町獅子頭の彫工 後藤三四郎橘恒俊
・釜無し横丁
・むかし、むかし1-17 三田小山町
・むかし、むかし4-65 徳川さんのクリスマス〜麻布本村町(荒 潤三著)より
・二つの東福寺の謎
○参考書籍・資料
・本村町会保存資料集
・麻布区史
・本村町会史
・江戸木彫史
・江戸神輿
・麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告
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199.本村町獅子頭の彫工 後藤三四郎橘恒俊
渋谷金王八幡神社 所蔵獅子頭 伝・左甚五郎作
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本村町所蔵 獅子頭銘
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本村町所蔵 獅子頭由緒書
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本村町所蔵 獅子頭(雄獅子)
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本村町所蔵 獅子頭(雌獅子)
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前章で本村町会所蔵獅子頭の製作者「後藤三四良(郎) 橘恒俊」についてお知らせしたが、今回はその人物についてのご紹介。
江戸における彫刻師(彫りもの大工=彫工)の系統は江戸初期〜中期までは「和泉家と高松家(二代まで)」が中心となっていた。
江戸彫り物というと、日光東照宮の「眠り猫」や落語「ねずみ」で有名な
左甚五郎を思い浮かべる方も多いと思うが、この左甚五郎
は複数人格の集合体、または架空の人物というのが定説のようだ。そして、その時代の左甚五郎の彫刻とされるものは無銘彫刻であり、
その殆どが和泉家後継者たちの作と想定されている(別説甚五郎実在説も存在するが)。
その後、江戸彫工は和泉家と高松家の他に東都彫工の源流といわれる「嶋村家」も幕府御用勤(官工)として勢力を伸ばし、寛政時代頃まで隆盛であった。
しかし、六代源蔵嶋村俊規のときに御用勤を改易となり、嶋村家は衰退していくこととなる。これに変わって御用勤となったのが「東都後藤家本流五代茂右衛門後藤正綱」で、
文化時代(1804〜1817年)以降は、後藤流が隆盛となる。この急激な後藤家の隆盛から、嶋村家の御用勤改易は後藤家謀略説もささやかれる。
「後藤家本流五代茂右衛門後藤正綱」は多くの弟子を持っていたが、その筆頭弟子は「後藤三治郎橘恒俊(以降三治郎恒俊=初代恒俊)」で、本村町獅子頭を作成した
「後藤三四郎橘恒俊(以降三四郎恒俊=二代目恒俊)」の実父である。
初代恒俊は、江戸京橋に住んでいたことから「京橋の後藤」と呼ばれることもある。
弟子には、
- 後藤三治橘恒徳
- 豊次郎
- 後藤利兵衛橘義光
- 後藤三四郎橘恒俊
などがおり、「四丁目門人」とも呼ばれる豊次郎は後に二代小松家を襲名、後藤利兵衛橘義光は南総に多くの門人を抱えた名人で千倉後藤家を隆盛させた。
そして、実子であり弟子でもある本村町獅子頭の製作者・後藤三四郎橘恒俊がいた。
しかし、これほど弟子に恵まれた初代恒俊も、前述の通り「後藤家本流五代茂右衛門後藤正綱」の筆頭弟子であったにもかかわらず、後藤家本流六代目を襲名する
ことは叶わなかったようだ(一説には後藤家本流六代目を襲名したのは「後藤富五郎藤原正信」)。
本村町獅子頭の作者である二代目恒俊は、天保元(1830)年生まれとされているので、本村町獅子頭を制作した文久二(1862)年は、32歳の時と推定される。
また前述「橘恒俊」は初代の「三治郎恒俊」、二代目の「三四郎恒俊」の他に三代目「三四郎恒俊」がいるのでややこしいが、
初代三治郎恒俊からみると、二代目恒俊は実子、三代目恒俊は実の孫となる。つまり「橘恒俊」は三人存在し、「三四郎恒俊」としては二人が存在することとなる。
この中で、私が本村町獅子頭の作者を二代目恒俊と断定するのは、
- 初代恒俊は「三治郎恒俊」であり、万延元(1860)年に逝去しているので、本村町獅子頭を制作したとされる文久二(1862)年には存命していない。
- 三代目恒俊は生年が明治8(1875)年なので、本村町獅子頭を制作したとされる文久二(1862)年には、まだ生まれていない。
との理由による。
30歳で、父親であり師匠でもあった初代三四郎恒俊と死別した二代目恒俊も、その18年後の明治11(1878)年3月11日に逝去することとなる。享年48歳という若さであったと
推定され、その時、遺児である三代目恒俊はまだ3歳であった。
この本村町獅子頭は、当時の江戸彫工で最も勢いがあった東都後藤流
(本流ではないにせよ)の作品というに留まらず、二代目恒俊が亡くなる16年前の、人生でも職人としても最も円熟していたと思われる32歳の作品としても、
非常に存在価値の高いものということが出来ると思われる。
○父・三次郎恒俊(初代恒俊)の作品
江戸彫工サイト(※謝辞参照)の情報により、私が住む品川区にも本村町獅子頭製作者後藤三四郎恒俊
の父・師匠の初代三治郎恒俊の作品が残されていることが判明したので
早速撮影に訪れた。庫裏で撮影趣旨をお伝えし許諾求めると快諾され、本堂を撮影させて頂いたものをご紹介。
- 名称:大乗山 清光寺(日蓮宗本光寺子院)
- 住所:東京都品川区南品川4-2-8
- 作品場所:本堂正面の向拝龍と左右の木鼻獅子
- 作成者:後藤三次郎橘恒俊
日蓮宗本光寺子院 大乗山 清光寺
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後藤三治郎橘恒俊作 木鼻獅子(左)
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後藤三治郎橘恒俊作 向拝龍
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後藤三治郎橘恒俊作 木鼻獅子(右)
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○謝辞
この項を作成するに当たって、彫工・寺社建築・江戸における流派について全くの素人であった私がこの記事を書くにあたって、そのほとんどを参考とさせて頂いたのは
江戸彫工サイトの掲載記事であった。
もちろんそのまま流用などはせず、独自の調査も行ったが、このサイトの教示がなければ当サイト一連の記事は書けなかったと思われる。
このような詳細かつ正確な情報を発信している管理者様にはこの場を借りて、格別の謝辞を述べさせて頂きたい。
○参考文献・情報
- 江戸彫工サイト
- 本村町会保存資料集
- 麻布区史
- 本村町会史
- 江戸木彫史
- 江戸神輿
- 麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告
○関連項目
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200.麻布氷川神社祭礼の謎
天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付@
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天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付A
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昭和10年麻布氷川神社 千貫神輿渡御巡行絵図(オリジナル) :十番未知案内サイト提供
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麻布氷川神社の江戸期の祭礼について調べていると、年代によって祭りの有り様などが現在とはだいぶ違う物であったことがわかる。
天保3(1832)年に描かれた「麻布氷川明神御祭禮番付」にはたくさんの山車が描かれているが、神輿は宮神輿と思われるものが最後列にあるだけである。
これについて「江戸神輿」(小沢宏著)という書籍の中で麻布氷川神社宮神輿を作成した「宮惣」の五代目村田桂一氏が「江戸神輿の歴史」と題した文中、
〜略〜東京で祭りといえばすぐに神輿を連想するほど、祭りと神輿をきり離しては考えられない。〜中略〜しかしかつて江戸の祭りの主役は山車によってしめられていた。
〜中略〜山車は神輿よりもはるかに大きく、構造上の制約がないので工夫の余地もあり、奇抜な趣向をもりこむことも自由で、作るほうの立場から見ても好適な素材
といえる。〜略〜
などと記しており、江戸期における祭りの主役が山車であったことを伝えている。そして同時に山車の豪華さと自由な発想が時には幕府の禁忌に触れたとされており、
さらに明治初期に山車から神輿へと祭りの主役が変遷した事情を、
・国家神道設立に向けた法令等の変更
・電灯線敷設
・市電開通
など首都ならではの「近代化」という事情をあげており、またこの主役交代は東京以外にはあまり見られないと、神輿主役への変遷を東京独自のものとしている。
また、江戸期の祭りについて、
〜江戸時代の祭礼で隔年毎に行われていたのは、山王、神田の両社だけで、その(他の)神社の祭礼は必ずしも定期的に行われていたとはかぎらない。
深川八幡では寛政7(1795)年から文化4(1807)年の12年間、浅草三社では天明元(1781)年から文政6(1823)年の四十三年もの長い間祭りが途絶えていたとは、
今日の両社の祭りの盛況を知るものにとってはまさに驚異的な事実である。
このように天下祭偏重の中にあって、江戸の各神社は何年かに一度の祭礼をそれぞれの慣習と世情にあわせてとり行ってきたが、すべての神社に神輿が
整備されているという状態ではなかった。〜
と記しており、享保20(1735)年の記録で「麻布氷川毎年例祭」と記録されているのも、祭礼が毎年行われていたことの特異性を訴えたかった事によるのかも知れない。
しかし麻布氷川神社の祭礼も、上記村田桂一氏文章にもある事情から時々の慣習と世情にあわせてとり行われていたことが想像できる。
麻布氷川神社の祭礼は文政5(1822)年から天保3(1832)年まで10年間祭礼が開催されなかったとの記述があるが、天保3(1832)年の祭礼時には
祭礼番付も発行され、また同年には武内宿弥人形が制作されている。
しかし、この年に発行された「麻布氷川明神御祭禮番付」には何故か武内宿弥人形は描かれていないが、いづれにせよ化政文化のまっただ中に行われた麻布氷川神社の祭礼は
祭礼は化政文化のまっただ中である氏子や氏子町会らの熱望等の世情の高まりから行われた様子がうかがえる。
そして30年後の文久2(1862)年には名工後藤三四郎により本村町の獅子頭が作成されるが、この時代は武内宿弥人形が制作された30年前とは世相が一変して幕末攘夷運動のまっただ中であった。
獅子頭が作成される四年前の安政6(1859)年にアメリカ公使館が麻布山善福寺に設置されたことによる襲撃事件や暗殺事件が麻布周辺で頻発するに及んで、それまで遠い世界の事であった「攘夷」がごく身近な問題として
氏子町会や住民にのしかかってきたことが想像される。
獅子頭は祭りの山車や神輿の巡行では行列の先頭を進み、魔を払う役割を担っていた。想像の域を出ないが、この時期に獅子頭を新調したのは祭礼の神輿・山車の巡行道中の間近にいる夷狄(アメリカ公使館員やその場所を訪れる諸外国外交官など)を打ち払い、
祭礼中に攘夷事件が起こらないようにとの願いが込められたものと思えてならない。
いずれにせよ、多くの住民の不安と切なる願いが込められて作成されたと想像される本村町の獅子頭は、その重要性を現代に伝えている。
麻布氷川神社祭礼と一般的な歴史的事象
西暦 | 年号 | 麻布氷川神社祭礼関係事象 | 一般的事象 | 将軍 |
1735年 | 享保20年 | 8/17麻布氷川毎年例祭 | 享保の改革・享保の大飢饉(1732年) | 8代吉宗 |
1791年 | 寛政3年 | 8/17麻布氷川明神祭礼、出し練物等出る。其の後休 | 寛政の改革(1787〜1793年) | 11代家斉 |
1822年 | 文政5年 | 8/17麻布一本松氷川明神祭礼再興。産子町々出し練物を出す。其後中絶す。 | 町人文化が爛熟(化政文化)・シーボルト長崎に到着(1823年) |
1830年 | 文政13年 | 祭礼番付 | |
1832年 | 天保3年 | 武内宿弥人形制作・祭礼番付 | |
8/17麻布一本松氷川明神祭礼。四十年目にて産子の町々よりねり物等出る。(文政5年に記載あり。十年ぶりの誤りか) | | |
1838年 | 天保9年 | 8/17麻布一本松氷川明神祭礼。十五日神輿宮下町の仮屋へ御旅立出あり。今日産子町々廻りて帰輿あり。 | 蛮社の獄(1839年)・天保の大飢饉(1833〜37年)・伊勢お陰参り流行
| 12代家慶 |
1862年 | 文久2年 | 9月 獅子頭制作 | ヒュースケン暗殺(1861年)・生麦事件(1862年8月)・清河八郎暗殺(1863年) | 14代家茂 |
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※麻布氷川神社の祭礼期日は「東京、わが町 宮神輿名鑑」(原義郎 著)巻末の江戸東京祭礼神輿年表より抜粋
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