むかし、むかし−事件




1.振り袖火事(明暦の大火)
明暦3年(1657年)本郷の本妙寺から出火、1月18日から20日にかけて江戸の大半を焼いた。焼失武家屋敷1200、寺社300、町屋120町 江戸城も西の丸を除き本丸、二の丸、三の丸、天守閣を焼失。死者108,000名の大火事。
施餓鬼の法会の時、形見の振り袖を焼いたが、強風に煽られ本堂の経文や障子などに燃え移り、江戸期で最大の大火となった。その振り袖のいきさつは.....

遠州屋彦右衛門の娘梅野は上野の花見で寺小姓を見初め、寺小姓が着ていた紫縮緬に菊を染めた振り袖を作って、夫婦遊びをした。がかなわぬ恋で恋煩いの末梅野は、亡くなってしまう。 哀れんだ両親は、菩提寺の本妙寺へおさめたが、和尚は無情に売り飛ばしてしまう。しかしその振り袖を着た娘が次々と病死。三度までも寺に寄進されてくる。執念の恐ろしさに施餓鬼の法会で燃やしたのが 火事の始まりだった。
この遠州屋彦右衛門の店は百姓町(桜田町)にあった。
ちなみに麻布はこの火事では、一軒も焼けなかったが、明和9年(1772年)2月29日の目黒行人坂を火元とする大火(死傷者9,000人)の時は、あ組の活躍もむなしく、相当焼けてしまったらしい。
火事の後、資材不足に商人がつけこみ物価が10倍に跳ね上がった。世直しのため「安永」と改元したが、庶民から狂歌で皮肉られた。

「年号は安く永しと変われども諸色高直(しょしきこうじき)いまにめいわく(明和9)」

稲垣利吉氏が調べた所、麻布消防署の記録によると麻布は、寛永18年(1641年)から文久3年(1862年)の220年間に45回大火に遭遇している。その内、麻布が火元となる火事を以下に。

・享保6年(1721年)善福寺門前より出火、愛宕下まで延焼。
・宝暦12年(1762年)日ヶ窪より出火、赤羽橋まで延焼。
・明和8年(1771年)鳥居坂上、戸川内膳邸より出火、永坂、十番、古川より高輪まで延焼。
・寛政5年(1793年)藪下より出火、白金遊行寺まで延焼。
・同6年 (1794年)芋洗坂より出火、日ヶ窪、一本松、雑色より古川町まで延焼。
・享和2年(1803年)1月1日永坂より出火、十番、雑色、古川まで延焼。
・同年同月 12日坂下町より出火、雑色町全焼。
・文化7年(1810年)宮下町より出火、久保町辺まで延焼。




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2.ヒュ−スケン事件

麻布近辺は、江戸末期から外国の施設が、多くあった。高輪東禅寺に英国総領事オルコック、三田済海寺にフランスベルク−ル、飯倉にドイツ公使、伊皿子の長応寺にオランダ公使、そして麻布の善福寺にはアメリカ公使館があった。 万延元年(1860年)3月、前年の安政大獄が原因となる桜田門外の変で、井伊大老が暗殺されると、攘夷の思想が横行して外国人への襲撃、焼き討ちなどが相次いだ。
同年12月には、アメリカ公使館通訳ヒュ−スケンが暗殺された。ヒュ−スケンは、アムステル生まれのオランダ人。アメリカに帰化し志願してアメリカ公使ハリスの書記兼通訳に、年俸1,500ドル。 ハリスの信任が厚く、代理も務めたので攘夷派から憎まれた。 万延元年12月5日、幕府からの要請で、赤羽橋の接遇所でプロシア使節との交渉通訳を終えたヒュ−スケンは、馬に乗り中の橋から小山町天祖神社の前あたりまで来たところ、 物陰から抜刀した武士達が斬りつけてきた。護衛の武士は、役に立たず、ヒュ−スケンは斬られて重傷を負い、近隣の人の知らせを受けた善福寺用人らが戸板に乗せて同寺内の宿舎であり、愛人のお鶴も住む善光寺に運び医師の手当てを施したが、死亡した。葬儀は同寺でアメリカ公使ハリスにより行われ、イギリス、フランス、オランダ、プロシャの代表が参列した。 が、善福寺は、朱引(江戸城から半径一里以内は、土葬の禁止)内であったため、四の橋の光琳寺に埋葬された。 この事件の犯人は、薩摩藩士牟田尚平とも攘夷派の巨頭清川八郎ともいわれるが、謎のまま清川八郎も、3年後に一の橋の際で暗殺された。
その前後も襲撃、焼き討ちなどが相次いだ。
安政6年(1859年)横浜でロシア軍艦乗員2名暗殺。
万延元年(1860年)オランダ商船長デ・ボスら2名、横浜で殺害。
同年5月28日、漂流漁民からイギリスに帰化し、オルコックと来日した通訳の伝吉、刺殺。
文久元年(1861年)4月2日、高輪東禅寺英国公館が水戸浪士により襲撃焼き討。
同2年8月、生麦事件によりイギリス人殺害。
事件後幕府はオランダにいるヒュ−スケンの母親に洋銀10,000ドルを支払った。 ヒュ−スケン事件を幕府の面子をたて、賠償だけで穏便に解決したハリスも文久2年(1862年)、アメリカの外交方針変更により解任された。

関連記事
ハリスと唐人お吉

ヒュ−スケンとお鶴、お里

続・ヒュースケン事件





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3.清河八郎暗殺
出羽の国(山形県庄内)の浪士清河八郎正明は、浪士組を作る事を幕臣松平主税之介に提案した。当時攘夷派浪士の扱いに手を焼いていた幕府はこの案を受け入れ、7つの組からなる250人の浪士隊を編成し、文久3年(1863年)2月8日京都に向かわせた。 目的は、京都守護であったが、真のねらいは、京都攘夷派の取り込みと将軍上洛の警護であった。しかし清河八郎は、京到着翌日(2月24日)学習院に尊王の建白書を提出。幕府より天皇に忠誠を誓った。驚いた幕府はイギリスへの攘夷を口実に、急遽浪士隊を江戸に呼び戻したが、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら20数名が京都守護を名目にとどまり新選組となった。 3月28日江戸に着いた清河八郎らの浪士隊は、旗本屋敷や旅篭に分宿した。しかし待てども幕府からのイギリス攘夷の指示が無い事に憤慨した清川らは、独自に異人屋敷の襲撃を計画した。密偵によりこの襲撃計画を知った幕府は、清川暗殺を決定。
4月13日風邪気味の清河八郎はかねてからの約束で、一の橋の出羽上之山城主松平山城守藩邸に友人金子与三郎を訪ねた。酒を酌み交わし千鳥足で藩邸を辞したのは、4時過ぎでまだ明るかった。一の橋を渡りきったあたりで「清川先生」と呼ばれ、見ると同じ浪士隊の佐々木只三郎と速見又四郎がいた。佐々木がかぶっていた編み笠をとり丁寧におじぎをしたので、 清川もこたえて陣笠をとったところ、後ろから頭を切られた。倒れたところ、あごにも一太刀受けて絶命した。この知らせを日本橋馬喰町で受けた同志石坂周造は早籠をとばし現場に着くと、放置されていた遺体の首を打ち落とし、懐にあった500人の連判状を持ちかえった。首は山岡鉄太郎の屋敷で砂糖漬けにされその後、小石川伝通院に葬られたが胴体は無縁仏となったようで、その後はわからない。 清河八郎正明、享年34歳。 (後日、胴体は無縁仏として麻布宮村町正念寺に葬られたことが判明した。)




関連記事
・宮村町の正念寺















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4.二.二六事件
      
二.二六事件慰霊祭
興国山賢崇寺
二.二六事件慰霊祭−興国山賢崇寺
      
麻布三連隊跡の国立新美術館
麻布三連隊跡の国立新美術館
    
都立青山公園の「麻布台懐古碑」
都立青山公園の「麻布台懐古碑」
昭和11年2月26日未明、雪の東京で陸軍がク−デタ−を起こした。近衛師団の近衛歩兵第三連隊、第一師団の歩兵第一連隊、歩兵第三連隊 が中心になり1,483名の将兵が蜂起した。この中で特に歩兵第三連隊は”麻布三連隊”とよばれ青山墓地の前に駐屯地があった。私の子供の頃(昭和40年代前半)は、広い原っぱで休日にはラジコンやUコンの飛行機を飛ばしている人でにぎわっていた。
また歩兵第一連隊も現在の防衛庁にあり、乃木希典も連隊長を勤めた日本陸軍の筆頭連隊である。近衛歩兵第三連隊は、乃木坂を下ったあたりにあり、これらの連隊の所在地は極めて近い。事件の密議は、明治33年開業のフランス料理「竜土軒」で行われた。
ク−デタ−は、午前5時に一斉に開始され、
栗原隊......総理官邸襲撃、岡田総理と誤認した義弟の松尾大佐を射殺。
中橋隊......赤坂の高橋是清蔵相私邸を襲撃、同蔵相を射殺。
坂井隊......四谷の斎藤実内大臣私邸を襲撃、同内相を射殺。
高橋隊......荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸を襲撃、同総監を射殺。
安藤隊......麹町の鈴木貫太郎侍従長官邸を襲撃、同侍従長は重傷。(何故か安藤大尉がとどめをしなかったため。)
野中隊......警視庁占拠。
丹生隊......陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部占拠。
河野隊......静岡県湯河原の牧野伸顕前内大臣を襲撃。
彼らは、政治、軍部の中枢である永田町を完全に占拠し、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項目からなる要望書を提出して昭和維新の断行を迫った。
しかし天皇の逆鱗にふれたため、3日後に反乱軍となり16倍の24,000人の鎮圧部隊と芝浦沖で永田町に照準をあわせた長門、山城、榛名、扶桑など戦艦4隻をはじめとする連合艦隊の第一艦隊十数隻の警備の中、投降を始めた。が山王ホテルに立てこもった第一師団歩兵第三連隊第六中隊の安藤輝三大尉指揮下の安藤隊は投降を拒否。安藤大尉は事件の決起をギリギリまで渋り、決意したのは直前の2月22日であった。 それだけに決起の意志は固く、部下の信頼も厚かったので投降よりも”死”を選んだ。先に投降した同志の将校や伊集院大隊長の説得にも屈せず2月29日午後1時、部下158名をホテルの中庭に集め、第六中隊の歌を合唱する中ピストルで自決した。が部下に飛びつかれて急所を外し一命をとりとめた。安藤大尉の部下は貧しい農民の子弟が多く、彼自身もこうした部下達に給料の大半を使うため生活は大変に苦しかったと言われ、 こうした部下達の悲願から立ち上がった事と、逆賊として部下達を死なせる矛盾から”死”を選んだものと思われる。その後三連隊はトラックを派遣して第六中隊兵士の収容をはかったが、158名全員がこれを拒否。整然と行進して麻布の三連隊兵営まで帰った。
一方、このク−デタ−の将兵1483名の内訳は、将校20名、准士官2名、見習い医官3名、下士官98名、兵士1360名、民間人9名であった。この兵士1360名の内1027名は事件の47日前に入営し敬礼と整列ができる程度の新兵であり、その中のほとんどの者は上官の命令により通常訓練だとして参加させられた。
また歩兵第三連隊新兵の身出地は埼玉県全域と東京の浅草、足立、荒川、本所で農家、職人の子弟が主であり、当時の暮らしの状況でも「中」か「下」の子弟が圧倒的に多かったと言う。
事件後3月8日軍法会議が特設され将校20名下士官88名の取り調べが代々木の陸軍刑務所で始まった。一方兵士の取り調べも近衛師団で開始されたが、全国から無罪の嘆願書が寄せられ、憲兵隊扱いだけでも郵便515,368通、電報805,110通に及んだ。
判決により、首謀者17名は死刑、69名が有罪となった。兵士は不起訴となったが、第一師団の満州移駐と共に前線へと駆り出された。最後まで投降をためらった第三連隊第六中隊はチャハル侵攻作戦の激戦地に投入され、中国正規軍との3ヶ月にわたる戦闘で600人の戦死、負傷者を出した。これは、日中戦争の中でもずば抜けて多いと言われる。軍は「事件に参加した兵は寛大に処置すべし」との方針でのぞんだことが当時の記録にも残されているが、 一般の兵の平均招集回数が2回であるのに対し、第六中隊は3回から4回も招集されたものが多かった。
反逆罪で死刑を執行された遺体は憲兵隊、警察に監視下にあり遺族の引き取り、埋葬も間々ならなかった。状況を見かねた栗原隊、栗原中尉の父親の栗原大佐は自ら麻布の賢崇寺に弟子入りして仏門に入り遺族間の連絡に終始し、賢崇寺に墓碑を建立し、7月12日に慰霊祭の法要が営まれた。








麻布付近の二.二六事件関連地図

より大きな地図で 二.二六事件 を表示









◎参考書籍(小説)

鎮魂「二・二六」・・・・もりたなるお




◎関連項目

麻布七不思議「六本木」
ドゥリットル隊の南山上空通過(東京初空襲の麻布)
麻布の軍関係施設
防空壕
永井荷風の偏奇館と松田照子

















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5.芳川伯家婦人心中
大正6年3月7日6時55分千葉発本千葉行きの単行列車が県立女子師範学校側に差さしかかった時、若い女性が飛び込み跳ね飛ばされた。機関手が急停車した所、飛び込み遅れた同行の青年が師範学校の土手によりかかり短刀で喉を突いた。知らせにより千葉署から猪俣警部補、刑事、医師が駆けつけ検視した結果、女性は左頭部に重傷を負い直ちに県立千葉病院に運ばれ、青年は気管を切断し死亡していた。女性は上流令嬢風、青年は好男子であり各自遺書があったので身元はすぐに判明した。
青年の名は倉持陸助、栃木県生まれで芳川伯爵家の運転手であった。女性は麻布宮村町の内田山(現南山小学校)に屋敷のある勲一等伯爵芳川顕正の娘で曽祢子爵二男、寛治の婦人鎌子であることがわかった。鎌子婦人は運転手の倉持を気に入って、背広などを買い与えたり食事を同席させたりしているうちに恋愛感情が芽生えていったものと思われた。
重傷を負った鎌子婦人も4月半ばに退院し麻布の本邸に戻ったが世間の手前渋谷の隠宅にこもった。その後廃嫡され父芳川顕正の死にも立ち会えなかった。

関連記事
芳川顕正の結婚

芳川鎌子のその後

内田山由来





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6.イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の一)

安政7年正月7日(1860年)イギリス国籍の帰化人で公使館通訳の伝吉が殺害された。 その日の午後、イギリス公使オルコックはアメリカ公使ハリスを見舞い公使館のある高輪東禅寺の自室に戻ると、ロ−バック号艦長マ−チン大佐が「通訳が重傷を負って運ばれてくる」と告げた。戸板で運ばれてきた伝吉は虫の息で、傷を調べようと服を脱がした時息を引き取った。この日は日曜日(陽暦1860年1月29日(日))で伝吉は、公使館前の家の戸口に寄りかかり子供などが遊ぶのを見ていた。その時背後から2人の編み笠をかぶった武士が近づき背中に短刀を突き刺した。突き刺されたまま門番の所までよろよろ歩くと、驚いた門番はすぐに短刀を引き抜いたが傷は深く、切っ先が胸から突き出していた。、そして伝吉はそのまま倒れた。この事件をオルコックは本国のラッセル外相に急送公文書で、事件の経緯と殺害は私怨によるものと書いている。この私怨とは、短気、高慢の上自らをイギリス人と称した事と市中で度々問題をおこし、解雇された元イギリス公使館調理長なども「彼は誰かに殺される」と言っていた。また副業でラシャメン(外人の妾)を斡旋していたとも言われ、これらの事により日本人に怨まれていた。葬儀は10日麻布光林寺で各国公使館員、外国奉行2名らの会葬で行われ、同寺に埋葬された。彼が埋葬されてから1年後、同じ墓地にヒュ−スケンも埋葬される事に。


関連項目

・イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の二)
・イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の三)
・イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の四)










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7.麻布の災害



関東大震災

大正12年(1923年)9月1日朝の大地震による東京の被害は、世界でも類をみない規模のものであった。これは地震そのものによる被害よりも、その時の火災による被害の方がはるかに大きかった事による。市内163ヵ所の火元から発した火災の内79ヵ所は消し止めたが、残り84ヵ所から類焼して東京の大半を焼き、150万人の被災者と9万1千人の死者、52億円の損害を出して3日午前10時にようやく鎮火した。
南の山の小学校の項で「麻布区の被害はほとんど無かった」と書いたがそれは火災を免れただけで、建物の被害は、全壊721、半壊954、破損6309に上った。これは麻布が久しく火災をまぬがれて、古い家屋が多かったためと思われ圧死者の他、重軽傷者も多く出している。しかしそれらの被害も他所に比べると、著しく少ない。








関東大震災による港区域の罹災
区名 焼失戸数 罹災人口
21,546戸 42% 94,611名 45%
赤坂 2,365戸 15% 10,655名 15%
麻布 15戸 60名









第2次大戦


昭和19年7月にサイパン島がアメリカ軍に陥落すると、東京はB-29の行動半径に入り本格的な空襲を受けた。そしてその年の11月1日の空襲を皮切りに昭和20年8月の終戦までに100回に及ぶ空襲をうけ、40万発以上の爆弾、焼夷弾を落とされた。関東大震災では比較的罹災の少なかった麻布区も、空襲では大きな被害を出した。以下はこの地区を襲った主な空襲とその被害。



麻布区の空襲被害
事象
昭和19年
(1944年)
11月30日B29約10機が空襲、六本木、飯倉、飯倉片町に被害。
12月27日昼頃B29による空襲があり宮村町?36番地に全壊1戸軽症3名の被害を出した。
昭和20年
(1945年)
01月27日B29約70機が空襲、赤坂地区に被害。飯倉片町に友軍機が墜落、家屋に被害。
03月10日B29約150機が夜間大空襲。2時間の空襲で東京の4割を焼き尽くし、特に隅田川沿岸区域の被害が大きかった。麻布区も笄町、市兵衛町などに被害が多く区内だけで全焼1,326戸、罹災者4,317名の大被害を受けた。(東京大空襲)
04月15日
、16日
B29約200機が夜間大空襲、蒲田区、大森区が壊滅。麻布区も空襲され1,400戸が全焼、4,000名が罹災し、死者は東京大空襲を上回った。十番商店街中央交差点付近に爆弾が落下し、死傷者多数。
05月23日麻布区に空襲。
05月24日B29約250機が残存区域を空襲、麻布区も罹災。
05月25日B29が残存区域を再度空襲、麻布区はこの日の空襲だけで死者69名、重傷47名、全焼家屋8,878戸、罹災者31,576名を出した。(山の手大空襲)







港区域の空襲被害
区名 死亡 重軽傷 罹災人口 区内罹災面積(%)
257名 2,030名 68,007名 27.45%
赤坂 614名 5,553名 31,834名 75.37%
麻布 180名 1,503名 44,584名 73.24%








    
空襲で焼け野原になった麻布十番付近(「十番わがふるさと」より)
空襲で焼け野原になった麻布十番付近(「十番わがふるさと」より)


    
麻布西部〜恵比寿付近の山の手大空襲(Wikipediaより)
麻布西部〜恵比寿付近の空襲(wikipediaより)
   
太平洋戦争中の空襲による消失及び建物疎開区地図
太平洋戦争中の空襲による消失及び建物疎開区地図






★関連項目
ドゥリットル隊の南山上空通過(東京初空襲の麻布)

防空壕

続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )

続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その3−明かされた壕掘削−

続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その4−確定された宮村側入口−

続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その5−建物疎開図の謎−

続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その6−資料集−















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8.イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の二)
10年近く外国を流浪して帰国後7ヶ月で暗殺された伝吉は、摂津国大石村松屋八三郎の持船「栄力丸」(1,600石)の賄方であった。この船は嘉永3年(1850年)酒、砂糖、荒物などを江戸に運び、帰途浦賀で大豆、あずき、小麦、くるみ、鰯粕などを積み入れ志摩国大王崎に達した。10月29日の夜半から風雨が激しくなり西方に流されたため、船中の物は相談の上帆柱を切り捨て、乗員は全員髪を切り神仏にすがった。11月1日風が西風に変わり船は、12月4日まで東南の方向に漂流した。積み荷が米穀であったため食糧の心配は当分なかったが、薪、水 味噌、醤油などが残り少なくなってきた。そしてこの船は、アメリカ帆船オ−クランド号に発見されるまでの53日間に9回の暴風雨に遭い その内3回は大暴風雨であった。この「栄力丸」の乗員は17名で詳細は以下。
No. 名前 年齢 生国 その後
1 船頭 万蔵 60歳 播州加古郡宮西村 サンフランシスコからハワイ島に向かう船中で病死。同島に埋葬。
2 舵取 長助 49歳 摂州八部郡神戸 帰国。
3 賄方 浅五郎 34歳 播州西本庄 帰国。
4 甚八 36歳 帰国。
5 幾松 37歳 摂州八部郡神戸 帰国。
6 喜代蔵 32歳 播州東本庄 帰国。
7 清太郎 28歳 播州西本庄 帰国。
8 徳兵衛 29歳 備中浅口郡勇崎村 帰国。
9 京助 31歳 讃州安治浜 長崎到着後揚り屋にて病死。
10 次作 27歳 播州西本庄 広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。
11 安太郎 26歳 播州加古郡宮西村 浙江省平湖の乍浦より帰国の途次、薩州樺島沖にて病死し、長崎大音寺に埋葬。
12 民蔵 26歳 伊予国岩木浦 帰国。
13 亀蔵 22歳 芸州因之島むくみ浦 広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。
14 伝吉 22歳 紀州加茂郡塩津 浙江省平湖の乍浦より出奔。のちイギリス公使館通弁。
15 炊方 仙太郎 18歳 芸州瀬戸田 上海にてサスケハナ号に一人とどまる。のちの「サム・パッチ」
16 茶汲 彦太郎 15歳 播州東本庄 広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。のちの「ジョセフ・ヒコ」(浜田 彦蔵)。
17 表方 利七 27歳 伯州長瀬村 帰国。





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9.イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の三)
漂流を始めてから53日目の嘉永3年12月21日(1851年1月22日)、賄方の安太郎は朝日を拝もうと船端に行くと西遠方に船を発見した。驚いて皆を呼び 手を振って救助を求めた。向こうでも栄力丸に気が付き、やがて近づいてボ−トをおろし17名全員が救助された。彼らを救助したのは、アメリカの帆船「オ−クランド号(乗員11名)」で、その後43日かけて嘉永4年2月3日(1851年3月5日)サンフランシスコに入港した。その後税関用船ポ−ク号の作業員となり約1年間を過した。その間生活必需品はすべて供与され、健康のためサンフランシスコへの上陸、市内見物も許可された。しかし望郷の念から帰国の希望を役人に伝え善処を約束されたが、当時日本は鎖国中でアメリカと国交を結んでいなかった。
嘉永5年2月21日(1852年3月31日)遂に念願がかない帰国の許可が合衆国政府からおりた一行17名は、軍艦「セントメリ−号」で帰国の途についた。合衆国政府の意向では一行をまず香港に送りそこでペリ−の日本遠征艦隊に同行させるつもりであった。嘉永5年閏2月14日(1982年4月3日)補給のためハワイ島ヒロ湾に投錨し、入港直前かねてから診療を受けていた船頭の万蔵が病死したので「南無阿弥陀仏日本万蔵」と記した板を墓標にハワイ島の共同墓地に葬った。投錨後9日目に再び出港したセントメリ−号が香港入港したのは嘉永5年4月2日(1852年5月20日)であった。





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10.イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の四)
嘉永5年4月2日(1852年5月20日)香港に到着し、アメリカ東インド艦隊の旗艦「サスケハナ号」(2,450トン、乗員300名)に移乗した一行16名はその船で約半年を過ごしたが、次作、彦太郎(彦蔵)、亀蔵の3人はアメリカに戻る事に。これ以降の3人については読売新聞夕刊に作家の吉村 昭氏が「アメリカ彦蔵」と言う小説を掲載しているのでそちらを参照されたい。(6/20現在、小説の中の一行はまだ中国に居る。)
13人になった一行は、中国内を何度か往復しその間、山賊に遭ったり他の日本人漂流者(乙吉、力松)らと出会ったりしたが、生活の場は サスケハナ号であった。しかし一行はアメリカ軍艦で帰国すると、アメリカの手先になり軍艦を日本に導いたと思われる事を恐れ、嘉永6年3月1日(1853年4月8日)、元炊方の仙太郎を残し、12名が艦長から暇を取りつけ下船した。
下船した12名は、上海にあるデント商会の番頭格で日本人の乙吉の家に身を落ち着けた。そして乙吉の好意でデント商会に職を得たが、アメリカの日本遠征艦隊のミシシッピ号が上海に入港し再び彼らを連れ戻そうとしたので、嘉永6年4月21日(1853年5月27日)一行は約100キロ離れた乍浦(チ−フ−)に向かった。到着後現地の役人から通訳、付き添いなどが付けられ生活を始めたが外出は自由ではなかった。ここからは長崎へ往復する船が出ているため一行はチャンスを待った。年が変わって嘉永7年2月21日(1854年3月20日)伝吉は置き手紙をして突然一行の前から姿を消した。理由は一向に帰国の許可が下りず、食事も合わないのでこのままでは病気になると思いどこでも良いから安住の地を見つけるためと書き置きにあった。皮肉な事に6月になると役所から帰国の許可がおり、嘉永7年7月10日(1854年8月3日)伝吉を残した一行11名は中国船源宝号で帰国の途に就いた。そして27日(8月20日)念願の長崎に到着した。
一行と別れてからの伝吉の事は、あまり判っていない。上海に戻ったのち那覇をへて再びホンコンに行きここでペリ−の率いるアメリカ軍艦に乗船を請い許された。船員達からDan-Ketchと呼ばれた伝吉は非常な才能と熱心な知識欲を見せペリ−からも保護を受け可愛がられた。アメリカ到着後の行動はまったく分からない。安政6年6月26日(1859年5月26日)、イギリス公使オ−ルコックを乗せた軍艦サンプソン号が江戸に到着。その随員の一人として英国籍を手に入れた伝吉が乗船していた。攘夷の嵐が吹き荒れる日本を約10年ぶりに見た彼はどう思っただろう。江戸到着からわずか7ヶ月で刺殺された彼は、その短い間にすっかり日本人から嫌われた。これは驕慢な性格(永い放浪生活で培われた?)からと言われるが、もう一つ外国役人に素人娘のラシャメンを斡旋する仲介を行ったためとも言われる。伝吉は三田の口入れ屋「三田屋」、「田原屋」、「町田屋」などに異人館に奉公する娘を探す事を依頼し、三田の蕎麦屋「鶴寿菴」の娘お花、本芝妙法院の娘お香乃の2人を見つけ出した。2人とも道楽娘のうわさがあり又両家とも金銭的に窮乏していたので話はすぐにまとまった。がラシャメンになる事を愚痴ったお花の言葉が、彼女に恋した野州浪人桑島三郎の耳に入り伝吉に天誅を加える目的で殺害したと言われ、後に(文久元年5月28日、1861年7月5日)水戸の浪士らがイギリス公使館を襲撃した際、若い娘の斬殺された死体が二つ見つかり,おそらくお花とお香乃ではないかと言われている。






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11.麻布区の戦没将士
西南、日清戦争に比べ日露戦争の戦死者が圧倒的に多い。5月3日の 高橋静は閉塞船作戦で戦死したが、この作戦は旅順港の入り口に船を沈めてロシアの旅順艦隊の行動を阻止しようとしたもので2月24日、 3月26日、そしてこの5月3日に行われた。純軍事的にみるとこの作戦は3度とも失敗だったが、2回目に戦死した広瀬武夫中佐が軍神として崇められた事により国民の期待がこの作戦にこめられ、より精神的な意義を持った。麻布区内の西南戦争、日清戦争、日露戦争における戦没者を以下に。
事変、戦争 日付 氏名 階級 住所 備考
西南戦争 明治10年3月18日 渡邊 奏介 歩兵少尉 飯倉片町 西南戦争へ出動の途上に罹病、神戸市病院で没
  明治10年4月14日 由比信政 歩兵伍長 三軒家町 肥後山麓にて負傷、陸軍臨時病院にて死亡
日清戦争 明治27年11月3日 山口多計志 海軍少尉 飯倉町 佐世保海軍病院にて公病死
  明治28年9月24日 神部孝太郎 輜重輸卒 宮村町 出征中罹病、帰国後公病死
  明治28年12月31日 船橋九吉 憲兵隊上等兵 材木町 台湾金北里にて土民蜂起の際、戦死
  明治29年2月24日 小倉義信 工兵大尉 広尾町 台湾にて赤痢のため公病死
日露戦争 明治37年2月18日 北野榮三郎 騎兵二等兵 新網町 内地勤務中、習志野衛生病院にて公病死
  明治37年3月8日 柴本善吉 歩兵上等兵 富士見町 旅順203高地にて戦死
  明治37年5月3日 高橋静 海軍大尉 霞町 旅順口第三区閉塞船櫻丸にて戦死
  明治37年5月26日 齋藤寅吉 歩兵一等兵 宮下町 盛京省南山にて戦死
  明治37年5月26日 間彦丸之助 歩兵一等兵 森元町 盛京省南山にて戦死
  明治37年6月13日 眞崎安一 海軍少佐 狸穴町 旅順口外にて戦死
  明治37年7月27日 鈴木百三郎 砲兵上等兵 新網町 營城子にて戦死
  明治37年8月16日 成瀬忠次郎 砲兵一等兵 網代町 第一師団野戦病院にて公病死
  明治37年8月19日 志村林蔵 歩兵上等兵 笄町 盛京省小多溝にて戦死
  明治37年8月20日 高橋平吉 歩兵一等兵 笄町 旅順案椅子山にて戦死
  明治37年8月20日 奥山龍助 歩兵一等兵 永坂町 盛京省小凍溝にて戦死
  明治37年8月22日 田中福太郎 歩兵一等兵 永坂町 旅順鉢巻山にて戦死
  明治37年8月22日 石田宇之吉 歩兵一等兵 森元町 盛京省寺兒溝付近で戦死
  明治37年8月25日 河崎榮太郎 歩兵伍長 田島町 東鶏冠山にて戦傷、野戦病院にて死亡
  明治37年8月27日 丸尾義民 歩兵少尉 笄町 盛京省高家溝第二師団第二野戦病院にて戦傷死
  明治37年8月30日 吉田可秀 歩兵中尉 森元町 遼陽にて戦死
  明治37年9月18日 高瀬常之進 歩兵上等兵 飯倉町 旅順椅子山付近にて戦死
  明治37年9月20日 高野猶次郎 歩兵准尉 霞町 寺兒溝にて戦死
  明治37年9月21日 松森興一郎 歩兵上等兵 笄町 旅順番龍山にて戦死
  明治37年9月27日 松森勘次郎 歩兵上等兵 同上 同上
  明治37年11月17日 殿田忠吉 輜重輸卒 桜田町 盛京省青泥窪兵站病院にて病死
  明治37年11月27日 月岡増太郎 歩兵伍長 霞町 清国赤坂山にて戦死
  明治38年1月1日 本崎明太郎 三河台町 歩兵一等兵 前三羊頭高地にて戦死
  明治38年1月26日 西幹寧貞 三等蹄鉄工長 桜田町 第三野戦病院にて傷病死
  明治38年3月1日 岡崎貞一 歩兵二等兵 市兵衛町 盛京省王家窩棚にて戦死
  明治38年3月2日 中村和七 歩兵少尉 谷町 奉天匂台嶺にて戦死
  明治38年3月3日 内畠熊太郎 砲兵軍曹 笄町 奉天北三台子付近にて戦死
  明治38年3月3日 山崎辰三郎 砲兵上等兵 桜田町 盛京省沙嶺保付近にて戦死
  明治38年3月6日 渡邊豊作 歩兵伍長 本村町 奉天付近にて戦死
  明治38年3月6日 加藤兼太郎 歩兵上等兵 箪笥町 同上
  明治38年3月7日 宮島國太郎 歩兵上等兵 一本松町 清国造家屯にて戦死
  明治38年3月9日 吉田良造 歩兵上等兵 森元町 奉天田義屯付近にて戦死
  明治38年3月9日 奥田信吉 歩兵上等兵 北日ケ窪
  明治38年3月10日 市川富二郎 歩兵二等兵 永坂町 三台子にて戦死
  明治38年3月11日 高橋鶴次郎 歩兵一等兵 箪笥町 奉天にて戦傷、第三野戦病院にて死亡
  明治38年3月11日 八條嘉作 歩兵一等兵 霞町 盛京省潘家台にて戦死
  明治38年3月16日 海津泰三 歩兵曹長 山元町 奉天蓬花池付近にて戦傷、野戦病院にて死亡
  明治38年3月17日 三門幸吉 歩兵二等兵 森元町 遼陽兵站病院にて戦傷死
  明治38年8月18日 瀬名貞許 軍属 狸穴町 朝鮮平嬢兵站病院にて公病死
  明治38年10月8日 石川勘之助 歩兵一等兵 霞町 昌都野戦病院にて戦病死
  明治38年10月26日 月岡直太郎 歩兵二等兵 霞町 第三野戦病院にて戦病死
  明治38年11月6日 土屋三平 輜重輸卒 竹谷町 鉄嶺病院にて戦傷死
  明治38年12月1日 塚野宇佐八 歩兵伍長 森元町 203高地にて戦死
  明治38年12月13日 奥村勘七 歩兵一等兵 飯倉片町 六家子付近に出征中戦病死
  明治44年10月14日 中島久敬 工兵中佐 本村町 戦傷、内地帰還後日本赤十字病院にて死亡
  明治45年4月19日 野瀬歓三郎 歩兵特務曹長 森元町 旅順にて戦傷、帰還後治療中死没
  不詳 太田逸人 二等軍医 今井町 得利寺にてチフスに罹り死亡






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12.賢崇寺境内の崖崩れ
大正10年(1921年)10月10日、それまでの豪雨により地盤の緩んだ賢崇寺境内で、正午過ぎ頃に高さ30尺幅40間にわたり轟音と共に 崖崩れが発生し、これにより崖下にあった民家4戸が埋没し8戸が倒壊した。

発生直後に坂下町会、警察、区役所、在郷軍人、消防隊などによって救助活動が始められ、次々と罹災者を救出したが崖に一番近かった家から4名、その隣家から3名の死者が出た大惨事となった。

この災害に対し坂下町町会が300円、鍋島家が7千円、その他3700円の見舞金が集まり、一番近かった家の遺族に4500円、その隣家の遺族に3500円その他の災害者にも見舞金が贈られた。そして10月13日麻布山善福寺において合同葬が盛大に営まれ、被害者の冥福が多くの人によって祈られた。なおこの災害によって坂下町町会役員は約1ヶ月間不眠不休の活動を続け、その副次的な産物として町会内に青年団が結成されたとある。







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13.東洋英和ラ−ジ殺人事件
 
      
事件当時の東洋英和女学校
校舎(創立地)
麻布区東鳥居坂町14番地
(提供:東洋英和女学院)
事件当時の東洋英和女学校校舎(創立地)
      
創立地校舎敷地図面
(鳥居坂町14番地)
(提供:東洋英和女学院)
創立地校舎敷地図面(鳥居坂町14番地)
      
現在の東洋英和女学院創立地
(港区六本木5丁目12-11)
現在の創立地
      
T.Aラージ氏墓碑(青山墓地外人墓地)
T.Aラージ氏墓碑(青山墓地)
   
殺害されたThomas A. Large
(提供:東洋英和女学院)
殺害されたThomas A. Large
   
Eliza Spencer. Large
東洋英和女学校・第二代校長
(提供:東洋英和女学院)
Eliza Spencer. Large東洋英和女学第二代校長
      
東洋英和の敷地変遷とその周辺
東洋英和の敷地変遷とその周辺
1890(明治23)年4月4日夜11時ころ、麻布区東鳥居坂町13番地(港区六本木5丁目12-11)の東洋英和女学校に賊が侵入し日本刀のような物で、校長でカナダ籍のスペンサ−・ラ−ジ(当時30歳)が切りつけられ重症を負い、夫であるT.A・ラ−ジが斬殺された。賊は学校台所脇の物置から侵入し、小使の瀬川喜兵衛を脅して金のありかを詰問したが、瀬川は知らなかったので縛り上げて、2階の校長居室に侵入した。物音に気付いて「だれだ!」と声をかけたT.A氏に「用事がある」と近寄った賊は、氏を14ヶ所も切りつけて即死させた。夫を助けようとしたスペンサ−も顔を切られ、指を切り落とされるなど重傷を負ったが、騒動に気づいた寄宿生が騒ぎ出し賊は何も取らずに逃走した。
賊は逃げ出す時に、洋銀製の煙管(キセル)が入った印伝(インデン)の煙草入れを落として行ったので、警察の調査で賊は「知識階級」の者であると推測された。また瀬川は賊が股引足袋装束であったと陳述し重症を負ったスペンサ−の口からも賊は身にしっくりした衣装で白い帯をし、うわっぱりも巡査が用いる物に違いなく、賊は警察官であったと固執し、この原因はキリスト教の迫害が目的であろうと陳述したので、時の政府はたいそう狼狽した。
麻布鳥居坂警察署誌によると

「〜本署は之より犯人は強盗と見込みを付けたが当時の下谷警察署に於ても大捜査を開始した。此犯行は非常に巧妙で何等の痕跡なく犯人は検挙せられず迷宮事件の一つになって終わった。当時未だ治外法権も撤廃されず外国人は内地人より優越的な待遇を受けていた時代なので、外国人等より批判多く相当興論を沸騰せしめた事件であつた。」とあり世間でも大騒ぎした様子がうかがえる。

事件後、警察も犯人の手がかりはまったくつかめずにいたが、犯行から11日目の山梨日々新聞に突如「練絲痕」という小説の連載が開始された。内容は日本人青年大森安雄と金髪令嬢レニスとのよくある恋愛小説だったが、2回目の連載「無惨」の内容はレニス嬢の父親が殺害される場面がラ−ジ殺人事件と酷似しており3回目の「疑惑」ではその犯人の追及を行うというリアルな内容であったため、警察も事件の内部事情に詳しい者が執筆している可能性があると調査を開始した。
著者は靄渓山人というペンネ−ムを持つ18歳の小林一三という学生で、早速取り調べたが事件の新聞記事を基に小説を執筆していた事が分り、犯人ではなかった。そしてこの小説の連載は警察の取り調べ後、9回をもって打ち切りとなった。
犯人の割り出しに躍起になった警察は、田中光顕警視総監の下で鬼と呼ばれた武藤警部を導入し嫌疑者を多数取り調べたが、十分な証拠も無く、すべての嫌疑者が釈放された。
当初、小使の瀬川喜兵衛も事件当時の行動に不信をいだかれ、厳しい取り調べを受けた。また事件当時の学校は前年の校舎新築工事の代金未払いで下請業者と係争中でもありその線も調べられた。しかし結果はすべて”白”で捜査は振り出しに戻り、困り果てた警察も田中警視総監の名で300円の懸賞金をかけたが、結局有力な情報はもたらされず、事件は迷宮入りしてしまう。

事件が解決されたのは事件現場であり東洋英和女学校が創立地でもある鳥居坂町14番地から現在の地に移転した2年後の1902(明治35)年12月で、その間武藤警部と配下の兼子刑事は何と12年に渡って執拗に事件を追い続けた。
犯人は明治25年強盗犯として新宿署に逮捕され服役していた馬場恒八、士族の小笠原重季の両名で、その事件の手口がラ−ジ殺人事件の犯痕と共通するものが多くある事を付きとめ、小笠原重季を幾度となく取り調べた結果、遂に自供に至り事件は12年ぶりに全面解決した。しかしこの時馬場恒八は網走監獄ですでに獄死していた。そして小笠原も明治25年の強盗事件で13年の刑期に処せられ東京集治監に服役中であったがラ−ジ殺人事件は時効が成立していたため不問とされ、明治31年の英照皇太后の恩赦で9年9ヶ月に刑期を短縮されていたために、ラ−ジ殺人事件が解決した直後の明治35年12月17日に満期出獄した。

(余談その1)

「幕末明治女百話」という本のなかで、事件当夜に寄宿生徒であった女性の回顧談が「78.英和女学校のラ−ジ殺し」として掲載されていて、事件の際に壁一枚隔てただけの寄宿舎で見聞した事件の真相を克明に描写している。

(余談その2)

山梨日々新聞に「練絲痕」を執筆した靄渓山人というペンネ−ムを持つ18歳の小林一三(1873〜1957年)という人騒がせな学生は、その後有力者の紹介で三井銀行に採用されたが、小説家への夢が捨てきれず1月からの出社を4月まで延ばし、その間には伊豆で女性と恋に落ちた。しかし温泉で別の女性の入浴を覗き見したことが発覚しその女性に振られて、一人寂しく帰京した。その後、銀行からの矢のような出社の催促と友人からの意見により小説家をあきらめ、4月4日からやむなく出勤を始めた。
時は流れて明治40年。彼は箕面電車を設立し、宝塚少女歌劇団、タ−ミナル・デパ−トを創始。そして昭和8年(1933年)東京に進出して東宝映画を設立。その後政界入りして商工大臣、国務相などを歴任した。しかし戦後政界を追放され東宝社長、宝塚音楽学校長をつとめた。











同 年 代 の 関 連 年 表
 西 暦 年 号
  事  象
1875年明治 8年1月麻布市兵衛町の静寛院宮(皇女和宮)邸に明治天皇・皇后が行幸 5月麻布市兵衛町の静寛院宮邸に明治天皇・皇后が再び行幸
1881年明治14年明治天皇が公爵島津忠義麻布本村町邸に岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿を供奉して行幸。古式の犬追い物、相撲を天覧
1882年明治15年川村純義狸穴邸がジョサイア・コンドル設計により建設される。戦後この建物は取り壊され東京アメリカンクラブとなる。
1883年明治16年築地居留地のカナダ・メソジスト・ミッションにより東鳥居坂町に麻布教会(現在の鳥居坂教会)」が設立される。
1884年明治17年カナダ・メソジスト・ミッションが同派「麻布教会(現在の鳥居坂教会)」牧師を設立者として東洋英和学校会社を設立。 10月東鳥居坂町14番地400坪弱のビール工場跡地に東洋英和女学校創立。創立時の生徒数は2名。次年度は170名。 11月東鳥居坂町13番地、元駐仏公使鮫島尚信邸跡地2,200坪に東洋英和学校(男子)が創立。普通科・神学科を併設。
1885年明治18年Ms.スペンサーが来日。東洋英和女学校の教師(家事・英語・唱歌担当)を経て同校の第二代校長に就任。
1886年明治19年一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」が開校する。
1887年明治20年Ms.スペンサーが東洋英和学校教師のT.A.ラージ氏と結婚。娘ケートが生まれる。 4月井上馨邸(現・国際文化会館)に天皇が行幸して天覧歌舞伎 麻布本村町津田 仙(津田梅子の父)邸の仮校舎で普連土女学校が開校
1888年明治21年麻布区永坂町1番地の島津忠亮子爵邸の一部を借り受けて香蘭女学校が創立
1889年明治22年2月大日本帝国憲法発布祝賀のため東洋英和女学校生徒が井上馨邸(現・国際文化会館)を訪問 5月明治天皇が麻布新竜土町の通称:麻布三連隊(陸軍第一師団第三連隊)を閲兵 7月シーボルトの娘楠本イネが長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳) 江原素六が沼津から上京し東洋英和学校(男子)の幹事となる。
1890年明治23年4月東洋英和女学校で強盗事件(ラージ殺人事件)。第二代校長の夫T.A.ラージ氏が殺害され、婦人の校長Mrs.ラージも指を2本失う重傷。事件後恩賜休暇によりカナダに帰国して休養、義指作成。 7月第一回衆議院議員選挙 江原素六が衆議院議員となり東洋英和学校幹事を辞任する。
1891年明治24年2月明治天皇が麻布市兵衛町の内大臣三条実美を見舞うために行幸 4月明治天皇が麻布狸穴町の伯爵、川村純義邸(ジョサイア・コンドル設計、現在の東京アメリカンクラブ敷地)に行幸 5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町6番地に転居(64歳) Mrs.ラージが再来日し東洋英和女学校英語教師となる。
1892年明治25年5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
1893年明治26年山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として「安中はな(後の村岡花子)」が生まれる。 6月江原素六が東洋英和学校の校長となり校舎内に居住。
1894年明治27年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。
1895年明治28年5月楠本いねが麻布区麻布飯倉片町32番地に転居(68歳) Mrs.ラージがカナダに帰国。
1897年明治30年Mrs.ラージが三度目の来日。
1899年明治32年4月Mrs.ラージが強盗事件により死亡した夫T.A.ラージ氏墓所敷地の一部をフルベッキ氏墓地としてエンマ・バーベックに委譲。
1900年明治33年洋英和女学校が創立地である東鳥居坂町14番地から現在地(東鳥居坂町8番地:1,225坪)へ移転。 東鳥居坂町13番地の麻布中学が東洋英和学校(男子)から分離独立し、麻布本村町40番地(現在地)に移転。後に東洋英和学校は廃校となる。
1901年明治34年Mrs.ラージが帰国し晩年は農場経営に従事する。 7月川村純義狸穴町邸(コンドル設計、現在は東京アメリカンクラブ)で迪宮殿下(後の昭和天皇)の養育が始まる
1902年明治35年1月日英同盟調印発効 7月静岡県の不二見村で岩崎きみちゃん誕生 12月ラージ殺人事件解決
1903年明治36年3月久邇宮家の鳥居坂邸で女児が誕生。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后(香淳皇后)となる。 安中はな(村岡花子)が東京府荏原郡品川町立城南小学校から東洋英和女学校に編入学(10歳) 8月楠本イネが麻布区飯倉片町28番(東洋英和女学校裏手)にて逝去。享年76歳
1904年明治37年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。 川村純義狸穴町邸で養育されていた迪宮殿下(後の昭和天皇)が川村の逝去により皇居に戻る。 ジョサイア・コンドルが麻布三河台町に自邸を建設する。
1908年明治41年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。そして集合写真「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」が撮影される 三菱財閥2代目岩崎弥之助の邸宅としてジョサ・イアコンドル設計の高輪開東閣が建設される。
1911年明治44年岩崎きみちゃんが結核により永坂孤女院で死亡。享年9歳
1913年大正 2年安中はな(村岡花子)が東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。 三田綱町の三井倶楽部が三井財閥の賓客接待用として建設される。(設計はジョサイア・コンドル)
1914年大正 3年ヴォーリズ(William Merrell Vories設計による明治学院チャペルが建設される。
1918年大正 7年元初代ハワイ総領事の安藤太郎が麻布区西町に安藤記念教会を設立
1921年大正10年松方正義の子、正熊の自邸としてヴォーリズ設計による松方ハウス(現西町インターナショナルスクール)が建設される。
1923年大正12年ヴォーリズ設計によりフレンズセンター(キリスト友会日本年会)が建設
1933年昭和 8年Mrs.ラージがアメリカ・ペンシルバニア州にて逝去。 東洋英和女学校校舎がヴォーリス設計により建設される。 麻布区役所新庁舎が完成。旧庁舎はヴォーリス監修により移築され日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学:三鷹市武蔵境)校舎として現在も使用中。 麻布南部坂教会がヴォーリス設計により建設される。












   
カナダ婦人宣教師物語
「ミセス・ラージ:娘ケイトと」
(提供:東洋英和女学院)
ミセス・ラージ:娘ケイトと
★20140404追記


先日東洋英和女学校史料室を訪問した際に購入した書籍 「カナダ婦人宣教師物語」にはMrs.ラージの写真が数点掲載されている。その中でも「ミセス・ラージ:娘ケイトと」と題された写真に目がとまった。 実はその写真は、以前にもこの事件を調べる際に「目で見る東洋英和女学院の110年」という周年誌で目にしていたのだが、改めて見たときに何か違和感を感じて目にとまってしまったのだ。 その訳はよく見ると不自然に右手を後ろに回し、左手で幼い娘さんを支えているように見える。この写真に対して東洋英和史料室から悲しい逸話をお話し頂いた。その逸話とは、
この写真は殺人事件のあった頃に写された写真で、事件により指を2本失っていたMrs.ラージは、右手を娘との大切な写真に写したくなかったので、意図的に後ろに隠している。
というもので、指を失った姿で写るのを拒否しているMrs.ラージの写真であるそうだ。















★関連項目
永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん

「花子とアン」の麻布



















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14.ゾルゲ事件(その1)
昭和16年(1941年)10月18日、一人のドイツ人が外事警察により検挙され鳥居坂署に拘留された。そのドイツ人はフランクフルタ−・ツァイツング社日本特派員で、名をリヒャルト・ゾルゲと言い、容疑は国防保安法、治安維持法、軍機保護法などの違反であった。

リヒャルト・ゾルゲは1895年10月4日カスピ海に面したロシアの街バグ−で、コ−カサス石油会社によりドイツから派遣されていたドイツ人高級石油技師の父アドルフと、キエフ市の資産家の娘であるロシア人の母ニ−ナの息子として裕福な家庭に生まれた。リヒャルトが3歳の時一家は、石油採掘機器工場を売り払いかなりの資産を手にして父の故郷ベルリンに戻った。成長の過程でリヒャルトは兄からアメリカに亡命した社会主義者でマルクス、エンゲルスとも深い交流のあった(一説にはマルクスの秘書だったという。)大伯父フリ−ドリッヒの話を聞かされて育った。比較的おだやかな少年時代を過ごしたリヒャルトも、オット−・リリエンタ−ル中高等学校に通うころは帰国子女の疎外感から成績はあまりよくなかったという。しかし歴史、文学、哲学、政治学など思弁的な教科には優秀な成績を収め、級友からは「総理大臣」と仇名されていたという。そしてリヒャルト・ゾルゲが18歳の時、第一次世界大戦が勃発した。スエ−デンに旅行中だった彼は開戦のニュ−スを聞くと直ちに帰国して学校の卒業試験も受けずに陸軍に志願した。東部戦線に送られ母の故国ロシアとの戦闘に参加した18歳の少年は、そこで戦争の無意味さ、父と母の国が争う事からの葛藤などを痛感していった。そして3度目の負傷で重症を負い収容された野戦病院で、長期療養中に看護婦と医師から革命運動の薫陶をうけ社会主義の本を読みあさった。そしてこの負傷で二等鉄十字章を授与され除隊したゾルゲは、その後労働運動へとのめり込んで行き、1919年10月15日、結成されたばかりのドイツ共産党に入党する。

ドイツ共産党のゾルゲは、ドイツ革命の失敗から共産党活動が非合法になると地下にもぐり、その熱心な活動から指導部の一員となった。そして不正入国したソビエト代表団の世話役と警備を担当した事により、モスクワのコミンテルンへの勧誘を受け1924年暮れモスクワ入りした。当時、誕生したばかりの共産主義国家ソビエトは、多くの優秀な人材を必要としており、ゾルゲもその判断力と行動力からコミンテルン本部情報局に抜擢された。
しかしスタ−リンによるブハ−リン派の粛清によりゾルゲもコミンテルンを追われ、赤軍情報部へと所属を移した。(もしこの時コミンテルンを去っていなければ、間違いなく松田照子の夫ビリーイッチと同様に抹殺されていたと言われる。)そして赤軍謀報部長のベルジンにより中国での謀報活動を指示され、1930年1月上海に派遣された。
中国でのゾルゲの任務は中国国内の各派閥の分析、南京政府の政治的分析、列強各国の対中国政策などであった。しかし赴任中におきた満州事変、上海事変の勃発による日本の台頭に注目するようになり、中国対日本と言うより、ソビエトの対アジア政策の中で日本の台頭を無視できなくなった。
1932年11月、上海から日本経由でモスクワに戻り、より専門的な謀報活動の訓練を受けていたゾルゲは、その研修期間中にロシア語教師のカ−チャという女性と恋に落ち、一緒に暮らすようになる。
しかしこのつかみかけた幸福も長くは続かなかった。赤軍謀報部より日本での謀報活動を命令され、旅立つことに.....。出発直前にゾルゲはプロポ−ズしカ−チャと結婚登録を済ませ、彼の給料の一部をカ−チャに送りつづける手配をした後、モスクワを離れた。結局これが二人の永遠の別れとなってしまう。(カ−チャも1930年代末期にスタ−リンの粛清の犠牲者となってしまう。)
















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