麻 布 七 不 思 議
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四. 六本木
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おそらく麻布で一番有名な地名。繁華街で私も昔ここの喫茶店でバイトしていたがそれよりも、地元の人にとって六本木といえば”電車”である。麻布で唯一の電車、日比谷線が通っている。家からは15分くらいかかったがそれでも最寄り駅であった。ちなみに私は今、品川のとある駅から2分の所に住んでいる。遅刻は激減した。芋洗坂、市三(いちみ)坂を登った高台にある。昔5本の榎(えのき)が高くそびえ、品川沖からもよく見えたので漁師の道しるべ となっていた。六本木なのになぜ五本?。ものの本によると、昔このあたりは、武蔵野の雑木林で大木が生い茂げるジャングルのようであった。 平安末期、源氏に追われた平家の落ち武者が6人落ちのびてきた。このあたりまで来るともはや力が尽きてしまったので、榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てた。 しかしその中の一人は、希望を棄てずさらに刀を杖に一本松までさまよったが、ついに力尽きてあとを追った。あたりの村人はこの武者を憐れみ、5本の榎に一本の松をいれて六本木として弔った。そしてこのあたりを六本木と言うようになったという。
今でも落ち武者のような髪をした若者が行き交っているが、あれはもしかしたら.....
別説に
・江戸六方の男伊達がこのあたりに住んでいたので、六方気からいつのまにか六本木になった。
・竜土町に六本の古木の松があったので付いた。
・この辺りに上杉、朽木、高木、青木、片桐、一柳などの大名屋敷があった為。(十方庵遊歴雑記)
などもある。
また、麻布区史には、
今の六本木辺に昔六本の松があったことに因ると云ひ、又一説に六本の榎があった為めと傳へる。とあり、書面には「菖ときわ」内にあった大きな銀杏の木の写真が掲載されている。
●旧町名・町域
○飯倉六本木町(文政町方書上)
〜飯倉六本木町の儀も、飯倉町総石高七十五石八斗二升六合八勺のうちにて御座候処、 寛文二寅(1662)年中町方御奉行嶋田出雲守様・渡辺大隅守様御勤役の節、町方御支配 に仰せ付けられ候砌、いまだ町名も御座なく候間、往古この辺りに松の大樹六本御座候由 、当時いずかたに候や相分かり申さず候えども、右近辺町屋に相成り候につき町名に仕り 飯倉六本木町と相唱え候。〜
- 一 坂
- 町内家前往還西の方、西丸御書院御番頭大久保豊後守様御組屋敷より東の方麻布正信寺門前へ下り、 およそ長さ三十間ほど、幅三間余り坂名目を芋洗坂と里俗に唱え候儀は、往古この辺りに芋問屋 多くこれあり候間唱え来たり候由に御座候。当時町内向い側麻布正信寺門前に寛文年中の頃より 罷りあり候千栽物問屋にて八兵衛と申す者一軒残りこれあり今もって商売仕り候。
- 一 下水
- 右は、西丸御書院御番頭大久保豊後守様御組屋敷より北側下水幅二尺余りにて、麻布龍土坂口町同所 続き御寄合阿部大学様御下屋敷前通り、同所正信寺門前・同教善寺門前町家前堀井戸脇より南の方へ 町内往還下タ幅四尺の理石樋にて、町屋裏の方四尺余りの下水へ落ち、麻布北日ヶ窪町・龍奥寺地境脇 同町町屋家前下水へ落ち申し候。〜
○麻布六本木町
- 東鳥居坂町の西にある。もと飯倉村のうちで、寛文中(1661〜1672年)町地となり、老樹が六本あったので飯倉六本木町とした。 明治2(1869)年町地に、麻布北日ヶ窪町代地・麻布龍土坂口町・教善寺門前・正信寺門前・光専寺門前・深広寺門前を併せて麻布六本木町と称した。
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○麻布龍土町・麻布新龍土町
- 元和年間(1615〜1624年)、芝愛宕下から西久保あたりの猟人(りょうど)とよばれた漁師たちが幕命によりこの地に移住し、「龍(竜)土」としたとする説 が一般的。他に寛永年間(1624〜1644)頃、この地に龍が舞い下りたとする伝説もある。 「龍土」の地名は青山・今井・飯倉に接する広い地域で使われたが、後に麻布龍土町・麻布龍土材木町・麻布龍土坂口町・麻布龍土六本木町・ 麻布龍土町代地三田古川町の5町が起立し、総称して龍土五ヶ町と呼ばれた。
麻布龍土町は明治2(1869)年、麻布長泉寺門前と付近の武家地を合併して町域としたが明治6(1873)年、麻布長泉寺門前周辺を含む北部を「麻布新龍土町」として 分離した。
「麻布新龍土町」には明治31(1898)年1月陸軍第一師団歩兵第3連隊が設置され、麻布新龍土町町域の大部分をしめた。歩兵第3連隊はその営舎の場所から 「麻布三連隊」と呼ばれた。
- 新龍土町12番地にあった「龍土軒」はフレンチの草分であり創業は明治33(1900)年といわれる。、明治から昭和期にかけて文人・洋画家・高級軍人などの サロンとして評判となっていた。柳田国男邸に集まっていた「土曜会」の田山花袋、蒲原有明、国木田独歩らが龍土軒に集会所を変更し、明治39(1906)年 5月から「龍土会」と称した。また後年の大正4(1915)年には、岩野泡鳴、徳田秋声、近松秋江、小山内薫らによる第二期龍土会の会場として使用された。
場所的に第一連隊と麻布麻布三連隊に挟まれた地域にあった竜土軒は高級将校や将官なども頻繁に使用し、中でも乃木将軍は贔屓にしていたようで 来店の他にも、店からほど近い自邸(乃木坂)の来客時には龍土軒から出前を取ったという。 また昭和期には二.二六事件首謀将校の謀議なども軍人客が多くかえって目立たないため、この店で行われていた。竜土町美術館通りの元地には碑が設置されていたが、現在立て替え工事中で 元碑は復元されていない。また昭和44(1969)年「龍土軒」は西麻布交差点付近(西麻布1-14-3)に移転したが、こちらもビルの高層化建替え工事により、2010年9月のリニュアルオープンとなる。
○麻布龍土六本木町
- 六本木町中央部の旧町名。江戸期麻布龍土六本木町と飯倉六本木町があり、麻布龍土坂口町を挟んで南北に分かれていた。明治2年麻布六本木町と改称。
○麻布龍土坂口町
- 六本木町中央部の旧町名。江戸期この場所が芋洗坂の下り口であったことからついた町名。町域の北側が麻布龍土六本木町、南側が飯倉六本木町。 明治2年麻布六本木町と改称。
○麻布三河台町
- 延宝年間(1673〜1681年)頃、このあたりに徳川家康二男の結城秀康(幼名:於義丸)を父に持つ松平三河守忠直の下屋敷があり、高台でもあった ことから里俗に「三河台」と呼ばれた。その後江戸期を通じてずっと武家地であったが、明治5年宗岸寺などの寺地を併せて麻布三河台町 として町域が起立した。町域東側にある「市三坂」の名称は市兵衛町と三河台町の境界であったためつけられた坂名。
○麻布龍土材木町
- 材木町の旧称。江戸期、深川木場ができる前にこのあたりに材木流通の拠点があったと思われ、材木商が多く集まっていたことから 麻布龍土材木町と称した。元は麻布龍土町の一部で、後に材木町として分離したともいわれる。明治2年「龍土」の冠称を略し「麻布材木町」 とした。
○赤坂檜町
- 江戸期、町域の大部分は長門萩藩毛利家中屋敷、出雲松江藩松平氏中屋敷となっており北部に麻布今井町の町域があった。 檜町とは町域の大部分を占めていた毛利家中屋敷の屋敷内に檜が多くあったので「檜屋敷」と呼ばれたため。 明治期には毛利家中屋敷跡地は日本陸軍の筆頭師団「第一師団」が設置され同師団第一連隊が駐屯した。戦後は防衛庁が設置され その跡地は東京ミッドタウンとなった。この地域は明治期には「麻布区」であったこともある。
秀忠夫人荼毘所
・二代将軍徳川秀忠の正室お江与の方(崇源院)が寛永三(1626)年九月一五日逝去し、即日増上寺に安置された。そしてその葬儀は同年十月十八日に増上寺で行われ 遺骸は六本木の深広寺で荼毘に付された。(別説では龕前堂での荼毘説もあり) 葬列の途中には仮御堂(かりみどう)が置かれ、その仮御堂を龕前堂(がぜんどう)と呼んだことから我善坊町 の由来となったとする説もある。 そして、 増上寺から荼毘所まで千間の間にむしろを敷き、その上に白布10反を敷いて、1間ごとに竜幡をたて、両側に燭をかかげた。 荼毘所は百間四方を槍で垣根をつくり、四方に門をつくって各門に額をかけ、幡を10本ずつを立てた。火屋(火葬場)の内構は60間で、 こもの上に絹をしき4つの門を立て、2方に種々の供物を供え、四隅には花を飾る紗篭を置く。火屋の右には4つの堂を建てて物具を陳設した。 龕前堂には額をかけ、ここにも食物を供えた。白張着を着た100人により龕が運ばれた。錦の天蓋をさしかけ、諸大名、垣の内千間の間を、1間ごとに護衛がつき、外は足軽が警備をした。 行列は1番大たいまつ、左右に大香炉、奉行の僧2人、持者2人、侍2人。次に春湖他6人のあと、左右灑水の僧2名、花篭の僧10名、次に左に日天、右に月天、左開敷2本、右末敷2本、次に紗篭2本ずつ、次に幡が左右5流ずつ、楽器と続く。 あとより、宮仕の女房の輿60ちょうが続き、各自香をたく。下火は増上寺広度院が法文を演説。鎖がん役は寿経寺以下十何寺の僧衆がこれを行う。 沈香を32間あまり積み重ね、一時に火をつけたため、その香煙は1キロ以上にわたってたなびいたという。 深広寺にはこの際の「灰塚」が残されているという。 また別説では崇源院の三回忌法要が営まれ、その縁で増上寺の子院であった教善寺、正信寺、光専寺、深広寺 が移転してきたとともいわれる。
徳川将軍家では崇源院意外に幕末まで荼毘に付された将軍・親族は無く、崇源院の火葬が唯一の例外であるため、毒殺説などの根拠ともなった。
●社寺
- ○朝日神社(港区六本木6-7-14)
- 祭神:
・倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)芋洗坂中途の神社。 旧暦天慶年中草創と伝えられ、市杵島姫大神を祭り、後に織田信長の息女朝日姫が稲荷の神像を草庵に祭るも后、市杵島姫大神と合祀して日ヶ窪稲荷と呼ばれた。 明和年間に朝日稲荷と改称され、明治二十八年朝日神社と改称する。毎年7月に「ほおずき市」が催される。戦前の麻布稲荷七福神「大黒天」
・市杵島姫大神(いちきしまひめおおかみ)
・大國主大神(おおくにぬしのおおかみ)
・大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)
・菅原大神(すがはらのおおかみ)
- ○天祖神社(港区六本木7-7-7)
- 祭神:
・天照大御神(あまてらすおおみかみ)南北朝時代の至徳元(1386)年飯倉城山に初めて祀られ、徳川二代将軍の時の江戸城郭改修・街区整理で現在の地へ移った。 飯倉の頃眼下の江戸湾品川沖から毎夜竜が御灯明を献じた故事から龍土神明宮とも呼ばれる。戦前の麻布稲荷七福神、現在の港七福神の「福禄寿」
・伊邪那伎命(いざなぎのみこと)
・伊邪那美命(いざなみのみこと)
- ○乃木神社(港区赤坂8-11-27)
- 祭神:
・乃木希典命(のぎまれすけのみこと) ・乃木静子命(のぎしずこのみこと)六本木交差点西方の乃木坂にある神社。隣接して旧乃木邸がある。 明治天皇に殉じられた乃木将軍御夫妻の英霊を永世に祠るために東京市長・阪谷芳郎男爵などが中央乃木会を発足、 明治神宮の御鎮座に続いて大正十二年十一月一日御鎮座祭を斎行する。旧乃木邸には六本木ヒルズ建設時にニッカ池畔から移転した「乃木将軍と少年像」がある。
- ○久国神社(港区六本木2-1-16 )
- 祭神:
・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)請年月不詳ながら、古くはもと千代田村紅葉(現皇居内)に鎮座されていたという。 久国作の刀が寄進されたため久国稲荷神社と称するようになった。戦前の麻布稲荷七福神、現在の港七福神の「布袋尊」
- ○教善寺
- ○正信寺
- ○光専寺
- ○深廣寺
- ○六本木墓苑
- 戦後の道路拡張時に、戦災で焼失した正信寺・深廣寺・教善寺・光専寺・崇巌寺の浄土宗五ヶ寺の墓地を常巌寺の跡地に集約した共同墓地。 日向高鍋藩主・秋月長門守種長・他累代、本多越後守利長、河田貫堂などの墓所がある。
- ○圓林寺
- ○善學寺
- ○不動院
- ○永昌寺
- ○妙像寺
- ○西光寺
- ○道源寺
- ○法典寺
- ○長耀寺
- ○
- ○
- ○
- ○
●言回し
・一本は松だが六本きが知れず
・から木だか知れず麻布の六本木
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●奏でる乙女像
六本木交差点北西角にある像。作者は札幌出身の彫刻家で札幌大通公園の「泉の像」、稚内市の「氷雪の門」、札幌冬季オリンピック記念碑「雪華の像」 などを手がけた本郷新【明治38(1905)年〜昭和55(1980)年】。 昭和29(1954)年、六本木の戦後復興の記念・平和と協力の象徴として設置された。しかし昭和31(1956)年地下鉄工事のため移転された三河台公園で度々の心ない破壊を受け 腕とギターが損傷してしまった。
その後人々から忘れ去られていた像は、再度本郷氏に作成を哀願し、初代の像がコンクリート製であったのに対し、 より強固なブロンズ像として完成した後に、昭和50(1975)年五月、第一回六本木祭を記念して再び六本木交差点に設置された。その後も地下鉄大江戸線工事のためふたたび仮移管されたが 2000(平成12)年12月新たに礎石台座部分を作り直して再度同交差点に設置された。 また、この像と全く同じ「奏でる乙女像」が札幌彫刻美術館にも設置されているという。
「奏でる乙女像」台座の碑文
その昔 緑深い武蔵野の東南に年経た六株の松が聳(そび)える小高い丘があった その松はどこからでも見
えたので いつとはなしに人々はこの土地を六本木と呼び慣れ それがそのまま地名になったと云い伝
えられる もとはわびしい叢に道行く人も稀(まれ)であったが 寛永年間 佛寺五寺が創立されるとその門
前に商家も集い やがては瓦もいかめしい大名屋敷が立ち並ぶようになった 延宝から大正迄幾度と
なく行った道路拡張で交通が便利になると このあたり一帯は人馬の通りも繁くなり おのずから賑
わいを増していった そして明治の代 隣地に兵営が置かれるに及んで土地の繁栄は一層めざましく
みなぎる活氣のうちに昭和に入ると 山の手でも指折りの盛区に数えられるようになった
昔ながらの静かな趣はガス燈の青いかげにも残り六本木 三河台両町には都内でも有数な高級住宅が営
まれて華やかな商店街と映り合い色彩ゆたかな町としての誇りを見せていた
昭和二十年五月二十二日 太平洋戦争災禍はこの町をも見舞い美しい街並も樹も一夜のうちに灰燼
に帰したが翌二十一年戦災都市復興計画は 焼け朽ちた郷土をいたみその再建を夢見る町民の進んで協
力するところとなりその熱意は麻布第一復興土地区画整理組合の結成となってあらわれた
子安英男を組合長として昭和二十二年六月より事業を開始したが当初は終戦直後の混乱期に当り町民の
生活もゆらぎ勝ちで百年の大計を樹てようとする区画整理は遅々として進まなかった しかし幸に関
係者の弛まぬ努力と理解ある町民の力強い援助によって苦しみを超えて歩んだ七年の歳月の流れは
今ここにようやくその事業の完成をもたらしたのである
この記念に 平和と協力とを象徴する本郷新氏の労作を請い得てこれを街角に見る喜びと共にそ
のささやかな歴史を併せて記し 後の世の人に伝える次第である
昭 和 二 十 九 年 四 月
麻 布 第 一 復 興 土 地 区 画 整 理 組 合
●志賀直哉居宅跡
・現在ブリヂストン社宅となっている地は志賀直哉居宅跡で、明治30(1897)年直哉の父直温(なおはる)が購入した屋敷で、直哉は14才から29才までを この実家で過ごし、初期の作品を生み出した。当時屋敷は1682坪もある広大な敷地を持っていたが昭和20年戦災で焼失した。
軍都六本木
●東京ミッドタウン(長州藩中屋敷〜陸軍第一師団〜防衛庁)
●国立新美術館(陸軍第一師団・歩兵第3連隊〜近衛歩兵第5連隊〜近衛歩兵第7連隊〜米軍用地〜東大生産技術研究所〜国立新美術館)・元治1(1864)年−長州征伐により長州藩邸も打ち壊しとなる。○第一師団・師団長
・明治21(1888)年−東京鎮台が廃止され第一師団となる。
・昭和29(1954)年−防衛庁本庁舎設置
・平成12(2000)年−防衛庁本庁舎が市ヶ谷地区に移転
・平成13(2001)年−「赤坂9丁目地区再開発地区計画」告示
・平成19(2007)年−東京ミッドタウン開業
・伏見宮貞愛親王○第一師団・歩兵第1連隊・連隊長
・閑院宮載仁親王
・真崎甚三郎、など
・2代 乃木希典
・24代 東条英機
・29代 牛島満、など
・明治31(1898)年−第1師団歩兵第3連隊(通称:麻布三連隊)駐屯
・昭和14(1939)年−近衛歩兵第5連隊(通称:宮3804)駐屯
・昭和18(1943)年−近衛歩兵第7連隊(東部八部隊)駐屯
・昭和20(1945)年−米陸軍第一騎兵師団駐留
・昭和37(1962)年−東大生産技術研究所が移転
・平成19(2007)年−国立新美術館開館
○第一師団・歩兵第3連隊・連隊長
・20代 梅津美治郎
・22代 永田鉄山
・23代 山下奉文、など
麻布三連隊跡地は1945年9月より米軍に接収され、2010年現在も米軍ヘリポート・星条旗新聞極東支社などが 使用しており公称は「赤坂プレスセンター」だか通称「ハーディー・バラックス」と呼ばれ敷地内施設にも「ハーディー・バラックス」と掲示されている。 この他、天現寺橋の「ニュー・サンノー・ホテル」と 併せて麻布は都内で屈指の米軍施設を有している。この米軍ヘリポート を発着するヘリコプターは近隣基地との定期便の他に不定期にも飛んでいる。またこのヘリが杉並区の中学校へ不時着した事件もあり、 運行に反対する住民団体も存在する。
●二・二六事件
昭和11(1936)年2月26日に陸軍将校が起こしたクーデター。 反乱軍の中核は、陸軍第一師団・歩兵第1連隊(現東京ミッドタウンの地に駐屯)、陸軍第一師団・歩兵第3連隊(現国立新美術館の地に駐屯)、 近衛歩兵第3連隊(現赤坂サカスに駐屯)。
首謀将校と民間扇動者22名は軍法会議で死刑判決を受け代々木練兵場で銃殺となり、麻布十番の興国山賢崇寺に葬られた。これにより賢崇寺では 事件当日の2月26日と処刑日の7月12日には、現在も慰霊祭が行われている。
●太平洋戦争期、六本木周辺の軍事施設
- 東京ミッドタウン−陸軍第一師団・歩兵第1連隊
- 国立新美術館−陸軍第1師団歩兵第3連隊(留守部隊)〜近衛歩兵第7連隊(東部八部隊)
- 東洋英和女学院−東京防衛軍司令部・東京師管区司令部・東京連隊区司令部
俳優座
・昭和19(1944)年2月に青山杉作、千田是也、東野英治郎、小沢栄太郎、東山千栄子、岸輝子ら10名の同人によって設立され現在も続く劇団。 六本木を拠点として活動し昭和29年には「俳優座劇場」が設立された。
地下鉄開通
- ・日比谷線
- 1963年(昭和38年)2月28日 人形町 - 東銀座間(3.0km)開業に伴い営団日比谷線六本木駅が開業した。 当初日比谷線は神谷町−麻布十番−広尾となるはずであったが、十番商店街組合が客足を取られるとして 地下鉄開通に反対し、やむなく六本木経由に変更された。 昭和40年代都電が廃止された麻布の唯一の電車は日比谷線であった。また六本木駅と繋がっていた 東京日産ビル(東日ビル)B1には「ちゃちゃ亭」、「喫茶マンジ」など飲食店とともにハリウッドB.C、T&Cなどの店舗などが並び、乗降客の通行量も多かった。
- ・大江戸線
- 2000年(平成12年)12月12日 開通。 それまで陸の孤島であった麻布十番駅の次に六本木駅が設置され日比谷線とのアクセスが確保された。しかし、地下鉄開発後発であったため 大江戸線六本木駅ホームは東京の地下鉄の中で深度が一番深く(1番線:42.3m、2番線:32.8m)となっている。ちなみに麻布十番駅は都内10番目で32.5m これにより乗車時間5分、地上まで10分と揶揄されることとなる。
昭和40年代の六本木
- ・檜町公園
- がま池の項でも書いたが、昭和40年代初期の小学生の遊びの必須アイテムは釣りであった。 近隣のがま池や有栖川公園で遊ぶことが多かったが、チャリンコという移動手段を手に入れると 行動半径が飛躍的に拡がり、檜町公園やさらに遠征して弁慶橋まで釣行した。 檜町公園池はそんなに大きな池ではなかったが、唯一この池では「タナゴ」が捕獲できた。当初はタナゴ針で 釣り上げたが、釣果はクチボソが圧倒的に多く、その頃からタナゴは希少品種だった。そしてやや学年があがると、 竿釣りの他に「四つ手網」や「セロビン」という新兵器を手にすることとなり、釣果は飛躍的に増大した。
- ・三連隊跡地
- 少年時代野球が下手だった私は、上手いヤツラとはやらず(やってもらえなかった?)ヘタクソばかりで 草野球をした。昭和40年代前半の麻布は空き地などが多く点在したが、その中でも草野球のメッカは 現在麻布税務署となっている第一パン工場跡地とこの三連隊跡地だった。特に三連隊跡地は現在ヘリポート となっている場所が空き地で鉄条網をくぐって忍び込み、遊びに興じた。 しかしこの場所は周辺の子供達の絶好の遊び場所で、早く行かないと野球が出来る敷地は確保できなかった。 またこの場所には当時小学生だった我々からみるとだいぶ大人の高校生などが来ており、その高校生達は よくエンジン付きのUコン飛行機を飛ばしていた。
この場所は米軍の管理区域内であったため、MPに見つかると射殺されるという噂が広まった。同様に宮村町本光寺墓地 脇の裏山には狼か野犬が生息し、土地の所有者は散弾銃をぶっ放すと噂された。しかしこれら戦慄的な噂も、実際に 射殺や狼の餌となった少年は一人もいなかったことから単なる脅しであったと考えられる。
- ・模型店 藤川
- 昭和期、旧防衛庁前の路地を天祖神社方面に進むと右手にプラモデル屋「ふじかわ」があった。 プラモデルは十番商店街や暗闇坂下の「シミズ」でも買えたが、店内に完成品が彩色してディスプレー され、ややマニアックな品揃えであった「ふじかわ」にもたまに遠征した。 店の主人はちょっと変わったオヤジで、小うるさく注意をされた覚えがある。しかしプラモデルを買うと 「つや消し剤」などをおまけとして付けてくれた記憶があり、そのオヤジに注文するのは怒られる緊張感と、 「つや消し剤」が貰える嬉しさが微妙に混じった奇妙な感覚だったのを覚えている。また近年知った事だが、 さらにマニアックなプラモデル少年は防衛庁の購買部に入り込み、隊員向けの価格でプラモをてにしていたという。 年の所為か、最近はプラモデルを作ろうと頭の中でシュミレーションするだけで疲れ果ててしまい、実行したことがない。
また、もはや店主も鬼籍に入られたと思うので時効だと思うが、私の同級生がふじかわで買い物をすると店主に呼ばれて座敷へと通された。 そして如何わしいマネをされ途中で逃げ出した事がある。今ならば新聞ネタになりそうだが、オヤジの趣味は美少年であったと推測される。 しかし当時絶世の「美少年?」であった私が一度もそのような危機に遭わなかったのは、誠に不思議である(^^;
大規模再開発
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- ●六本木ヒルズ
森ビルが「六本木六丁目特別再開発計画」の一環で建築した高層複合施設。2003年4月25日開業。 54階建、高さ238m。フロア面積724000u。高層から建築まで17年の歳月を要した。江戸期は長州毛利藩の支藩、長府毛利家の屋敷であった。元禄期には赤穂浪士の預け入れが行われ、ニッカ池のほとりで岡島八十右衛門ら10名が切腹している。 この「お預かり」が長州本藩ではなく支藩の長府毛利家であったのは幕府による本・支藩の引き離し政策という政治的な意味合いがあったものと考えられ、 長州本藩毛利家と支藩長府毛利家は敵対していた時期もあったといわれる。
敷地の旧町名:宮村町字薮下・桜田町・北日ヶ窪町・材木町など
主な施設:グランドハイアット東京・シネマコンプレックス・テレビ朝日本社・ハリウッド化粧品本社・ルイ・ヴィトン・住宅棟など多数 ○所在地の変遷
- 慶安三(1650)年−毛利元就の孫、甲斐守秀元が幕府より拝領し長府藩毛利家の上屋敷となる。
・元禄15(1702)年12月15日−赤穂浪士10名の預け入れ。
・元禄16(1703)年2月4日−預け入れ赤穂浪士が屋敷内で切腹。
・嘉永2(1849)年12月25日−長府藩士・乃木希次の三男として乃木希典が藩邸内長屋で誕生。
- 元治二(1865)年−第二次長州征伐により本藩檜屋敷と共に長府藩邸も打ち壊され、堀田相模守がこの地を拝領。
- 明治二十(1887)年−中央大学の創始者で、弁護士・法学者・法学博士の増島六一郎が所有し「芳暉園」と名付る。
- 大正八(1916)年−「乃木大将誕生地」として、旧跡指定を受ける。
- 昭和二十七(1952)年−ニッカウヰスキー東京工場となる。
- 昭和五十二(1977)年−テレビ朝日本社が土地を取得。
- 平成十(1998)年−六本木六丁目地区市街地再開発組合が設立
- 平成十二(2000)年−再開発事業着工
- 平成15(2003)年−六本木ヒルズ開業。
また、藩の菩提寺が泉岳寺であったため、家臣は泉岳寺参詣を行った。幕末期にはこの家臣の一人であった乃木希典将軍も幼少期には父に連れられて泉岳寺参りを 頻繁に行っていたので、その都度伝説となっていた「赤穂浪士の切腹の見事さ」を聞かされ、その後の軍人としての生き方に大きく影響を与えたと言われる。 明治15(1882)年10月、駒沢大学の前身である曹洞宗大学林が駿河台から移転し、明治27(1894)年曹洞宗大学と改称し大正2(1913)年1月現在の駒沢に移転した。 この大学林の学生が休日に遊行するさい、法衣から私服への着替えを付近の銭湯で行ったため、その銭湯は「坊主湯」 と呼ばれたという。
1952(昭和27)年、ウィスキーを瓶詰めするための工場がこの地に設立された。これは北海道余市から運ばれるウイスキー製品の運送費削減と共に出荷時に課税対象 となった製品が運送中に破損するのを防止のするためであったという。この工場では当時「じゅんさい」も生息するほど水質が良かったニッカ池の水を使って ウイスキーのブレンドを行っていたとされる。また東京工場をこの地にすることを決めた創業者・社長の竹鶴政孝は、この池を非常に大切にしていたようで、 ニッカウヰスキー・公式サイトには、
「あそこは由緒ある池で、必ず主がいるに違いない。だから池を潰した奴には祟りがあるぞ。本人になければ子孫にあるぞ」と言い、池を埋めることを絶対に許さなかった。と記されている。
その後、1977(昭和52)年にはそれまで高台にあったテレビ朝日が拡張され本社が建てられた。しかし、ニッカ池周辺はそのままの姿で残されており、希望すれば池の見学も可能であった。 当時のお笑い番組などでもこの池は頻繁に使用されていたので、テレビを通してご覧になった方も多いと思う。そして、 当時の池周囲には昔のまま「赤穂浪士碑」「乃木将軍産湯の井戸」「乃木将軍と少年像」など由緒ある史跡が残されていたが六本木ヒルズ建設工事により、乃木神社に奉納された 「乃木将軍と少年像」以外は四散したものと思われ、現在行方不明となっている。またニッカ池は毛利池と名前を変えて現在も同所に存在するが、六本木ヒルズ建設工事にあたって 一旦池の水をすべて抜き水源をビニールシートで保護し、その上に現在のコンクリート製の池を作成したとされているが、工事後の水源の現状調査等が行われた痕跡はまったく見あたらない。
現在の住宅棟あたりは薮下と呼ばれた地域で、これは麻布宮村町に所属した字名であり、現在もさくら坂西・南側は宮村町会に所属する。 現在のさくら坂公園斜面下あたりには古くから金魚商「原商店」あり、金魚養殖販売とともに釣り堀が営まれていたため「原金」と呼ばれていた。 昭和期、麻布にはこの原金の釣り堀意外にも現在も営業中の本村町「聚楽園」があったが、聚楽園はヘラブナ専門で、原金の釣り堀は金魚や鮒などが多かったので ビギナーや子供釣り客で大変な賑わいであった。またこの原金から周辺の町へリヤカーで金魚の行商も行われ、 昭和40年代くらいまでは「きんぎょ〜、えぇ〜、きんぎょ〜」のかけ声が町にこだまして夏の風物詩となっていた。 この原金池のほとりに江戸期には低級な岡場所があった (安永期には四六の大見世、五十文の切見世)が あるとき、店の客あしらいに腹を立てた有馬藩士により打ち壊され、それ以降二度と店は出来なかったという。この岡場所に因んだ川柳が「薮下へ でる化け物は 切禿」、 「十番の わきに子捨てる やぶもあり」などと詠まれていて、江戸期にはこの店などに幼童や幼女が親に売られて苦界に身を沈めた有様が伺える。
またこの池は彫刻家岡本太郎の母、岡本かの子の小説「金魚撩乱」の舞台としてこの池の金魚商の若旦那と高台の深窓令嬢の恋が描かれている。
○参考項目:はらきんの釣り堀
現在さくら坂となっている場所はほぼ同じ位置に江戸期からこの辺りに住んだ僧の名をとった「玄碩坂」とよばれた坂があり、桜田町方面から麻布十番方面へと抜ける要路であった。
●東京ミッドタウン
三井不動産が主体とらって東京都港区赤坂九丁目の旧防衛庁跡地の再開発計画で誕生した複合施設。 シンボルのミッドタウンタワーは地上54階・高さ248mで都内でもっとも高い超高層ビルで日本全体でも、横浜ランドマークタワー(296m)、大阪ワールドトレードセンタービルディング(256m)、りんくうゲートタワービル(256m)に次ぐ四番目の高さである。
主な施設:サントリー美術館・ザ・リッツ・カールトン東京・USEN本社・富士フイルムホールディングス本社など
○所在地の変遷
○第一師団・師団長
- ・元治1(1864)年−長州征伐により長州藩邸も打ち壊しとなる。
- 明治21(1888)年−東京鎮台が廃止され第一師団となる。
- 昭和11(1936)年−第1連隊が麻布麻布三連隊、近衛歩兵三連隊と共に二.二六事件の中核部隊となる。
- 昭和29(1954)年−防衛庁本庁舎設置
- 平成12(2000)年−防衛庁本庁舎が市ヶ谷地区に移転
- 平成13(2001)年−「赤坂9丁目地区再開発地区計画」告示
- 平成19(2007)年−東京ミッドタウン開業
・伏見宮貞愛親王○第一師団・歩兵第1連隊・連隊長
・閑院宮載仁親王
・真崎甚三郎、など
・2代 乃木希典
・24代 東条英機
・29代 牛島満、など
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●国立新美術館
設立目的を展覧会の開催・情報収集およびその公開・教育普及とし、「森の中の美術館」をコンセプトとして親しみのある美術館として開館。 しかし、美術品の収集保管という基本機能を欠如した美術館という批判的意見もある。
○所在地の変遷
- 明治31(1898)年−第1師団歩兵第3連隊(通称:麻布三連隊)駐屯
- 昭和11(1936)年−麻布三連隊が一連隊、近衛歩兵三連隊と共に二.二六事件の中核部隊となる
- 昭和11(1936)年−麻布三連隊の主力が中国東北部に派遣される
- 昭和14(1939)年−近衛歩兵第5連隊(通称:宮3804)駐屯
- 昭和18(1943)年−近衛歩兵第5連隊が近衛師団から近衛第2師団に所属変更
- 昭和18(1943)年−近衛歩兵第7連隊(通称:東部八部隊)駐屯
- 昭和20(1945)年−米陸軍第一騎兵師団駐留
- 昭和33(1958)年−星条旗新聞社を除く91848u(27,700坪)が米軍から返還
- 昭和37(1962)年−東大生産技術研究所が西千葉から移転
- 平成13(2001)年−東大生産技術研究所が駒場へ移転
- 平成19(2007)年−国立新美術館開館
○第一師団・歩兵第3連隊(通称:麻布三連隊)・連隊長
・20代 梅津美治郎
・22代 永田鉄山
・23代 山下奉文、など
○近衛第1師団・歩兵第7連隊(通称:東部八部隊)・連隊長
・初代 皆美貞作
○近衛第2師団・歩兵第5連隊(通称:宮3804)・連隊長
・初代 永沢三郎
・2代 岩畔豪雄
●政策研究大学院大学(元・麻布三連隊敷地)1997年に設置された国立大学。大学の略称は政策研究院、GRIPS。 現役官僚、都道府県・政令指定都市の地方公務員等が学生として多数在籍し、主に埼玉大学大学院政策科学研究科の教職員を母体とし設置された。
●都立青山公園(元・麻布三連隊敷地)1970年6月1日に開園した都立公園で南北2地区に分かれている。面積38,465.49m2 園内北東の高台には展望台と歩兵第3連隊と近衛歩兵第5連隊の関係者有志により1987年8月13日に建立された 「麻布台懐古碑」が設置されており、1984年より南地区の一部が在日米軍赤坂プレスセンターの臨時ヘリポートに占有されている。
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●赤坂プレスセンター【ハーディバラックス】(元・麻布三連隊敷地)終戦後、米陸軍第一騎兵師団が駐留し、昭和33(1958)年に星条旗新聞社を除く91848u(27,700坪)が米軍から返還された後も 存続する米軍施設。港区はこの他にも天現寺橋に米軍将校宿泊施設「ニューサンノーホテル」があり、都区内では最大の米軍施設が存在する。 余談だが、「ニューサンノーホテル」は二.二六事件で麻布麻布三連隊の安藤隊が占拠した赤坂山王の「山王ホテル」が終戦後米軍に接収され 米軍専用宿泊施設である。この山王ホテルが昭和48(1973)年に返還されたのを期に新たに天現寺橋付近に米軍専用宿泊施設として「ニューサンノーホテル」が設立された。
ハーディバラックスには米軍準機関紙スターズアンドストライプス(星条旗新聞)極東支社、米軍横田基地の第五空軍司令部の出先、同司令部東京監理センター、 神奈川県の米軍座間基地の出先、米陸軍東京監理施設、米国防調達会計検査局太平洋事務所など、在日米軍司令部機能の一部局、独身将校宿舎、 米陸軍国際技術センター・太平洋、 空軍のアジア宇宙産業開発事務所、 海軍のグローバルアジア研究所、 などが 設置されているという。 また単なる噂の範疇をでないが、Echelon(エシュロン)と呼ばれる 通信傍受(シギント)システムを主体となって運営しているNSAの日本拠点ともされている。 しかし、NSA自体がNational Security Agency(国家安全保障局)の略語であるのに、No Such Agency(そんな機関はない)」、「Never Say Anything(何も喋るな)」などと揶揄されるほど 実態は明らかにされておらず、その活動とされるEchelon(エシュロン)も当然公式に認められたことはない。
関連する道路工事の完了後には東京都に返還するとされていた麻布ヘリ基地による青山公園の継続使用は 東京都・港区・住民との合意を得ていないため、不法占有部分とする主張がある。2007年1月に米軍の 不法占有部分と同面積の別部分が返還される事が決定したが、都・区・住民は不法占有部分そのものの返還を要求している。 また1984年に完成した「臨時」ヘリポートは米軍各基地と東京中心部間の定期便を運行しており「各基地将官婦人の買い物のための空のタクシー」と揶揄されることもある。 この運行ではヘリポートを発着するヘリコプターが麻布山塊の山肌に沿って上昇下降を行うため近隣住民は騒音で悩まされており、反対運動なども起こっている。 これに対して港区議会でヘリ基地撤去意見書が決議、都も1999年に石原都知事が記者会見で「撤去に向け努力したい」と初めて麻布ヘリ基地問題に言及しているが 一方で都は総合防災訓練会場として麻布ヘリ基地を使用し、平成4(1992)年には石原都知事がこの場所から米軍ヘリで横田基地を視察するなど、都の対応は不明瞭である。 施設内の関連事件として昭和62(1987)年10月にはハーディバラックス内の独身将校宿舎で米兵同士の殺人事件発生し、犯人は基地外に逃亡したが後日逮捕された。また 平成5(1993)年1月には敷地内「臨時」ヘリポートに向かうヘリコプターがエンジントラブルにより杉並区の中学校校庭に不時着するという事故も起きている。そして 「ニューサンノーホテル」では平成8(1996)年に米兵が民家にレーザー光線を照射して問題となるが、当事者米兵は沖縄に逃亡し事件は未解決となった。
六本木周辺の坂
- ○芋洗(いもあらい)坂
- 六本木町から南日ヶ窪町へ下る坂。正しくは、麻布警察署裏へ上る道をいったが、明治期に六本木交差点への道が出来るとこちら が芋洗坂呼となった。毎年秋になると坂下の朝日神社周辺に近所の農民が馬に芋を括りつけて集まり、市を開いていたとされる。 また芋問屋もあったとされ、朝日神社の鳥居前には芋を洗う小川(吉野川)が流れていたという。別説「いも」とは疱瘡で、朝日神社が疱瘡神を祭ったため 「芋洗い」としたとされるが、その根拠は薄いとされる。
- ○饂飩(うどん)坂
- 芋洗坂から西へ上る坂。江戸時代に松屋伊兵衛という者が商ううどん屋があったあったため。古地図には饂飩坂と芋洗坂が逆に記されているものもある。
- ○市三(いちみ)坂
- 三河台町から市兵衛町二丁目へ下る坂で坂名は市兵衛町「市」と三河台の「三」からとられたもの。
- ○鳥居(とりい)坂
- 江戸時代坂上に鳥居丹波守の屋敷があったためついた名。別説には麻布氷川神社の二の鳥居があったためともされ、明治期までこの鳥居の土台が残されていたという。
- ○檜(ひのき)坂
- 檜町と氷川町の境を北に下る坂。坂西側が長門萩藩毛利家の中屋敷で屋敷内に檜が多かった事に因む坂名。坂下の窪地は清水谷と呼ばれたことから清水坂の別名もある。
- ○閻魔坂
- 六本木墓苑の脇から六本木3丁目13番と14番の境界を上る坂道。
- ○寄席(よせ)坂
- 市兵衛町二丁目西部。市三坂下から南へ登る坂。かつてこの付近に福井亭という寄席があったためついた坂名。
- ○丹波谷(たんばだに)坂
- 市兵衛町二丁目西部を不動坂と平行して西へ下る坂。坂下に岡部丹波守の屋敷があったため。
- ○なだれ坂・長垂(ながたれ)坂
- 市兵衛町二丁目から今井町に登る坂。流華・奈大礼・長華などと書いた。土崩れがあったためか。この坂の周囲に「流垂(なだれ)」の里俗地名があったためとも。幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあった。
- ○不動(ふどう)坂
- 市兵衛町二丁目西部を丹波谷坂と平行して西へ下る坂。江戸時代坂下に不動院があったためついた坂名。
- ○玄碩坂
- 桜田町から内田山に沿って宮村町北部の薮下へ下る坂。玄碩とはこの辺りに住んでいた僧の名。別名藪下坂ともいう。六本木ヒルズ建設に伴い坂は消滅し、一部がさくら坂となっている。
- ○大横町坂
- 霞町と笄町の境を西へ下る坂。江戸期このあたりを大横町と呼んだことに因む坂名。別名富士見坂。また坂下に笄橋があったため笄坂とも呼ばれた。
- ○霞坂
- 霞町中央部から西へ下る坂。南の櫻田神社が別名霞山稲荷と呼ばれたためついた坂名。霞町も同義。
- ○内田坂
- 宮村町北部の内田山を西へ上る坂。公道となったのは明治以降。江戸期内田豊後守の屋敷があったためついた名。南山小学校・六本木高校などがある。
- ○けやき坂
- 六本木ヒルズ敷地内を桜田町へと登る坂。六本木ヒルズ建設時に新設された坂で以前は団地と住宅街であった。
- ○さくら坂
- 内田山裾野にそって桜田町へと登る坂。坂上でけやき坂と合流する。坂下部はほぼ玄碩坂と一致する。六本木ヒルズ建設時に玄碩坂を破壊して新設された坂。
●六本木周辺の学校
- ・区立六本木中学
- 戦前の府立第三高女(現都立駒場高校)跡地。戦後は港区立城南中学があった。平成10(1998)年三河台中学と合併し六本木中学と名称変更。戦前まで校庭には道灌山と呼ばれる古墳があり、また敷地内東部には 昭和天皇の皇后、香淳皇后が后教育を施された「仰光寮」があった。(現在は都立駒場高校敷地内に移築)
- ・区立三河台中学
- 戦後城南中学の分校として開設された区立中学。平成10(1998)年城南中学と合併し六本木中学と名称を変更し城南中学旧地に移転。
- ・都立六本木高校
- 昭和17(1942)年東京府立第二十二中学校として設立し、昭和18(1943)年東京都立城南中学校となる。昭和23(1948)年学制改革により、東京都立城南新制高等学校となる。学校群制度の12群(城南・八潮・赤坂) 平成16(2004)年閉校し、都立のチャレンジスクール六本木高校となる。
- ・東洋英和女学院
- 明治17(1884)年カナダ・メソジスト教会宣教師ミス・カートメルにより東洋英和女学校として開校。 幼稚園から大学までのキリスト教プロテスタント系の私立女子校。 旧校舎は昭和8(1933)年ヴォーリズ設計によるものであったが、平成8(1996)年の改築後もその雰囲気は残された。 進学校の麻布高校は明治28(1895)年、江原素六により麻布尋常中学校として東洋英和学校内に創立。 明治23(1890)年、敷地内の校長宅で強盗殺人事件が発生した。
●六本木アンダーワールド〜戦後六本木の隆盛
下記資料には六本木の戦後〜バブル期の隆盛と変遷が克明に記憶されている。特に「東京アンダーワールド」 にはイタリアンの草分け「ニコラス」の創始者ニコラ・ザペッティの隆盛と衰退を通して戦後復興から高度成長期の 六本木が克明に描写されている。文中には初代ロアビルのオーナーなども登場し、不良外人、ヤクザ、ペテン師が 織りなすピカレスク(といっても小説ではなくドキュメンタリーだが)となっている。ちなみに「東京アウトサイダーズ」はその続編。
- ★参考資料:
・東京アンダーワールド
・東京アウトサイダーズ
・六本木アンダーワールド―TSKCCCビル盛衰記
・六本木ケントス物語
<関連項目>・一本松
・山事の手段は人の非に乗ずる事
・池袋の女
・「六本木随筆」のがま池
・鳥居坂稲荷
・鳥居坂のゆり女
・はらきんの釣り堀
・二・二六事件
・ニッカ池(赤穂浪士その一)
・ニッカ池(赤穂浪士その二)
・六本木ヒルズ
・東京ミッドタウン
・国立新美術館
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