麻布宮村町


麻布宮村町あざぶ みやむらちょう(現・元麻布2・3丁目、六本木6丁目の一部)

江戸初期まで麻布の総鎮守である麻布氷川神社が暗闇坂と狸坂を挟む位置にあったので「お宮の膝元」として付いた名称。 江戸初期の萬治二(1659)年に麻布氷川神社は、増上寺隠居所設置に伴う幕府の命令により本村に移転したが、「宮村」の村名は残った。 又狸坂下から大隅坂までを、宮村新道という。 それまでの代官支配から、正徳3年(1713年)町奉行支配になり府外から江戸府内に編入されたために町域となり、「宮村」から「宮村町」と変更された。
この時に「宮村」が「宮町」とならなかったのは、それまでの永い歴史から地域名称を尊重していたためと推測される。同様に麻布本村町も「本町」とは唱えなかった。

このように町域となった宮村町だが、当時まだ多く残されていた田畑などは旧来の代官支配地として残り、このため町域の町奉行支配地、田畑などの代官支配地、寺社などの寺社奉行支配地、 そして地域の大多数を占める武家地が複雑に入り組んだ複合支配地として幕末まで続いた。

文政の江戸町方書上、名主の栄太郎によると
  • 俗名藪下と申すわけ相知れ申さず候。もっとも宮村町一円に相唱え申し候。
  • 町内西の方を里俗に新道とも大隈山とも唱えし候。この義は、同所にお役名知れず渡辺大隈守様お屋鋪これあり候。その後、上り地に相成り、貞享三寅年お賄組屋鋪に相渡り申し候。
  • 町内総家数257軒 但し、地主十軒、地借り八軒、店借り227軒、自身番屋二ヶ所、板橋一ヵ所、石橋一ヵ所。
  • 旧家 家持 平助。古来より当所に居住仕り、居宅地面の義は、沽券これなく、草々より所持仕り来り候。
  • 稲荷社 間口1間、奥行き九尺 但し、神体画像にて瘡守稲荷と相唱え、谷中大中寺の写しにて町内持ちに御座候。
  • 豊島郡麻布領
  • 町内総反別屋敷一町五反八畝十三歩。うち九反二畝十九歩が御代官所、六反九畝二四歩が天徳寺領、四反三歩が大養寺領。
との事。その他に拝領町屋敷が2ヶ所あり町の北側は貞喜屋敷、西側北角は宗英屋敷と呼ばれた。


○里俗の字名−新道・藪下

○現在の宮村町会管轄区域とほぼ同義





○麻布宮村町の坂
狸坂
狐坂(大隅坂)
・宮村坂
内田坂
玄碩坂
・さくら坂
○麻布宮村町の寺社
・祥雲山 龍澤寺
・法久山 安全寺
・城久山 広称寺
・光骼
法隆山五光院 千蔵寺
・明見山 本光寺
勝田山 正念寺
・一谷山 長玄寺
○麻布宮村町会
・元麻布2丁目5番,6番,11番
・元麻布3丁目1番,5番,6番〜13番
・麻布十番2丁目5番,6番,7番
・六本木6丁目11番,16番

○名所・旧跡
渡辺大隅守綱貞屋敷
高野長英の隠棲宅
芳川伯家婦人心中
・後藤新平居宅
岡本綺堂の仮寓
川端康成の下宿
東京統制無線中継所(TRC)跡
・南山小学校
六本木高校
山水舎ラムネ工場
天井桟敷館






○宮村町と湧水
   
宮村町周辺の湧水地
宮村町周辺の湧水地
宮村町付近は麻布中央部でも希有の湧水地帯として特記できる。 内田山大隅山麻布山に囲まれた宮村町は複雑な高低差と、それらの山の水源から流れ出る池や沼が多く点在した。 南部境界にはがま池、北部境界にはニッカ池(現・毛利池)原金池群、東部には龍澤寺池・末広池、その他にも多くの池や沼などが 点在している。












○サイト内関連記事
渡辺大隅守綱貞屋敷
正念寺跡−清河八郎胴体埋葬地
千蔵寺跡廣尾稲荷別当寺
ビオトープ宮村池
長玄寺−ラグーサお玉墓所
川端康成仮寓跡
大隅山
原金池跡
天井桟敷館跡
宗英屋敷跡
がま池
狐坂
狸坂
東京統制無線中継所跡
宮村新道
宮村町な店
岡本綺堂仮寓跡
内田山由来
幻の山水舎ラムネ瓶
芳川伯家婦人心中
祥雲山竜沢寺(麻布区役所跡)
ドゥリットル隊の南山上空通過
原金の釣り堀


















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