麻 布 七 不 思 議



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七.   我善坊(がぜんぼう)


我善坊谷坂・その他の坂
我善坊谷坂
我善坊町の家並み
我善坊町の家並み
我善坊谷付近
江戸期武家地だった我善坊
昔この辺り(現在の麻布台1丁目近辺)に古寺があり、ここのお坊さんの名が我善坊と言った。 顔がとても恐かったが気が優しくて、近所の子供たちに慕われていたそうだ。ちょうど良寛さん のようであったので有名になり、七不思議の一つの数えられるようになったらしい。

麻布区史では、御府内備考、江戸砂子、寛永記、改選江戸誌などをあげて秀忠婦人崇源院(お江与の方) の火葬の際の龕前堂(がぜんどう−荼毘所)があったからという説が主流だと一応紹介しつつも、六本木深廣寺に灰塚が あることから我善坊谷とはあまりにも遠く、また江寛永初期の書物「紫の一本」では崇源院に全く触れられて いないため、座禅する僧すなわち「座禅坊」が語源とする説を取り上げている。 また第五編第2章町史では我善坊町の項で、

一に我善坊谷と呼ぶ南北高阜に挟まれた低地である。地名の起源に就いては、或いは座禅坊谷となし、或いは 龕前堂谷とする。多く後説に従って崇源院殿御火葬の折、霊龕安置の仮堂を置くに始まるとしてゐるが、其の 誤なることについては〜
と、崇源院荼毘所説を完全に否定している。

しかし港区史では、御府内備考、江戸砂子、寛永記、改選江戸誌など多くの書籍が秀忠婦人崇源院荼毘所(龕前堂-がぜんどう)説を 取り上げていることから、
火葬の場所は六本木であったとしても、増上寺からの途中に種々の設備をおいたようであるから(東武実録)、全くの無根とすることもできかねる。 「港区史−上巻996P」
と、麻布区史では「誤り」と明記された崇源院荼毘所説を、再び肯定している。



●我善坊谷
○文政町方書上

・幕府御先手組屋敷地にある谷

○東京35区地名辞典

・西久保西部の高台と飯倉町六丁目の高台に挟まれた谷地で、「我善坊谷」の俗称があった場所。寛永三(1626)年、二代将軍秀忠夫人崇源院の葬儀が 増上寺で行われた際、この土地に荼毘所が設けられ、棺を置く龕前堂という仮家を建てたことから「龕前堂谷」の名が起こり、その転化したものが 「我善坊谷」であるという。しかし、崇源院の火葬は六本木北西部あたりだったともいわれ、その地の深光寺や光専寺、教善寺、正信寺といった寺院は、 いづれも崇源院の三回忌の法要をつとめた上、その火葬の地とされた場所を拝領して移転してきた。火葬地が六本木とすると、龕前堂を建てたというこの 地との距離が離れてしまうため、龕前堂説にも疑問が残る。また、この谷で座禅をする出家僧がいたことから「座禅坊谷」の名が起こったとする説もあるが、 こちらも定かではない。明治5(1872)年から麻布我善坊町が起立。「麻布」の冠称は明治44(1911)年まで。(我善坊町は、港区成立時の昭和22年、旧区名の冠称 により再び麻布我善坊町と改称。同49年、新住居表示により成立した麻布台1丁目の一部となる)




<関連項目>
・我善坊の猫又




















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